前回触れたように、あるミュージシャンの死は私に思わぬ暗黒の日々を経験させた。私はもとより、訃報に弱い夢央子やダルいのが平常運転の怠央子のみならず、モンガーズほぼ全員が気力をなくし、スライムのように溶けていた。
だが、その頃はちょうど前著『老い方がわからない』の連載の仕上げに入らなければいけない時期だった。どれだけ鬱状態でも仕事はしなければならない。しなきゃおまんまの食いあげだ。わずかに残った気力をかき集め、最後のパートを書き上げることにした。
ずっと考え続けてきた中、健やかな老年を送るためには他者との繋がりが必要、との結論は見えてきてはいた。
とはいえ、それはあくまで日常的な不便や困りごとを小さくするための手段、つまり生活上の孤立解消が目的であって、孤独を癒やすためではなかった。家族に囲まれてぬくぬくと暮らしてきた人ならともかく、ずっと独りでやってきた人間は社会的に孤立さえしていなければ今更孤独に苦しむことがなかろうと思っていた。だから、感情ケアのためのつながりは完全に度外視していたのだ。
ところが、独力では対処しきれぬ感情の大波を経験したことで、どれほどの孤独好きでも他者との連帯がなければ己を支えられなくなる場面があると知ってしまった。遺憾ながら、私もまた群生する進化猿の一人に過ぎなかったわけである。
気づいてしまった以上は、連載中の原稿でも触れたい。けれども、すでにかなりの部分が書き終わっていたので、今更新しい要素を入れるわけにはいかなかった。
しかし、人生後半期における他者との関係性、感情の居場所について触れなければ、私の後半人生プランは完全なものにはならない。
そうして生まれたのが、本連載のコンセプトだった。
『死に方がわからない』できれいさっぱりこの世を去る方法を模索した。
『老い方がわからない』で上手な年の取り方に取り組んだ。
ならば最後は中高年期における人との繋がり方と居場所の探究だ、と考えたのだ。そこで孤独の本質を知ろうと諸々読み漁った結果、夢子が感激した書籍の数々に出会った、というわけである。
と、ここまで長々と極めてパーソナルな、蛇足と謗られても仕方ないような話をしてきたのは他でもない。
今回は感情的な部分をなおざりにすることなく、正面から向き合おうと決心していることを、理由付きで表明したかったのだ。
私にはどこかで「自分は他人などいなくても平気」と高を括っている部分があった。しかし、それは思い込みだった。幻想だった。間違っていた。
人生には想像もしていなかったクライシスが必ずどこかで待ち受けている。
それを自覚した今、後半生シリーズ総決算として、心楽しき孤独を守りつつも孤立しないために適切な人/社会との繋がり方の模索を最終目標にしよう。
うん、それがいい。
というわけで、大変な遠回りをしたが、アルバーティの著作に戻りたい。
『私たちはいつから「孤独」になったのか』は、主にイギリスの孤独問題が中心に据えられている。
二〇一八年、時の首相テリーザ・メイは内閣に孤独対策を担当する政務官を置いた。世界初の“孤独担当大臣”は話題になり、日本でも大きく報道されることになる。私なんぞは「さすがはエリナー・リグビーの国だ」と感心しきりだったわけだが、二〇二一年になって日本でも同様のポストが設置された時には心底驚いたものだった。
と、まあそれはさておき。
孤独の歴史的経緯を分析するパートはあくまで英国(あるいは西欧)のローカル事情としか思えない部分がある。しかし、現代の問題に関していえば社会システムの欧米化が進む日本でも十分当てはまる指摘や事例がたくさんあった。
たとえば、老人への構造的なケア不足が続いている英国社会で、身体が不自由であるにもかかわらず満足な介護サービスを受けられないでいるモニカという女性は、次のように語っている。
息切れを起こすので、遠くまで歩けません。(中略)買ってきた食料品を家に運ぶのもひと苦労で、荷物をもって階段を上り下りしなくてはなりません――しかも何度も。(中略)でも電話をかけて、ちょっと手伝いに来てほしいと頼めるような人が、私にはひとりもいないんです。孤立していると感じるのは、そのせいかもしれません。
あまりにリアルな描写に胸が痛んだ。というのも、私が住んでいる神奈川県横須賀市は道に傾斜や階段が多いため、同様の苦労をしているご老人を日々目の当たりにするのだ。そして、それは私の未来の姿でもある。
モニカは杖を使えばゆっくりでも歩ける。また階段の上り下りもできる。ということは、日本の介護認定に当てはめると要支援1を受けられるかどうかギリギリのラインだろう。
近頃は要支援段階のサービスがどんどん削られ始めている。自己負担額も増えている。私が所属する団塊ジュニア世代が介護サービスを受ける側になる頃にはほとんどのサービスを受けられなくなる可能性がある。いや、たぶんそうなっている。専門家も、この先「要支援」はあらゆるサービスの対象外になっていくだろうと予測している。
つまり、モニカの孤立は将来の私の孤立といってよい。
アルバーティは、高齢者の孤立を生む背景のひとつとして、ケアを必要とする人たちの自信のなさや期待の低さをあげている。
彼らとて最初から孤立を望んでいたわけではない。ケアが必要となった段階で何度か支援を求めるアクションを起こした人たちだって少なからずいた。けれども、公的サービスは彼らのニーズに応えられるものではなかった。期待するケアを受けられなかった経験が彼らの自信を喪失させ、他者へ期待することを諦めさせたというのだ。
この構造は日本にもある。
私自身、老い方を考えていく中で、公的支援はよほどの状態になるまで受けられないんだろうなとの諦めを抱くようになった。もし、それでもなんとかできる方法を知らないまま年を取っていったら、きっと、助けを欲してはいるけれどもなす術もなく呆然とただ苦しい毎日を送る老人になることだろう。
自分にはもう価値がない。よって、誰かの助けを求める資格はない。
そう思い込まされるかもしれない。
年を取ってくると、「年寄りの特性」が原因となるマイクロアグレッション(あからさまな差別ではないが、日常生活の中で無自覚に行われるマイノリティを傷つける言動)を受けることが増えていく。
たとえば、セルフレジの使い方がわからずもたもたしていたら後ろに並んでいた人に舌打ちされた、とか。
あるいは、飲食店でタブレット端末を使った注文の仕方がわからず店員を呼んだらあからさまに嘲笑された、とか。
もしくは、狭い通路をゆっくり歩いていたら追い越しざまに暴言を吐かれた、とか。
一つ一つは小さな出来事でも、度重なると水滴が石を穿つように、少しずつ、でも確実に自尊心が削られていく。結果、人と交わるのが嫌になって孤立への道を自ら選んでしまったとしてもまったくおかしくない。
実際、自尊心が傷つくのは何歳になっても嫌なものだ。私みたいな売れないライターなんぞ足元を見られたり、塵芥のごとく扱われたりで、日々マイクロアグレッションとの戦いである。今はまだ「けっ」でスルーするだけの気力はあるが、それだっていつまで保つことやら。細かいヒビがいつの日か閾値に達して心がポキっと折れてしまったら、その時点で物書きは引退。もちろん、生きている限り食っていかなければならないから、アルバイトでもして日銭稼ぎでもするんだろうが、おそらくこの時点でものすごい人嫌いに仕上がってしまっていることだろう。そうして、着実に孤立老人候補生になっていく。
アルバーティの分析では、高齢者が自尊心を保てない背景に新自由主義とグローバル化の流れがあるとされている。
十八世紀に始まった英国の産業革命を皮切りにいまや世界を席巻している資本主義。そこから派生した新自由主義とグローバル化は、人間の社会的価値を「稼ぐ力」に集約させる結果となった。
もちろん人類史上人はずーっと働いてきたわけだし、のどかだったはずの昔々も働けなくなった人間、あるいは働く力がない人間を容赦なく捨てていた。民話「姥捨て山」や「ヘンゼルとグレーテル」を見れば明らかである。しかし、たとえ直接稼げなくても、何らかの能力があれば社会に戻れた。老母は知恵ひとつで復権したし、兄妹は自衛のためなら人殺しも盗みもやってのける胆力で生き抜いた。
けれども、現代ではどうだろう。
まず、老人は知恵の集積媒体としての地位を奪われた。今どき、ググればどんな知識も出てくるからだ。ぬか漬けを一から始めるとして、おばあちゃんにやり方を聞きましょう、なんて考える人間がどれほどいるものか。YouTubeでも見たほうが早いし、今はまだあんまり信用できないAIさんたちだって、あと数年もすれば即座にパーフェクトな回答をしてくれるようになるだろう。知恵袋としての価値は、よほどの特殊事例でもない限り認められない。
そうなると、純粋に「その人間はどれだけ銭金を生めるのか」が唯一の価値基準になる。
財力は一番わかりやすい価値だが、その他にも若さ、体力、知力は換金可能な価値として尊重される。だが、老いは、それだけではまったく無価値だ。むしろ社会の財産を食いつぶすマイナス要因とみなされる。
今はまだかろうじて人権という普遍的(であるはずの)概念が生きているが、道徳としての“敬老精神”は風前の灯火だ。その結果、高齢者と現役世代の分断をあおるポピュリズムが着実に力を得始めている。実際、とうとう「医療費を減らすための尊厳死」など、とんでもないことを言い出す政党が出てきた上に、前回の総選挙で党勢を伸ばしてしまった。おそらく、彼らは自分たちの主張の危険性をわかっていないのだろう。もしわかって言っているのならば、とんでもなく邪悪だ。
この点については後ほど詳しく言及しようと思うが、老いが社会的に無価値になる以上、老人へのケアが今以上に手厚くなることはなく、まして老人の精神衛生に対し社会が注力することはない。
つまり、孤立老人の救いようのない孤独など、問題にすらならない。
問題になるとしたら、それはひとえに社会資本のマイナス要因となるケースだけだろう。
たとえば、最近社会が取り組むべき問題として「孤立死」に日が当たり始めたが、それは孤独死が不動産価値を損う、あるいは始末するものに経済的損失を与えるからだ。また、フレイル研究が進むのは、それを放置すると介護費用の増加を呼ぶからだ。まして“働けない老人”が増えれば納税者の減少に直結し、国富が損なわれる。
資産もなく、富を呼ぶコンテンツを生めるわけでもない、ただ老いさらばえるばかりの老人に商業的価値はない。商業的価値がなければ、存在が許されるはずもない。要するに、私のような人間は、自前で我の面倒を見られなくなったら即粗大ゴミとみなされ、誰にも顧みられなくなる。
それが、今の社会だ。
私たちはいつから「孤独」になったのか。
アルバーティは近代を起点にしているが、それは西欧人の視点だ。少なくとも東アジア――紀元前の中国や万葉時代の日本では、すでに孤独の苦しみも楽しみも詩の形で記録されている。
けれども、実存の毀損に直結する現代型孤独は、確かに近代以降の社会構造の変化が必然的に生んだ鬼子なのだ。
アルバーティは言う。
孤独は「大流行」し、「災厄」となり、「蔓延」し、「伝播」する。さらにはパニックや嫌悪感をもたらすため、人びとは反射的な反応を示すだけで、孤独とはなにを意味するのか、なぜ問題として扱われるのか、どういう場合には有益な効果をもたらすかについて、じっくり考えることもない。(P275)
彼女は、現代は「孤独のエピデミック」が起こっていると表現する。エピデミックはパンデミックの一歩手前。地域や国をまたいで起こる伝染だ。
たしかに、今や孤独はいわゆる先進国が抱える共通の問題だ。そして、地球全体がグローバル化の波に呑まれるとしたら、完全に人類全体にふりかかる疫疾災となる。少なくとも日本ではすでに止められない勢いで災厄が広がっている。
しかし、嫌でもこの社会で生きていかなければならない私には、もう逃れる術がない。
なにも対策を講じなければ、私は孤立のうちに人生を終えることになるだろう。
と、結論しようとしたところ、後頭部をパコーンとはたかれた。
「もう、いやだあ! なにを勝手に絶望してるの? アルバーティさんをはじめ、他の研究者のみなさんはそんな暗い話ばっかりしてないじゃないのお。もう、しっかりしてよ!」
夢子である。ようやくトランス状態から復帰したらしい。
「あなた、ちょっと物事の悪い面ばかりに注目しすぎよ? いい? 困りごとがあれば、その解決手段を生むのが人間ってものなの。さあ、足元ばっかり見ているんじゃなくって、顔を上げましょ? おお、フロイデ!」
顔をあげた私に、夢子はなにを見せてくれるというのだろう。
ひとまず夢に生きる楽天家のお手並み拝見、である。