第二十三章 天真一路

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 海外ミステリーのファンで「ブラウン神父」を知らない人はいないだろう。20世紀初頭のイギリスの作家、G・K・チェスタトンが創り出した名探偵。本職はローマン・カトリックの司祭だが、聖職者らしい威厳や重厚さとはまるで無縁な、風采の上がらない小男で、いつも大きな傘を持ち歩き、しばしばそれを置き忘れる。それでいて、ときどき人の肺腑をえぐるような警句を吐く。

 沈思黙考型で粘りづよい性格。不審なことがあれば放っておかず、腑に落ちるまで考え抜く。その推理法は、証拠や証言を集めて帰納的に判断するのではなく、もし自分が犯人だったらどうするかという心理的な側面から演繹的にアプローチする。最大の武器は人生で培われた知恵と洞察力、そしてローマン・カトリックの世界観。そのあざやかな推理力によって、オーギュスト・デュパン、シャーロック・ホームズと並ぶ世界三大探偵のひとりに数えられる。

 そんな彼が手がけた51の事件はすべて5冊の短篇集に収められており、日本でも数社の文庫シリーズで手軽に読むことができる。

 第1の事件簿の題名は“The Innocence of Father Brown”。日本には最初『ブラウン神父の無知』として紹介されたが、のちに中村保男が『ブラウン神父の童心』と改訳して評判になり、以後はこの題名が定着した。原題のニュアンスは「無知」に近いが、主人公の天真爛漫な性格と考え合わせて「童心」のほうが適訳だと思われる。

 のっけからこんな話を持ち出したのはほかでもない。「ことば探偵」金田一京助の性格と生き方が、この古典的な名探偵にとてもよく似ているからである。

 京助はもちろん、ローマン・カトリックの司祭でもなければ、「ノーフォーク州のシチューの団子そっくりのまん丸な間抜け顔」や「北海のように虚ろなどんぐり眼」の持ち主でもない。本職は言語学。容貌はといえば、高く鼻筋の通った、なかなかの好男子である。

 しかし、物事の細部を疎かにせず、最後までとことん考え抜くという粘りづよい性格、「冷静なる学究」というよりも「情熱の詩人」の直感力でもって物事の本質を見抜こうとする姿勢、そして何よりも長い人生経験に裏打ちされた知恵と洞察力を武器とするその研究法は、ブラウン神父の推理法とそっくりである。「ローマン・カトリックの世界観」のところに「天皇中心の国家主義」を代入すれば、名探偵のキャラクターはそのまま「ことば探偵」のそれにあてはまるといっていい。

 イノセンスという英語には、無知や童心のほかにも、無実、潔白、無邪気、天真爛漫、愚直、無害、間抜けなど、さまざまな意味合いがある。よくいえば純粋で穢れがなく、わるくいえば世間知らずで子供っぽい性格をあらわすことばといえるだろう。

 金田一京助は、これらのニュアンスを全部ひっくるめた意味で、とびっきりイノセントな人柄だったらしい。長男春彦の回想記「父よ あなたは強かった」(1972年)には、そのイノセンスぶりを示す逸話がたくさん出てくる。

 国学院大学の教え子に久保寺逸彦という学生がいた。京助の影響を受けてアイヌ語を専攻し、京助は自分の後継者として目をかけていた。久保寺には弥生という妹がおり、彼女もまた実践女子専門学校(現在の実践女子大学)で京助の教え子だった。

 昭和15年(1940)ごろ、弥生が医者と結婚することになり、京助はその披露宴に主賓として招かれた。スピーチの予行演習までして早めに家を出たが、途中で道を間違えたらしく、式場に着いたときにはすでに会食が始まっていた。主賓の席には誰かが座っていたので、京助は仕方なく隅のほうに席を取って豪華な料理に箸をつけた。

 やがて司会者が立って「来賓のお祝辞を」という段になった。いつ自分の名が呼ばれるかと耳を澄ましていると、しきりに出てくる新婦の名前がどうも弥生とは違うように思われた。そこで給仕を呼んで確かめると、マネージャーらしき男が歩み寄って、うやうやしく耳元でささやいた。「せっかくでございますが、その方の結婚式は昨日終わっております」

 手洗いに立つふりをしてそっと会場を抜け出し、あたふたと家に帰った京助は、出迎えた家族にひとこと、こう告げた。

「ああ、今日は大変だった」

 戦後、京助と春彦の家族は、同じ杉並区内の少し離れた家に住んでいた。ある日、春彦は留守中の父の家を訪ね、書斎の本棚から本を抜き出して読んだ。そのとき本の間にはさまっていた封書が机の上に落ちたらしい。

 やがて外出から帰った京助が封書に気づいて開封すると、それは某出版社からの原稿依頼状で「日本語の敬語についてご意見を」云々と書かれていた。敬語は当時の京助にとって最重要のテーマだった。彼はさっそく20枚ほどの原稿を書き上げ、速達で送った。すると、数日後に丁重な手紙が届いた。

「せっかく玉稿をいただきましたが、あの雑誌は昨年をもって廃刊いたしましたので、掲載することができません。玉稿はお返し申し上げます」

 調べてみると、その原稿依頼状は2年ほど前に来たもので、何かの拍子に本にはさんだまま忘れてしまったものだとわかった。後日、再び父の家を訪れた春彦は、その出版社から手紙といっしょに送られてきたという月餅を食べながら、「お前が変なものを机の上に出しておくからいけないんだ」というお叱りを受けた。

 そのころ、春彦はあるラジオ番組で評論家の古谷綱正と対談することになっていた。予定の時刻になっても迎えの車が来ないので局に電話すると、とっくに着いているはずだという。それでもやっぱり来なかったので、収録の時間に遅れてはまずかろうと、電車とタクシーを乗り継いで局に駆けつけると、そこにはなんと京助が待っていて、うれしそうに笑いかけてきた。

 杉並の金田一先生といえば、なんといっても京助のほうが有名である。「金田一先生のお宅へ」といわれた運転手は、迷うことなく京助宅にお迎えに上がった。

 普通の人ならここで「そんな予定はなかったはずだ」と思うところだが、京助は普通の人ではない。「それはどうもご苦労さま」といって、さっさと車に乗り込んだ。そして道中、運転手を相手にお得意の敬語論を一席ぶったというから念が入っている。

 驚いたのは番組のプロデューサーである。いま目の前にいる大先生を「あなたに用はありません」といって追い返すわけにもいかない。そこで春彦と古谷の了解を得た上で、対談を急ぎ鼎談に切り替えることにした。

 収録後、相乗りのハイヤーで自宅へ送られる途中、京助は「今日は思いがけずお前と共演できてよかったよ」と終始上機嫌だった。 後日、春彦の出演料は臨時の共演者の分だけ削られていたが、彼はそれを日頃の親不孝に対する罰金だと思うことにした。

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 戦後の混乱もようやく収まった昭和29年(1954年)5月、京助は民俗学の柳田国男、言語学の泉井いずい久之助ひさのすけ、服部四郎とともに、皇居吹上御苑の花蔭亭で、昭和天皇に「北奥地方のアイヌ語起源の地名について」と題する進講をおこなった。

 持ち時間はひとり15分ということになっていたが、アイヌ語の地名は京助のいちばん得意なテーマだから、話し始めると終わらない。机上の懐中時計を見ると、すでに45分が過ぎていた。隣席の柳田に「どうしましょう」と小声でお伺いを立てると「あと5分で切り上げなさい」。しかし、5分ではとても足らず、結局さらに15分かけて、ようやく話し終えた。ご進講の時間をこんなに長引かせたのは、後にも先にも京助のほかにはいないという。

 京助は少年時代から一貫して「天皇中心」の愛国者だった。敗戦直後、天皇制の存続が危ぶまれていた時期に「大君おおきみのまけのまにまに国民くにたみのふたたび国を起こさざらめや」という歌を作って朝日新聞に投稿し、賛否両論の渦を巻き起こした。

「父よ あなたは強かった」では「昭和21年の新春」のこととなっているが、これは春彦の記憶違いで、正しくは昭和22年(1947)1月11日の朝日新聞「声」欄である。いずれにしろ、当時「大君のまけのまにまに」(天皇の命じるままに)などといえば、「右翼反動」としてパージされる危険があったことはいうまでもない。

 そんな自称「天皇ファン」にとって、陛下の御前で自分の専門分野について進講するのは、まさしく身に余る光栄だった。それだけにこの失態のショックは大きかったのだが、それから約1ヶ月後の6月9日、講師4人が宮中で午餐を賜ったとき、天皇は頭を垂れる京助に「金田一」と声をかけられた。京助がハッと顔を上げると、「この間の話はおもしろかったよ」といわれた。

 京助は感激のあまり涙が止まらなくなり、その日のテーブルにどんな料理が並び、自分が何を食べたか、まったく覚えていなかった。ただ、そのときの天皇のおことばと温顔だけは、終生忘れることがなかった。

 その年(1954)11月3日、京助は文化勲章を受章した。同時受章者は、名古屋大学学長勝沼精蔵、日本画家鏑木清方、俳人高浜虚子、東京天文台長萩原雄祐の4人。皇居西の間で天皇臨席のもと、緒方竹虎臨時首相代理から勲章を授与された。昼食会のあとで記者会見がおこなわれ、京助は大略こんな話をした。

「自分がやらなければ永久になくなってしまう。こう気がついて忘れられた人々(アイヌ)の研究をやったんです。世の中にすぐ役立つものではなく、こんどのようにおほめにあずかって、かえって恐縮です」

「(この研究は)もちろん収入はなし、うちのものにもずいぶん迷惑をかけました。横紙破りの仕事でしたから。(中略)あの人たち(アイヌ)は文字以前の生活をしていたんです。口伝えの記録を、北海道中を歩き回って筆記したんです。一言も間違えないよう、聞きのがさないようにと思うと、汗じゃなくてアブラが出ました」(朝日新聞11月14日付け朝刊)

 朝日新聞の記者は、この談話のあとに「生涯をかけたアイヌ語の研究をささえてきたのは、おそらくアイヌに対するこの無限の愛情なのだろう」と付け加えた。

「無私のアイヌ語研究者」という評価はそれ以前からあったが、受章以後はそれに石川啄木との友情神話や青年期の貧乏物語が加味されて、京助は文系の学者としては珍しい近代立志伝中の一人となった。

 こうした「偉人」のイメージはもちろん、新しいヒーローの登場を待望してやまない当時のジャーナリズムが作り上げたものだが、京助自身の回想や随想がそれに輪をかけた部分もなかったとはいえないようだ。

 たとえば、晩年の啄木が杖をついて京助の家を訪ね、涙ながらに社会主義からの転向を語ったという追想「啄木逝いて七年」の一節は、両者の友情物語の仕上げとして欠かせないエピソードだといっていいが、のちに啄木研究家の岩城いわき之徳ゆきのりによって、それは社会主義嫌いの京助が夢見た幻想にすぎなかったらしいことが論証された。

 また、学生時代にアイヌ語調査のために樺太に渡った京助が、ふとしたことから「ヘマタ(なに?)」ということばを知り、それを手がかりにアイヌの子供たちと次第に心を通わせていったという「心の小径」の感動場面については、愛弟子の知里真志保から「樺太アイヌは北海道に来たことがあるので、北海道のアイヌ語がまったく通じないとは考えられない」とクレームが付けられた。

 これに対して京助は「最初のうちは村人たちに警戒されて話してもらえなかっただけで、話が通じなかったとはどこにも書いていない」などと苦しい弁明をした。後輩の言語学者小林英夫に「情熱の詩人」だと揶揄された京助は、しばしば思い込みによって話をおもしろくする傾向があったようである。

 さらに、学士院恩賜賞を受賞した出世作『ユーカラの研究 アイヌ叙事詩』の出版に際しては、岡書院の岡茂雄をはじめ、柳田国男、渋沢敬三、石田幹之助ら、周囲の人々の献身的な奉仕や援助を受けていながら、晩年の自伝『私の歩いて来た道』では、「しつこく頼まれたので仕方なく書いたら賞をもらった」と、まるで些事にすぎなかったかのような語り方をした。

 この自伝は口述筆記なので、あるいは筆記者によって省略された部分もあったかもしれないが、それにしても、このイノセントにすぎる語り口は、やはり忘恩の徒として非難されねばならないだろう。

3

 文化勲章はもらったものの、京助の言語学者としての学知は、もはや時代遅れになっていた。春彦によれば、その学者としての進歩は、太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)ごろにはすでに止まっていたらしい。

《一体父の書いたもので、学界の先端を行っていたものは(中略)昭和6年の『ユーカラの研究』、昭和13年の『新訂国語音韻論』あたりまでで、同じ年の『国語史系統篇』になると、まあ昔の勉強が物を言っているものであり、16年の『新国文法』になると、もう大分おくれたところを歩いている。結局59歳ぐらいまでで、60歳以後は相撲ならば年寄というところである》(「父ありき」)

 59歳は京助が東京帝大の助教授から教授になった年、60歳は春彦が三上珠江と結婚した年である。京助は61歳で東大を退官しているから、現代のサラリーマンでいえば、ちょうど定年の時期にあたる。

 この「年寄」に残された仕事は、生涯をかけて筆録してきたユーカラ・ノートの整理と、金成マツが亡母モナシノウクのユーカラを筆録した膨大なノートの翻訳だった。

 マツのノートは、戦争末期に空襲を避けて札幌の知里真志保宅に保管されていた。京助と真志保はこのノートを訳して世に出したいと思っていたが、戦後の混乱と紙不足がそれを許さなかった。ようやく昭和31年(1956)になって、国学院大学の日本文化研究所と三省堂の協力で出版の話がまとまった。

 そのころ、真志保は持病の心臓病が悪化して入退院を繰り返していた。京助は日本文化研究所と相談して毎月2万円を協力謝礼金として真志保に送ることにした。また登別のマツの家が老朽化していたので、マツのノートを文部省に寄付して、その代償を改修資金にあててはどうかと提案している。

 先年、真志保の朝日賞受賞を京助が妨害したような誤解を与えたことから冷え込んでいた両者の関係は、これでようやく改善され、晩年にはまた昔ながらの親密な師弟関係が復活した。

 京助は日夜、ユーカラ・ノートの訳註に取り組んだ。妻の静江を伴って熱海伊豆山の水葉亭や奥湯河原の青巒荘に籠もって仕事をすることも多かった。

《朝起きるとペンを握り、床に入っても寝つかれない時はまた電燈をつけて稿を継ぐという風だった。日常生活では頭は次第にぼけてきたが、ユーカラに関しては、永く曇らず、これが父の老化を防ぐのに役立った》(「父ありき」)

 そのとき、京助はおそらく単なるユーカラ研究者ではなく、アイヌの叙事詩人(ユーカラクル)の一人になりきっていたのだと考えられる。

 こうしてマツのノートは昭和34年(1959)に『アイヌ叙事詩ユーカラ集』第1巻として刊行された。京助は77歳、マツは84歳になっていた。

 この『ユーカラ集』シリーズは、第7巻までは「金成マツ筆録・金田一京助訳注」となっている。つまり、マツがモナシノウクの口伝をローマ字で記録した70余冊、約1万ページのうちの15冊分の邦訳だったが、昭和43年(1968)1月刊の第8巻からは京助が直接アイヌの古老から筆録した46冊のノートから順次訳載することになっていた。第8巻の「序」で、京助はこう述べている。

《生き残る伝承者を探し回って危うくその口から筆録したユーカラの帳面46冊は、私が亡くなったら、ただの反古ほごに終ることを惜しんで、邦訳の筆を執って50年、その一部は辛うじて公刊することが出来たが、老齢80を越えること5才、あと幾年、生きてこの筆をつゞけることが出来るか。(中略)せめてあと8冊、総計15冊を出して死んだら、後の人が、あとの34冊も翻訳することが出来ようかと、(中略)私は生きる限りこの筆を続けよう》

 しかし、京助の「せめてあと8冊」という願いは叶えられなかった。昭和44年(1969)5月、上野の精養軒で岩手県人会主催の「金田一京助先生米寿の賀」が催されたころからにわかに老化が進んで筆が執れなくなったのである。

 昭和50年(1975)に出たシリーズ第9巻『草人形、八串の肉串、いくさ物語』が京助の事実上の遺稿集となった。「京助嗣子春彦」名義の序文によれば、この巻の校正を始めたころに急に老耄が進んだので、一番弟子の久保寺逸彦に応援を頼んだ。久保寺も癌を患っていたので、余命を数えながらの作業になった。京助が赤字を入れた部分を見ると、ときどき意味不明のところがあった。大先生の書き入れだから何か意味があるだろうと思案して長い時間が過ぎた。その無理がたたったのか、久保寺は京助より9日早く、昭和46年(1971)11月5日に没した。

 京助はそれまでに多くの死者を見送ってきた。長女郁子、次女弥生、三女美穂子をいずれも幼いうちに失った。四女若葉は病弱ながら成人して工学士に嫁いだが、昭和24年(1949)秋、太宰治と同じ玉川上水の万助橋の近くで入水自殺した。これより早く、京助の弟妹からも2人の自殺者が出ている。

 学問上の後継者たちにも、次々に先立たれた。アイヌ叙事詩の知里幸恵、真志保の姉弟につづいて、日本語音韻論の有坂秀世を失い、今またアイヌ文学の久保寺逸彦に先立たれた。病床でそれを告げられた京助は瞑目したまま涙を流しつづけたという。

 このように、金田一京助89年の生涯は、決して平穏でもなければ無事でもなかった。盛岡での少年時代はともかく、仙台での高校時代は孤立感に苛まれ、大学の言語学科ではいちばん潰しのきかないアイヌ語を割り振られ、卒業後は失業と貧困に喘ぎ、東大では長らく助教授のまま据え置かれ、関東大震災で学位論文を焼失し、66歳のときには完成間近だったアイヌ語辞典の原稿を泥棒に盗まれている。

 どちらかといえば楽しみより苦しみの多い人生だったといってよさそうだが、にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、彼は一貫して見事なまでにイノセントな人生をノンシャランに生き抜いた。京助76歳のときの歌。


 ありのままに取りつくらはず天真の

 心になりて老いんと願ふ


 昭和46年(1971)11月14日午後8時30分、京助は家族、友人、門弟に見守られて「天真一路」の生涯を閉じた。法名は寿徳院殿徹言花明大居士。知里幸恵と同じ雑司ヶ谷霊園の一画に眠る。

 

(了)