第二十一章 監修名義人

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 金田一京助と聞いて、最初に国語辞書を思い浮かべる人は多いだろう。昭和時代の後半に書店の辞書コーナーを覗くと、「金田一京助編」あるいは「金田一京助博士監修」と銘打った国語辞書や学習辞典がずらりと並んでいて、それ以外の辞書を求めるのは難しかった。おそらく当時の日本の家庭には、学習用も含めて一家に一冊以上の金田一辞書が置かれていたはずである。

 ところが不思議なことに、このうち京助自身が編纂に携わった辞書はごくわずかで、大半は名義を貸しただけ、なかには本人がその存在さえ知らなかったものも含まれていたらしい。京助の長男で自らも辞書編纂者だった金田一春彦が『父京助を語る』(教育出版、1977年)のなかで、こんなことを書いている。

《読者各位は、街角の本屋の店頭の辞書のたなに、金田一京助博士編、あるいは金田一京助博士監修と銘打ったおびただしい種類の大小の辞書が並んでいることにお気付きであろう。あれは何を物語るものか。

 その性善なる方は、あれだけ沢山の辞書を作られるとは何という偉い学者であろうと感心されるであろう。が、その性善ならざる向きは、あれだけ名前を売って礼金を受け取ろうとするとは何という欲深な人であろうと眉をひそめられるであろう》

「その性善ならざる向き」の一人だった私は、べつに眉をひそめたりはしなかったが、この人はこんなにたくさんの辞書を作って、いったいどれほどの印税を稼いだことだろうと、羨ましくてならなかった。しかし、春彦によれば《両方とも違う。有体ありていは、父は、頼まれたらいやと言えないお人よしの人間だった》からだという。

 昔、芳賀はが矢一やいちという学者がいた。東京帝国大学国文学科の初代主任教授で、「われは海の子」など多くの文部省唱歌を作ったことでも知られる。卒業生が訪ねてくると客間に通して酒を飲ませ、金がないと聞くと懐から五円札を取り出して渡した。

 ある日、怠け者の学生がやってきて金を無心した。そのときはあいにく懐に金がなかった。芳賀は着ていた羽織を脱ぐと、「これを質に入れて金に換えなさい」といって渡したという。

 京助はこの芳賀に心酔していた。だから卒業生がいい加減な辞書の原稿を持ってきて「先生の監修をいただければ、妻子が飢えずにすみます」などと頼まれると、内容を調べもせずに名義を貸し与えた。また正体不明の出版社が卒業生の紹介で訪ねてくると、報酬の約束もせずに名義だけの監修を引き受けることもあった。

《そんなわけで、金田一京助という名のついた辞書はまことに玉石混淆――というよりも、よいものは実は少ない。中には三省堂の『明解国語辞典』のように、京助の生活の大きな支えとなったものもあるが、中には恐らく死ぬまでその存在さえも知らず、一文の報酬ももらわないで、名前だけ出しているものもあったにちがいない》

 名義貸し自体は、当時それほど珍しいことではなかった。上田萬年の流れを汲む東大言語学科の卒業生たちは、ほぼ例外なく辞書の監修を引き受けたが、その多くは名義だけのものだった。京助もその監修名義人の一人だったのである。

 そのことは業界では周知のことだったらしい。三省堂の『コンサイス日本人名事典』の「金田一京助」の項にはわずかに《国語辞典の編纂にも力をそそいだ》とあるが、小学館の『日本国語大辞典』の項目には国語辞書に関する記述は見られない。

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 とはいえ、京助は辞書の仕事をまったくしなかったわけではない。前述のように、東大の学生時代には金澤庄三郎教授の下で『辞林』の編集を手伝ったし、明治41年(1908)に海城中学校の国語教師の職を失ったあとは三省堂の『日本百科大辞典』編修所に校正係として勤め、名物編集長斎藤精輔の下でみっちりと鍛えられた。

 金澤庄三郎編の『辞林』(明治40年4月初版)はその後、中型辞典の『広辞林』(大正14年9月初版)に発展し、昭和3年(1928)には、それを小型化した『小辞林』が刊行された。このシリーズは三省堂のドル箱となり、編者の金澤は印税で「赤銅あかがね御殿」と呼ばれる豪邸を建てた。

 ところが、昭和10年(1935)に博文館から新村出編の『辞苑』(『広辞苑』の前身)が出ると、『辞林』はさっぱり売れなくなった。『辞苑』の語釈はわかりやすい口語文で書かれていたが、『辞林』シリーズは昔ながらの文語文だったので、新時代の読者に敬遠されたのである。

 あせった三省堂は『小辞林』を口語文にして巻き返しを図りたいと編者の金澤に申し入れたが、金澤をこれを拒否した。売れ行き不振にともなう印税(1パーセント)の引き下げをめぐって、以前から少し関係が悪化していたらしい。

 そこで三省堂は『辞林』刊行当時から縁のあった金田一京助に「語釈を口語化できる優秀な人材を紹介してほしい」と依頼した。三省堂では、語釈を口語文に改めさえすれば『辞苑』に対抗できると考えていた。

 京助は熟考した末に、東京帝大大学院に在学中の見坊けんぼう豪紀ひでとしを推薦することにした。見坊の父親の田ヅ雄(ヅは、雨カンムリに鶴)は当時盛岡市長をつとめていたが、母校の盛岡中学では京助の2年後輩で、以前から親交があった。あの男の息子なら自分の期待に応えてくれそうだと考えたのである。

 見坊豪紀は大正3年(1914)11月に東京で生まれた。内務省の地方官だった父親が満鉄(南満州鉄道株式会社)に出向した関係で満州(中国東北部)で少年時代を過ごした。その後、山口県の山口高等学校をへて昭和11年(1936)に東京帝大国文学科に入学した。金田一春彦の2年後輩にあたる。

 東大では橋本進吉に師事して国語学を専攻した。国文学ではなく国語学を選んだのは、『国語学概論』を著した橋本の綿密な学風に惹かれたからである。橋本は非常に厳しい教師で、予習や下調べをきちんとしていかないと、露骨に険しい顔をした。生涯に145万例のことばを集めた見坊の辞書編纂者としての原点は、橋本のこの几帳面な学風にあったといえるかもしれない。

 見坊にとって、京助はあくまで「アイヌ語の先生」だった。学部時代の3年間、京助のアイヌ語の講義を聴いたが、それはあくまで「教養」の範囲にとどまっていた。『明解物語』(三省堂、2001年)の編者、武藤康史のインタビューに答えて、見坊はこう語っている。  

《大学を卒業したので、おやじが私を連れて京助先生のお宅に伺って、卒業の挨拶と、「まだ就職していないから、何か仕事があったらお願いします」と言って帰ってきたことがあるんですがね。ぼくが卒業して間もなくの話ですよ。そうしたら、半年ぐらいたって、「三省堂で辞書を出すからやらないか」ということになったんですね》

 見坊の記憶が正しければ、これは昭和14年(1939)9月ごろのことで、彼はまもなく25歳になろうとしていた。三省堂からの呼び出しを受けて、神田の神保町にあった本社へ出向くと、応接室に出版部長、辞書課長、校正係などの関係者が待ち構えていた。

 一方の見坊は《華奢な体を学生服に包み、丸眼鏡に丸坊主頭という風貌》だったというから、これはどう見ても入社試験の面接風景である。 

《向こうからいろいろ細かな質問は出ましたね。説明の合間、合間で、ウサギという字は、三種類書き方があるけれども、そのうちのどれにしますかなんて。テストですね、文字の知識について。だから、校正係の人が同席してたんだな》

 テストにはどうやら合格したらしい。社員の一人が一冊の小型辞書(『小辞林』)を差し出していった。

「この辞書の語釈は文語文で書かれています。それをすべて口語文に直してください。その際、新規に入れたい項目があれば、少しは入れてもかまいませんよ」

 それに対して、この無名の大学院生は「わかりました。それじゃ、少し研究してからご返事します」といって、さっさと帰ってしまった。大役を与えられて歓喜するだろうと予想していた社員たちはあっけにとられ、なんという生意気な学生だろうと舌打ちした。

 それから2週間後、詰襟の学ランに角帽というスタイルで再び三省堂を訪れた見坊は、社員を前に3つの編集方針を提案した。まず第一に「引きやすいこと」。当時の国語辞書は見出し語がすべて「歴史的かなづかい」になっていて、クワウ(鉱)、コフ(劫)、カウ(校)、カフ(甲)の区別のつかない一般大衆は、必要なことばをどの音で引けばいいのかわからなかった。

 そこで見坊は見出し語をすべて表音式で統一することにした。たとえば従来の辞書では「エイヤウ」または「エイヨウ」と表記されていた「栄養」は「エエヨオ」に、「ロウドウ(労働)」は「ロオドオ」と純表音式に変えようというのである。これは現行の「現代かなづかい」による表記よりも一歩踏み込んだ画期的な提案だった。

 見坊は次に動植物などの百科項目について「図鑑の丸写しみたいなことはやめて、専門用語を一般の読者にもわかるように説明する」という「わかりやすさ」を提案した。さらに外来のカタカナことばが「敵性語」として排斥された時代にもかかわらず、日常的に使われている外来語は積極的に取り入れるという方針を打ち出した。

「引きやすさ」「わかりやすさ」「現代的であること」の3大方針を説明する見坊のプレゼンはいつしか独演会の様相を呈し、熱弁は2時間を超えた。最初はお手並み拝見と鷹揚に構えていた社員たちは、やがてその熱弁に打たれて静まり返り、結局はそれがそのまま新辞書の編集方針となった。

 この日をもって正式に辞書の編纂を委嘱された見坊は、さっそく作業に取りかかった。最初にやったのは『小辞林』とライバル辞書『言苑』との突き合わせ。『言苑』にあって『小辞林』にないことばを拾い出し、それに口語の語釈をつけた。さらに新聞や雑誌から新しいことばを探して付け加え、その数は8,000項目にも及んだ。三省堂からの依頼は『小辞林』の口語版を1年でつくれということだったが、こうしてまったく新しい辞書が生まれようとしていた。

 そのころ、見坊は新宿区新小川町に建てられたばかりの同潤会江戸川アパートメントの独身者棟に住んでいた。当時としては珍しいエレベーターやセントラルヒーティングを備えた最先端の集合住宅だった。その快適な環境で、彼は日夜語釈の原稿書きに取り組んだ。

 見坊と同期の東大国文科には定員いっぱいの30人の学生がいたが、そのうち国語学を専攻したのは3人だけだった。一人は渡辺わたなべ綱也つなや。見坊とは対照的な快男児だったが、この男とは不思議にウマが合った。もう一人は山田やまだ忠雄ただお。こちらは空気のように無口で目立たない男で、いつも図書館にこもって本を読んでいた。

 山田は大正5年(1916)8月生まれ。見坊より2つ年下だが、見坊が病気で2年休学したため大学では同期になった。山田の父親は国粋派の国語学者として知られた山田孝雄よしお。戦前には東北帝大教授、神宮皇學館大学学長、貴族院議員などを歴任、戦後は公職追放になったが、解除後の昭和32年(1957)に文化勲章を受章した。しかし、山田はこの父親のことを誰にも語ろうとせず、昭和14年(1939)に東大を卒業すると、岩手県師範学校の教師として赴任した。

 見坊は自分が書き上げた原稿の校閲を山田に依頼することにした。実は最初に渡辺綱也に頼んだのだが、原稿料のことで揉めて喧嘩別れしたため、やむなく山田に頼むことにしたのである。

 それとは知らぬ山田は「ほい来たとばかりに」この仕事を引き受けた。日中は教師の仕事を続けながら、夜は見坊から郵送されてくる大量の生原稿に目を通した。のちに戦後の国語辞書づくりを牽引し、天才見坊、鬼才山田と並称された2人の共同作業は、こうして約1年間続けられた。

 昭和16年(1941)1月の末、最後の原稿を三省堂に引き渡して予定通りに大役を果たした見坊は、4月から岩手県師範学校に赴任し、勤務のかたわら『明解国語辞典』と改名されることになった辞書の校正を続けた。一方、その名付け親とされる山田は、見坊と入れ違いに陸軍士官学校に転任した。

 昭和17年(1942)8月25日の日付で金田一京助の「序」が仕上がり、翌18年(1943)5月10日付けで『明解国語辞典』(略称『明国』)の初版が刊行された。『小辞林』改訂の話が持ち上がってから約4年の歳月が流れていた。

 監修者金田一京助はこの間、何をしていたかといえば、実は何もしていなかった。3つの編集方針から新語の選定に至るまで、すべてを見坊が1人で考えて実行し、京助には連絡もしなかったらしい。自著『辞書をつくる』(玉川大学出版部、1976年)のなかで、見坊は書いている。

《企画、立案、交渉、執筆、校正その他を通じ、世なれぬ私は、ろくに京助先生にご報告もご相談もせず、独断専行、春彦さんにはアクセントをつけていただき、山田忠雄君には校閲、助言をたのむなど、勝手に事をはこんでしまった》

 アクセントをつけた春彦は、のちに武藤康史の「京助先生は、原稿を一行もお書きにならなかった?」という問いに対して「一行も書きません。そういうことには向きませんよ、あの人は。二、三枚読むと、もう飽きちゃうんです」と、見坊の証言を裏付けている。

『明国』の背表紙には「文学博士 金田一京助編」と大書されていたが、この編者はろくにゲラも見ていなかった。一方、「独断専行」の編集者だった見坊は完全にその陰に隠れて、一部の関係者以外には名を知られることもなかった。「金田一京助編」という名義だけのブランドは、その後『三省堂国語辞典』や『新明解国語辞典』にも引き継がれ、「辞書といえば金田一」という共同幻想をつくり出していく。

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『明国』は画期的な国語辞書として戦中戦後の日本国民に広く受け入れられ、累計61万部を売り上げた。それにつづく『三省堂国語辞典』(略称『三国』)や『新明解国語辞典』(略称『新明解』)の原典となっただけではなく、日本の現代語辞典の可能性を一挙に押し広げた。現行の小型国語辞書の多くは、大なり小なり『明国』の流れを汲んでいるといっていい。

 昭和20年(1945)8月、日本の長い戦争が終わった。岩手大学で教鞭を執っていた見坊は、日本大学の教授になった山田の研究室を訪ねて『明国』の改訂について相談した。かつては見坊の「助手」の地位に甘んじていた山田も、今度は積極的に語釈の改良を提案した。この会合にはやがて彼らの先輩の金田一春彦も加わり、それぞれが理想とする国語辞書をめぐって熱い議論を繰り広げた。

 敗戦から7年後の昭和27年(1952)4月、『明国』改訂版(第二版)が世に出た。背表紙は相変わらず「金田一京助編」となっていたが、今度は奥付に見坊ら3人の編者名が記されていた。

 改訂版は初版にも増してよく売れた。各地で新制中学校の指定辞書に採用されたこともあって空前のベストセラーとなり、初版と合わせて累計600万部を売り上げた。2年前に三省堂から刊行された金田一京助編の中学・高校国語教科書がそれに拍車をかけた。

 こうして金田一ブランドは、教科書と辞書の二方面から日本国民の間に浸透していった。ちなみに「アイヌ語の金田一」の名が定着したのも、前に見たように、中学校の国語教科書に「心の小径」が掲載されて以後のことである。

『明国』改訂版には、しかし、大きな問題があった。かつて見坊が提案して『明国』の特色となっていた表音式の見出しが、学校で習う「現代かなづかい」と合わなくなっていたのである。

 たとえば「右往左往」は、現代かなづかいでは「うおうさおう」だが、『明国』では「うおおさおお」となっていた。学校ではすでに現代かなづかいを採用していたので、漢字の読み方のテストで「うおおさおお」と書くと間違いとされた。

 次章で詳しく見るように、この現代かなづかいを策定したのは、京助を主要メンバーの1人とする国語審議会だった。つまり、同じ編者名を冠した辞書と教科書の間に重大な齟齬が生じてしまったのである。

 そこで三省堂は急遽、『明国』を現代かなづかいに改めた「学習版」を作ることにした。再び見坊を中心に改訂作業が進められ、昭和35年(1960)に『三省堂国語辞典』として刊行された。『三国』は当初の狙いどおり中学生用の国語辞書としてヒットし、以後の13年間で117刷、累計発行部数は560万部に達した。

 人気の秘密は何といっても語釈の新しさにあった。たとえば「水」を『明国』改訂版で引くと《水素二、酸素一の割合で化合した、無色・無味の液体》と化学式のような説明になっていたが、『三国』では《われわれの生活になくてはならない、すき通ったつめたい液体》と、誰にもわかりやすく実感的な語釈に改められた。

 見坊と山田が激論の末に案出したとされるこの「ことばによる写生」方式は、無味乾燥な語釈、単なる言い換え、先行辞書からの無断盗用が横行していた国語辞書界に革命をもたらし、「辞書なんてどれを引いても大同小異」という従来の常識を覆した。

『三国』のヒットに刺激されて出版界には時ならぬ小型辞書ブームが起こった。迎え撃つ三省堂は直ちに『明国』第三版と『三国』第二版の改訂に取りかかったが、見坊はこのころから脇目もふらずに用語採集に没頭して編集作業が進まなくなった。そこで『明国』のほうは山田が単独で作業を進め、昭和47年(1972)1月に『新明解国語辞典』として刊行された。

《れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる状態》といった独特の語釈で知られた、あの「新解さん」(赤瀬川原平『新解さんの謎』文春文庫、1999年)である。

 その序文にはこう書かれていた。

《このたびの脱皮は(中略)見坊に事故有り、山田が代行したことにすべて起因する。言わば、内閣の更迭に伴う諸政の一新であるが、真にこれを変革せしめたものは時運であると言わねばならぬ》

 1月7日に四谷の料亭で開かれた打ち上げパーティの席上、初めてこの「裏切り」を知った見坊は激怒し、それまでも軋轢がささやかれていた2人の関係は完全に決裂した。しかし、2人の仲を修復すべき役割を持つ金田一京助はすでにこの世にいなかった。

 

(つづく)