第十一章 結婚

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 明治42年(1909)6月、啄木が函館から上京した家族を迎えて本郷弓町二丁目の床屋「喜之床」の2階に移ったあとも、京助は森川町の下宿「蓋平館別荘」に住んで三省堂の「日本百科大辞典」編修所に校正係として勤め、毎週土曜日には国学院大学に出講していた。

 国学院の講師料は大先生でも1時間1円、いちばん若い京助も1円だった。当時の1円は現在の8,000円ぐらいに相当するから、決して安いというわけではないが、休講になると一銭も貰えないので、月4円を下回ることが多かった。それでも三省堂の月給30円と合わせて、なんとか食べていくことはできた。

 そんなある日、啄木が蓋平館にやってきて、いきなり「金田一さん、結婚しなさい」といった。

「なんだよ、藪から棒に。安月給の身で結婚なんかできるわけないじゃないか」

「いやいや、できますよ。1人で食えれば2人でも食えます。1人だと、ついつい外食するでしょう。2人になると、それがなくなるから大丈夫です」

「そうかなあ」

「そうですよ。ぼくだって安月給で家族3人を養っているんですから」

 そんな会話を交わしたあと、啄木はおもむろに「実はいい口があるんです。お見合いに行きましょう」と切り出した。京助がはにかんで「よしてくれ、お見合いなんかしたくないよ」とことわると、啄木は京助を見下ろすように、こういった。

「おかしな人だなあ。べつに恥ずかしがるようなことじゃない。ただで若い娘さんの顔を見に行こうといってるんですよ。なにがいやなんですか」

 京助にも、それまで結婚話がまったくなかったわけではない。大学の先輩から「おれの妹を貰ってくれないか」といわれたこともある。しかし、若い女性にはなんとなく近づきがたい感じがして、恋愛はもとより、一対一で話をしたこともなかった。

 一方、19歳で結婚したあとも女出入りの絶えなかった啄木は、4つ年上の京助が未だに女を知らないことに精神的な圧迫を感じ、浅草の十二階下に連れ出して童貞を捨てさせようとしたが、前述のように京助はそれに応じなかった。かくなる上は無理にでも結婚させてしまおうというのが、年下の月下氷人、啄木の思惑だったのである。

 ことのはじまりは、啄木と貸本屋の老人との世間話だった。本郷界隈の下宿や家庭に出入りして貸本の商いをする山本という老人がいた。まだ蓋平館に住んでいたころ、啄木はこの老人から『春情花の朧夜』といった艶本を借りて独り寝のさびしさを紛らしていた。

「じいさん、あんたは本を背負ってあちこちの家に出入りするから、世間が広いはずだ。どこかに、いいお嫁さん候補はいないかね。こっちは帝大出の文学士で、大学の先生で、しかも母方の伯父さんは盛岡銀行の頭取をしている」

 そのとき啄木は、京助の略歴のほかに父久米之助、伯父勝定の名前を紙に書いて山本老人に渡した。老人はそれを蓋平館にほど近い林という家に持ち込んだ。すると、その家に同居して宮内庁に勤めている池田という夫妻が「静江ちゃんにぴったりの縁談じゃないか」と身を乗り出してきた。

 林家では不幸が続いていた。父親の林義人は3年ほど前に病没、母親はもっと早くに亡くなり、一人息子は出張先の樺太で客死していた。夫に先立たれた長女のカオルが娘の政子を連れて実家に戻り、末の妹(五女)の静江を母親代わりに世話していた。

 静江はこのとき20歳。政子は18歳で、2人とも婚期が迫っていた。カオルとしては、静江を早く嫁に出し、政子に婿を取って林家を継がせたいと思っていた。

 池田夫妻のはからいで、本郷に新しく出来た「若竹」という寄席で、お互いに遠くから顔を見るだけの見合いをすることになった。相手は前方の席にいて、早めに引き上げる。こちらは入り口付近の席で、帰っていく相手をチラッと見るだけだから、仮にことわったとしても、あとにしこりは残らない。そういう段取りになっていると聞かされて、京助はとにかく行ってみることにした。実はそのとき、京助にはある「下心」があった。

《私としては、一つには、家内をもらうなら、くにの女ではなく、東京の本郷台の、ことに西片町あたりのをもらいたいと思っていたのです。あのへんが標準語だし、標準語を操っている娘だったら、そのアクセントを標準アクセントと知ることができるという下心があった。というのも、日本語の辞書をつくるうえに、西洋の字引きのようにアクセントをつけたいが、日本語の辞典にはアクセントをつけた辞典がないので、そうするには、郷土の婦女子を家内にするより、標準語を話す娘を家内にもつと、一語一語発音させればすぐ用にたつのだがなあ、という考えが頭にあったからです。

 静江はちょうどそれにぴったりの西片町の誠之せいし小学校出ときいて、それでは東京中の小学校でも有名な模範的な小学校出だ。一等標準アクセントを身につけているなと考え、それならと少し気が動いて、見合いに行く気にもなったのでした》(『私の歩いて来た道』)

 京助は言語学や音声学の専門家でありながら、自分の盛岡弁のアクセントをなかなか矯正することができず、大学で講義をしながら羞しい思いをすることが多かった。この縁談は自分のアクセントを矯正し、ひいては日本語のアクセント辞典をつくるうえでも大いに役立つだろうというのだから、いかにも「ことば探偵」らしい下心である。

 ちなみに京助の盛岡訛りは結婚後もあまり改善されなかったが、日本語アクセント辞典のほうは、のちに息子の金田一春彦によって達成されることになる。

 京助のお見合いには啄木と山本老人が付き添った。先方の付添人は池田夫人とカオルだった。静江は大きな白い薔薇のかんざしを挿しているということだったが、寄席に入って前方の席をうかがうと、たしかに白い簪が見えた。山本老人が「あれです、あれです」と囁きながら指をさした。

 演芸が半分ほど終わったところで、先方は出口に向かった。京助がそれとなく見ていると、静江は客席の座布団を踏まないように片手で丁寧に退かしながら通っていった。京助はその所作に好感を抱いた。

 そのあとすぐ、京助たちも席を立った。帰りの道すがら、京助は「あの娘さんなら、これまでに何度も会ったことがある」といって同行の2人を驚かせた。 

 学生時代、京助は毎日、菊坂町八十二番地の下宿「赤心館」から本郷台町を通って大学にかよっていた。そのころ静江は森川町一番地の家から同じ道を通って女子美術学校の刺繍科にかよっていた。色白で眼のぱっちりした少女だった。

 2人は毎日のように顔を合わせたが、静江はすれ違う男子学生などには目もくれず、いつも下を向いて歩いていた。だから京助は、よほど堅い家の娘なんだろうと思っていた。それから2年ほど会わずに過ぎたが、ある日、森川町の本田子爵邸の前で、その娘と行き会った。前に見たときはまだ少女という感じだったが、そのときは一人前の娘になっていた。今日会ったのはまさしくその娘だった。

 その夜、京助は盛岡の父に手紙を書いた。すると久米之助は喜んですぐに上京してきた。京助は山本老人に頼んでもう一度、形ばかりのお見合いをさせてもらうことにした。話はすぐにまとまり、今度は上野の動物園で会うことになった。

 その日、京助は久米之助、東京帝大工科大学(現在の東京大学工学部)に在学中の弟安三、山本老人の4人で動物園に出かけた。先方は姉のカオルと池田夫人の3人だった。今回も遠くからチラッと顔を見ただけだったが、父は即座に「あれならよかろう」といった。

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 その年(1909)の暮れも押し詰まった12月28日に、親族だけのささやかな結婚式を挙げた。新郎は27歳、新婦は20歳だった。京助はすぐにも盛岡へ連れて帰りたかったが、「それではお嫁さんがかわいそうだ」と池田夫人がいったので、箱根湯本の旅館に1泊してから盛岡へ向かった。

 盛岡では本家の伯父、勝定の屋敷に親類縁者を招いて盛大な披露宴をおこなった。費用はすべて勝定が負担した。京助は色白美人の新妻を郷里の人々に披露できて大満足だったが、静江はこの強行軍に疲れ果て、以後はすっかり「盛岡アレルギー」になった。その辺の事情を、息子の春彦がつぎのように解説している。

《京助にとっては、盛岡は地球上のどこよりもすばらしい天地だった。緑の山、清らかな川、一つ一つのものは少年の日の思い出を語り、貧しいとは言え、学成り、新妻を伴って帰る自分を、笑顔をもって迎えてくれたものと見た。

 しかし、江の島より遠いところに行ったことのない静江にとっては、異民族の住む異郷にでも連れて来られたようなもので、旅疲れでこちらはふらふらになっているのに、その心も察せず、うわついた声ではしゃいでいる夫の姿をおぞましく思った。都から来た長兄の新妻を見ようと、代わる代わる前に現れる夫の弟妹たちは、何やらわからぬ言葉でささやきあい、笑いあい、気持ちの悪いこと限りない。静江は一ぺんで盛岡がきらいになり、二度と足を向けることがなかった》(「父ありき」)

 こうした齟齬そごは、田舎出の秀才と都会育ちのお嬢さんが結ばれたケースではありがちなことだったといっていい。多くの場合は、双方が歩み寄ることによって少しずつ解消されていくのだが、このケースでは、おそらく京助の郷土愛が強すぎたせいで、なかなか解消されなかった。

 それともう一つは、京助は銀行頭取の甥っ子で金持ちのお坊ちゃんという触れ込みだったのに、実際に嫁いでみれば、30円ちょっとの月給取りで、真面目なだけであまり面白味のない男だったという失望感である。静江は生涯、「わたしは騙されたのよ」と周囲に洩らしつづけた。

 1週間ほど盛岡で過ごして、正月の松飾りが取れたころ東京に戻った。その間にカオルが住む家を見つけてくれていた。本郷駒込追分町三十番地の借家で、家賃は13円。嫁に来たばかりの静江に水仕事をさせるのは気の毒だと思い、安月給の身で女中まで雇い入れた。その後まもなく、弟の安三が同居することになった。安三は伯父の勝定から毎月25円の仕送りを受けていた。京助の収入と合わせて月に60円あれば、3人でなんとかやっていけるだろうという計算だった。

 それにしても家賃の負担が大きすぎた。カオルがそれを気の毒がって、自分の家の裏側の一軒を半値で貸そうといってくれた。そこで3月末に林家と背中合わせの森川町一番地新坂上の借家に引っ越した。大正5年(1916)に同じ森川町の牛屋横町に移住するまで、ここが二人の新生活の拠点となった。

 林家の先祖には絵師がいたらしく、『三国志』の三傑を描いた掛け軸が遺されていた。カオルから「これは何の絵ですか」と訊かれた京助は、以後数夜にわたって、劉備、関羽、張飛にまつわる物語を語って聞かせた。『三国志』は小学校のころから何度も読んでいたので、すっかり頭に入っていた。カオルと政子はしきりに面白がり、「どうしてそんなに詳しいの」と感心し、おかげで京助は大いに面目を施すことができた。

 安三は2階の4畳半で暮らしていたが、京助夫妻が林家の母娘とたのしそうに雑談していると、自分もすぐに降りてきて、話の輪に加わった。そのため勉強がおろそかになり、とうとう落第してしまった。これではならじと一念発起した彼は、やがて近くの「桜館」という学生下宿へ越して行った。

 それからは京助の月給だけで暮らさなければならなくなった。三省堂までの電車賃が片道五銭、往復で九銭。「朝日」というたばこ代が6銭。合計15銭が1日の必要経費だった。そのほかに、職場ではときどきアミダくじをやった。1銭から5銭までの金額を決めて籤を引き、負けた者がその金で焼き芋などを買ってきて、おやつの時間にみんなで食べた。そのアミダ籤代込みの合計20銭を入れたレース編みの小袋を静江から受け取って家を出るのが毎朝の日課だった。

 昼は職場で蕎麦や寿司の出前を頼んだ。その代金が月末に給料から差し引かれ、手取りは28円ぐらいになった。一方、晦日みそかの払いは米屋と酒屋でざっと20円。酒屋は酒だけでなく味噌から薪炭までの生活物資を配達した。これに家賃を加えると、夫婦で毎月自由に使える金は10円足らずしかなかった。

 それでも家計の歯車はなんとか回っていたが、この歯車はときどき狂うことがあった。原因はいつも啄木だった。石川家は月給30円で4人家族。しかも月給は前借りつづきで毎月半分ぐらいしか貰えなかったから、台所はいつも火の車。そこで妻の節子がしばしば啄木の手紙を持って金田一家を訪れ、1円、2円と返せるあてのない借金を申し込んだ。

 金田一家もぎりぎりの生活だったから、啄木に貸した分だけ赤字になり、食べるものまで節約しなければならなくなった。それでも京助は啄木の借金を拒まず、手元に金がなければ同僚に借りて用立ててやった。これでは財布を預かる主婦はたまらない。静江は「石川」と聞いただけで頭痛がするようになった。

 啄木は明治44年(1911)2月に結核性の腹膜炎と診断され、東京帝大病院に入院した。3月に退院したが、その後も微熱が続き、寝たり起きたりの状態が続いた。7月に入ると容態が悪化し、日夜氷嚢なしにはすまされなくなった。そのころ妻節子も肺尖カタルを発症し、母カツが炊事を引き受けたが、カツもかねてから胸を患っており、3人が枕を並べて寝込む日が多くなった。

 そのため大家の新井夫妻から「2階が病人だらけでは床屋商売に差し支える」と明け渡しを求められ、8月初めに小石川区久堅町七十四番地(現在の文京区小石川五丁目)に引っ越した。その家には門と小さな庭があり、他人に迷惑がられずに住むことができた。 

 このころ、京助は三省堂の仕事が終わると同僚の岩橋小弥太や御橋真吾と、電車に乗らずに歩いて帰宅することが多かった。岩橋は折口信夫、武田祐吉と大阪府立第五中学校の同窓で、のちに国学院の国史の教授になった。御橋は山形県庄内の寺の息子だった。

 3人とも本好きだったので、いつも途中の古本屋に立ち寄って掘出し物を探した。浮いた電車賃に少し足した15銭くらいの金で、けっこう珍しい本が手に入った。そのなかには松浦武四郎の『蝦夷日誌』のような希覯書も含まれていた。牛込五軒町の三省堂から本郷の森川町まで道草をしながら歩くのが毎日の楽しみであり、健康法でもあった。

 結婚してほぼ1年後、明治44年(1911)1月に長女の郁子が生まれた。夫婦の喜びは大きかったが、その喜びは長くはつづかなかった。年の瀬が近づいたころ、郁子が苦しげに咳き込むようになった。両親は枕元に瀬戸物の火鉢を2つ置き、金盥かなだらいに水を張って湯気を絶やさないようにした。

 正月七日は寒の入りで冷え込みが厳しかった。朝起きてみると、なぜか火鉢の火が消え、湯気が立たなくなっていた。あわてて火を起こそうとすると、郁子がはげしく咳き込んで白目をむき出しにした。

 大家族のなかで育ちながらこれまで一度も人の死に立ち会ったことのなかった京助はすっかり動転し、「おい、どうした、お前死ぬなよ!」と呼びかけたが、郁子はまもなく息を引き取った。死因は急性肺炎。貧乏で医者に診せられなかったことが悔やまれてならなかった。

 それからしばらく放心状態がつづいた。勤めから帰ってアイヌ叙事詩ユーカラを読んでいると、耳元で郁子のカッカッと咳き込む声が聞こえて、読んだものがまったく頭に入らなかった。このままではダメになってしまう。何か悲しみを忘れて没頭できるような仕事がしたいと思うようになった。

 ちょうどそこへ英国の言語学者ヘンリー・スウィートの『言語の歴史』の翻訳話が舞い込んだ。三省堂の同僚に藤野という早稲田の苦学生がいて、京助はときどき言語学の初歩を教えていた。その藤野が友人の父親の出資で出版業を始めることになり、第1弾としてスウィートの翻訳書を出したいといってきたのである。

 この本は学生時代に一度ノートに訳してあったので、それを清書すればいいはずだった。そこで2月いっぱいに脱稿するという約束で取りかかったが、いざ始めてみると直したいところがたくさん出てきて、少し延期してもらうことにした。

 京助の書斎は中二階の北向きで、家中でいちばん寒い部屋だった。原稿は細筆による真書しんがきだったが、夜中に冷え込むと墨が凍って書けなくなる。そのときは筆先を口にくわえて温めるので、唇のまわりが真っ黒になった。

 原稿は3月30日に完成した。翌日は日曜日で桜が満開だったので、林家の母娘と弟安三を誘って上野へ花見に行くことになり、静江は朝から弁当づくりに励んでいた。その傍で京助が読売新聞に目を通していると、文壇消息欄「よみうり抄」に啄木重態の記事が出ていた。

 3週間ほど前の3月10日、啄木から「久しぶりに会いたい」というはがきが来たので、京助は久堅町へ出かけた。啄木はその3日前に母親を亡くしていたが、京助は翻訳に忙殺されて葬式にも行かなかった。啄木は1年ほど前から寝たり起きたりの状態だったが、母親が死ぬと枕から頭を上げることもできなくなっていた。

 啄木の危篤を知った以上、もう花見どころではなかった。「花は神武天皇祭(4月3日)まで待ってくれるだろうが、啄木の命はもう持ちそうにない。今日は見舞いに行かせてくれ」と頼んでみんなをがっかりさせたあと、京助は久堅町に駆けつけた。

 啄木にはすでに死相が現れていた。京助が名を呼ぶと、うっすらと目を開けて「金田一さん、今度はもうダメかもしれない」といった。「薬代を払えないから医者も来てくれないし、もうこんな状態ですよ」と、布団をまくって尻を見せた。それは骸骨に皮をかぶせたように痩せこけていた。

「これじゃダメだよ、もっと滋養になるものを食べて体力をつけなくちゃ」というと、啄木は「滋養をつけようにも、もう米さえないんです」といった。

 昨日脱稿した翻訳の原稿料は20円の約束だった。急いで家にもどった京助は、原稿を持って藤野を訪ね、藤野は明日までに全額届けると約束してくれた。また家に引き返した京助は「明日20円入るから、いま手元にある金を全部出してくれ」と静江に頼み、かき集めた10円ほどを持って久堅町へ走った。

 

(つづく)