第七章 心の小径

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 明治39年(1906)秋、金田一京助は約1か月にわたる北海道でのアイヌ語調査を終えて東京へ戻ってきた。アイヌ語は日本語とはまったく系統を異にする「主客合体語」だったという発見もさることながら、古老の朗唱するユーカラ(叙事詩)をローマ字で書き留めたノートこそが最大の成果であり、旅のお土産でもあった。

 しかし、このお土産はそのままでは宝の持ち腐れだった。ユーカラはいまでは使われなくなった古語で謡われているため、バチェラーの『アイヌ英和辞典』はまったく役に立たなかった。しかもアイヌはもともと無文字社会だったから、およそ文献資料というものが存在しない。京助は国語を習い始めたばかりの小学生がいきなり『源氏物語』を差し出されたような困惑を感じたのである。

 この年9月から京助は最終学年の3年生になり、ぼつぼつ卒業論文の準備にかからなければならなかった。できればアイヌ語についての論文を書きたかったが、まだそれだけの準備がなかったので、とりあえず「世界言語の序辞」に関する研究をまとめることにした。

 その年の暮れ、故郷の渋民村に帰って小学校の代用教員をしている石川啄木からはがきが届いた。

《昨日午後三時京子生れ申候、万歳、万歳。岩手県岩手郡渋民村の若きお父さんより》

 12月30日の啄木日記に「喜びの知らせのハガキ十五枚書きぬ」とある。これはそのうちの1枚だったと思われるが、他の14枚とは違う特別な意味をもっていた。この出産に際して、親戚や知人から「薫」「静子」「染子」など、いくつかの名前を提案されていたが、啄木と節子は、もし女の子だったら「京子」と名づけることに決めていた。翌年1月3日の日記に、啄木はこう書いている。

《「京」の字、みやびにして優しく美し。我が友花明金田一君は京助といふ名なり。この友の性と心と、常に我が懐かしむ処なれば、その字一つを採るもいはれなき事に非じ》

 つまり「京子」は敬愛する金田一京助にあやかった名前だったのである。ちなみに四つも年上の先輩を「我が友金田一君」などと呼ぶのは、現代の感覚ではちょっと違和感があるが、当時の「君」は文字通りの敬称だったから、それほど不遜な言い方でもなかったようである。

 この朗報と前後して盛岡から悲報がもたらされた。父の久米之助が事業に失敗したのである。前述のように、久米之助は明治23年(1890)に四ツ家町の金田一本家から中津川沿いの大沢川原小路おおさかわらこうじに分家した際に、義父の直澄からいくつかの事業を譲られていた。

 そのひとつに屋根瓦の製造工場があったが、経営を人任せにして書画骨董にのめり込んだため部下の使い込みに気づかず、経理に大穴をあけてしまった。その結果、京助たちが育った大沢川原小路の家は、本家の養嗣子となった国士くにおに借金のかたとして取り上げられ、一家は本家の長屋の一つに住むことになったのである。

 京助はすぐにも帰省して父を励ましたかったが、無収入の学生の身では、経済的にはどうすることもできなかった。せめて学資だけは自分で稼ごうと思い、師の金澤庄三郎から頼まれていた三省堂の『辞林』の初校校正に精を出した。あとで詳しく見るように、このときの校正のアルバイトが「国語辞典の金田一京助」を育てることになる。

 そのころ、いいニュースも入ってきた。前年(1905)9月にアメリカのポーツマスで調印された日露講和条約によって樺太の南半分が30年ぶりに日本に還ってくることになり、東京帝国大学理科大学(現在の東大理学部)の坪井正五郎を団長とする調査団が現地に派遣されることになったのである。樺太アイヌは北海道アイヌとことばが通じないと聞いていたので、ひょっとすると樺太にはいまでもユーカラ時代のことばが生きているかもしれない。そう思うと、京助は矢も楯もたまらず樺太へ行きたくなった。

 そこで卒業論文「世界言語の序辞」を大急ぎで書き上げ、口述試験にもなんとかパスすると、文科大学長の上田萬年を訪ねて「ユーカラ研究の手がかりをつかむために樺太へ行きたい」と申し出た。すると上田は大いに喜んで、文科大学の予備費から嘱託講師の旅行費名目で現金百円(現在の約40万円)を出してくれた。講師の旅費は教授会にかけなくても出せることになっていたらしい。

 7月の卒業を待たずに盛岡へ帰省した京助は、今度も真っ先に伯父の勝定に樺太行きを相談した。家族より先に伯父に会ったのは、父親の窮状を見て決心が鈍るのを恐れたからである。それを察した勝定は、何もいわずに旅費百円を出してくれた。家族が経済的に苦しんでいるときに、こうして一銭にもならないような研究をつづけることに心が痛んだが、いまはそれにかまけている余裕はなかった。

 明治40年(1907)7月12日、京助は小樽から樺太の大泊おおどまり行きの連絡船に乗った。この日はたまたま東京帝大の卒業式だった。夏だというのに、樺太の山々にはまだ山桜の花が咲いていた。

 大泊港には着いたものの、それから先が大変だった。濃霧のために船が出なかったのである。到着から12日目に、やっと樺太民政署の小さな巡視船に便乗して東海岸へ向かったが、それでもまだ霧が晴れず、船上で3日待機したあと、ボートで送られてオチョポッカのアイヌ集落に上陸した。7月27日朝のことである。

 アイヌの人々にとって、京助は「招かれざる客」だった。民政署の船に乗って洋服姿であらわれた彼は、どう見ても日本政府の役人だった。人々は彼に疑い深そうな目を光らせ、彼が近づこうとすると、いっせいに背を向けた。それまで笑いさざめいていた者たちも、ぴたりと口を閉ざして散開した。ことばがまったく通じないので、片言隻句も採集できないまま、毎日がむなしく暮れていく。その淋しさはたとえようもなかった。 

 役人だと思われていたので、住まいは首長ピシタクの冬用の家があてがわれた。食事は京助が持参した米と味噌を、入れ墨をしたアイヌの娘たちが交代で小鍋に入れて持ち去り、1時間ほどすると温かいご飯と味噌汁を作って黙って入り口に置いていった。声をかけようとすると、急いで逃げてしまう。昼間はアイヌの暮らしぶりを遠くから見ているだけでも慰めになったが、夜になって、鼻をつままれてもわからないような暗闇のなかで海岸に打ち寄せる波の音を聞いていると、ひしひしと侘しさがこみあげてきた。

 こうして2日目が暮れ、3日目が過ぎた。東京を発ってからすでにひと月が過ぎようとしていた。4日目の午後、何ひとつ得るところなく引き返すのかと思いながら屋外に佇んでいると、背後で子供たちの遊ぶ声が聞こえた。ことばの一端でも拾えないかと、そっと近づいて耳を傾けてみたが、しゃっくりしながら物をいうような話し方で、一言も耳に留まらない。ただし、子供たちは遊びに夢中で、京助が近くに立っていても警戒されないのがありがたかった。

 一人の子が腰に小刀を下げていた。京助はそれにさわりながら、北海道アイヌ語で「タンベ・ネップ・ネ・ルエ・ヘ・アン?(それは何なの?)」と尋ねてみた。子供らはいっせいに京助の顔を見たと思うと、わっとはやし立てて、くもの子を散らすように逃げて行った。「通じないかな」と一人つぶやきながら途方にくれていると、また三々五々集まってきて遊びはじめた。

 今度は一人の子が耳に下げていた輪を指さして「マカナク・アィエブ・ネ・ルエ?(何というものなの?)」と訊いてみた。子供たちはまたしても京助の顔を見ただけで、わあーっと叫びながら逃げ去った。

 この場面について、樺太アイヌの子供たちに北海道アイヌ語がまったく通じなかったはずはない、京助の発音がよほどひどかったのではないかという研究者もいるが、いまそれを詮索してみても仕方がない。とにかく通じなかったのである。

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 ここからの「ことば探偵」金田一京助の名推理は、昭和の戦争が終わったあと、新制中学の国語教科書に載ったエッセイ「心の小径」で広く知られることになるのだが、ここではその原型となった昭和6年(1931)の「片言をいうまで」(平凡社ライブラリー『ユーカラの人びと』所収)から引くことにする。

《子供らのうちに、絵に見る唐子からこのような着物――多分満州方面からの外来品――を着ているのが一人あった。その格好がちょっとおもしろかったので、単語を採集するはずの手帳へ、しょう事なしに、その子を写生し始めた》

《私が、その子を見ては鉛筆を動かし動かしするのを目ざとく見つけた子供の一人が、まず何とかわめいた。ほかの子も私を見て、また何とかわめいた。遊ぶのをよして、みんな私を注視した。真っ先に見つけた子が、まずおずおずと、しゃがんでいる私へ近寄って来て、物珍しげに私のかくのをのぞいた。たちまちどやどやとやって来て、みんなでのぞいた。年かさのが、唐子の服装をした子を指して、「お前がかかれたぞ」とでもいうような様子をした。すると、わいわいといい出して、私の横からのぞくもの、背後からのぞくもの、中には無遠慮なのが、指を突き出してもう私の画面を突ついて「ここが頭で、ここが足だ。手だ」などというように、自分の発見を得意になって説明を引き受けているのさえある。が、ちっともそのいう事が聞きとれない》

 これは学者の文章とは思えないような情景描写で、さながら小説の一場面のような臨場感とリアリティがある。盟友の石川啄木は小説家をめざしつづけて挫折したが、もし京助が小説を書いていれば、あるいは啄木を超える作品を残したかもしれない。

《その時だった。ふと思いついて、一枚新しい所をめくって、誰にもすぐわかるように、大きく子供の顔をかいてみた。目を二つ並べてかくと、年かさのが一番先に「シシ」「シシ」といった。ほかの子も「シシ」、ほかのも「シシ」、とうとうさしのぞいていた子の口がみな「シシ!」「シシ!」「シシ!」。騒がしいったらない。そのさまはちょうど、「目だよ。目なんだよ」「うん。目だ」「目だ!目だ!」とでもいうように聞けたのである。

 そうだ、北海道アイヌは「目」を「シクshik」という。樺太ではそれを「シシshishi」というのかも知れない、ということが頭へひらめいたから、急いで絵の目から線を横へ引っぱって、手帳のすみの所へshishiと記入し、それから悠々と鼻をかいていった》

 こうして京助は問題解決への最初の糸口を見つけた。あとはその糸を少しずつ引き出していけばいい。

《年かさの子が鋭い声で「エトゥ・プイ! エトゥ・プイ!(etu-pui! etu-pui!)」と叫ぶ。と、残りの子らも声々に「etu-pui! etu-pui!」。私はおかしくなったのをこらえて、また鼻の先端から線を引いていってその端へ「etu-pui」と書き込んだ。そして口をかいていくと、やっぱり年かさの子を真っ先に「チャラ!(chara!)」「chara! chara!」と大騒ぎ。まゆをかくと、「ラルー!」「ラルー!」。頭をかくと、「サパ!」「サパ!」。耳をかくと「キサラ・プイェ!」「キサラ・プイェ!」》

 京助のアイヌ語採集帳には、こうしてたちまち身体の部位を示す名詞が十数個集まった。京助は愉快でたまらなかった。なにしろ相手のほうで勝手に競争しながら教えてくれるのだから。しかし、すべての物を絵に描くわけにはいかないし、たとえ描けたとしても時間がかかる。

 そこで、もっと簡単に答えを引き出せる疑問詞「何?」の一語がほしくなった。それさえわかれば、物を指さすだけで、その名を知ることができる。だが、その「何?」を絵で表現するのは難しい。

《そこで、ふと思いついて、もう一枚紙をめくって、今度はめちゃくちゃな線をぐるぐる引き回した。年かさの子が首をかしげた。そして「ヘマタ!」と叫んだ。するとほかの子供も皆変な顔をして、口々に「ヘマタ!」「ヘマタ!」「ヘマタ!」

 うん、北海道で「何」のことを「ヘマンダ」という。これだ、と思ったから、まず試みようと、身の回りを見回して、足元の小石を拾って、私からあべこべに「ヘマタ?」と叫んでやった。

 驚くべし。群がる子供らが私の手元へくるくるした目を向けて、口々に「スマ!」「スマ!」と叫ぶではないか。

 北海道で「石」のことを「シュマ」という。してみると、「スマ」は「石」のことで、そして「ヘマタ」はやっぱり「何」ということに違いなさそうだ》

 ここで京助は「ふと思いついて」「めちゃくちゃな線をぐるぐる引き回した」と書いている。それは確かにその場の思いつきだったに違いないが、このアイディアは誰の頭にもすぐ思い浮かぶようなものではない。ましてそこから「ヘマタ」というキーワードを引き出し、しかもそれを足元の小石によって実証するという手順は、まさにことば探偵ならではの名推理といえる。

 こうして決定的な手がかりをつかんだ以上、あとにはもう語彙という名の証拠品集めが残されているだけである。

《そこで勇気を得て、も一つ足元の草を手にむしり取って、「ヘマタ?」と高くささげると、子供たちは「ムン!」「ムン!」「ムン!」と、ぴょんぴょん飛びながら答える。私はうれしさに、子供らと一緒にぴょんぴょん飛んで笑った》

 こうして一方通行だった子供たちとのあいだに、ことばによるコミュニケーションが成立した。この「心の小径」の開通の背景に、子供たちと一緒にぴょんぴょん飛び跳ねて笑い合えるような京助自身の「童心」があったことを忘れてはならない。英国のミステリー作家G・K・チェスタートンに『ブラウン神父の童心』という名短篇集があるが、洋の東西を問わず、童心は名探偵に欠かせない重要な資質のひとつなのである。

 もっとも、この「心の小径」はまだ出来たばかりで、双方から自由に行き来できるほどには整備されていなかった。

《おかしかったのは、私が自分の五りんぐらいしかない七、八本のあごひげをつまんで見せて、「ヘマタ?」とたずねた時である。声に応じて、子供らは「ノホキリ!」と答えてくれたので、「Nohkiri(あごひげ)」と記入した。何ぞ知らん、Nohkiriは「下あご」だった。ひげづらに慣れているアイヌの子供たちの目には、私のつまんだひげなどは「ひげ」の数に映じなかったので、私の指は「あご」をつまんでいると思ったのである》

 厘は尺(約三十センチ)の千分の一だから、五厘はわずか1.5ミリ。これではアイヌの子供ならずとも下あごと間違えるのは仕方がない。ちなみに京助は「チンポコを持った貴婦人」と評された人だけに、もともと髭が薄かった。大学を卒業して海城中学の教師になったころ、口髭をはやそうとしてしきりに毛生え薬をつけていたと、同宿の啄木が日記に書いている。晩年の写真にまばらチョビ髭があるところを見ると、この薬は少しは効いたらしい。

 こうして京助は数時間のうちに全部で74個の単語を採集することができた。こうなると、今度はそれを使ってみたくなる。折から大勢のアイヌが川原に集まって鱒を獲っていた。京助はそこへ下りていき、覚えたてのことばを使ってみることにした。

《川原の石を指しては「スマ」と叫び、青草を指しては「ムン」、鱒を見ては「ヘモイ」、鱒の頭を指しては「ヘモイ・サパ」、鱒の目を指して「ヘモイ・シシ」、鱒の口を指して「ヘモイ・チャラ!」》

 その瞬間、それまでむずかしい顔をしていた髭面の男たちが、もじゃもじゃ髭のすき間から白い歯をあらわした。それまで目をそむけていた女たちも、周りに真っ青な入れ墨が施された口を開き、白い歯を覗かせた。明らかにみんなが笑っていた。なかには網を持った手を振って見せて「ヤー(網)」といったり、砂地を指して「オタ(砂)」という者もいた。急いでそれを手帳に書きつけながら発音をまねてみせると、不思議そうに手帳を見に寄って来る者もいた。女たちの群れからは「いつ覚えたんだろう」「よく覚えたもんだ」とでもいうような感嘆の声が聞かれた。

 こうして大人たちとの間にも「心の小径」が開通した。京助にとって、それはまさしく夢にまで見た至福の瞬間だった。

《たった、こうした間に、私と全舞台との間をさえぎっていた幕が、いっぺんに、切って落とされたのである。さしも越え難かった禁園の垣根が、はたと私の前に開けたのである。ことばこそ堅くとざした、心の城府へ通う唯一の小道であった。きよ成って水到る。ここに至って、私は何物をもためらわず、すべてを捨てて、まっしぐらにこの小道を進んだのは、ほとんど狂熱的だった》

「渠成って水到る」とは、水路が通じて初めて水が流れる、開拓者がいなければ物事は始まらないという譬え。「禁園の垣根」だの「心の城府」だのといった大げさな形容に、開拓者としての自負と喜びがあふれている。

《一週間の後には、ちょっと私が首を出しても、右から左からことばが投げられる。朝起きて川原へ顔を洗いにタオルを下げて通ると、両側のアイヌ小屋から「ナッケネ・エオマン・クス?(どこへ行きますか?)」「テマナ・エキ・クス?(どうしたんですか?)」などと、まるで田圃のいなごが飛び出すように、ばたばたと足もすくむほど、ことばをかけられて、私がうまく答えられたといっては笑い、とんちんかんに答えたといっては笑う。顔を洗っていると、もう子供たちが起きて、後ろへいっぱいやって来ている。夜は若い者や年寄りが、さしもがらんどうな私の宿も身動きがならないほど詰めかけて、踊る、歌う、しゃべる》

 こうして「招かれざる客」だったはずの京助は、わずか10日ほどの間にアイヌの集落のなかに溶け込み、ある意味では彼らのスターになった。そこに「未開の種族」に対するエリート研究者の「上から目線」がなかったとはいえないし、そのことがのちに大きな論争を引き起こすことにもなるのだが、そのときの京助にはおそらくそれを意識する余裕はなかった。彼はそれこそ童心に返って、このにぎやかな交歓を楽しんでいたのである。

 ある晩、隣村トンナイチャの首長ラマンテが京助の宿にやって来た。彼はいきなり仰向けに寝そべると、右手で脇腹をたたきながら唸りはじめた。それが北海道アイヌの「ユーカラ」に当たる「ハウキ」だと察した京助は、その音を夢中になって追いかけながらローマ字で筆記した。ラマンテが謡い終わったあと、間違いを直してもらうつもりで筆記したものを読み上げると、彼は周囲のアイヌを見まわしながらこういった。

「お前たちは何度教えてやっても覚えないが、この旦那は一度聞いただけで全部覚えてしまった。大したもんだ!」

 四十数日の滞在のあと、京助は大抵の会話を支障なくこなせるようになり、樺太アイヌ語文法の大要と、四千の語彙と、三千行の叙事詩を採録したノートを「家苞いえづと(お土産)」に、集落の老若男女に別れをつげた。

 

(つづく)