第六章 アイヌへの道
その昔、日本列島の北辺に日本人とは言語や風俗を異にする人々が住んでいた。彼らはエミシ、エビス、エゾなどと呼ばれた。平安時代の初めから、日本の中央政府はしばしば大軍を派遣して彼らを服属させようとした。征討軍の長を征夷大将軍といい、それはのちに武家政権の最高権力者の称号となった。
日本に服属した者はニギエビス、服属しなかった者はアラエビスと呼ばれた。アラエビスは次第に北方に追いやられ、やがて未開の大地、北海道に移り住んだ。そのため北海道は蝦夷地と呼ばれるようになった。ちなみに『銭形平次捕物控』の作者野村胡堂が音楽評論を書くときに使った筆名「あらえびす」は、維新戦争で官軍になびかなかった奥州人の気概を表わしている。胡堂と金田一京助は盛岡中学の同窓生だった。
エミシやエゾがそのまま民族としてのアイヌと重なるかどうかは定かではない。またアイヌの居住範囲についても正確なところはわかっていない。しかし、現在でも北日本の各地にアイヌ語地名がたくさん残っているところからみて、東北地方の北半分はアイヌの居住地だったと考えてよさそうである。
アイヌが日本史のなかにはっきりと姿をあらわすのは、室町時代の中期、長禄元年(1457)に起きたコシャマインの戦い以後のことである。このころ、徳政一揆(1428)や嘉吉の乱(1441)に代表される本国の動乱を逃れて北海道に渡った落武者や避難民の群れが渡島半島の南部に定住し、先住民のアイヌを圧迫した。これに対してアイヌの首長コシャマインが立ち上がったが、抗戦むなしく敗退し、アイヌはさらに奥地に追いやられた。
江戸時代になると、布教のために来日したキリスト教の宣教師たちが、日本人とは異なる言語や風俗をもつアイヌに興味を示し、その見聞を本国に報告した。アイヌとは英語のman(男、または人間)に相当するアイヌ語だが、それを初めてAinuと表記したのも外国人宣教師たちだった。したがってアイヌをアイヌ人と呼ぶのは「武士の侍」と同じ無意味な重複表現ということになる。
渡島半島の南部に定住した武士の集団は、やがて松前に城を築いて徳川幕藩体制の一翼を占め、蝦夷地支配を任された。松前藩の交易独占に反発するアイヌは各地で反乱を起こし、それはやがてシャクシャインの戦いに発展する。寛文九年(1669)、日高のシブチャリ・アイヌの首長シャクシャインが各地で交易船を襲い、松前城を攻めた反植民地戦争である。
江戸時代の末期、帝政ロシアの南下政策によって北方事情が緊迫すると、幕府はしばしば探検家を北海道の奥地に派遣した。彼らの報告書には、未開の種族としてのアイヌの生態がかなり正確に描かれていた。なかでも最上徳内の『渡島筆記』や村上島之丞の『蝦夷生計図説』は、後世のアイヌ研究家にとって格好の手引書となった。
アイヌが学問の対象として論じられるようになったのは、明治に入ってからのことである。前述した宣教師ジョン・バチェラーや東京帝国大学教授チェンバレンが先鞭をつけ、永田方正、神保小虎らの日本人研究者がこれに追随した。金田一京助がその大成者だったことはいうまでもない。
明治37年(1904)の秋、東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)に入学して言語学を専攻した金田一京助は、最初に金澤庄三郎からアイヌ語を学んだ。金澤は上田萬年の高弟で、前年から言語学科の講師をつとめていた。専門は朝鮮語だったが、週に1時間だけアイヌ語の講座をもっていた。
文科大学の博言学科(のちの言語学科)にアイヌ語の講座が設けられたのは明治28年(1895)のことである。当初はドイツ留学から帰国したばかりの理科大学(現在の理学部)助教授、神保小虎が上田萬年に頼まれて講座を担当した。
神保は北海道庁の技師として道内の地質調査をおこなっているうちにアイヌに興味を抱き、地質調査そっちのけでアイヌ語を習得した。そして明治31年(1898)に教え子の金澤庄三郎とともに『アイヌ語会話字典』を編んで金港堂から刊行した。
その序文で神保は「あいぬ人種ハ其消滅ノ期遠ラズシテ本邦人ノあいぬ語研究ハ尚ホ未ダ盛ナラズ僅ニ文科大学ノ随意科トシテ存スルモ決シテ充分ナル勢力アルニ非ズ」と述べ、「あいぬノ中ニ於テ実地ノ研究ヲ為ス者」の出現を切望している。前述したバチェラーの『アイヌ英和辞典』とともに、この字典もまた京助のアイヌ語研究への意欲を掻き立てたに違いない。
こうしてアイヌ語への傾倒を強めていくうちに、京助は盛岡高等小学校時代の体操教師、大坊直治がアイヌ語の研究をしていたことを思い出した。大坊に手紙を出して「北海道でアイヌ語の調査をしたいと思うが、どこへ行けばいいでしょうか」と教えを乞うと、すぐに返事が来た。「有珠と虻田、沙流と勇払が東西の中心地だから、まずはそこを目指すのがいいだろう」。その返書には大坊秘蔵の『アイヌ語集』が同封されていた。
明治39年(1906)7月、暑中休暇で盛岡に帰省した京助は、家族との挨拶もそこそこに、本家の伯父、勝定を訪ねた。勝定はふんどし一丁で和算の難問に取り組んでいた。京助が「ただいま」と声をかけると、勝定は「おう、お前か」といったきり、また算術に没頭した。小一時間ほどたって、ようやく和綴じの本から眼を上げると「この問題にはもうひとつの解があるはずなんだが、この本はそれを見落としている。お前もやってみろ」といった。
そこで京助もいわれるままにやってみたが、彼の数学の力では伯父の指摘を裏付けるところまではいかなかった。勝定は漢学と和算の才に恵まれながら、家業を継ぐために途中で断念せざるをえなかったことに悔しい思いを抱いていた。そのために京助の学者としての未来に自分の夢をかけているようなところがあった。
京助がおそるおそる「北海道へ行ってアイヌ語の調査をしてみたいのですが」と切り出すと、勝定は「そうか。これからの学問は本だけでするものではあるまい。それもなるほどよい学問だ」と賛成し、その場ですぐに旅費として70円(現在の約35万円)を出してくれた。京助はのちにこの伯父を「私のアイヌ語学の産婆」と呼んで感謝している。
旅費ができたので、京助はすぐ出発した。父の久米之助と母のヤスが、初めて北海道に渡る息子の身を案じて、北海道に住む親類縁者を探してくれた。室蘭には父方の遠縁にあたる上野家があり、二高で同窓だった故栗林三作の生家もあった。そこで栗林の墓参もかねて最初に室蘭をめざすことにし、青森から室蘭行きの連絡船に乗った。
上野家では、当時売り出されたばかりのサイダーをふるまわれた。サイダーで酔うはずはないのだが、京助はシャンパンだと思って飲んだせいか、すっかり酔っぱらってしまい、上野家の人々のにぎやかな笑いを買った。京助はもともと酒は飲めない口だった。
栗林三作の生家では、三作の兄の五朔から手厚いもてなしを受けた。五朔は若いころに新潟県から無一文で北海道に渡り、農業、牧畜、海運業などを手がけて成功し、当時すでに「室蘭の海運王」と呼ばれていた。その後、北海道議会議長をへて衆議院議員にもなった立志伝中の人物である。
五朔は京助のために意外な先客を招いていた。室蘭に近い絵鞆コタン(アイヌの村)の首長オビシテクル(日本名帯九郎)である。
オビシテクルは開口一番「アイヌのモトホ(起源)はホンカイサマ(判官様)です」といった。ホンカイサマとは源義経のこと。奥州衣川の戦に敗れた義経が北海道に渡ってアイヌの王になったという伝説がある。これはどうやら奥州出身の京助を喜ばせようとするリップサービスだったらしいが、すでにアイヌ語の科学的研究を志していた京助に、そんな荒唐無稽な話が通用するはずもなかった。
京助はさっそく「アイヌ語で動詞『打つ』は何というのか」と質問したが、オビシテクルは「いろいろある」というだけで要領をえない。そこで京助が「キクというのではないか」と促すと、「キクにもいろいろある。俺が打って俺がいうときはクキクだが、旦那がそれをいうときはエキクになる。旦那が打って旦那がいえばクキクだが、それを俺がいえばエキクになる」と答えた。こうして京助は、同じ動詞でも人称によって語頭が変化することを知った。
翌朝、栗林家を辞した京助は、栗林海運の「いろは丸」に便乗して有珠へ行き、五朔に紹介されたエムサンクル(菊田千太郎)の家を訪ねた。動詞の変化を知るために「熊が馬を殺した」と「馬が熊に殺された」の表現の違いを問うと、エムサンクルは「それは同じことだから言い方も同じだ」と答えた。つぎに「見る」という動詞について尋ねると、「見るにもいろいろある。誰が見るのだ」と、昨夜のオビシテクルと同じことをいった。誰がそれを見るかによって言い方も変わるというのである。
翌日は大坊直治の教示にしたがって有珠から虻田へ向かった。虻田ではアイヌには会えなかったが、その代わり『成吉思汗は義経なり』の著者、小谷全一郎に会って話を聞いた。高木彬光の伝奇ミステリー『成吉思汗の秘密』の資料提供者として知られる人物である。
その後いったん室蘭まで引き返し、今度は胆振の海岸沿いに日高をめざすことにした。途中でいくつかのコタンに立ち寄ったあと、幌別でカンナリキ(金成喜蔵)に会った。カンナリキは土地の有力者で、ジョン・バチェラーにアイヌ語を教え、経済的にも支援した。のちに京助と深いきずなで結ばれる知里幸恵、真志保姉弟の母ナミ(旧姓金成ナミ)の伯父にあたる。幸恵はこの年3歳で、幌別の隣の登別村にいた。彼女が上京して金田一家に寄寓するのは、それから16年後のことである。
バチェラーのアイヌ語辞典では「ku」は「私」を、「e」は「お前」を意味することになっていた。京助がまずそのことを話題にすると、カンナリキは「パチラさんはアイヌよりアイヌ語にくわしい人だが、それだけは違う」と否定した。そして「私」は「kuani(クアニ)」、「お前」は「eani(エアニ)」だと何度も発音してみせた。
それを聞きながら京助は、アイヌ語の動詞の頭につくku、chi、a、eは代名詞ではなく動詞の一部なのだということに気がついた。このような人称による動詞の語形変化は、中国、日本、朝鮮、蒙古のいずれの言語にも見られない特徴である。それは、ことば探偵金田一京助がアイヌ語という事件の現場で最初に発見した有力な手がかりだった。
京助はその後、白老、苫小牧、鵡川を訪ねた。白老では首長サレキテに会い、鵡川では長老エンカトムを訪ねた。エンカトムは、アイヌ語の動詞はすべて人称によって変化するのかという京助の問いに頷いたあとで、こんなことをいった。
「アイヌ語には、ふだん話すことばのほかに、昔のことばで謡うユーカラというものがある。ひとことでいえば古い時代の戦争の物語だ。とっておきのことばを使うので、アイヌでも心得のない若い者にはわからない。ユーカラを調べなければ、アイヌ語を研究したことにはならないのではないか」
ユーカラということば自体は、前にもどこかで耳にしたことがあったが、それがアイヌの「とっておきのことば」、つまり雅語で謡われる物語であることまでは知らなかった。興味を惹かれた京助は「それをぜひ聞かせてください」と頼んでみたが、エンカトムは首を振った。どうやら自分では謡えなかったらしい。
そこで京助は、つぎに立ち寄った沙留太で、サンゲレキら七人のアイヌからユーカラのさわりの部分を聞かせてもらった。しかし、彼らは年齢が若いせいか、ことばの正確な意味までは知らないようだった。そのために京助は満たされない思いを抱いたまま沙流川を遡って平取に入った。
それまでの旅では、半日歩き回ってもアイヌに会うことは稀だったが、ここはさすがにアイヌの都だった。集落のなかに日本人の家は1軒だけで、あとはすべてアイヌの住まいという本物のコタンだった。
京助は小さな木賃宿に旅装を解くと、宿の主人に頼んでユーカラを知っていそうな土地の古老を呼んでもらった。するとまもなく平村カネカトクという老人がやってきた。京助が「ユーカラを聞かせてほしい」と頼むと、カネカトクはこういった。
「よろしい、お聞かせしましょう。ただし、旦那のこっちの耳から入ってあっちの耳に抜けてしまったのでは何にもならない。帳面にでも書き留めておいたらどうだね」
それは願ってもないことだった。京助はさっそくノートと鉛筆を用意した。するとカネカトクは軽く眼をつむり、囲炉裏の縁を手で叩きながら謡いはじめた。
イレシュシャポー
イレシュパヒネー
ランマカネー
カコロカネー
オカアニケー
カネカトクの語りは続いた。京助はそれをローマ字で書き取った。意味はまったくわからなかったが、これは散文ではなく叙事詩だと直感した。文字を持たないアイヌは、長い戦争の物語を叙事詩として代々口伝えに語り継いできたのだ。つまりユーカラは古代ギリシアの「イリアス」「オデュッセイア」にも比すべき民族の叙事詩なのだ。それに気づいたとき、京助の旅の疲れは吹き飛んだ。
カネカトクの語りは、深夜を過ぎたころにようやく終わった。京助が硬くなった指をほぐしていると、老人は今度は詩のことばの意味を、たどたどしい日本語で語りはじめた。その語りは断片的で、長い物語のどの部分に対応するのかよくわからず、ストーリー自体にもあちこち矛盾があるように感じられた。 もっとも、死んだはずの人物があとで生き返ったりするのは「イリアス」「オデュッセイア」にもよくあることで、別に不思議な話ではなかった。
こうして大きなお土産を手に入れた京助は、翌日は日高地方から胆振方面へ至る峠を越えて似湾へ行き、この地の長老トノンカミからもユーカラの一節を聞き取った。
似湾から早来へ抜ける山道は、大虎杖の群生地だった。自分の背よりも高い虎杖の群落を両手で掻き分けながら進んで行くと、前方に頬被りをして大きな鎌を持った髭もじゃの男たちが立っていた。彼らは眼光するどく京助を睨みつけた。
京助は思わず「イランカラプテ!」と叫んでいた。「こんにちは」を意味する丁寧な挨拶ことばである。すると先頭の髭もじゃ男が頬被りの手拭いを取って「イランカラプテ」と答え、爪先立ちして狭い道を開けてくれた。京助が「イランカラプテ」を繰り返しながら十人ほどの男たちの行列を抜けて行くと、彼らは全員が手拭いを取って口々に「イランカラプテ」と挨拶を返した。
このとき京助は「イランカラプテ」は単純な挨拶ことばだと思っていたが、あとで聞いてみると、これは久しく会わなかった者同士が「やあ、生きていたか」と涙を流さんばかりに感情をこめて発することばだった。
アイヌにはもともと日本語の「おはよう」や「こんにちは」に相当する軽い挨拶ことばはなかった。狭い社会でお互いによく見知った仲間だったので、道で出会ったときも眼を見交わすだけで無言のまますれ違っていた。明治以後、北海道に入植した和人と付き合うようになってから、朝でも夜でも「イランカラプテ」と挨拶するようになったのだという。
京助は早来でひとまず調査行を終えて室蘭に帰着した。栗林五朔を訪ねて、各地で事前に便宜をはかってもらったお礼を述べると、五朔は「もう帰るのですか」と名残を惜しみ、「北海道へ来て札幌を見ずに帰るという法はない。ぜひ札幌、小樽、函館を回ってみてください」といった。京助は五朔のことばに従うことにした。
その途中、札幌のジョン・バチェラー邸の前で、旧知の札幌農学校(現在の北海道大学)の学生とめぐり合った。信州出身のこの学生とは平取の宿で出会い、翌日一緒にコタンを訪れ、鵡川まで同行した。京助が盛岡の出身だと知っていた彼は、その夜、京助を学長の佐藤昌介に引き合わせた。
佐藤は南部の藩校「作人館」で金田一勝定と机を並べたあと北海道に渡り、札幌農学校でクラーク博士の教えを受けた農政学者である。京助の来訪を喜んだ佐藤は、盛岡弁でしきりに往時を懐かしがり、「伯父さんによろしく伝えてくれ」と繰り返した。
長万部では司馬リキンテに会った。ここでもまた、オビシテクル(帯九郎)、エムサンクル(菊田千太郎)、カンナリキ(金成喜蔵)のときと同じく動詞と人称代名詞に関する問答を繰り返し、「アイヌ語の動詞は人称によって変化する」という発見を最終的に確認した。
この夏の実地調査は、初回としては十分に満足すべきものだった。京助はのちに『アイヌ部落採訪談』のなかで、長万部から函館へ向かう車中での感慨をこんなふうに回想している。
《東京をたつ時、疑問にしてもって来た問題が、汽車の車の回転するように頭をめぐって、それが一々巻き葉のほぐれるようにほぐれてくるのに、胸がおどるような興奮を覚えて、函館へ来るまでついに一睡もできなかった。
つまりは、アイヌ語の動詞は、人称別の動詞だった。いわゆる代名詞のうちの短い形のほうは、たゞ接辞で、人称形式であったのだ。そしてすべての人称に通じるごとく思われていた裸形は、あれは不定称にすぎなかった。それと同時に、第三人称は、何も人称辞をとらないので、この裸形がすなわち第三人称動詞として用を足すのだった。そういう例は、ウラル・アルタイ語には例があることだった。(中略)命令形もまた、主語なしにいえる例であるから、アイヌ語で、裸形がまたそのまゝ命令形に用いられたとて、これも不自然ではない。
こう考え定めることによって、一瀉千里に、いろいろな問題が釈然としてみな解けてきた》
専門用語が多くてわかりにくいが、要するにアイヌ語の動詞は人称によって変化し、その頭につくkuやeといった代名詞のようなものは、実は人称を表す接頭辞だった。また、すべての人称に通じる動詞の裸形(原形)は不定称で、そのまま第三人称の動詞として通用する。このような例はウラル・アルタイ語にもあるというのである。
いずれにしろ、これでアイヌ語は日本語とは別の系統に属する言語であることがはっきりした。もともと京助のアイヌ語調査は、諸国の言語を調べて日本語の系統を明らかにしようという文科大学の大方針に沿うものだったのだが、このときから日本語系統論とは別の、独自の言語学への道を踏み出すことになったのである。