第二十二章 新しい日本語
アイヌ語の研究者、国語辞典の監修者と並ぶ金田一京助の第三の顔は、国語国字の改革者としての顔である。私たちがいま読んだり書いたりしている日本語の表記法がその影響下に成立したことを思えば、この第三の顔こそ彼の正面の顔だといえるかもしれない。
『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』で帝国学士院恩賜賞を受賞した昭和7年(1932)の3月、京助は新著『国語音韻論』を刊行した。これは「民族生活に生きて語られた言葉そのまゝの姿」を記録すべく藤岡勝二、新村出らによって企画された方言研究叢書の一冊で、そこには柳田国男の『蝸牛考』や、方言研究の大家、東条操の『南島方言資料』といった名著も含まれていた。
企画者側が京助に期待したのは、アイヌ語研究で培ったノウハウを日本の方言研究者に伝授してほしいということだったはずだが、この本はそれ以上に踏み込んだ内容になっていた。国語学会編『国語学大辞典』は同書を次のように評価している。
《音韻変化や音韻法則などについて、本書は諸方言の例を適切に駆使して著者独自の組織を立てながら、しかも熟達した文章で平易に解説したため、特に方言学者に研究指針を与え、音韻変化の実態を教えることに成功し、後学に大きな影響を与えた》(平山輝男)
一方、東京帝国大学言語学科で京助の後輩にあたる小林英夫は、同書の書評のなかで《自己の信念とよく調和した学説の上に立ち、長年の鋭敏なる観察によってのみ獲ることの出来る無数の例を自在にこなし、それを平明に叙述し得るものは、氏を除いて他に求めることは困難である》と前置きして、《氏の性格を知るものは、本書の談話的なる文章の中に、本書の論述行程の中に、それの如実の顕現を見出すであろう。氏は情熱の詩人である。冷静なる学究ではない》と評した。
『金田一京助と日本語の近代』(平凡社新書、2008年)の著者、安田敏朗がいうように、これは「褒めているのかけなしているのか、よくわからない文章」である。少なくとも「情熱の詩人」が褒めことばでないことだけは間違いなさそうだ。フェルディナン・ド・ソシュールの言語学を初めて日本に紹介した「冷静なる学究」である小林にとって、京助の「談話的なる文章」はどうやら気に入らなかったようである。
それはともかく、京助は同書の第一章「緒論」で、言語を「体としての言語(国語)」と「用としての言語(言語活動)」の二つに区分し、《体としての言語の研究は、用としての言語の観察に由るべく、又それが唯一、当然の方法である》と説いた。この区分は《西洋碩学の説を無視しはしないが、飽く迄日本人として、東洋流の考へ方と、国語の述語で、敢て独自の見を立てた》ものだと自解しているが、実はソシュールのラング(langue)とパロール(parole)の区分に似ているという指摘があり、京助も第二版ではそれを半ば認めるような註を付した。
京助があえて「東洋流の考へ方」を強調した背景には、大日本帝国による大東亜新秩序の建設という当時の国策があった。日本語を大東亜共栄圏の「共通語」とするためには、それを整理し統一する必要があった。京助はいわばその国策推進者の一人だったのである。
昭和17年(1942)5月、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)で開かれた日本諸学振興委員会主催の国語国文学特別学会で、京助は「大東亜新秩序の建設と国語学」と題する講演をおこなった。諸学振興委員会とは、昭和11年(1936)に文部省に設置された、哲学、国語国文学、歴史学から法学、自然科学にいたる諸学の総動員体制をめざす官製組織である。
そこで、京助はまずこんな風に切り出した。
《西洋の文化、西洋の科学から、吾々は色々なことを学んだ。(中略)唯新たに入り来る大きな文化に対しては、嘗て奈良朝の昔に一度経験したやうに、現代も亦、心酔したり、目がくれたり、動もすれば、己れのものを忘れて前へ行過た嫌ひがあり、(中略)知らず識らず其の弊に陥つて居ることがある。今こそ澎湃たる時世の大浪の音に我れに返つて、自己精算をせずにゐては、申訳がない》
要は行きすぎた西洋崇拝を反省して日本のよさを見直そうということなのだが、その行きすぎの例のひとつとして、京助は音韻の問題を取り上げる。
《吾々の日本語には「音響」と云ふ言葉の他に「音声」と云ふ言葉があり、「音声」と云ふ言葉の他に更に「音韻」と云ふ言葉があつて、三段に言葉がある。(中略)英語だつたらいつもSoundで間に合はして居り、ドイツ語だつたらLaut、フランス語だつたらSonひとつで通してゐる。「言語といふもの」と「言語といふこと」の差別がはっきりせず、「言語といふこと」の方のみを見て、「言語といふもの」の方を見落とし、つひ言語を単にサウンドと云ふことを以て定義してゐた。(中略)吾々が若しそれを真似して、言語を定義するに「音声」だけでやるとしたら、「猿真似」になつてしまふであらう》
これはどうやらソシュール言語学に対する批判らしい。言語を「音声」だけで定義するのは不十分で、「音韻」を考慮しなければならない。なぜなら、言語というものは音韻(音声観念)を形式とし、意義(事物観念)を内容として成り立つものだからだ。音韻という概念はこれまで西洋にはなかったが、ソシュールはPhonemeという言葉を持ってきてそれにあてた。われわれが昔から持っていたものを忘れて西洋の足跡ばかり追いかけていたことが恥ずかしくなる。
《一体日本語は、古往今来、やつて来るあらゆる先進国の文化と言語を、どしどし摂取消化して来た。が、言語をば、常に何でもたゞ名詞並みに取込んで語彙を豊富にするが、その為に文法は少しも影響されない。此は儒教や仏教やその外の教へを取入れても、国本の養ひに摂取するだけで、建国以来の根本精神、固有の皇室中心の思想には依然として微動だもないのと同じことである》
先進文化をいくら取り込んでも日本語の文法が揺るがなかったのは、建国以来の根本精神、つまり皇室中心の思想が微動だにしなかったのと同じことだというのだから、京助の皇室崇拝もまた一貫して揺るぎのないものだったといわねばならない。
ここまで京助の音韻論を詳しく見てきたのは、他でもない。それがいま私たちの使っている現代かなづかいの基礎になっているからである。
昭和16年(1941)に日本語教育振興会の雑誌『日本語』に発表した「文字と言語」のなかで、京助は「文字は言語表出(言語といふこと)をそのまま書き記すのではなく、それを言語体系(言語といふもの)に還元した上で、その音韻を表記するものである」と前置きして、その方法を次の3つに分類して見せた。
第1は言語大系の個々の語彙を書きつける方法で、漢文がこれにあたる。この方法は語彙の数だけ文字が必要になるので学習が困難である。
第2は言語形式の音韻をそのまま書き下ろしていく方法で、、かな文字表記がこれにあたる。これは誰にでも読みやすい反面、文章が長くなって読むのに時間がかかる。
第3は第1、第2の長所を取って欠点を補う漢字かな交じりの方法である。適度に漢字を使うことによって早く読める上に、ルビを付けることによって難読の弊を避けることもできる。
日本はすでに仮名の発明によって、第1の段階から第2の段階へ、さらに第3の段階へと自然な発展を遂げてきた。文字によって言語を書き記す方法としては、この漢字かな交じり方式が最も理想的な表記法である。
京助のこの漢字かな交じり論が明治以来の漢字全廃論やローマ字採用論を抑えて日本語教育振興会の基本路線となり、ひいては戦後の現代かなづかい論の基調となったことはいうまでもない。
これより少し前、昭和16年(1941)3月に九段の軍人会館で開かれた国語協会主催の「時局と国語問題講演会」で、京助は「国語国字問題について」と題して講演した。国語協会は戦前戦後を通じて国語改良運動を主導した官製の組織で、京助もその一員だった。
そこで京助は、従来から対立してきた仮名遣い改訂反対論者、つまり歴史的仮名遣い擁護論者を「無窮に変遷する言語の仮名遣いを、未来永劫、不変に置くべしといふ理論は、どこからも出て来ようが無い」と一蹴したあと、こういう論理を展開した。
長らく行われてきた歴史的(古典的)仮名遣いを改めるのは容易ではない。しかし、中国や「南洋」で日本語を教えるためには、思い切って表音式仮名遣いで統一したほうがよい。内地の小学初年生にも同じ教え方をし、古典的仮名遣いは興味のある者に徐々に教えていけばいい。いまは国語国字改革の絶好の機会なのだから、この機を逸してはならない。
《むしろこの際、小さくなった旧日本の童衣をかなぐり捨てゝ、新日本の新仮名遣の国民服を着せて大陸へ送り出してやるのである。内地も亦これに応じて、内地に相応した新時代の服装をする。時まさに新体制下、万事が面目を一新する時なのである。千載の好機、正に半世紀に余る年来の宿題を解決すべき時ではなかろうか。機会は逸したら再び来難い。国民と政府と挙って、思い切ってこの際にこそ断行すべきではあるまいか》
革新派陸軍将校のアジ演説を思わせるこの語り口には、当時の京助の精神的な高揚感と使命感が如実にあらわれている。愛国の言語学者金田一京助は、いま戦争という「千載の好機」に遭遇して、「世界に冠たる国語の確立」という恩師上田萬年以来半世紀の「宿題」を果たそうとしていたのである。
ちなみに、国語協会の機関誌に掲載されたこの講演要旨は「捨てゝ」以外はすべて現代かなづかいになっているが、京助の自著『国語研究』では歴史的かなづかいになっている。つまり京助は従来の歴史的かなづかいで演説草稿を書いたのだが、国語協会の編集者はそれをいちはやく現代かなづかいに改めて掲載したのである。
戦局の進展につれて、京助の論調はますます激しくなっていく。昭和17年(1942)4月の講演「大東亜建設と国語問題」では、「武力戦は一億一心の体あたりで完勝成らむとして居るが、次いで来るものは文化戦である。文化戦の一等先に立つものは、どうしても言葉である。これを思ふと、我々の国語は、これからの戦の、飛行機とも戦車とも爆弾とも魚雷ともなる武器である」として、ここでもまた漢字かな交じり表記法の強みを強調する。
《何が日本をして斯様な強大を致さしめたか、今後、世界の人々が日本を見直し、研究をし出す時、世界に独得なこの書記法なども、新しくその効果、その長所が考へられて来ないものでもないであらう》
日本を世界の強国にしたのは漢字かな交じりの書記法だったというのだから、すごい。この時期の京助はまさに「情熱の詩人」だった。この詩人はさらにこう語る。
《勿論我々は、大東亜戦の一挙に米英を抑へたからとて、すぐ有頂天になつて、何でも日本のしてゐることが世界一だと自惚れてはならない。けれども又、米英と異る点を、異るが故に卑下することは無い。この国柄のいみじさ、かしこさ、皇室中心・忠孝一如の家族主義の尊さ、日本の母のよさ、婦道のよさ、それと共に、深い陰影をたゝんだ奥床しい国語の、そのまた表記法の独特のうまさは、見直してよい美点であり、長所であつて、断じて気の引けるものではなかったのである》
この日本語礼讃論は、私たち現代人にはいささか「気の引ける」ところがあるが、京助はあくまで本気だった。そして日本語のよさの極めつけは敬称にあると考えていた。
《我々は正に、個人主義、平等主義の、どこ迄も“I”“you”で通して行く英語・オランダ語に代るに、親称きみ・ぼく、愛称おまへ・おれ、敬称あなた・わたくし、と深く陰影をたゝんだ、長幼序なり、男女別ある家族主義のこの暖かい国語を以て、八紘為宇の手をさしのべてやるのである》
ところが、戦後の昭和27年(1952)4月、国語審議会が「これからの敬語」を建議したとき、敬語部会長として取りまとめにあたった京助は、自称・他称を「わたし」「あなた」で統一しようと提案している。
《「わたし」「あなた」でもって、ちょうど英語の“I”“you”のように行ったら、民主主義の代名詞がはっきり成立するのではあるまいか》
かつては相手かまわず“I”と“you”だけで通していく英語やオランダ語の単純さをけなしたくせに、今度は一転して「わたし」「あなた」が民主主義的でいいというのだから、これは明らかに思想的転向だといわざるをえない。「長幼序なり、男女別ある家族主義」を称揚したあの国語学者は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
敗戦翌年の昭和21年(1946)11月16日、国語審議会の答申に基づいて「当用漢字表」と「現代かなづかい」が、内閣総理大臣吉田茂の名で公示された。この2つはのちに何度か改訂されはするものの、私たちがいま読んだり書いたりしている日本語表記の事実上の基準となっている。
こうした国語国字改革を、財閥解体や農地解放と同じGHQ(連合国軍総司令部)による日本改造計画の一環だと思っている人が多いようだが、実は明治以来持ち越されてきた国語改良運動のひとつの帰結だった。
国語審議会のこの答申は、基本的には昭和10年(1935)に文部省から下された「国語の統制に関する件」「漢字の調査に関する件」「仮名遣の改定に関する件」「文体の改善に関する件」という諮問に答えたものである。したがってGHQとは直接関係がない。ただし、この年の3月に来日したアメリカの教育使節団が日本語のローマ字化を提案しているから、その後の審議にまったく影響がなかったとはいえないかもしれない。
漢字制限の問題は明治35年(1902)に設置された文部省の国語調査委員会以来の懸案事項で、それまでにもさまざまな案が示されてきた。昭和17年(1942)に国語審議会の答申によって「標準漢字表」がつくられ、常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字、計2525字が制定されたが、右翼の頭山満が反対の建白書を提出するなどの騒ぎもあって、実際にはほとんど守られなかった。
昭和20年(1945)11月に開かれた戦後第1回(通算8回目)の国語審議会は、この「標準漢字表」の再検討から手をつけ、前後12回にわたる審議を通じて1850字の「当用漢字表」と「現代かなづかい」の策定にこぎ着けた。ちなみに新しい仮名遣いを「現代かなづかい」と名づけたのは、第9回会議における京助の提案によるものだとされている。
「当用漢字表」と「現代かなづかい」の公布は、強制力こそ伴わないものの、法令や公用文をはじめ、新聞、雑誌、教科書など、あらゆる日本語の表記のあり方を規制することになった。
たとえば、この漢字表には「偵」の字が含まれていなかったので、探偵小説の関係者は頭をかかえることになった。新聞雑誌は当初「探てい小説」と交ぜ書きにしていたが、これではいかにも見ばえが悪い。そこで「探偵小説」とルビを振ることにしたが、当用漢字はそもそも難読漢字を減らすために制定されたものだから、それにルビをつけるのはおかしいという人もいて、なかなか定着しなかった。
そんな折、雄鶏社から「推理小説叢書」全15巻の刊行が開始された。推理小説ということばは戦前からあったが、それが刊本の表題として採用されたのは、これが初めてである。
監修者の木々高太郎は、その序文で《推理と思索を基調とした小説という意味で、探偵小説をもそれに含ませることにしたい》と書いた。つまり、「推理小説」は戦前の探偵小説よりもはるかに広い概念だったわけで、現にこの叢書には江戸川乱歩、大下宇陀児、木々高太郎、海野十三、小栗虫太郎と並んで、芥川龍之介、森鴎外、小島政二郎の作品が収録されていた。
これに対して江戸川乱歩は、本来の探偵小説、つまり本格物だけを推理小説と呼ぶべきだと主張し、自分では従来どおり探偵小説という名を使いつづけた。
しかし、この名称論議には、案外あっけなく片がついた。「探てい小説」に困っていた新聞や雑誌が見た目に座りのいい「推理小説」のほうを採用したので、いつしかそれが戦後ミステリーの名称として流通するようになったのである。
こうして当用漢字のほうは割合スムーズに国民に受け入れられたが、現代かなづかいには異論や反論が相次いだ。国語審議会の答申では「このかなづかいは、大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したもの」であり、「原文のかなづかいによる必要のあるもの」つまり古文の引用などには準用されないことになっていたが、その「現代語音」の何たるかについては明確な指針が示されなかったからである。
これに対して京助は、現代かなづかい擁護の論陣を張りつづけた。たとえば歴史学者津田左右吉の「いはゆる新かなづかひに対する疑ひ」に対しては、「現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす」という原則は、ことばを発音通りに表記するという意味ではないと断わった上で、こう反論した。
《発音とか音声とかいう時は、耳にひびく音であるが、音韻という時は、耳へひびく音のことではなく、耳にひびく音声の表象、しかもそれを整理して頭にもっている音声理念のことである。語音と言ったのもその含みである。仮名遣いは、この音声理念を書くものであって、耳にひびく発音どおりに書くものではないのである》
その証拠に、新しいかなづかいでは、主語や目的語を表す助詞は「は」「へ」「を」で表記し、オ列長音「コー」「ソー」「トー」などは、発音とは違う「う」で表記している。それは最初から承知のことだから、表記法が一貫しないという非難はまったく当たらない、というのである。
京助はその後も、現代かなづかいは表音式ではなく、「現代語音」にもとづく音韻体系を文字化したものだという主張を繰り返すのだが、この理論はもともと致命的な欠陥をかかえていた。たとえば「通り」の表記は「とおり」と「とうり」のどちらが正しいのか、音韻論では説明がつかない。歴史的かなづかいでは「とほり」だったから「とおり」が正しいということになっているようだが、ここで歴史的かなづかいを持ち出したりするのは本末転倒もいいところだろう。
その点をするどく突いたのが劇作家で文芸評論家の福田恆存である。福田は昭和30年(1955)に『知性』10月号に発表した「国語改良論に再考をうながす」で、国語審議会の議論の密室性を指摘し、「たゞちに歴史的かなづかひに戻れとは申しません。現行のまゝでいゝから、議論は十分に明るみでしてもらいたい」などと批判した。これに対して京助は同誌12月号に「かなづかい問題について」を書いて反論し、世にいう「現代かなづかい論争」が始まった。
福田が長男春彦の旧制浦和高校時代の同級生だったことを知った京助は、途中からにわかに威丈高になり、『中央公論』に場所を移して「福田恆存氏のかなづかい論を笑う」を書き、福田も負けずに「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」と応戦した。
《「現代かなづかひ」は表音式ではない、「現代語音にもとづく」だけだと、金田一さんはいふのです。が、私には、現代語音にもとづいて、表音式にならずにすませるための原則がわからないのです。それを示してくれない以上、「現代かなづかひ」は「表音式かなづかひ」論に、さらに「ローマ字」論にかなはないと思ひます》
福田のこの痛切な問いかけは、ついに答えられないまま現代まで持ち越されている。