第十三章 アイヌのホメロス

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 明治から大正へと元号が変わった1912年は、京助にとって人生最悪の年だった。1月7日に長女郁子が急性肺炎で亡くなり、その10日後には尊敬する盛岡中学の先輩、原抱琴(本名・達)が亡くなった。

 抱琴は平民宰相原敬の甥。盛岡中学始まって以来の秀才といわれ、一高時代には正岡子規門下の俳人として鳴らしたが、在学中から胸を患っていた。京助が中学で同級だった野村長一(胡堂)らと築地本願寺で開いた追悼会には、当時内相だった原敬も顔を見せて挨拶した。

 4月13日には盟友、啄木が昇天。その葬儀を終えた日に盛岡から「チチキトク」の電報が届いた。京助は急ぎ帰郷して父、久米之助を東京巣鴨の精神病院に入れた。7月に明治天皇が崩御して大正と改元された。

 9月26日、久米之助が急死した。病院で暴れたところを職員に取り押さえられて圧死したらしい。京助は親不孝を重ねたという自責の念から一時はアイヌ語研究を諦めようと決意した。

 そしてこの月、三省堂が倒産して京助は職を失った。校正係として編集に携わった『日本百科大辞典』の販売不振が原因だった。災厄つづきの京助にとって、それはまさしく泣きっ面に蜂の一撃だった。

 しかし、「禍福はあざなえる縄の如し」とはよくいったもので、失職して家でブラブラしていたことが彼に思わね幸運をもたらした。

 この年10月、拓殖局総裁元田もとだはじめの発案による拓殖博覧会が上野公園で開かれた。樺太、ギリアーク、オロッコ、アイヌなどの少数民族を一カ所に集めて、その住まいや生活ぶりを国民に見せようという、日本政府の植民地政策を地で行く博覧会である。

 この博覧会に樺太アイヌが参加すると聞いて、京助は雀躍した。5年前にオチョポッカ村で筆録したハウキ(北海道のユーカラにあたる)には分からないところがたくさんあった。いまでは使われなくなった古語が多用されているため、バチェラーのアイヌ語辞典は役に立たなかった。かといって、もう一度樺太に出かけるだけの余裕はない。それが向こうから来てくれるというのだから、これは願ってもないチャンスだった。

 妻、静江の姉のカオルが京助に博覧会通いをすすめてくれた。「暮らしのことはこちらで何とかしますから、あなたはこの機会にしっかり勉強してらっしゃい」

 結婚式用につくった京助の紋付と仙台平の袴、静江の裾模様の着物はとっくに質に入っていたが、カオルのことばに後押しされて、京助はさっそく上野公園へ向かった。

 日本の人類学の草分けとして知られる東大教授の坪井正五郎が、博覧会の監修をしていた。京助はその坪井から『諸人種の言語の比較対照語彙ならびに会話篇』という小冊子の制作を委嘱された。題名は厳めしいが、要するに「ありがとう」「こんにちは」といった簡単なことばを集めた会話の手引書である。そのために門鑑(通行証)を下付された京助は、いつでも自由に会場に出入りし、少数民族と面談することができた。

 夕方5時に会場の門が閉まったあと、京助が樺太アイヌの展示小屋を訪ねると、彼らはみんな退屈していた。だから、京助が持参のノートを開いてハウキを読み上げると、樺太アイヌだけでなく北海道アイヌも集まってきた。彼らは口々に「地元でも暗誦できる者が少なくなったというのに、東京にこんなにハウキに詳しい人がいたとは驚いた」といって感心し、なかにはアイヌ衣裳の袖で涙をぬぐう者もいた。

 京助が一節ごとに読み上げたあと、「このことばはどういう意味?」と問うと、彼らは喜んで、まるで競うように説明してくれた。当時のアイヌは誰でも普通に日本語を話せるようになっていたが、語彙は十分とはいえず、アイヌ語に対応する適当な日本語が見つからなくて苦労することも多かった。そういうときにはお互いに身振り手振りのボディ・ランゲージによって、なんとか訳語にたどりつくことができた。

 こうした日々を積み重ねた結果、会期が終わるころには、樺太で筆録した3000行のハウキの日本語訳が完成した。京助はそれを清書して、東京帝国大学文科大学長の上田萬年、民俗学の柳田国男、京都帝国大学教授の新村出らに見せた。

 上田はかねてから提唱してきた日本人によるアイヌ語研究がようやく緒に就いたことを喜び、新村は「舟出の叙述の条などは海洋文学として万葉集以上のもの」と評して京助をいたく感激させた。

 特に喜んでくれたのは柳田国男だった。5年ほど前に農商務省の役人として樺太を視察して以来、アイヌの民俗に並々ならぬ関心を寄せていた柳田は、この翻訳を本にするためにわざわざ「甲寅こういん叢書」という叢書を企画し、大正3年(1914)3月に、第1編『北蝦夷古謡遺篇』と題して出版した。これが京助のアイヌ語学者としての出世作となった。

 柳田国男は明治8年(1875)兵庫県の生まれで、京助より7つ年上である。一高時代に田山花袋、島崎藤村、国木田独歩らと親交を結び、西欧文学通の新体詩人として鳴らした。東京帝大の法科を卒業して農商務省に入り、法制局参事官、内閣書記官、貴族院書記官長などを歴任した。

 早くから民間伝承に関心を抱き、役人生活のかたわら日本各地を行脚した。明治42年(1909)に日本民俗学のはじまりとされる『後狩詞記のちのかりことばのき』を出版。以後、『石神問答』『遠野物語』『山島民譚集』などを著して「柳田民俗学」と呼ばれる学風を確立した。

 京助は『私の歩いて来た道』のなかで、大正2年(1913)の3、4月ごろに初めて柳田を役所に訪ねたと回想しているが、それはどうやら記憶違いで、柳田が法制局参事官と内閣書記官記録課長を兼務していた明治43年(1910)にはすでに会っていたと思われる。それを裏書きするように、柳田が明治44年(1911)10月8日付けで南方熊楠にあてた手紙に「今夕アイヌ語研究者金田一氏来訪」という一節がある。いずれにしろ、京助は大正の初めに柳田の推輓によって世に出ることができた。このことは何度でも強調されなければならない。

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 拓殖博覧会で知り合った北海道アイヌのなかに、日高沙流川さるがわ紫雲古津しうんこつ村から来た鍋沢コポアヌという老女がいた。紫雲古津はかつて沙流郡一帯を支配する大酋長がいた村である(郷原註=酋長は現在では差別的と思われる表現だが、京助はそれを「部族的な生活集団の長」という意味で用いており、そこに差別的な意図は感じられない。時代的な背景を示す語として私もこれを準用する)。

 コポアヌは京助にこんな話をした。

旦那ニシパ、うちの村にワカルパという男がいます。まだ50代ですが、かわいそうなことに眼が見えない。そのためにますます記憶力がよくなり、沙流川筋では一番のユーカラ名人になりました。ワカルパはいつも、もし自分が死んだら沙流川のユーカラが滅びてしまう、誰か文字を知っている人に記録してもらえたら安心して死ねるんだが、といっています。ユーカラのなかで一番長い『虎杖丸いたどりまるの曲』と『葦丸あしまるの曲』を謡えるのは、もうワカルパしかいません」

 コポアヌによれば、盲人ワカルパはどうやら「アイヌのホメロス」ともいうべき人物らしかった。古代ギリシアの盲目の吟遊詩人ホメロスは『イリアス』『オデュッセイア』という二大長篇叙事詩を暗誦して後世に伝えた。京助はこのアイヌの詩人に会って『虎杖丸の曲』と『葦丸の曲』を自分の耳で聞きたかったが、いまは先立つものがなかった。すると、コポアヌが耳寄りな提案をした。

「旦那、東京までの旅費15円を用意してください。わたしは来年もこの博覧会に来るつもりだから、そのときにワカルパを連れてきてあげますよ」

 その翌日、京助は上田萬年の部屋の前に立っていた。何度か逡巡したあとで思い切ってドアをノックすると、「入れ!」という野太い声がした。上田のデスクの前に直立して、昨日コポアヌから聞いたばかりの話をした。

「旅費はいかほどか?」

「15円です」

 上田はすぐにポケットから財布を取り出し、1円札15枚を京助に差し出した。

「すぐに呼びたまえ!」

 話はそれで終わり。上田はそれ以上、何も訊かなかった。すでにハウキ3000行の和訳を成し遂げた弟子に余計なことをいう必要はなかった。このとき上田は46歳、京助は31歳だった。

 学長室を出て構内の銀杏並木を歩きながら、京助は「あの先生のためなら俺は死んでもいい」と思った。

 ワカルパがコポアヌに伴われて上京したのは、翌大正2年(1913)7月初めのことだった。金田一家では、この年4月3日に長男春彦が生まれ、静江は育児に追われていた。

 ワカルパは日本語で丁寧な挨拶をした。アイヌ同士が初めて対面したときは、来訪者が手を揉みながら儀礼のことばを朗唱するのが普通だったが、ワカルパは朗唱の代わりにこんな話をした。

 昔々、ひとりの和人が知り合いのアイヌに「今度、アイヌに会ったときにはアイヌ語で挨拶をしたい。『こんにちは』をアイヌ語で何というか教えてくれ」と聞いた。そのアイヌは和人をからかうつもりで「エコロコサンペ、ケムケム」というのだと教えた。

 和人が大酋長に会ったとき、さっそくそのそのことばを口にすると、大酋長は真っ赤になって怒り出した。それは「お前のアレを出してなめてみろ」という意味だった。しかし、大酋長は「和人は悪くない。嘘を教えたほうが悪いのだ」といってそのアイヌを厳しく罰したという。

「だから私は旦那に対して絶対に嘘はいわない、まちがったことは教えないと固く決心して村を出てきました。どうぞよろしくお願いします」

 ワカルパはそれから3ヶ月、金田一家に逗留した。京助は毎日、朝から晩までワカルパの朗唱するユーカラを大学ノートに筆記した。やがてワカルパの喉は掠れ、京助の指にはマメができた。

 その結果、英雄のユーカラ13篇と神々のユーカラ14篇のほかに、各地の大酋長の系図や沙流郡の人々の血縁関係まで詳しく知ることができた。驚いたことに、ワカルパは遠く離れた国後くなしり島の大酋長や伝説上の豪傑、イトコイの家系まで暗記していた。筆録ノートは全部で10冊に達した。

 話は変わるが、アガサ・クリスティの名作『アクロイド殺し』に「ディクタフォン」という器械が出てくる。アクロイドを殺した犯人が犯行時刻を偽装するために利用し、名探偵ポアロが最後にそれを見破る。手元の英和辞書では「口述筆記用録音機の登録商標名」となっているが、要するに初期のテープレコーダーのことらしい。

 もし当時の日本にこの「ディクタフォン」があれば、京助の作業は大いに捗ったに違いない。音声を録音しておいて、あとでゆっくり再生すればいいからだ。場合によっては語り手と書き手が対面する必要もなかったかもしれない。

 だが、残念なことに当時の日本にはまだ録音機などという文明の利器はなかったので、ユーカラの伝達は喉から耳へ、耳から手へ、手から文字へと両者の肉体を通して行われた。アイヌの伝承文学ユーカラは、こうしてマンツーマンで現代に伝承されたのである。

 ワカルパは村の祈祷師を兼ねていた。彼の妻も盲目で、甥の一家に養われていたが、ワカルパの留守中にチフスにかかり、それが村中に伝染した。そのため地元から、早く帰って祈祷してくれという知らせが何通も届いた。ワカルパは「来年また来ます」といって帰村したが、病人を全員治したあとで自分が感染して死んでしまった。京助がそれを知ったのは、翌年正月に村人から届いた年賀状によってだった。

 10月初め、京助は10冊分のノートを清書して上田に見せた。上田は何よりもワカルパがそれだけ長大かつ多数の物語と系譜をすべて暗誦したという事実に驚いたようだった。

 ちょうどそのころ、国文学の安藤正次らが『古事記』の成立に疑義を呈していた。『古事記』の序文では稗田阿礼ひえだのあれが暗誦した事柄を太安万侶おおのやすまろが筆録したことになっているが、あれだけの長文をひとりの人間が暗記できるはずはないから、この序文は後世のつくりごとだというものである。

「しかし、現にアイヌのじいさんがこれだけのことを暗誦してみせたんだ。このノートは『古事記』偽書説を粉砕する貴重な資料だから大切にしておきなさい」と、上田は京助の労を労ってくれた。

 その帰りがけに、上田は「今度、きみを文科大学の講師に呼ぶことになった。ただし無給かもしれないから、そのつもりでいてくれ」といった。しかし、月末に下された辞令には「文科大学講師に任ず。但し年100円を給す」とあった。アイヌ語教室は上田が京助のためにつくった講座だった。

 こうして京助のアイヌ語研究は軌道に乗り、金田一家にはしばしばアイヌの吟遊詩人たちが訪れて逗留するようになった。京助にとってそれは歓迎すべきことだったが、家族にとってはむしろ迷惑なことだった。

 長男の春彦は、のちに「父がアイヌ語研究のために北海道からアイヌの人たちをかわるがわる呼び寄せては泊まらせたことが子供心にいやだった」と正直な感想を述べている。

《今でこそアイヌ人と言っても、一般の日本人と何ら変わらない生活をしているが、そのころ、ことにアイヌ語のよい資料を持ち、ユーカラを暗唱できるようなアイヌ人は、一目でそれと分かるような服装をし、老婆の場合には、口のまわりに鮮やかな入れ墨をしていた。よく家に来て泊まっていた日高のコポアヌという老婆は、男まさりの、ユーカラを暗記している人とかで、父は特にひいきにして、手を取り合わんばかりに親しくしていた。たまたま私の学校の友人が遊びに来てそういう状景を見ると、「あれがおまえのおばあさんか」と、よく私はからかわれたものである。私はかなり大きくなるまで、父のような学者にはなろうと思っていなかったが、その理由の1つは、そんな思い出につながる》(「父ありき」)

 大正4年(1915)7月、京助は初めて官費で樺太と北海道へのアイヌ語調査旅行をした。これは内閣書記官だった柳田国男が樺太庁と北海道庁に掛け合ってくれたおかげで、両庁から100円ずつの調査費が出た。贅沢とまではいかないが、前回の樺太旅行に比べればまさに雲泥の観があった。

 その帰りに京助は日高へ回ってワカルパの故郷、紫雲古津村へ寄った。ちょうどワカルパの三回忌にあたっていたので、法要をしようと思ったのである。ワカルパはかつて京助にこんな話をしていた。

《アイヌも昔は年に3回は酒を造って大祭を行ったものだ。その酒は秋酒、冬酒、春酒といった。夏は腐るから造らなかった。この大祭をシンヌラッパといい、それ以外の小さな祭りをヌラッパといった》

 ヌラッパは「涙を流す」という意味で、シンヌラッパには「死者を供養する」という意味も含まれていた。京助は村の酋長をしていたワカルパの兄を訪ねて「シンヌラッパをしましょう。費用はすべて私が持ちます」と提案した。

 こうしてその夜、酋長の家でシンヌラッパが開かれた。親戚一同が対座して居流れ、男たちは神々に祈りのことばを捧げ、女たちは炉端でウポポという民謡のようなものを合唱した。酒が回って宴もたけなわになると、全員が立ち上がって踊り出した。それが延々と夜明けまで続いた。

 その席で、京助は村の若者からこんな話を聞いた。

 ワカルパは村に帰ってくると「東京は魚の高いところだ。世話になった旦那に沙流川の生鮭を食わせてあげたい」といって、まだ眼の見えていたころに覚えたやり方で網を作り、毎晩夜中に冷たい川に入って鮭を追い回した。しかし、眼のある鮭が眼のないじいさんに捕まるはずはない。とうとう1匹も捕らないうちに死んでしまった。

 若者はこれを笑い話として語ったが、聞いた京助は涙が止まらなかった。彼はのちにこう書いている。

《自分らの伝統的な生活をかき乱されることを避けて、漁利の磯浜は侵入者にゆだねてだんだん川沿いに退漸して来たこの人々は、いつでも黙々として、損を耐えている人たちである。陰でありったけの真心をしはらって、知られぬまゝにうずもれていったこの種の純情は、国土の開拓の下に昔からどんなにたくさん浪費されたことであろう。無告の冤枉えんおうの限りなき下積みに、てんとして優勝者の顔をして、少しの不安もなしにのさばっておれた我々のあさましさ》(「太古の国の遍路から」)

 これはアイヌを「土人」と呼んだ当時の日本政府のアイヌ政策に対する、アイヌ語研究者としての精一杯の糾弾である。京助が天皇制国家主義の一翼をになう学者だったことは事実だが、アイヌ語研究者としては歴とした反植民地主義者だったのである。 

 その翌日から、3人の老婆が毎日酋長の家にやってきてユーカラを教えてくれた。そのころになると、京助も耳で聞いただけでユーカラのおもしろさがわかり、筆録の作業も捗るようになった。

 ある日、隣村から1人の老婆がやってきて入り口に黙って腰をかけていた。京助が「あんたもユーカラを教えてくれるのか」と訊くと、「わたしは何も存じません」といった。そこで京助がまた3人のところに戻って筆録ノートを開くと、その老婆がにじり寄ってきてノートを覗き込もうとした。京助がノートをそちらへ向けてやると、彼女はいきなりオイナ神の物語を朗唱しはじめた。

「あるとき、オイナ神は天の女神たちが神の泉で沐浴しているところを目撃した。女神たちがみんな天に帰ったあと、それまで見張りをしていた女神が衣を脱いで泉に入った。その裸があまりにも美しかったので、オイナ神は女神の衣を隠してしまった」

 それはアイヌの羽衣伝説だった。物語の大筋は前にも聞いていたが、オイナ神が女神の衣を盗むくだりは含まれていなかった。語り手が神様に遠慮して省略したらしい。それを聞いて、京助は無性にうれしくなった。

《そのとき覚えた幸福感は、立身出世もなにもいらない、自分はなんと幸せ者だろう、という気持ちでした。自分一人でこれを味わっているのがもったいない、だれか他の人にもこれを見せてやりたいという気持ちになって、ほんとうに満足感にひたったり、驚嘆したりしたのです。あの村を訪ねたときは、出張の帰り道だったので、もう残りの金もほとんどなく、2、3日いて、法要を営んで帰ろうと思っていたのに、こんなことで、とうとう2週間滞在してしまいました》(『私の歩いて来た道』)         

 紫雲古津村は、こうして京助の第2の故郷、心のふるさとになった。

 

(つづく)