第一章 京助と耕助
太平洋戦争の敗北から半年ほど経った昭和21年(1946)の早春、岡山県の農村に疎開していた横溝正史のもとに、東京の城昌幸から手紙が届いた。今度『宝石』という探偵小説専門誌の編集長を引き受けることになった。ついては、創刊号から長編の連載をお願いしたい。ただし、用紙不足で誌面が限られているので、1回30枚程度に抑えてほしいという、近況報告を兼ねた原稿依頼状だった。
長らく休筆状態で無聊をかこっていた横溝は、一も二もなくこの申し出に飛びつき、さっそくその日から、10年前に村の旧家で起きた「妖琴殺人事件」(のちの『本陣殺人事件』)の話を書きはじめた。大まかな構想はすでにできていたので、執筆は順調に進んだ。第七章まで書き進んだところで、いよいよ探偵を登場させることにしたが、そこではたと筆が止まった。探偵の名前をまだ決めていなかったことに気づいたのである。
探偵の容貌や風采は、旧知の劇作家、菊田一夫をモデルにしていた。菊田は身なりに構わない男で、モジャモジャの髪をむやみにかき回す癖があった。その癖までそっくりいただくことにしていた。だから、探偵の名字も「菊田一**」にしようかと思ったが、それにつづく、いい名前が見つからなかった。
あれこれ考えているうちに、疎開するまで住んでいた東京吉祥寺の家の隣に金田一安三という人がいたことを思い出した。なんでも金田一京助という偉い学者の弟で、本人は鉄道省に勤めているということだった。金田一という姓はインパクトがあって覚えやすい。よし、これで行こう。ついでにお兄さんの名前を半分だけ拝借して「金田一耕助」としよう……。戦後のミステリーを代表する名探偵、金田一耕助はこうして生まれた。
ちなみに菊田一夫がNHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(1947~50)や『君の名は』(1952~54)で一世を風靡したのはその数年後のことで、当時はまだ知る人ぞ知るといった程度の台本作家にすぎなかった。一方の金田一京助にしても、学者としてはすでに一家を成していたが、社会的な知名度は、まだそれほど高いわけではなかった。
あとで詳しく見るように、金田一京助の名が広く知られるようになったのは、昭和25年(1950)に三省堂から金田一京助博士編『中等国語』(略称『中金』)が刊行され、各社の教科書に彼の随筆「心の小径」が掲載されて以後のことである。つまり知名度という点では、容貌や名前を借用した探偵のほうが、借用された本人たちに先行していたことになる。名探偵金田一耕助が有名になったおかげで、実在する多くの金田一さんたちは「お名前、何と読むんですか?」などと訊かれる煩わしさから解放されて喜んだという。
それはさておき、名探偵金田一耕助の初登場シーンは以下のとおりである。
《伯備線の清──駅でおりて、ぶらぶらと川──村のほうへ歩いて来るひとりの青年があった。見たところ25、6、中肉中背──というよりはいくらか小柄な青年で、飛白の対の羽織と着物、それに縞の細い袴をはいているが、羽織も着物もしわだらけだし、袴は襞もわからぬほどたるんでいるし、紺足袋は爪が出そうになっているし、下駄はちびているし、帽子は形がくずれているし……つまり、その年頃の青年としては、おそろしく風采を構わぬ人物なのである。色は白いほうだが、容貌は取り立てていうほどの事はない》
(『本陣殺人事件』)
勝手にモデルにされた菊田一夫がこれを読めば、「おれのことをこけにしやがって」と怒りだすかもしれないが、作者はちゃんとそれを見越して、こんな注釈を付けている。
《その時分東京へ行くと、こういうタイプの青年は珍しくなかった。早稲田あたりの下宿にはこういうのがごろごろしているし、場末のレヴユー劇場の作者部屋にも、これに似た風采の人物がまま見受けられた》(同)
つまり、これは昭和十年代の東京の青年たちのごくありふれたファッションで、「場末のレヴユー劇場の作者部屋」にいる人物も例外ではありませんよというわけである。つづけて作者は、この青年の来歴を語りはじめる。
《金田一──と、こういう珍しい名前から、諸君もすぐ思い出されるであろうが、同じ姓を持った人で有名なアイヌ学者がある。この人はたしか東北か北海道の出身だったと思うが、金田一耕助もその地方の出らしく、言葉にかなりひどい訛りがあったうえに、どうかすると吃ることがあったという》(同)
こうして見ると、『本陣殺人事件』の作者が有名なアイヌ学者から無断借用したのは、たんに探偵の名前だけではなかったことがわかる。金田一耕助は大正2年(1913)に岩手県で生まれ、昭和6年(1931)に旧制盛岡中学を卒業したことになっているが、金田一京助は明治15年(1882)に盛岡市で生まれ、明治34年(1901)に盛岡中学を卒業しているから、彼らはちょうど30年違いの旧制中学同窓生ということになる。
しかし、その後の二人は、まったく別の道を歩むことになった。
《かれは19の年齢に郷里の中学校を卒業すると、星雲の志を抱いて東京へとび出して来た。そうして某私立大学に籍をおいて、神田あたりの下宿をごろごろしていたが、1年も経たぬうちに、なんだか日本の大学なんかつまらんような気がして来たので、ぶらりとアメリカへ渡った。ところがアメリカでもあまりつまるような事はなかったと見えて、皿洗いか何かしながら、あちこちふらふら放浪しているうちに、ふとした好奇心から麻薬の味を覚えて、次第に深みへおちこんでいった》(同)
もしそのまま何事も起こらなければ、彼は麻薬中毒者として朽ち果てていたに違いない。ところがまもなくサンフランシスコの在留邦人社会で奇怪な殺人事件が発生し、危うく迷宮入りしそうになった。そこへふらふらとやって来た金田一耕助が、見事にこの事件を解決し、たちまち一種の英雄に祭り上げられた。
ちょうどそのころ、岡山で果樹園を経営する久保銀造という男が新事業開拓のためサンフランシスコに来ていた。在留邦人会の席上で金田一に会った久保は、もし麻薬と縁を切って真面目に勉強する気があれば自分が学費を出してもいいと申し出た。ぼつぼつ麻薬にも飽きがきていた金田一は、ありがたくそれを受け入れた。
それから3年後の昭和11年(1936)、カレッジを卒業して帰国した金田一は、岡山の久保を訪ねて探偵になりたいと打ち明けた。そのとき久保にもらった5000円の小切手をもとに東京日本橋に探偵事務所を開いた。最初は閑古鳥が鳴いていたが、半年後に某重大事件を解決して新聞に報じられ、探偵稼業はようやく軌道に乗った。たまたま大阪で手がけた事件が早く片づいたので、骨休めを兼ねて岡山に立ち寄ったときに一柳家の事件(本陣殺人事件)が起こり、現地にいた久保に招かれて冒頭の登場シーンとなったのである。
この事件を解決したあと、彼は陸軍に入隊して中国大陸に渡り、フィリピン、ボルネオ、ジャワなどを転戦し、ニューギニアで終戦を迎えた。昭和21年(1946)、つまり横溝正史が『本陣殺人事件』を書き始めたころに復員してすぐに『獄門島』事件を解決し、今度は新橋に探偵事務所を開いた。
その後は『黒猫亭事件』(1947)、『悪魔が来りて笛を吹く』(同)、『犬神家の一族』(1949)、『八つ墓村』(1950)などの難事件を次々に解決し、名実ともに日本ミステリー史上最高の名探偵となった。76番目の事件『病院坂の首縊りの家』(1973)を解決したあと、ふたたび渡米してロサンゼルスへ向かったと伝えられるが、以後の消息は不明である。
一方の金田一京助は、盛岡中学を卒業したあと仙台の第二高等学校(現在の東北大学教養学部)をへて東京帝国大学の文科大学言語学科に入学し、アイヌ学者への道を歩むことになる。探偵と学者──彼らの選んだ道は対照的だったが、そこにまったく共通点がなかったわけではない。
金田一耕助はパトロンの久保銀造に「やはり天眼鏡や巻き尺なんか使うのかね」と尋ねられたとき、「いや、僕はこれを使います」といって、もじゃもじゃ頭を叩いてみせた。また、別のところでは「足跡の捜索や指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。これが私の探偵方法であります」と語っている。
証明はあと回しにして結論だけをいえば、金田一耕助のこの探偵方法は、そのまま金田一京助の言語研究法にあてはまる。京助もまた、集められたデータを論理的に分類総合することによってアイヌ語の、そして日本語の秘密を解き明かそうとした。つまり、耕助が殺人事件の謎を追究する名探偵であれば、京助はことばの謎を探求する名探偵にほかならなかった。とすれば、私たちはいま、この「ことば探偵」誕生の秘密を探るために、その来歴を遡ってみなければならない。
ウェブサイト「名字由来net」の全国名字ランキング(2021年11月現在)によれば、金田一は、佐藤、鈴木、高橋、田中と多いほうから順に数えていって6651番目に位置する名字で、金田一姓の人は東北、北海道を中心に全国で約1400人しかいない。発祥の地とされる岩手県でも順位は452番目、人数は約320人だというから、京助と耕助のおかげで有名になったいまでも、金田一はきわめて珍しい名字であることに変わりはない。
この名字のルーツは、陸奥国二戸郡金田一村(現在の岩手県二戸市)にあるとされている。岩手県の北のはずれ、馬淵川の岸辺に開けた小さな村で、古くからリンゴの産地として知られ、東北本線金田一駅の近くには金田一温泉という放射能泉がある。キンダはアイヌ語で山間を、イチは市場を意味するというから、もともとはアイヌの集落だったと思われる。ただし、金田一氏がアイヌの血を引いているかどうかは定かではない。
金田一京助の自伝『私の歩いて来た道』(講談社現代新書、1968)によれば、金田一家の先祖は南部藩初代藩主光行の庶子で、一戸城主の一戸氏から分家して隣の金田一城に住み、金田一氏を名乗ったのが始まりだという。『南部根源記』という古文書には金田一右馬之助という勇士が登場し、幕末の南部藩には百石取りの金田一氏が2軒あったことが確認されているが、京助は「私の家は、そういう古い金田一の直系ではなしに、支流も支流、分かれの分かれです」とことわっている。
江戸時代の末期、紫波郡見前村出身の伊兵衛勝澄という人が、盛岡四ツ家町の武家、金田一長左衛門義明の妹と結婚、分家して町人となり、大豆屋という米穀商を営んだ。この人が京助の曾祖父にあたる。
伊兵衛は一代で産を築き、安政の大飢饉の年に米倉を開いて町民を飢餓から救った功績で五十石取りの士分に取り立てられた。京助が子供のころ、横町で道に迷って泣いていると、近所のおばあさんに「お家はどこ?」と声をかけられた。「四ツ家の金田一」と答えると、その人は「ああ、伊兵衛さんとこの子か」といって家まで送ってくれた。伊兵衛は死んだあとまで町の人々に慕われていたのである。
金田一家の菩提寺は、盛岡市北山寺院群の名刹、龍谷寺である。ここは石川啄木の父、一禎が小坊主として修行した寺でもある。その墓地の一画に金田一家三代の墓が並んでいる。初代伊兵衛勝澄、二代伊衛門直澄、三代勝定。京助はこの三代勝定の妹、ヤスの長男である。
金田一家は代々学問好きの家柄で、二代直澄は和学を、三代勝定は漢学を学んだ。穀物蔵と向かい合って建つ文庫蔵には和漢の書籍が収蔵されていた。少年時代にこの文庫蔵への出入りを許された京助は『三国志』などを借り出して読んだ。
伯父の勝定は南部の藩校「作人館」の那珂通高の門下で、同門には原敬(首相)、佐藤昌介(北海道帝国大学総長)、阿部浩(東京府知事)などの逸材がいた。学問好きだったこの伯父が、やがてアイヌ語研究を志した京助に理解を示し、経済的に援助することになる。
京助の父、久米之助は安政2年(1855)に、盛岡の郊外、厨川村の検断、梅里長六の長男として生まれた。その利発さを金田一直澄の妻(京助の祖母)リセに見込まれ、明治11年(1878)に末娘ヤスの入り婿となった。検断とは近在の庄屋を束ねる大庄屋のことだから、こちらも相当な家柄である。このとき久米之助は数え年で24歳、文久2年(1862)生まれのヤスは17歳だった。
明治12年(1979)に長女ヨネが生まれ、3年後の明治15年(1882)5月5日に長男京助が生まれた。のちに京助は「私の生年月日には5が3つも並ぶ」といって自慢した。京助の下に6人の弟と3人の妹が生まれ、金田一家は当時でも珍しい大家族になった。ちなみに横溝正史の隣人となった安三は三男で、明治20年(1887)に生まれている。
明治23年(1890)秋、久米之助は四ツ家町の本家を出て中津川沿いの大沢川原小路に分家した。義父の直澄は、この娘婿に資産を分ける代わりに事業で儲けさせようと考え、盛岡駅前にあった「清風館」という料理旅館を買い与えた。しかし、久米之助はおよそ事業には向かない人だった。
この分家にはほとんど収入がなかったので、生活費はすべて本家の丸抱えだった。毎月決まった日に、本家の下働きの者が、米、味噌、炭、薪の類いから魚や野菜に至るまで、生活物資のいっさいを荷車に載せて運んできた。
だから、この家の子供たちは、贅沢とはいえないまでも、生活の苦労というものを知らずに育った。京助がのちにアイヌ語研究という実入りのない学究の道に進んだのは、こうした豊かな生育環境と無関係ではなかったはずである。
とはいえ、京助の幼年時代は必ずしも安楽とはいえなかった。生後10ヵ月にして母ヤスが弟の次郎吉を身ごもったため、彼は早々と母乳から引き離された。当時はまだ粉ミルクなどという便利なものはなかったので、父の久米之助は乳母を探して駆けずり回ったすえに、町外れの農家のおかみさんに赤ん坊を預けた。しばらくたって久米之助が様子を見にいくと、農家の夫婦が畑仕事をしているあいだ、京助は近くのあぜ道でヤブ蚊に刺されて泣いていた。
久米之助はその場で京助を引き取り、今度は花屋町の川井という士族の家に預けた。川井夫人は性格のきつい人で、京助が粗相をしたりすると、お尻をつねられ、頭をぴしゃぴしゃ叩かれた。すると、この家のおばあさんがいつも京助をかばってくれた。
ある日、このおばあさんが京助をおんぶして金田一の本家へやってきた。父母、祖父母、伯父伯母の三家族のほか、下男や女中までが加わってにぎやかに京助ぼっちゃんを迎えた。みんなにもてはやされて、すっかりいい気分になった京助は、夕方になって川井のおばあさんが連れて帰ろうとすると、いやだいやだと駄々をこねた。「お乳がないぞ」とおどかされると、「お乳なんかいらない」と意地を張った。
それを見ていた伯父の勝定が「この子はなかなか根性がある。いやだというものを無理に戻すことはないだろう」と断を下し、京助はそのまま生家にとどまることになった。母のふところはすでに弟の次郎吉に奪われていたので、それからしばらくは父の腕に抱かれて寝た。そのせいで、京助はすっかりお父さんッ子になった。
久米之助には事業の才はなかったが、絵や字だけは上手だった。金田一の本家では、毎年5月3日に新しい大福帳をつくる習わしがあったが、真っさらな縦長の表紙に「大福帳」と大書するのはいつも久米之助の役目だった。京助はそれを誇らしい思いで見ていた。久米之助はまた、子供たちのために絢爛たる武者絵の絵凧をつくって一緒に凧揚げを楽しみ、夜は炬燵にあたりながら面白い昔話を聞かせてくれた。京助にとって、彼はまさしく理想的な父親だった。
義父の直澄は、今度は久米之助に屋根瓦の製造工場をやらせようとした。東北では寒中に瓦が凍って割れやすくなる。それを防ぐには表面に釉薬をかけて強化すればいい。この瀬戸物瓦の製造は、なかなか見込みのある事業のように思われたが、久米之助にはまったくやる気がなく、経営を人任せにして書画骨董や音曲にのめり込んだ。やがて部下の使い込みによって経理に大穴をあけ、分家の際にもらった大沢川原小路の家屋敷も借金の質に取られてしまった。
それにひきかえ、久米之助が分家したあとで勝定の養子として本家に入った国士には事業の才があった。青森県三戸町出身で本名は矢幅二郎。系列企業で働いているところを勝定に認められ、娘りうの婿養子となった。小学校を出ただけの人だったが、経理に強くて先見の明があり、勝定が創立した盛岡銀行の支配人として手腕を発揮した。勝定の死後は頭取に就任し、地域経済の発展に尽くした。
花巻温泉といえば、いまでは東北を代表する有名な温泉地だが、これも国士が手がけた事業のひとつである。「東北の宝塚」をめざして原野を拓き、温泉を引き、旅館やホテルを建て、鉄道まで敷いた。この温泉街の入り口には、かつて京助が愛した文庫蔵が移築されて、おしゃれな喫茶店になっている。
「雨ニモマケズ」の詩人宮沢賢治は、この温泉ホテルの薔薇園のなかに「南斜花壇」と呼ばれる花壇を設計造園した。彼は詩人であると同時に、盛岡高等農林の農芸化学科を卒業した農業技師でもあったのである。
賢治の童話『注文の多い料理店』には、立派な風采をした俗物の実業家が出てきて森の動物たちにとっちめられるが、「あの人士たちのモデルには、実はこの国士も入っているのではないか」と、京助の孫の金田一秀穂が『金田一家、日本語百年のひみつ』(朝日新書、2014)のなかで書いている。あるいはそうかもしれない。
それはともかく、京助のすぐ下の弟の次郎吉は、腕白を絵に描いたような子供だった。父の久米之助は当初、この子を「次郎」と名づけるつもりだったが、誰かが「それではカネダ・イチジロウと読まれてしまう」といったので、祖父の直澄が「下に吉をつければ、まさかイチジロウキチと読む者はあるまい」といって「次郎吉」と名づけた。しかし、本人はこの名を嫌って、生涯「次郎」と名乗りつづけ、周囲の者もそう呼んだ。
兄の京助から母乳を奪った次郎吉は成長が早かった。7、8歳のころにはすでに二つ違いの京助と背丈が変わらず、よく双子と間違えられた。京助はどちらかといえば小柄でおとなしい性格だったが、次郎吉は気のつよい乱暴者で、朝から晩まで取っ組み合いの兄弟げんかが絶えなかった。やられるのはいつも兄のほうで、京助の顔から引っかき傷が消えることはなかった。
京助は明治21年(1888)4月、盛岡第一尋常小学校に入学した。現在の盛岡市立仁王小学校である。次郎吉も翌年、学齢より1年早く同じ学校に入った。入学後も、次郎吉の乱暴はやまなかった。年上の子と取っ組み合いのけんかをし、地面に組み伏せられながらも腕に噛みついて、相手を泣かせてしまったことがある。あとで気がつくと、前歯が1本欠け落ちていた。そんなわけで、毎日のように、罰として教員室の前に立たされていた。
京助が13歳、次郎吉が11歳のとき、例によって兄弟げんかが始まった。2人がまだ小さかったころは母のヤスが止めに入ったが、男の子が10歳を超えると、もう女親の手には負えない。ヤスは下の弟に命じて父親の久米之助を呼びに走らせた。
けんかは最高潮に達し、兄弟は組み合ったまま障子を蹴倒し、もんどり打って縁側に転げ落ちた。痛めた足をさすりながら起き上がってみると、障子の桟が折れてバラバラになっていた。さすがに気がとがめて、2人で折れたところを接ぎ合わせているところへ、久米之助が駆けつけた。
久米之助は雨戸の心張り棒を手に取って次郎吉に向かい、「おまえのように道理のわからないやつは、こうするよりしようがない」といいながら何度もぶちのめした。京助に対しては「おまえは弟が憎いからけんかをするのだろう。おれが代わりにこらしめてやる」といいながら、また次郎吉を打ちすえた。たまらなくなった京助が「ごめんなさい、ごめんなさい」といって心張り棒にしがみついたので、父はようやく打擲するのをやめた。この家にはまだ武家時代の長子優先の気風が残っていたのである。
第二章 恋と友情
明治21年(1888)4月、金田一京助は盛岡第一尋常小学校に入学した。四ツ家町の生家から日影門外の学校までは二町(約220メートル)ほどで、子供の足でも10分とかからなかった。いつも姉のヨネと一緒だった。翌年、弟の次郎吉と従妹のりうが入学すると、今度は年下の2人と一緒に通学するようになった。
冬になって大雪が降ると、3人は箱橇に乗せられ、下働きの男に引かれて学校の下足場まで運ばれた。その箱橇を風呂に見立てて、りうの指を握りしめながら「さあ、お湯に入れ」「あつい、あつい」などといって遊ぶことが多かった。京助にとって、それはなぜか胸がキュンと熱くなるような不思議な体験だった。
そのころ、盛岡にはまだ女学校がなかった。市議会議長をしていたりうの父、金田一勝定は「女にも教育が必要だ」といって市議会を動かし、盛岡高等女学校を創設した。りうはその第一回入学生で最初の卒業生になった。
りうはその後、東京目白の日本女子大学校にも開校第一回生として入学した。『青鞜』の平塚らいてう、高村光太郎の妻として詩集『智恵子抄』にうたわれた長沼智恵子、のちに野村胡堂夫人となる橋本ハナなど、当時の「新しい女」はみんな、この日本初の女子大学校で学んだ。
しかし、りうの東京生活は1ヶ月ほどしか続かなかった。娘のことが心配で上京した勝定が、近くの宿屋に泊まってそれとなく監視していると、りうが学校の便所掃除をさせられていた。良妻賢母の育成が同校のモットーのひとつで、便所掃除もその一環だったのだが、勝定はそれを知らなかった。金田一家の大事な娘に便所掃除をさせるとは何事かと息巻いて、いやがる娘の手を引いて盛岡へ連れ帰った。ひょっとすると、勝定は、りうが「新しい女」になるのを恐れたのかもしれない。
それでも向学心を失わなかったりうは、『女子の友』『女学世界』などに秘かに詩や短歌を投稿し、懸賞小説に入選したこともあった。京助がのちに上京して歌人の尾上柴舟や佐佐木信綱に会うと、「盛岡の金田一りうさんは、あなたの奥さんですか?」と訊かれた。詩人の河井酔茗には「君の妹さんだろう?」といわれた。
京助は知らなかったのだが、盛岡の金田一りうといえば、宮古の長谷川時雨とともに、中央でも名の通った女流文学者だったのである。しかし、前述の金田一国士と結婚したあとは、文筆を折って実業家夫人に徹したらしい。
りうの姉のまさも頭のいい女性で、小学校入学以来、ずっと男子生徒を抑えて首席で通した。のちに早稲田大学の西洋史の教授になった煙山専太郎が「小学校の同級生に金田一まささんという勉強のよくできる女生徒がいて、ぼくはどうしてもかなわなかった」と同僚教師の京助に打ち明けたという。
京助にも、どうしてもかなわない女の同級生がいた。米田しゅんという人で、のちに海軍大将から総理大臣になった米内光政の従妹にあたる女性である。しゅんは小学校入学以来、男女共学のクラスで常に首席を守りつづけたが、それを鼻にかけるようなことはなく、どちらかといえば控えめな少女だった。
ある日、担任の先生が生徒ひとりひとりの名を呼んで試験の答案を返したことがあった。どうしたことか、その時に限って、いつも一番先に呼ばれるはずのしゅんではなく、京助のほうが先に呼ばれた。すると、日ごろ女の子に首席を奪われて気勢の上がらなかった男の子たちが、「やーい、米田のやつ、とうとう落っこちやがった」とはやしたてた。
京助は普段そんな尻馬に乗るような子供ではなかったのだが、その時ばかりは、一番になったうれしさというよりもむしろ、しゅんに秘かに好意を抱いていることを周囲にさとられないために、みんなと一緒になってはやしたてた。すると、しゅんは何も言い返せないまま、和服のたもとに顔を伏せて、きらりと涙を光らせた。こうしてしゅんを傷つけながら、ひとことの詫びもいえなかった自分の不甲斐なさが、その後長らく京助の心を苦しめた。
なにしろ「男女七歳にして席を同じうせず」といわれた時代である。同級生といえども、男女が気軽に口をきくことはできなかった。京助はしゅんの美しい横顔を遠目にうかがいながら、じっとその思いに耐えるしかなかった。その後何年もたってから、京助は「両の袖に顔をうずめて泣き入りし幼きおもわ忘れかねつつ」という歌を詠んだ。
京助が3年生になったとき、一家は大沢川原小路三十四番戸に引っ越した。偶然にも、そこはしゅんの家の隣だった。隣とはいっても、両家とも敷地が広く、周囲は鬱蒼とした木立に囲まれていたので、隣同士の2人が顔を合わせることはなかった。
1度だけ、その機会があった。小学校の高等科に進んだころ、京助は親に頼まれて米田家へ何かの荷物を受け取りに行くことになった。どきどきしながら米田家の裏門をくぐると、しゅんが綺麗な風呂敷包みをかかえてやってきた。それを見たとたん、胸が高鳴り、顔から汗が噴き出した。京助は物もいわずに風呂敷包みを引ったくると、後ろも見ずに自宅へ逃げ帰った。
小学校を卒業してからは、たまに風のたよりにしゅんのうわさを耳にするだけで、半世紀の時が流れた。その間に京助のほうはアイヌ学者として功成り名を遂げていたから、そのうわさはしゅんの耳にも達していたに違いない。
昭和の初めごろ、盛岡から上京したという老女と、その娘と思われる上品な奥様風の2人連れが、杉並区成宗の金田一邸を訪れた。京助は外出中で、長男の春彦がひとりで留守番をしていた。旧制高校の受験勉強で忙しかった春彦がそっけなく父の不在を告げると、2人は突然の来訪を詫びながら、お土産のりんご籠を置いて帰って行った。あとでその名札を見た京助は「ああ」と嘆声をあげて頭をかきむしった。何かの用事で上京したしゅんが、偉くなった同級生を、母親と一緒に表敬訪問したのである。
このときはすれ違いに終わったが、それから約20年後に、京助は粋な友人のはからいで、しゅんと会うことができた。盛岡の料理屋で60年ぶりに顔を合わせた2人は、まず「しばらくでした」と挨拶を交わした。それから京助は「本当に、これが、私の、あなたへのおもの申すはじめてですねえ」といったと、「罰金」と題する随筆に書いている。「おもの申す」とは、いかにも京助らしい恋の告白である。
昭和34年(1959)、NHKの人気番組『ここに鐘は鳴る』の収録が盛岡市で行われ、京助がゲストとして出演した。その番組の冒頭に上品な老女の写真が映し出され、「今日のご対面の相手として予定されていましたが、昨日急逝されました」というアナウンスが入った。しゅんは生まれて初めてテレビに出るという緊張感から体調が急変して倒れ、そのまま帰らぬ人となったのである。こうして京助の長い初恋は終わった。
明治25年(1892)4月、京助は盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)に入学した。当時の尋常小学校は4年制で、京助は10歳になっていた。このころから本を読むことに興味を覚え、伯父勝定の文庫蔵に入り浸って漢籍を拾い読みするようになった。
学校の同級生に田子一民がいた。田子は明治14年(1881)に旧盛岡藩士の二男として生まれたが、高等小学校2年のときに父親が亡くなったため経済的に困窮し、授業料滞納で退学させられた。最初は商家の丁稚奉公をしていたが、少しでも文字の近くにいたいと市内の九皐堂印刷所に転じ、住み込みの文選工になった。
印刷所は盛岡中学の近くにあった。かつての同級生たちが通学する姿を見て自分も中学へ行きたいと思ったが、高等小学校を2年で中退したため受験資格がなかった。それを知った校長の新渡戸仙岳の計らいで滞納した授業料の免除と3年への編入が許可された。新渡戸はのちに東京で困窮した石川啄木にも援助の手を差しのべている。
こうして田子はふたたび高等小学校に復学し、1年遅れて盛岡中学へ進学した。そうした事情もあって、田子は学校でいちばん真面目な勉強家だった。京助は父親に似て絵が上手で、算術の試験が級友より早くできたりすると、筆記用の石盤の裏に武者絵などを描いて遊んでいたが、田子は先生にいわれたとおり両手を膝において、みんなの答案ができるのを静かに待っていた。
ある日、京助が授業中に源義経の絵を描いて隣の田子に見せると、田子は小声で「それは誰だ」と訊いてきた。兜の前面に笹竜胆の前立てを描いたから義経とわかりそうなものだとは思ったが、「そんな義経はいないよ」といわれるのがいやで、「誰でもないよ」と答えた。しかし、田子は後年、京助と会うたびに「君は絵がうまかったなあ」と何度も口にした。そのころ京助は、本気で日本画家になりたいと思っていた。
しかし、その絵が描けなくなる日がやってきた。盛岡中学1年の夏、夜中にふと目が覚めると、隣の座敷で寝ていた母の枕元のランプから燃え上がった焔が蚊帳に燃え移ろうとしていた。あわてて消そうとして割れたガラスの上へ手をついたらしく、右手の掌が裂れて血が噴き出した。あとから起きてきて火を消し止めた次郎吉の掌も血だらけだった。
京助は近くの加藤医院に駆け込んで傷口を3針縫ってもらった。傷はすぐに治ったが、右手の中指と薬指が少ししか曲がらなくなり、絵筆が持てなくなってしまった。そのため日本画家への夢をあきらめ、それまで以上に読書に熱中するようになった。もしこのときの怪我がなければ、「ことば探偵」金田一京助はこの世に登場しなかったかもしれない。
明治28年(1895)4月、石川一という少年が盛岡高等小学校に入学した。この少年(のちの石川啄木)は、南岩手郡渋民村の宝徳寺という曹洞宗の寺の息子で、地元の渋民尋常小学校では神童と呼ばれるほどの秀才だった。当時、郡部から盛岡の上級学校に進む子供は少なかったが、盛岡藩士の娘だった母親のカツが、この子を由緒ある士族の子として気位高く育てようと考え、盛岡に住む実兄の工藤常象に頼んで、その家から通わせることにしたのである。
学校は市内の中心部を流れる中津川の左岸、中ノ橋の下流にあった。一は仙北組町四十四番戸(現在の仙北町二丁目)の伯父の家から中津川にかかる明治橋をわたって通学した。
この春、3年生になったばかりの金田一京助は、校門の近くで初めてこの新入生を見かけた。「色の白い、利口そうな顔をした、かわいい男の子」というのが第一印象だった。京助は思わずその頬に触れて「まあ、このおでこちゃん」といった。これがのちに仏文学者桑原武夫をして「日本一美しい友情」といわしめた京助と啄木の出会いである。以後、この少年は「ふくべっこさん」というニックネームで呼ばれることになった。「ふくべ」とは瓢箪のことである。
翌29年(1896)の早春、石川一は盛岡市新築地の母方の伯母、海沼イエ方へ転居した。この家は町名は違うが大沢川原小路の金田一家と隣り合っていた。つまり、京助と啄木は少年時代の一時期を隣人同士として過ごしたのである。
しかし、京助と一は年齢で三つ、学年で二つ離れていたので、一緒に遊んだことはなかった。一の遊び相手はむしろ京助の弟たちだったが、当時の一は田舎から出てきたばかりで気後れしたのか、金田一家の子供たちが道路で野球などをするのを黙って見ているばかりだった。啄木が才気を見せはじめるのは、どうやら盛岡中学に入ってからのようである。
一方、京助のほうは、そのころから本の虫に変身しはじめていた。前述のように、本家の文庫蔵には伯父勝定の集めた漢籍が山のように収蔵されていた。京助は伯父に奨められるままに『史記』『資治通鑑』『十八史略』『日本外史』『大学』『中庸』『論語』『孟子』などをつぎつぎに借り出して読破した。13、4歳の少年にしては、驚嘆すべき読書力といわなければならない。
その勉強ぶりを見ていた父親の久米之助が「たまには面白い本も読んだほうがいい。伯父さんにそう頼んでみたら」といったので、勝定に『三国志』を読みたいというと、「それならまずこれから読みなさい」といって『西漢紀事』『東漢紀事』各50冊を指し示した。それは鳥の子紙に毛筆で書かれた美しい写本だった。
京助はそれを5冊ずつ借りて読むことにした。数日後に読み終わった5冊を返しに行くと、勝定は「おお、早かったな」といって次の5冊を文庫蔵から取り出してきた。勝定の本好きは広く知られており、下働きの男たちにも『日本外史』を読むように勧めた。ふたたび『春秋』の筆法をもってすれば、もしこの人がいなければ、「ことば探偵」金田一京助は存在しなかったかもしれない。
金田一京助は、どちらかといえば女性的な人物だと思われていた。細面のやさしげな顔立ちもさることながら、ことばづかいが非常に丁寧で、親しい人と話すときにはよく「──なのよね」という言い方をした。男なら普通「──だよね」というところである。
戦後の一時期、男っぽい女性を「M過剰」、女っぽい男性を「W過剰」と称する隠語がはやった。MはManly,WはWomanlyの略語である。彼は周囲から「W過剰」と見なされ、石川啄木との親密すぎる友情を同性愛ではないかと疑う者まであらわれた。これはもちろん根拠のない憶測にすぎない。
しかし、小学生時代の京助は、むしろ「M過剰」の少年だった。弟次郎吉との取っ組み合いのけんかはもとより、剣道や水泳を愛する活発な男の子だったのである。
随筆「私の青少年時代」によれば、京助の剣道は日清戦争の影響によるものだった。
明治27年(1894)6月、日本は朝鮮の農民戦争「東学党の乱」をきっかけに朝鮮半島に出兵し、同時に出兵した清国軍と戦闘を開始した。8月2日に正式に宣戦布告したあと、平壌、黄海、旅順などでつぎつぎに勝利を収め、翌28年(1895)4月、下関で講和条約が締結された。
この戦争は日本人の内なる愛国心を刺激し、にわかに尚武の気運が高まった。それを反映して盛岡市内に三つの剣道場が開かれ、子供たちで賑わった。京助も次郎吉と一緒に入門し、朝夕道場に通いつめた。剣道の用具は、文庫蔵にあった伯父の勝定、直弥兄弟のものを使わせてもらった。
次郎吉との兄弟げんかは、障子を壊して父親を激怒させた一件を最後にピタリと止み、以後彼らは学校でも評判の「仲よし兄弟」になった。ある日、りうの担任の久慈という教師が修身の時間に「美しい兄弟愛」の一例として金田一兄弟を引き合いに出した。その話をりうから聞いたとき、京助はうれしいような恥ずかしいような、なんともいえない気持ちになった。
京助と次郎吉は、毎朝起きるとすぐ道場に出かけ、朝稽古に励んだ。ひと汗かいて道場を出ると、登校する同級生たちに出会った。家に帰って朝御飯をかきこみ、走って学校へ行った。放課後にはまた早めの夕食を食べて道場へ行く。そんな忙しい毎日が続いた。
盛岡市の剣道大会が開かれると、2人はいつも一緒に出場し、そろって賞をもらった。剣道の腕前よりも一緒に励む姿勢が高く評価され、練習を怠ける子供はよく「あの兄弟を見習いなさい」と諭された。しかし、この剣道ブームも日清戦争の終結とともに下火になり、道場は次第に寂れていった。
盛岡中学に入ると、京助は新しく柔道を始めた。朝の始業前に学校の道場へ行き、誰か相手が来るのを待った。最初にやって来るのは、いつも二級上の米内光政だった。しゅんの従兄にあたる、あの生徒である。
米内は堂々たる体格の持ち主で、平均より小柄な京助がまともに戦える相手ではなかった。京助が小さい体をさらに縮めて道場の隅にひかえていると、米内は相手がいないので仕方なく「やりましょうか」と声をかけ、ときにはわざと負けてくれた。
米内はその後、海軍兵学校から海軍大学校へ進んだ。ロシア、ベルリンなどの駐在武官をへて軍令部参謀、連合艦隊司令長官などを歴任、昭和12年(1973)に林内閣の海相として初入閣したあと2期にわたって留任し、同15年(1940)第37代内閣総理大臣に就任した。親英米派の海相、首相として、日独伊三国同盟を推進する陸軍強硬派に対抗しつづけたが、日米開戦を阻止することは叶わなかった。
昭和62年(1987)にオープンした盛岡市の先人記念館には、この柔道コンビの海軍大将と言語学者、そして五千円札になった新渡戸稲造の3人が郷土の偉人として展示紹介されている。
少年時代の京助が熱中したもうひとつのスポーツは水泳である。当時はまだプールなどというものはなかったので、子供たちの水練の場はもっぱら北上川だった。当時の北上川は水量が豊かで水もきれいだった。この川にかかる開運橋の上から眺める岩手山は、ことのほか美しかった。
京助と次郎吉は夕顔瀬橋のたもとで赤ふんどし一丁の裸になると、脱いだ着物を丸めて帯でくくり、頭巾のように頭に縛り付けた。そこから750メートルほど下流の開運橋まで抜き手で泳ぎ、途中で腕が疲れると平泳ぎや背泳ぎに切り替えてとにかく最後まで休まずに泳ぎ切った。開運橋の下でいったん岸に上がると、川原の石を飛び移りながらまた夕顔瀬橋まで戻り、同じことを何度も繰り返した。
川岸にはマメ科の落葉高木サイカチが密生し、そこにカブトムシがたくさんいた。泳ぎに飽きると、今度はカブトムシ捕りに熱中した。サイカチのトゲに刺されて体中がチクチクしたが、そんなことにかまってはいられなかった。こうして北上川とそこから見える岩手山は、京助の終生にわたる「心のふるさと」となった。
京助の盟友石川啄木は、のちに望郷の歌人として広く知られるようになった。歌集『一握の砂』には、ふるさとの山河を詠んだ歌がたくさん収められている。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
この「山」が岩手山、「川」が北上川であることはいうまでもない。21歳のときに「石をもて追はるるごとく」ふるさとを背にした啄木ではあったが、にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、ふるさとへの愛着は強かったのである。
そしてそれは、少し下流の盛岡に生まれ育った京助にとっても、まったく同じことだった。彼もまた、金田一家の長男でありながら学問を志して家郷を離れ、ひとり都の夕暮にふるさとの山河を偲ぶことが多かった。
京助たちが泳いだ北上川は、やがて上流に硫黄鉱山ができたために水質が汚染され、魚も棲めない川になった。戦後ときどき帰省した京助は、開運橋の上から赤茶色の川面を眺めて「川がかわいそうだ、川がかわいそうだ」と繰り返しつぶやきながら欄干を撫でさすった。
その後、北上川は県の浄化対策によって清流を取り戻した。「川底の石が見えるようになりました」と地元の人から伝え聞いた京助は「それはよかった、それはよかった」と、また繰り返したという。
晩年の京助はアイヌ研究の後輩や弟子たちに次々に先立たれ、「なぜ自分だけが生き残ったのか」という深い孤立感に苛まれた。しかし、見方を変えれば、彼の長寿は少年時代に柔剣道や水泳によって培われた体力の恩恵にほかならなかった。その意味で、女性らしい外見に隠された頑健な身体もまた、「ことば探偵」金田一京助を生んだ秘密のひとつだったといえる。