第十章 二人の校正者

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 明治41年(1908)10月、国語教師の資格がないことがわかって海城中学校の講師を辞めた金田一京助は、文科大学の恩師、金澤庄三郎の口添えで三省堂の「日本百科大辞典」編修所に校正係として勤めることになった。ちなみに石川啄木は翌年(1909)3月、東京朝日新聞社に校正係として入社しているから、2人はともに校正マンとして20代の一時期を過ごしたことになる。

 金澤庄三郎は三省堂から『辞林』という国語辞典を出した関係で、百科事典の編集長、斎藤精輔とも懇意だった。百科事典の校正には、英語、ドイツ語、フランス語のほかに、ギリシア語、ラテン語、梵語の知識が必要とされるので、世界の言語に詳しい卒業生をひとり紹介してほしいと、斎藤から頼まれていた。そこへ折よく京助が就職相談に訪れたのである。

 月給は25円。海城中学校の給料より5円安かったが、その差額には替えられない余得があった。三省堂の書庫には英国の『エンサイクロペディア=ブリタニカ』をはじめ、ドイツの『マイエル』『ブロックハウス』、日本の『古事類苑』など、古今東西の辞書や百科事典が揃っていたからである。

 斎藤編集長から「これを調べてくれ」と頼まれると、京助はそれらの辞書や事典類を読み比べて精査し、最適の語釈や説明を見つけ出した。それはまさしく「ことば探偵」の仕事だった。こうして身につけた調査法は、辞書編集者としてだけでなく、本職の言語学研究のうえでも大いに役立つことになった。

 斎藤精輔は業界でも有名な凝り性だった。文芸書などの校正は再校か三校ぐらいで済ませるのが普通だが、斎藤は念入りに何度も校正を重ね、ときには十校を超えることもあった。そのため各巻の校了日が近づくと、編集部員は毎回1ヶ月ほどの徹夜作業を余儀なくされた。京助たちが次の間で仮眠をとっている間も、斎藤はひとりで黙々と校正をつづけた。「あの人はいったいいつ眠るのだろう」と京助は不思議でならなかった。

 入社してしばらくたったころ、国学院大学の教務課長石川岩吉と東京帝大国語研究所助手の亀田次郎が、三省堂に京助を訪ねてきた。亀田は母校の助手と兼務で国学院大学の講師をしていたが、このたび鹿児島の第七高等学校(現在の鹿児島大学)に教授として赴任することになったので、代わりに言語学と音声学の講師を引き受けてくれという依頼だった。

 その日は返事を保留して金澤庄三郎に相談すると、金澤は即座に「引き受けたほうがいい」といった。「ただし、初めて大学の教壇に立つのだから、前日は休暇をとってきちんとした講義ノートをつくりなさい。三省堂へは私からも話しておきます」

 こうして無事に話がまとまり、三省堂は講義前日の毎週金曜日を休みにしてくれた。当時、京助が啄木と一緒に住んでいた本郷森川町の下宿「蓋平館別荘」から東大の図書館までは目と鼻の距離だった。金曜日は朝から図書館にこもって翌日の講義ノートづくりに励んだ。そうしていると、自分の本分はやっぱり研究者なのだという実感が湧いてきた。 

 国学院での初講義の日、緊張して教壇に上がると、最前列に黒い口髭をはやした学生がいた。自分より明らかに年長だと思われた。その学生がいきなり「先生!」と大声を発し、髭をひねくりながら立ち上がった。京助は一瞬何事ならんと身構えたが、その質問はらちもないことだったので、ひとまず胸をなで下ろした。気がつくと、脇の下にびっしょり汗をかいていた。

 なんとか授業を終えて廊下に出ると、ひとりの学生が待ち受けていた。大学部2年生の折口おりくち信夫しのぶだった。折口は開口一番「金田一先生でよかった。後藤さんや小倉さんやったら、わたしは授業に出やしませなんだに」といった。

 京助と折口は、前年(1907)1月に金澤庄三郎の私邸で会っていた。この家は金澤が『辞林』の印税で建てたもので、屋根が銅版で葺かれていたところから「赤銅あかがね御殿ごてん」と呼ばれていた。

 その赤銅御殿に、東京帝大から言語学科の京助と後藤朝太郎、国学院大学から師範部三年の岩橋小弥太と大学部1年の折口が集まって『辞林』の校正をした。校了の間際には京助の一級先輩の小倉進平も加わった。つまりここには、やがて日本の国語・国文学界を背負って立つことになる俊英が顔を揃えていた。

 その校正作業のときに、折口は後藤が中心になって校閲したゲラの不備や誤りを幾度となく指摘した。京助は「この男は若いのに偉いものだ」と、その学殖の深さに感銘を受けた。折口は額にあざがあった。あとから加わった小倉はそれを知ってか知らずか、「きみ、顔にインクがついてるぞ」といって、その場にいた者をヒヤリとさせた。

 もし後藤や小倉が国学院の講師になっていたら、自分はその授業には出なかっただろうと折口がいった背景には、そういう事情が隠されていた。ただ、そのときの京助は、自分のにわか仕込みの音声学をこの優秀な学生に聞かれたことを、内心ひそかに羞じていた。

 ある日、学生服姿の折口が蓋平館別荘に京助を訪ねてきた。その場にたまたま俳人の大須賀おおすが乙字おつじがいて、「頼み寄るに買ふ塵紙や秋の暮」という句における「に」のはたらきについて力説していた。黙ってそれを聞いていた折口は「日本の国語史上、そういう『に』の用法はありませんよ」といった。学生とみて侮った大須賀は、高飛車に出て屈服させようとしたが、折口は一歩も引かずに反論し、ついにはこの俳論の大家をやりこめてしまった。栴檀せんだんは双葉のころから芳しかったのである。

 折口信夫は歌人釈迢空しやくちようくうとしても知られた。明治20年(1887)2月、大阪に生まれ、天王寺中学、国学院大学予科をへて、明治43年(1910)に同大学の国文科を卒業した。その後、大阪の今宮中学校、東京の郁文館中学校の教師をへて国学院大学講師、同教授、慶應義塾大学教授などを歴任した。国文学の研究に民俗学を導入して民俗学的国文学の基礎を築き、芸能史や神道史にも新生面を開いた。それらを総称して「折口学」とも呼ばれた。

 折口は昭和28年(1953)に66歳で没するまで、京助をつねに師として仰ぎつづけた。発表のあてがなかった京助のユーカラ研究の一部を歌誌『アララギ』に頼んで掲載させたこともある。京助のアイヌ研究における民俗学的な知見は、この優秀な弟子に負うところが多かった。

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 明治42年(1909)3月、東京朝日新聞社に校正係として入社した啄木は、すぐにも家族を東京に呼び寄せたいと思った。函館に残した家族からは、一日も早く上京したいという手紙が頻繁に届いていて、超過勤務手当を含めて毎月30円の収入があれば、なんとか一緒に暮らせるはずだった。しかし給料は前借りつづきで手元に残らず、小説もいっこうに売れなかった。

 そうした憂悶のなかで、啄木は4月2日からローマ字で日記を書きはじめた。最初はそれまでの当用日記を利用していたが、7日からは新しく買ってきた背革黒クロース装の横罫ノートに書いた。6月1日までは日付を追っているが、それ以後16日までの分は「二十日間(床屋の二階に移るの記)」としてまとめられている。このノートは戦後に公開されて「ローマ字日記」と呼ばれることになった。

 4月7日の日記に、こういう記述がある。

《なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予はさいを愛している。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ、――しかしこれはうそだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。そんなら予は弱者か? いな、つまりこれは夫婦関係という間違った制度があるために起こるのだ。夫婦! なんという馬鹿な制度だろう!》(翻字と表記は筑摩書房版の全集に拠る)

 ローマ字で日記を書くのは、愛する妻に読ませたくないからだというのだが、節子は盛岡女学校時代に京助から英語を教わったほどだから、ローマ字は楽に読めたはずである。とすれば、これはどうやら自分の良心に対する言い訳にすぎないようだ。4月10日の日記に、さっそく「妻に読ませたくない」記述が出てくる。

《いくらかの金のある時、予は何のためろうこともなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ13、4回も行った。そして10人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ……名を忘れたのもある。予の求めたのは暖かい、柔らかい、真っ白な身体からだだ。身体も心もとろけるような楽しみだ。しかしそれらの女は、やや年のいったのも、まだ16ぐらいのほんの子供なのも、どれだって何百人、何千人の男と寝たのばっかりだ。顔につやがなく、肌は冷たく荒れて、男というものには慣れきっている、なんの刺激も感じない。わづかの金をとってその陰部をちょっと男に貸すだけだ》

 啄木がこの浅草十二階下の「きたない町」に求めたのは「身体も心もとろけるような楽しみ」だけではなかった。啄木は自分が背負わされた人生の重荷からの「脱出」を求めていた。しかし、それは求めても得られない夢だった。このころ、啄木はしばしば会社を休んで小説を書こうとしたが、何を書いてもうまくいかなかった。いっそ病気になってしまえば、もう少し楽になれるだろうと思った。この願いだけは、それから遠からずして叶えられることになる。

 4月13日には函館の母カツから手紙が届いた。カツは盛岡の寺子屋では一番の優等生だったというが、父一禎と結婚してからは読み書きの習慣を失い、啄木が釧路にいたころに受け取った手紙には誤字が多くて読みにくかった。ところが、啄木が上京して手紙を書く回数が増えると、文字までが次第にうまくなった。啄木には、それがむしろ悲しかった。

《このあいだみやざきさまにおくられしおてがみでは、なんともよろこびおり、こんにちかこんにちかとまちおり、はやしぐわちになりました。いままでおよばないもりやまかないいたしおり、ひにましきょうこおがり、わたくしのちからでかでることおよびかねます。そちらへよぶことはできませんか。ぜひおんしらせくなされたくねがいます》

 ――先日、宮崎(郁雨)様へ送られた(就職が決まったという)手紙を読んで喜び、今日か今日かと(上京の日)を待つうちに早くも四月になりました。今まで及ばずながらも子守りや賄いをしてきましたが、京子も日増しに大きくなり、私の力でかでる(遊ばせる)のは難しくなりました。そちらへ呼び寄せることはできませんか。ぜひお知らせくださるようお願いします。

 4月25日、啄木は何日かぶりに出社して月給を受け取った。袋に入っていたのは7円だけで、あとは18円の前借証だった。とはいえ、先月の月給日には25円の顔を見ただけで、そっくり佐藤編集長に借金を返したことを思えば、今月は残りがあるだけましだった。

 社の帰りに、千駄ヶ谷から駿河台に引っ越した与謝野家の新居を訪ねた。鉄幹は芝居見物で留守だったので、2階の居間で晶子と話した。そこへ吉井勇がやってきたので、3人で『スバル』の短歌特集号について話し合った。その話のなかで、山川登美子が10日ほど前に死んだことを知った。登美子は晶子と並ぶ鉄幹門の才媛で「白百合の君」と呼ばれていた。まだ29歳という若さだった。

 鉄幹が帰宅するとすぐ、啄木は与謝野家を辞した。何かの話のつづきで高笑いしながら門外に出ると、啄木は「チェッ」と舌打ちし、「彼らと僕とでは住む世界が違う。いまに見ていろ、馬鹿野郎!」と吐き捨てた。このころ、啄木の心はすでに鉄幹の浪漫調から離れ、実生活に根ざした「くらうべき詩」に傾いていた。

 このあと、電車の回数券を買って下宿に戻り、勤めから帰ってきた京助を誘って夜の散歩に出た。本郷三丁目から市電に乗り、坂本で乗り換えて吉原へ向かった。東京暮らしの長い京助は何度か吉原へ見学に来たことがあったが、啄木はこれが初めてだった。

 その日は2人とも登楼するだけの金がなかったので、不夜城のような郭のなかを一周しただけで、「角海老」の時計台が10時を打つころに吉原をあとにした。性欲が昂進した啄木は「十二階下へ行こう」と誘ったが、京助が首を振ったので、浅草の牛鍋屋で飯を食っただけで下宿に戻った。その夜、2人は「いつかは吉原で上玉と寝てみたいものだ」と語り合った。そのとき26歳の京助はまだ女を知らなかった。

 4月26日、函館の宮崎郁雨から手紙が届いた。「6月になったら君の家族を上京させる。旅費は全部こちらで持つ」という内容だった。啄木は気が滅入った。「よし、今夜だけは遊ぼう」と心に決め、京助を誘って浅草へ行った。前に北原白秋と来たことのある「新松緑」で、たま子という女の身の上話を肴に飲んだ。すぐに酔った啄木は、女将に代金2円を渡して隣室でおえんという女を抱いた。あっけなくことを終えて元の部屋に戻ると、京助とたま子が服を着たまま畳の上に寝そべっていた。

 帰りの電車はもう途中の車坂までしかなかった。2人は池ノ端から本郷まで歩いて帰ることにした。道すがら、京助は「たま子とは寝なかった。ただ生まれて初めてキスをした」と打ち明けた。それを聞いて悲しくなった啄木は、泣きじゃくりながら「下宿に帰ったら、今夜は僕を抱いて寝てくれませんか」といった。

 その夜、何があったのか、啄木は何も書いていない。ただ、京助は後年、この日のいきさつが公表されることを恐れて「ローマ字日記」の公刊に強く反対した。「嫁入り前の娘の縁談に差し支える」というのが反対の理由だった。

 5月2日は日曜日ながら啄木の出勤日だった。早朝、渋民村の助役の息子、岩本実が徳島出身の清水という青年を連れて下宿を訪ねてきた。岩本は横浜の叔母を頼って家出をしたが、2週間ほど前に叔母から帰りの旅費を渡されて追い出された。しかし、どうしても東京で働きたかったので帰郷せず、3日前に泊まった神田の安宿で清水と知り合った。清水も親と喧嘩して家出中だった。

 啄木は渋民尋常小学校の代用教員時代に岩本助役にさんざん世話になっていたので、その息子の苦境を見捨てるわけにはいかなかった。その日は社を休んで下宿を探し回り、本郷区弓町2丁目(現在の文京区本郷2丁目)に手頃な下宿を見つけた。啄木は手付金として1円を払い、近くの天ぷら屋で2人に飯をおごった。前日、佐藤編集長に頼んで5月分の月給を前借りしたばかりだったが、これでまた文無しになった。

 翌日は疲れたので病気欠勤届けを出して、一日寝て過ごした。その翌日も休んで朝から机に向かったが、ペンはいっこうに進まなかった。「鎖門一日」を書いてはやめ、「面白い男?」を書いてはやめ、「少年時の追憶」を書いては破り、ついにあきらめてペンを放り出した。せめて早寝をしようと床に入ったが、その夜は眠気さえ訪れようとしなかった。

 5月10日すぎのある夜、急に絶望的な気分に襲われた啄木は、京助から借りていた剃刀で胸を切った。自殺するためではなく、怪我を口実に長期休暇をとって、今後の身の振り方を考えてみるつもりだった。しかし、途中で怖くなり、左の乳の下に浅い傷をつけただけに終わった。

 それを知った京助は啄木の腕をつかんで外へ連れ出し、買ったばかりのインバネスのコートを質に入れて本郷の天ぷら屋へ行った。そこでしたたか酒を飲んだ啄木はようやく生気を取り戻したが、部屋に戻ると、また母から気の滅入るような手紙が来ていた。啄木は今度こそほんとうに死にたくなった。

 5月15日の新聞に二葉亭四迷の死が報じられた。ロシアから船で帰国する途中、ベンガル湾上で肺結核のため客死したという。その夜、京助と啄木は二葉亭について語り合った。

 晩年の二葉亭は「文学は男子一生の事業に非ず」と主張して実業家への転身をめざしていた。啄木もまた従来の文学至上主義を否定して、のちの生活短歌に代表される「喰うべき詩」をめざしていた。だから啄木は、京助が「二葉亭が文学を否定し、文士と呼ばれるのを嫌ったのは納得できない」というのを聞いて悲しかった、と日記に書いている。文学をあきらめたはずの京助には、なお文学へのあこがれが残っていたのである。

 6月に入ると、啄木は身なりを構わなくなった。髪の毛が肩まで伸び、まばらな鬚がやつれた顔面を覆っていた。蓋平館別荘の女中たちは「まるで肺病病みのようだ」といって、嫌悪感を隠そうともしなかった。

 6月10日の朝、啄木は宮崎郁雨と節子から届いた手紙を寝床で読んだ。2通とも盛岡から投函されていた。一行は7日に函館を発ち、節子と京子は盛岡の実家に身を寄せていた。母は父一禎のいる野辺地の寺に立ち寄ったあと、盛岡で合流することになっていた。

 このとき、啄木は郁雨と節子が一緒に行動していることに格別な疑いは持たなかったし、そんなことを気にするだけの余裕もなかった。このことはのちに妹ミツもからんで深刻な問題に発展する。

 啄木は「受け入れの準備をするから5日間だけ猶予をくれ」と郁雨に手紙を出したあと、下宿探しを始めた。幸い手元には郁雨が送ってくれた15円があった。その金で本郷弓町2丁目18番地で新井喜之助夫妻が営む床屋「喜之床きのとこ」の二階二間を借りることができた。溜まっていた蓋平館の下宿代119円は、京助が保証人になって毎月10円ずつ返済することで話がついた。

 啄木の「借金メモ」によると、この時点での借金総額は1,372円50銭。明治40年代の1円には現在の1万円以上の価値があったとされるから、総額1,500万円から2,000万円相当の借金をかかえていたことになる。

 地域別の内訳は、北海道483円、東京298円、盛岡283円、渋民村154円、仙台18円。個人別では山本千三郎(義兄)、堀合忠操(節子の父)、金田一京助がそれぞれ100円となっている。金額的には宮崎郁雨がいちばん多かったはずだが、それはおそらく「北海道」のなかに含まれている。京助が用立てた金が100円ぽっちだったはずはないが、その多くは借金ではなく「贈与」だという暗黙の了解があったのかもしれない。

 いずれにしろ、啄木はこのときすでに自力では返済不可能な債務者になっていた。その債務者が新たに収入のない家族を受け入れることになったのだから、破綻はすでに約束されていたといえる。

 6月16日朝、まだ暗いうちから、啄木は京助、岩本実と3人で上野駅のプラットフォームに立っていた。盛岡からの夜行列車は、一時間ほど遅れて到着した。母、節子、京子が郁雨に先導されて降車口に姿を現した。前年4月に別れて以来、1年3ヶ月ぶりの家族再会だった。

 こうして京助と啄木の13ヶ月にわたる蜜月は終わりを告げた。

 

(つづく)