第五章 歌とのわかれ
明治37年(1904)は日露戦争の始まった年である。この年2月、日本は帝政ロシアと国交を断絶し、満州・朝鮮の覇権をめぐる無謀な戦争に突入した。2月8日に陸軍先遣部隊が仁川に上陸開始、連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊を先制攻撃して、約一年半にわたる戦闘の火蓋を切った。これは日本と日本人のその後の運命を決した近代史上最大の事件だったといっていい。
この年、金田一京助もまた、その生涯を決する重大な局面を迎えていた。7月に仙台の第二高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)に進学して、いよいよ「ことば探偵」への道を踏み出すことになったからである。このころ、日露両軍は旅順の要塞をめぐって戦史に残る攻防戦を展開していたが、京助の自伝に血腥い戦争に関する記述は出てこない。『私の歩いて来た道』の第5章「大学時代」は、こんなふうに始まっている。
《そのころ、天才崇拝の時代なんですが、顧みると、私なぞは、家族に死んだものもなく、また生活の苦しみも知らず、したがって、あまり順境に育って悲しみの味わい一つ味わったことがありませんでした。ただ、ところてん押しに、ずるずると大学に入ったものに過ぎなかったのです。こういうものが文学に歩み寄ったところで、体験があまりに貧弱で、平凡すぎて、とても作品ができるはずがないし、そうして、けっして自分はうぬぼれてはいけない。なんらの天才もないんだということを反省して、天才のつくる純文学よりも大衆のつくる民衆文化、つまり「文芸」、「文学」よりも「言語学」などのほうへ私の興味の中心が移ってきたのが、高等学校三年ごろからのことでした》
京助はここで重要なことを語っている。自分はあまりにも恵まれすぎて育ったので生活の苦しみや悲しみを知らず、したがって体験が貧弱で平凡すぎるので、とてもいい作品が書けそうにない。だから自分は「天才のつくる純文学」をあきらめて「大衆のつくる民衆文化」、つまり「言語学」を選ぶことにしたというのである。
これではまるで、自分は育ちがよすぎたために文学的才能に恵まれなかったといっているように聞こえるが、もちろんそんなことはない。彼は中学時代から『明星』の新鋭歌人として注目されてきたのだが、高等学校3年のころに、真におそるべき「天才」に出会って自信を喪失し、言語学への転向を余儀なくされたのである。彼にその転向を強いた人物が「天才詩人」石川啄木だったことはいうまでもない。
前述のように、啄木は京助に2年遅れて盛岡中学に入学し、先輩の及川古志郎に「短歌をやるなら金田一花明に習え」といわれて京助から短歌の手ほどきを受けた。そして京助が卒業した明治34年(1901)に短歌グループ「白羊会」を結成して盛中歌壇をリードした。つまり啄木は京助の弟子とでもいうべき後輩だったのである。
そしてこの年(1901)、啄木は一年上級の野村胡堂らとともに、ロートル教師の総退陣を要求する全学ストライキを主導した。ストそのものは成功したが、以来、彼は危険人物として学校側の監視下におかれ、以前から常習化していた期末試験のカンニングがばれたこともあって学校に居づらくなり、卒業を半年後にひかえた昭和35年(1902)10月に「家事上の都合により」という名目で退学した。
退学の3日後に「文学で身を立てる」と豪語して単身上京したが、世間はそれほど甘くはなかった。貧窮と放浪の末に神経衰弱になり、父一禎に連れられて翌36年(1903)2月に帰郷した。一禎はこの上京費用捻出のために寺有地の立木を檀家に無断で売却したことがもとで、やがて寺を追われることになる。京助流にいえば、啄木はこうして「天才」になるのに必要な生活の苦しみと悲しみを、いやというほど味わったのである。
帰郷した啄木は、しばらくは自宅で静養しながらリヒャルト・ワーグナーの評伝を地元紙に寄稿したりしていたが、この年の秋ごろから、猛烈に詩を書き始めた。
島崎藤村の『若菜集』(1897)に始まる新体詩は、最初は伝統的な七五調や五七調を基本にしていたが、やがて登場した薄田泣菫と蒲原有明によって、八六調絶句、四七六調ソネットなど、さまざまな形式と韻律が試みられるようになった。啄木は特に泣菫の影響を受けて四四四六調の詩5篇を書き、石川白蘋名義で与謝野鉄幹に送った。鉄幹はそのうちの一篇「啄木鳥」をヒントに作者名を「啄木」と改め、『明星』12月号に一括掲載した。これが石川啄木の始まりである。
有り体にいえば、これらの詩は泣菫や有明の猿まねに近いもので、文学的にはまったく評価されないが、青年前期に特有の客気と才気だけは十分に感じさせる。その客気を才能と読み違えた鉄幹が、これを「泣菫以上の新調」などと持ち上げたものだから、『明星』周辺ではにわかに「天才詩人あらわる」の声が高まり、本人もすっかりその気になった。
京助は仙台時代にも『明星』を読んでいたので、啄木の活躍は知っていたが、それがかつて自分が短歌の手ほどきをした石川一のことだとはつゆ思わなかった。彼の知っている石川一は、あくまでも前途有望な少年歌人だったのである。
明治37年(1904)7月、二高を卒業した京助は、久しぶりに盛岡に帰省した。大学の新学期が始まる9月までの2ヶ月間を、小説でも読みながらのんびりと過ごすつもりだった。
そんなある日、ひょっこりと石川一が訪ねてきた。久闊を叙する間もなく文学談義に花が咲いた。日が暮れて月が上ると、蚊帳の中から月を眺めながら、時を忘れて語り合った。
京助が『明星』に載った啄木の詩「鐘の歌」を褒めると、啄木はうれしそうに眼を細めて「あれはじつは僕なんです」といった。そのとき初めて京助は、中学時代から模倣の才のあったこの後輩が、ついに真の才能に目覚めたことを知った。それは先輩として誇らしいことである反面、なんとなく淋しい思いのすることでもあった。帰りがけに啄木は「あなたはいよいよ東京ですね。僕も後から行きますよ」といった。
8月の初め、うら若い2人の女性が京助を訪ねてきた。京助はそのとき、前月の末から金田一家に逗留していた二高の同窓生、堀内尚同と居間で雑談していた。そこへ若い女性の来訪が告げられると、堀内は早々に隣室へ退散した。男女七歳にして席を同じうせずに育った当時の学生は、若い女性と話すのが苦手だったのである。
京助にしても事情は同じだったが、名指しで訪問されたのでは逃げるわけにはいかなかった。客間へ通して用件を聞くと、細面の色白美人が隣の丸顔美人と目を交わしながら「今月いっぱい、英語を教えていただけないでしょうか。先生のお勉強のじゃまにならないように、毎朝30分ほどでよろしいのですが」といった。
そのとき名前を聞いたような気もするが、上がっていたのでよくわからなかった。2人はどうやら盛岡高等女学校の学生らしかった。どんな教科書を使っているのかと尋ねると、丸顔のほうが「『ナショナル・リーダー』の3です」と小さな声で答えた。
京助の英語力でも、そのぐらいならなんとかなりそうだった。いったん自分の部屋にもどって堀内に相談すると、彼は「けっこうな話じゃないか。俺に遠慮せずに教えてあげたらいいだろう」といった。そういわれて、京助はこの申し出を引き受けることにした。
翌日から毎朝10時になると、2人はそろってやってきた。京助はまずリーダーを朗読し、2人にも朗読させたうえで、その部分を和訳してやった。教えるほうも教わるほうも極度に緊張していて、その部屋には笑い声ひとつ立たなかった。
30分のレッスンが終わると、2人は挨拶もそこそこに帰っていった。色白美人は二度ほど質問したが、丸顔のほうは一度も質問しなかった。京助は色白美人のほうに心を惹かれたが、とうとうその名を知ることもなく1ヶ月のレッスンを終えた。
この年の11月初め、約束どおり詩集の出版をめざして上京した啄木が京助の下宿を訪れ、開口一番「夏休みに2人の女の子があなたに英語を習いに来たでしょう。あの丸顔のほうが僕のメッチェンで、堀合節子というんです」と告白した。のちに啄木夫人となる節子にこのレッスンを勧めたのは、どうやら啄木自身だったらしい。ただし啄木も、京助が密かに心をときめかせた色白美人の名前は知らなかった。
こうして暑い夏が過ぎ、京助は9月から東京帝国大学文科大学の学生になった。湯島天神に近い本郷区(現在の文京区)湯島新花町の蒔田方に下宿して、毎日歩いて通学した。文科大学はこの年から学年制を廃して単位制になったので、入学年次に関係なく自由に講座を選択することができた。まだ専攻を決めかねていた京助は、あちこちの教室を渡り歩きながら、さまざまな講義を聴講した。
英文学講師の夏目金之助(漱石)は、学生から“I love you”の和訳を問われて「月がきれいですね、とでも訳しておきたまえ」と答えるような洒脱さが人気を呼んで、教室はいつも大入り満員の盛況だった。
国文学の芳賀矢一は陽気な先生で、早口で冗談をいいながら自分から先に笑い出す癖があった。古典文学の藤岡作太郎は肺を病んでいて5分間も咳が止まらないことがあり、見るからに痛々しかった。
京助を魅了したのは少壮の助教授、新村出の国語学だった。毎週3時間の講義を耳を澄まして聴講し、あとで克明にノートした。この講義ノートはのちに『新村出 国語学概説』(教育出版)と題して刊行された。
新村は明治9年(1876)、山口県生まれ。東京帝大を卒業して東京高等師範学校(現在の筑波大学)の教授になり、この年から文科大学の助教授に就任していた。日本語の起源や比較言語学の研究によって、師の上田萬年とともに日本国語学の基礎を築いた。明治39年(1906)にイギリス、フランス、ドイツに留学し、帰国後は京都帝大に転じた。やがて『広辞苑』の編者として広く学名を知られることになる。教室で教えを受けた期間は短かったが、京助は新村を終生の師として仰ぎつづけた。
前記『新村出 国語学概説』の序文のなかで、息子の金田一春彦が京助の傾倒ぶりを次のように伝えている。
《京助は後に自分が大学で講義をするようになったが、その講義に出席した人たちが口をそろえて言うには、京助は学生の顔などは全然見ず、教室の後ろの壁の天井よりわずかに下がったあたりを見つめて話を続ける癖があったということである。あれは、新村先生の講義の癖のまねで、自分も新村先生のような講義をしたい気持ちからしているのだと、私に告白したことがある。成功したかどうかは分からないが、やはり傾倒の深さを物語る一端ではある》
京助はまず新村の講義スタイルに惚れ込んだらしい。彼が後年、国語辞典の編者として名を成すことになったのも、あるいは『広辞苑』の編者に対する敬意と憧憬がもたらしたものだったかもしれない。
しかし、京助の志望を最終的に決定したのは、言語学科の主任教授、上田萬年の講義だった。
《上田万(ママ)年先生は、ノートなどは、もっていらしっても、一一ごらんにならず、時々、目を半眼に、理路を追って一語一語、語尾をしっかりと、不退転の態度で説いてくださった。その情熱は、ついに私を、国文学科からすべって、言語学科へと転身させてくだすったようである》(「私の歩いて来た道」)
上田萬年は慶応三年(1867)、尾張藩士の子として大久保の尾張藩下屋敷に生まれた。東京帝大の和文科(のちの文科大学)でB・H・チェンバレンに師事して博言学(言語学)を修めた。明治23年(1890)にドイツに留学し、東洋言語学のフォン・デァ・ガーベレンツ、青年文法学派のカール・ブルークマンやエドゥアルド・ジーフェルスらの薫陶を受けた。
明治27年(1894)に帰国して文科大学博言学講座教授となり、比較言語学、音声学などを講じた。それまで古典研究に偏りがちだった日本の国語・言語学界に近代的かつ科学的な研究方法を採り入れた功績は大きく、「日本言語学の父」と讃えられた。ただし、後年は大日本帝国の国策に添った発言が目立ち、「学者政治家」と陰口を叩かれることもあった。ちなみに「わたしは子宮で小説を書きます」といった作家、円地文子(本名富美)は上田萬年の次女である。
こうして上田萬年の人格と学識に惹かれた京助は、志望学科の届け出期限が迫った10月末に、国文学への未練を断ち切って言語学科を選択した。この年の言語学科入学者は京助ひとりだった。言語学科はラテン語、ギリシア語、サンスクリット語が必修で、予習と復習に追われて息つくひまもなくなるところから学生たちに敬遠されたのである。
この学年は京助だけだったが、一級上には橋本進吉、小倉進平、伊波普猷の3人がいた。少人数の学科なので、すぐに親しくなって話を聞いてみると、3人とも日本語のための言語学を志しており、日本語の系統や起源に関心をもっていることがわかった。ひとことでいえば、彼らはみんな上田萬年ゆずりの愛国的な言語学徒だったのである。
言語学科では、日本を取り巻く諸国語と日本語との関係を明らかにすることを共通の研究テーマにしていた。橋本は古代日本語を、小倉は朝鮮語を、伊波は琉球語を専攻し、翌年入学した後藤朝太郎は支那語(中国語)を選んだ。彼らの指導教授、藤岡勝二の専門は満州語と蒙古語だった。
ある日、言語学の授業中に、上田萬年がこういって嘆息した。
「アイヌ人は日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語の研究は世界の言語学会に対する日本の学者の責任なんだが、それをやろうという者が、なかなかいないんだよな」
その言葉は京助の胸にするどく突き刺さった。自分はもともとアイヌが住んでいた陸奥の生まれであり、自分の姓はかつてはアイヌの集落だったと思われる金田一村に由来している。とすれば、この言語学科でアイヌ語をやるのは自分をおいてほかにはいない、と思ったのである。
こうしてアイヌ語をつねに念頭におきながら言語学を学んでいると、翌38年(1905)にジョン・バチェラーという英国人宣教師の書いた『アイヌ=イングリッシュ=ジャパニーズ=ディクショナリー』という本が出た。バチェラーは中国の広東省で感染したマラリアを治療するために明治11年(1878)に来日し、ロンドンと緯度の近い函館に住んだ。そこでアイヌの生態に興味をもって研究を始めたが、生計を維持するために数週間の猛勉強で宣教師の資格を取ったという経歴の持ち主だった。
その『アイヌ英和辞典』は、聖書をアイヌ語に訳して伝道せよという英国聖公会の指示に従ったもので、初版は明治22年(1889)に出た。バチェラーは伝道協会の上司に宛てた手紙のなかで「日本政府は私の辞典の印刷を承諾しました」と書いているが、実際は北海道庁で印刷、発行された。
京助が手にした辞典は、この初版を増補した第二版だったと思われる。アイヌ研究史上、先駆的な業績だったことは確かだが、所詮は宣教師の副業の域を出ないものだった。
《その辞典は、ひと目見ただけで、これはしろうとだな、ということはすぐわかりました。文法というのも、2、30ページしかなくて、あまり簡単で、これではアイヌ語が世界のどの言語に似ているかということなど、まるで見当がつかない。バチェラーさん自身も、ヘブライ語に比較してみたり、日本語に比較してみたりしていましたが、特にどこの言語に近いかということは、述べておられませんでした。つまり、日本語とアイヌ語の関係を知るには、他人の調べたものに頼って勉強するのはだめで、それをやるには自分の耳で直接に、アイヌの口に響くのを聞いて自分の頭で考え直す以外にないと知りました》(『私の歩いて来た道』)
バチェラーのこの辞典は、それ自体としては学術的価値の低いものだったが、にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、京助のアイヌ語研究への意欲を掻き立て、現地調査に踏み出すきっかけを与えるという反面教師の役割を果たした。その意味では、やはりきわめて重要な本だったことになる。
言語学科への志望届けを出した10月初め、京助は下宿を本郷区菊坂町八二(現在の文京区本郷五5-5)の赤心館に変えた。赤心館は妙心寺の境内にあり、文学者の宿として知られた菊富士ホテルと隣り合っていた。石州津和野の出身で商事会社に勤める男が細君にやらせている2階建て、12、3室の小さな下宿で、京助の部屋は1階にあった。詩集出版のために上京した啄木が訪ねてきたのはこの下宿である。
玄関先で啄木を迎えた京助は、啄木の服装に目を奪われた。黒木綿の紋付羽織に仙台平の袴、南部桐の真新しい下駄にステッキ、頭には中折れのソフトという青年紳士の身なりだったからである。これはすべて詩集の出版費用として義兄の山本千三郎から借りた金で買いそろえたもので、出版の資金はほとんど残っていなかった。
その1ヶ月後、啄木からハガキが来たので、小石川砂土原町の下宿を訪ねていくと、啄木は風邪を引いて、あの紋付羽織を着たまま寝ていた。仙台平の袴は折り目が消えて袋状になり、その裾からはぼろ切れが垂れ下がっていた。それでも啄木は口だけは元気だった。
「退屈だから、がま口を振ってみたら、大枚十銭五厘がこぼれ落ちましてね。その全財産で女中にハガキを買って来させ、あなたを始め、みなさんに出しました。1枚だけ残ったので大隈重信伯にも出したんです。そしたら返事が来ましたよ、会いに来いって」
上京以来、啄木は名士を気取って高級煙草「霧島」をふかし、お抱えの人力車を乗り回していた。そのため義兄から借りた資金はたちまち底をつき、家賃滞納で次々に下宿を追い出されては盛岡中学時代の友人宅を泊まり歩いていた。迷惑をかけても詫び言ひとついわない啄木に友人たちも次第に愛想をつかし、彼はいよいよ窮地に立たされた。
こうなるともう頼れる相手は金田一京助しかいない。のちにフランス文学者桑原武夫をして「日本一美しい友情」といわしめた京助と啄木の関係は、こうして新しい局面を迎えることになる。