第三章 花明かりの時

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 明治29年(1896)春、金田一京助は盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)を卒業して、岩手県尋常中学校(現在の県立盛岡第一高校)に入学した。この学校は、翌30年(1897)には岩手県盛岡尋常中学校になり、その2年後には岩手県盛岡中学校、さらに2年後には岩手県立盛岡中学校と、学制改革にともなってめまぐるしく校名が変わったが、地元では一貫して盛岡中学、略して盛中せいちゆうと呼ばれた。ここではその通称に従うことにする。

 当時の校舎は盛岡市中心部の内丸、現在の中央通りの岩手銀行本店の辺りにあった。明治18年(1885)に新築された木造2階建ての洋風建築で、前面が白く塗られていたところから「白堊城はくあじよう」の愛称で親しまれた。大正6年(1917)に市内の上田に移転し、昭和37年(1962)に鉄筋コンクリート校舎に建て替わったいまでも、盛岡中学(盛岡一高)の同窓会は「白堊会」と名乗っている。名探偵金田一耕助はここの卒業生ということになっているが、残念ながら、いや当然のことながら、その会員名簿には載っていない。

 入学式の当日、新入生200名は運動場に整列させられ、背の高い順に甲乙丙丁の4組に分けられた。甲組は「デカ組」または「ノッポ組」、丁組は「チビ組」と呼ばれた。小柄な京助はチビ組だった。ちなみに2年後に入学した石川一(啄木)もチビ組である。

 チビ組は体こそ小さかったが、のちに「大物」化する逸材がそろっていた。三菱の大番頭になった郷古潔ごうこきよし、内科医学の世界的権威小野寺直助おのでらなおすけ、工学の遠藤政直えんどうまさなお、スポーツ評論の弓館小鰐ゆだてしようがく、詩人の細越夏村ほそごえかそん小原四郎おはらしろう、遠野の歌人伊藤栄一いとうえいいち、そして「ことば探偵」金田一京助。まさに多士済々の顔ぶれである。

 のちに東京日日新聞(現在の毎日新聞)の運動部記者として鳴らした弓館小鰐(芳夫)は「のっぽの馬面」と自称するほどの長身だったが、このころはまだ背が低く、周囲から「小学生(みたい)」とからかわれた。それが筆名「小鰐」の由来である。彼は辛辣な毒舌家としても知られ、金田一京助を「チンポコを持った貴婦人」と評したと、野村胡堂のむらこどうが『胡堂百話』(中公文庫、1981)のなかでバラしている。

 将来の大物候補がそろっていたのはチビ組だけではない。デカ組はもっとすごかった。のちの衆議院議長田子一民たこいちみん、海軍大将及川古志郎おいかわこしろう、旭川師団長服部はつとり兵次郎へいじろう、『銭形平次』の作家野村胡堂などがいた。軍人志望が多かったのは、その身長と無関係ではなさそうである。

 年次は違うが、この中学からは、山屋他人やまやたにん栃内曾次郎とちないそうじろう原敢二郎はらかんじろう米内よない光政みつまさ板垣征四郎いたがきせいしろうなど、陸海軍の将星が続出している。薩長藩閥政府の時代に、かつては朝敵と目された旧南部藩からこれだけ多くの軍人が輩出したのは、あるいはまつろわぬ民「あらえびす」の意地の裏返しの表現だったかもしれない。

 高等小学校で京助と同級だった田子一民は眉目秀麗の優等生で、同級生の信望を一身に集めていた。初日の授業で教師から「タコカズタミと読むのか」と問われると「違います、タッコイチミンであります」と答えたというが、級友からは「タコ」と呼ばれ、本人もそう自称するようになった。彼はやがて回覧雑誌『反故袋ほごぶくろ』を発刊して盛中の論壇をリードすることになる。 

 野村胡堂(長一おさかず)は、紫波郡大巻村(のちに彦部村)の農家に生まれた。小学校時代は泣き虫のいじめられっ子だったが、本を読むのが大好きで、村長だった父親の蔵書を片っ端から読みあさった。身近に大量の本があったという環境は、京助のそれとよく似ている。この泣き虫少年は中学入学と同時に「豪傑」に変身し、弊衣破帽へいいはぼうの文学青年として、京助や石川一(啄木)とともに盛中文壇を牽引した。

 及川古志郎は越後長岡の病院長の息子だった。自分の名前は「越郎こしろう」だと思い込んでいたが、海軍兵学校受験のために戸籍謄本を取り寄せたときに初めて「古志郎」だと気づいたという、いささか信じがたいエピソードが残されている。電報で初孫の誕生を知らされた祖父が役場に出生届を出した際に越後の「越」を古志郡の「古志」と書きまちがえたのだという。
 
 海軍志望の及川は盛中きっての文学青年でもあった。実家が裕福で仕送りが潤沢だったので、盛岡の書店に入荷する文芸雑誌をすべて買い集め、自分でも読み、周囲の者にも回覧させた。2年後に自分の主宰する海軍志願者グループ「修養会」に入会した石川一(啄木)を野村長一(当時は菫舟きんしゆう)に紹介し、野村はその場で石川の書いた「ものすごく下手くそな新体詩」を添削してやった。

 及川はまた石川一に与謝野鉄幹よさのてつかんの歌集『東西南北』と『天地玄黄』、土井晩翠どいばんすいの詩集『天地有情』を貸し与え、鉄幹の新刊歌集『相聞』をプレゼントした。そしてこの新入生が短歌に興味を示し始めると、「短歌をやるなら金田一京助に教わるといい」といった。つまり、及川は石川啄木の最初の文学指南役だったことになる。

 平均的な体格の生徒を集めた乙組と丙組も、人材には事欠かなかった。乙組には盛中の入学試験にトップで合格し、のちに東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教頭をつとめた乙部孝一おとべこういち、漢詩人の奥村天酔おくむらてんすい。丙組には日露戦争の旅順背面攻撃の勇将駒ヶ嶺忠男こまがみねただお、俳人の岩動露子いするぎろしなどがいた。早稲田大学野球部の名遊撃手として知られた小原益遠おはらますとおも、1年のときは丙組だった。

 岩動露子は本名孝久。弟の岩動炎天えんてん(康治)や野村菫舟、猪川箕人いかわきじん(浩)らと俳句結社「杜陵吟社」の中心メンバーとして活躍した。京助はのちに「露子こそ盛中に文学の風を吹き込んだ人だった」と露子の孫に語っている。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の仏蘭西フランス語科を卒業し、陸軍幼年学校でフランス語を教えたが、結核のため36歳で没した。

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 金田一京助もまた盛中を代表する文学青年のひとりだった。1年上級の原抱琴はらほうきん(達)や同級の小笠原鹿園おがさわらろくえん(本名不詳)に感化されて俳句や短歌に親しむようになったが、その文学志向に火をつけたのは、明治30年(1897)に出版された島崎藤村の『若菜集』である。『若菜集』は清新なことばとリズムによって青春の情感をみずみずしく謳いあげた抒情詩集で、その後の日本近代詩に決定的な影響を及ぼした。

 京助の若い心をとらえたのは、たとえばこういう詩だったと思われる。

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛はなぐし
 花ある君と思ひけり

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅うすくれなゐの秋の實に
 人こひ初めしはじめなり
(「初戀」前半)

 この詩は、これを読んだすべての読者に自分が実際に体験した、あるいは自分にもありえたかもしれない初恋を、もう一度思い出させるように書かれている。そうした共感の普遍性こそが、名作と呼ばれる詩の条件だといっていい。京助もこれを読んだとき、小学生のころ同級生の米田しゅんに感じた心のときめきを思い出したに違いない。このように、ある文学作品が人の心を深くとらえ、そこに眠っていた表現衝動を呼び起こすことを文学への開眼と呼ぶことにすれば、そのとき京助の胸の奥で「文学」がはっきりと眼を覚ましたのである。

 こうして文学に開眼した京助が、まず最初に手がけたのは短歌である。そのころ、『文庫』という雑誌が文学青年の人気を集めていた。これは明治21年(1888)に創刊された少年雑誌『少年園』の後身で、詩、小説、評論、短歌などの投稿欄があり、詩欄の選者は河井酔茗かわいすいめい、短歌欄の選者は与謝野鉄幹がつとめていた。若き日の北原白秋や三木露風みきろふうは、この投稿欄の常連だった。京助の文学修業は、まずこの雑誌を購読するところから始まった。

 また、明治31年(1898)には佐佐木信綱主宰の短歌雑誌『心の花』が創刊された。『心の花』はいまも続いており、現代を代表する歌人の佐佐木幸綱は、信綱の孫にあたる。この雑誌にも投稿欄があり、そこもまた京助の文学修業の場となった。ちなみに啄木の父、石川一禎もこの雑誌の定期購読者のひとりだった。

 京助は明治32年(1899)、盛中3年のころから「金田一花明かめい」という筆名で『文庫』と『心の花』に投稿を始めた。花明とは花明かり。満開の桜の花が薄闇のなかでほのかに光って見えるという、まことに優美な季語である。

 京助自身はこの雅号が気に入っていたが、のちに早稲田に入学した細越夏村が渋谷の新詩社に与謝野鉄幹を訪ねたとき、鉄幹から「カネダ・イッカメイ君は君の友人かね?」と訊かれたので、「先生、それはキンダイチ・カメイと読むんです」と答えると、鉄幹は「そうか、難しい名前だね」といったという。確かに当時、その名を正しく読める人は少なかったに違いない。

 しかし、当の京助にとって、ひたすら短歌に打ち込んだこの時期は、前途にほのかな光が射し始めた「花明かりの時」だったといえるかもしれない。

 花明の投稿歌はなかなか日の目を見なかったが、明治33年(1900)の『文庫』3月号に初めて次の三首が掲載された。
 
 むらさきの桔梗ひとむらうら枯れて野なかの塚に秋の雨ふる
 鞭を揚げてたゞちに楼蘭の虚をつかん千里ちさとの雪に月すみ渡る
 むら千どり夜寒に鳴きし跡みえて汀に白き今朝の初雪

 これで見ると、初期の花明はなお古い和歌の伝統を受け継ぐ雪月花の歌人だったことがわかる。ただし表記はひらがなを多用してわかりやすい。西域楼蘭ろうらんの故事に大平原の雪と月を配した二首目の歌には土井晩翠の詩集『天地有情』の影響が窺われる。つまり、この時期の花明は、伝統を尊重しながらも新しい短歌の作り方を模索していたのである。

 翌月の『文庫』4月号には次の七首が掲載され、そのうちの一首が選者与謝野鉄幹によって天地人(1~3位入選歌)の人に選ばれた。自伝『私の歩いて来た道』では「明治33年の1月号、、、の『文庫』に投書したのが八首、、採られ」となっているが、これはおそらく何かの誤りだろう。

 この自伝に限らず、晩年に書かれた随想や回顧録の類には、あやふやな記憶に頼って書かれたものが多く、随所にこのような事実に反する記述が見られる。

 松くらきなわての夜みち妹と我がかざす袂に雪こぼれきぬ
 磯山の松ばら鹿の立つ見えて浪の穂あかり月さし上る
 山ざとの藁屋の上に百合咲きて鶏なくがめずらしき哉
 橋の上に道たづねたる人ならむ川上遠く笛の音ぞする
 時雨れけりもみじ傘さす少女子のちりしひと葉を唇にして
 酒買ふと夕路をいそぐ少女子の髪に乱れてふる霰かな
 雨くらき鎮守の森の木の間より一すじあかし神の燈しび

 いずれも年齢相応に幼い歌いぶりで措辞も不安定だが、嘱目の情景をなんとか31文字に歌い込めようとする初心者の熱意だけは伝わってくる。藁屋根に咲く百合と鶏鳴、酒を買いに夕路をいそぐ少女と霰など、いかにも東国らしい題材の取り合わせにもくふうが見られる。

 このうち鉄幹が天地人の人に、つまり第3位の入選作に選んだのは、一首目の「松くらき」の歌である。この歌も『私の歩いて来た道』では「松き畷の小道、、妹と我がかざす袂に雪こぼれぬ」となっているが、ここでは初出の表記に従うことにする。もっとも「松くらき」と歌い出したからには畷はすでに暮れているのだから、ここは「夜みち」より「小道」のほうがふさわしいと思われる。

 私の解釈では、この「いも」は文字通り年下の女の同胞きようだいのことであって、妻や愛人を意味する古い歌語としての「妹」ではない。つまり、これは幼い兄妹が降りだした雪のなか、手をつないで家路をいそぐ光景と取りたいのだが、浪漫主義者鉄幹は愛する男女の夜の道ゆきと解釈したらしい。だからこれを「万葉歌人の風格あり」などと過大に評価し、自身がこの年4月に創刊した『明星』の第1号に転載した。

 感激した京助はさっそく鉄幹に手紙を出して『明星』の同人に、つまり新詩社の社友に加えてもらった。盛中で新詩社の社友になったのは京助が初めである。及川古志郎が後輩の石川一(啄木)に「短歌をやるなら金田一に習え」といったのは、おそらくこの時期のことだと思われる。

 金田一花明の歌は、その後『明星』の8号(明治33年11月)に十首、10号(同34年1月)に八首掲載された。これは中学生歌人としては異例の抜擢ともいえる掲載数である。そこにはたとえばこういう歌が含まれていた。

 さくらちる園の芝生にたたずみてとなりの君よ誰が紐を編む
 その人にせめては似たる姿もと雛売る市にさまよふ夕
 うすれゆく一むら雲を見おくりて秋ぞら遠く人懐ふかな
 戸の花による蝶はねのたよげなり小さき恋ようつくしき恋
 人の子は鬼なりけるよ涙もて世のよわきもの吾れ弔はむ
 とこしへに若きいのちのひかりあり摘めな泉の白き藻の花

 少し注意深い読者なら、『文庫』への投稿歌にくらべて、作風が一変していることに気づかれるだろう。ひとことでいえば優艶な恋歌が増えて、歌いぶりが過度にロマンティックな『明星』調になっている。浪漫主義者鉄幹の門に入ったのだから当然のこととはいえ、ときには鉄幹自身が添削の手を加えることもあったらしい。

《与謝野先生は、私の作品をどんどん添削されて、ややもすれば恋愛歌に直されるのです。ところが私は、まだそのころそういう経験がなく、恋愛などというものは、夢のような、ロマンティックなものでした。いわゆる恋を恋するような気持ち、この世にないような美しい顔を空想して見たり、夢に描いたりするくらいでした》(『私の歩いて来た道』)

 さばとはに君ゆるしませあたゝかき御袖のしたにわが歌よまむ
 君もまた世にうらぶれし歌の友うれし御手みてとりて何処いずこに往かむ
 君が庭の萩さくときにあけて見よと美しきはこ人のおくれる

 たとえばこの三首などは、いわばあまりにも鉄幹好みの歌になりすぎて、少年歌人が本来持っていたはずの「清潔なロマンティシズム」ともいうべきものが汚されてしまっている。鳳晶子ほうあきこ(のちの与謝野晶子)と山川登美子やまかわとみこの才能を見出して『明星』歌壇を創成した鉄幹は、どうやらこの東北の少年歌人を「男の与謝野晶子」に育て上げようとしたらしい。

 しかし、当の金田一花明にとって、それは一面ありがた迷惑なことでもあった。鉄幹に「万葉歌人の風格あり」と褒められたせいだけでもないだろうが、京助はこのころ『万葉集』に心を惹かれるようになっていたからである。

 明治34年(1901)に国語教師として盛中に赴任した秋山角弥が自宅で『万葉集』の講読演習を始めた。京助は野村長一(菫舟)、岩動孝久(露子)、石川一(啄木)ら杜陵吟社の仲間たちとこの演習に参加して万葉の歌を学んだ。また清水清健というもうひとりの国語教師の許しを得て、学校にあった大部の『万葉集古義』を読ませてもらった。

 京助はそれまで佐佐木信綱の『日本歌学全書』のうち『万葉集』3巻を読んで自分流に万葉の歌を理解していたが、この『万葉集古義』によってさらに万葉熱を煽られることになった。万葉調の歌をつくる前にまず『万葉集古義』に取り組むところがいかにも京助流で、石川一(啄木)なら決してそんな回り道はしなかったはずである。

 そうなると、今度は『明星』調が邪魔になってくる。自分では万葉風につくったつもりなのに、それが鉄幹によって浪漫的な恋愛歌に改作されたりすると、「これが自分の歌と言えようか」という疑問を感じるようになった。折から中学の卒業試験と高等学校の入学試験が近づいていたこともあって、京助は次第に短歌から離れていった。

 明治34年(1901)春、京助は盛岡中学を卒業し、同年9月に仙台の第二高等学校(現在の東北大学)第一部(文甲一)に入学した。志望は国文学科で、将来は万葉学者になりたいと思っていた。

 5月の末に盛岡の杜陵館で杜陵吟社主催の送別会「花明を囲む会」が開かれた。京助は「貴婦人のようにやさしい先輩」だったので、彼を慕う後輩たちが会場いっぱいに詰めかけた。

 その数日後、今度は京助が返礼として、野村長一(菫舟)、石川一(啄木、当時は翠江)、岩動孝久(露子)など数人を盛岡駅前の旅館「清風館」に招待して歌の会を催した。京助の父久米之助が義父の直澄から譲られた旅館を、いまは姉のヨネが経営していた。

 選歌は投票によって行われ、金田一花明が最高点に、石川翠江が次点に選ばれた。短歌を始めたばかりの翠江は、これで大いに自信をつけ、以後は短歌と詩に熱中するようになる。彼が短歌グループ「白羊会」を結成し、回覧雑誌『爾伎多麻にぎたま』を発行するのは、この年9月のことである。つまり啄木は卒業した京助の後継者として盛中歌壇を率いることになったのである。

 歌くらべのあと、全員に「ライスカレー」がふるまわれた。ライスカレーは当時日本に上陸したばかりで、盛岡では誰も知らない料理だった。「金田一君の中学卒業祝に、生まれて初めてライスカレーというものを喰べたのは、私の生涯にも忘れ難い1つの大事件であった」と、野村胡堂が「盛岡中学の優等生」という文章のなかで書いている。つまり、京助とその一族は、当時の盛岡の食文化をもリードしていたのである。

 

(つづく)