第十四章 近文と札幌の一夜

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 明治15年(1882)生まれの京助は、明治から大正へと元号が改まった1912年に30歳の誕生日を迎えた。20代が研究者の修業期間だとすれば、30代はそれが開花し結実する年代である。京助は大正の15年間に学者として数々の実績を積み重ね、名実ともに日本を代表する「ことば探偵」になっていく。

 北海道の紫雲古津しうんこつ村から帰った翌年、つまり大正5年(1916)の7月、京助は本郷区森川町一番地の牛屋横町に引っ越した。それまで住んでいた妻静江の実家の隣家から歩いて5分ほどの場所だったが、今度は立派な門構えの一戸建てで、小なりといえども一国一城の主になったような気がした。

 それもまた柳田国男のおかげだった。前述のように、柳田は明治39年(1906)に京助より一足早く樺太を視察旅行して以来、アイヌの言語や習俗に興味を抱き、「室蘭の絵鞆えとも、日高の襟裳えりもといった地名は、いずれも岬を意味するアイヌ語のエンルンからきている」という学説を発表していた。

 数年後、京助は柳田に呼び出されて霞ヶ関の内閣書記官室に参上した。当時、柳田は内閣と貴族院の書記官を兼務していた。2人は同学の士としてたちまち意気投合し、時間を忘れて語り合った。

 そのとき、京助がほとんど無収入の失業状態だと知った柳田は、文科大学長の上田萬年に会って京助を講師に取り立てるように進言し、さらに大正4年(1915)の樺太・北海道アイヌ語調査旅行に際しては、樺太庁と北海道庁にかけあって両方から100円ずつの調査費を出すように斡旋してくれた。

 その後も柳田は、全国知事会議などで上京した北海道長官が内閣書記官長に挨拶に来るたびに、北海道はアイヌ語の研究者に対して何らかの俸給を支払うべきだと力説した。その結果、政友会内閣の北海道長官、中村純九郎がそれを受け入れ、京助は非常勤の道庁事務嘱託という名目で毎月40円の俸給をいただくことになった。

 文科大学講師の年俸が100円だったことを思えば、月俸40円は大きい。おかげで京助は、盛岡の少年時代からほぼ20年ぶりに、門のある家に住めるようになった。晩年の啄木が京助一家の貧乏神だったとすれば、柳田はまさしく福の神だった。

 しかし、家庭では不幸がつづいた。大正4年(1915)4月に次女弥生が生後まもなく息を引き取り、大正6年(1917)の初めには三女美穂が百日咳のために1歳の誕生日を待たずに死んだ。そして大正7年(1918)6月には、前年から体調を崩して寝込んでいた義姉、林カオルが永眠した。カオルは京助夫妻にとって母親代わりの人だった。

 こうした家族の相次ぐ死は、もともと丈夫でなかった静江の心身を痛めつけずにはおかなかった。京助の失業時代には、ご飯のおかずは塩と味噌だけで我慢し、「食後のお茶はもったいないからお白湯にしましょうね」といって貧乏生活に耐えていたが、次女の弥生を医者にも診せずに死なせてしまったころから心身の不調を来し、次第に神経衰弱の症状があらわれるようになった。

 ある夏、中耳炎を患ったときには、外出着はすべて質屋に入っていたので、寝間着用の浴衣2枚を代わる代わるに洗濯して近所の耳鼻咽喉科医院に通った。京助と同年の医者は、そんな境遇に同情して「治療費は旦那さんの出世払いでいいよ」といってくれた。

 その間にも、金田一家には次々とアイヌの語り部たちがやってきて長逗留した。その応対もまた、病弱な静江の身には応えたに違いない。

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 大正7年(1918)は北海道の開道50年にあたり、さまざまな記念行事が催された。明治2年(1869)に維新政府が「蝦夷地」を勝手に「北海道」と命名してから50年というわけで、アイヌにとってそれは強制的な同化政策と被植民地化の歴史だったが、特に抗議運動のようなものは起こらなかった。アイヌはすでに民族としての魂を抜き取られていたのかもしれない。

 ちなみに昭和43年(1968)の開道百年祭のときには、「北海道以前に長いアイヌの歴史があったことを忘れるな」という声がアイヌ自身の間から湧き上がった。それはユーカラの研究を志したころからの京助の一貫した姿勢であり、念願でもあった。開道から100年たって、その声はようやく日本人の耳に届くようになったのである

 開道50年目の夏、京助は自費で北海道のアイヌ語調査旅行に出かけた。厚岸、釧路、帯広、名寄、美幌と回ってユーカラの伝承者を訪ね歩き、最後に旭川郊外の近文ちかぶみという集落コタン金成かんなりマツという女性を訪ねた。札幌の聖公会で宣教師ジョン・バチェラーに会ったとき、近文へ行ったらぜひ金成家を訪ねるようにといわれていたからである。そこはアイヌの小学校に隣接する小さな教会だった。

 玄関に入って「ごめんください」と声をかけると、右手の部屋から「はい、はい」という声が聞こえたが、誰も出てこなかった。京助はアイヌのならわしに従って軽く咳払いをしながら二度三度と声をかけた。すると、ようやく中年の女性が松葉杖をついて現れた。それが金成マツだった。

 京助が身分を名のってバチェラー師から紹介されてきたと伝えると、マツは恐縮して「そうとは知らずにお待たせして失礼しました。さあさあ、どうぞお上がりください」といった。

 そこへ15、6歳の少女が息をはずませながら入ってきて、「お母さん、ただいま」といった。

「あら、お帰り。お前がもう少し早く帰ってきてくれれば、先生にご迷惑をかけずにすんだのに。先生のお声があんまりやさしかったので、私はてっきりお前が私をかついでいるのだと思い込んで、カラ返事をしながらお迎えに出なかったのよ」

 マツはそういいながら京助にまた頭を下げた。

「ひどいわ、お母さん。わたしがいつお母さんをかついだことがあって?」

「だって、お前。先生のお声がお前にそっくりだったんだから、しようがないでしょ」

 そういうわけで、なんだか京助の声がいちばんの悪者ということになった。そのことに気づいた3人は同時にあっと叫び、玄関に明るい笑い声がはじけた。何事ならんと奥から顔を出した老女も笑いの輪に加わった。こうして京助は苦もなくこの家族のなかに溶け込んだ。

 この家は女ばかりの3人家族だった。老女のカンナリモナシノウクは、幌別の大酋長だったカンナリの未亡人で、この地方では随一のユーカラ伝承者として知られていた。京助はのちに「私が逢ったアイヌの最後の最大の叙事詩人ユーカラクルである」と評している。今回の訪問は、実はこのユーカラクルに会うためだった。

 モナシノウクには2人の娘がいた。長女のイメカノは日本名マツ、次女のノカアンテはナミと名づけられた。2人の伯父にあたるカンナリキ(金成喜蔵)は登別の有力者で、地元で布教活動を始めたバチェラーにアイヌ語を教え、経済的にも支援した。学生時代に初めて渡道したとき、京助もこのカンナリキからアイヌ語文法の手ほどきを受けている。

 その伯父とバチェラーの関係から、マツとナミは明治27年(1894)、日清戦争が始まったころに函館に出てイギリス聖公会の伝道学校で7年間英語を学び、洋風の生活習慣を身につけ、伝道者の資格を得た。当時のアイヌにとって、それはほとんど奇蹟的な経歴だった。

 学校を卒業した2人は、古来アイヌの都とされてきた日高の平取びらとりの教会で12年間、伝道師として働いた。その後、マツは近文の教会を任されて母親のモナシノウクと同居し、アイヌの女性や子供に聖書や賛美歌を教えていた。幼時の事故がもとで足が不自由だったが、経済的には不自由のない暮らしぶりだった。

 妹のナミは登別コタンの有力者の息子、知里高吉と結婚し、長女幸恵、長男高央、次男真志保の3人の子の母となった。高吉は結婚と同時にコタンを去り、登別郊外の丘陵地帯で農場の開拓を始めた。しかし、心臓に持病があって重労働を禁じられていたので、開墾や農作業の多くはナミが担当することになった。

 ナミは早朝から深夜まで、神に祈りながら身を粉にして働いたが、生活はなかなか楽にならなかった。そこで長女の幸恵を子供のいない姉に託すことにし、幸恵は未入籍のままマツの養女となった。

 幸恵は教会に隣接したアイヌ小学校を卒業し、いまは片道4キロの旭川区立女子職業学校に徒歩で通っていた。同校初のアイヌ学生だったので、入学当時は「ここはお前なんかの来るところじゃない」といじめられたが、それを神の試練と受けとめて勉強に励んだ結果、1年後には副級長としてクラスの信望を集める優等生になっていた。

 このとき京助が会ったのは、幸恵(15歳)からみて、母親代わりの伯母マツ(43歳)、祖母モナシノウク(70歳)の3人家族である。ちなみにこのとき京助は36歳の男盛りだったが、「女のようにやさしい声」のおかげで、この女系家族のなかで格別警戒されることもなかったらしい。

 その夜はランプの灯を明るくし、囲炉裏の火を囲みながら、アイヌの昔話に花が咲いた。時が過ぎ、はっと気がついたときには、もう最終列車が出たあとだった。

 京助が困惑していると、マツは「先生さえよろしければ、どうぞ泊まっていってください」といった。そのあとで3人は「泊まっていただくのはいいけれど、朝食にお出しするものがジャガイモぐらいしかない、どうしましょう」とアイヌ語で相談を始めた。

 それを聞いた京助が「ジャガイモを茹でてくだされば十分ですよ」と日本語でいうと、「あら、内緒話がばれてたようだよ」とモナシノウクがいって、また炉端に笑い声がはじけた。

 近文は蚊の多いところだったが、金成家には蚊帳かやがひとつしかなかった。幸恵が隣の小学校の先生の家に借りに行ったが、そこにも客用の蚊帳はなかった。そのため京助がひとつの蚊帳を独占することになった。何度も辞退したが、ついに聞き入れてはもらえなかった。

 長旅の疲れが出たのか、蚊帳に入るとすぐに寝てしまった。翌朝めざめると、すでに朝日が蚊帳のなかに差し込んでいた。顔を洗って戻ると、炉端にヒノキの小枝の燃えさしがたくさん残っていた。それは蚊遣りのあとだった。3人は夜中に交代で起きて蚊遣りの当番をしていたのである。

 炉に吊るされた大鍋には、大きなジャガイモがふつふつと音を立てていた。昨夜の予告通り、茹でたジャガイモに塩を振りかけただけの質素な朝食だったが、京助にはそれが世界のどんな料理よりもおいしく感じられた。

 京助が大きなジャガイモを頬張ろうとしたとき、箸がすべって炉のなかに転がり落ち、イモは灰まみれになった。京助が目に入った灰をこすっていると、女3人は「先生がイモを転がしてベソかいた」といってはやし立てた。何かにつけてよく笑う家族だった。

 やがて、別れの時がやってきた。京助が玄関で編上靴の紐を結んでいると、マツが幸恵を指さしながらいった。

「この子はおばあさん子で、母のアイヌ語を聞きながら育ちましたので、この辺のどんな年寄りにも負けないほどアイヌ語が達者になりました。母の口真似でユーカラも謡えます。作文も上手なんですよ。幸恵、いい機会だから、先生にお前の書いた作文を見ていただいたら」

「いいよ、お母さん、恥ずかしいから」

「いいから、持ってらっしゃい」

 そういわれて幸恵が持ってきた作文のノートを見て、京助はマツの娘自慢が少しも誇張でないことを知った。そのときの驚きを、京助はのちにこう回想している。

《幸恵さんは、驚くべき才媛でした。ことに作文が一番お得意で(中略)実に流麗な国文で(中略)誤字とか仮名づかいの誤りというようなものが、一つも見出されませんでしたので、これは大したものだと(中略)。驚嘆はそれのみにとどまりませんでした。そういったようによく和風シーシヤムブリに親しんだ、勉強のできる人に限って、アイヌブリは捨てて顧みぬものですのに、幸恵さんはアイヌの古辞・古文にも堪能で、この種族の伝統的叙事詩の長篇(中略)を、おっかさんやお祖母さんに聞き覚えて、暗誦伝受していることだったのですから、ほんとうにアイヌ民族最後の誇りと神様が育てていてくれた尊いだと思って、どのくらい伸ばせば伸びるものか、一つ東京へ出して勉強をさしてあげたいものだと、その時すぐに思ったのでした》(「故知里幸恵さんの追憶」)

 50年にわたる同化政策の結果、当時のアイヌは誰でも普通に日本語を話せるようになっていたが、これほど完璧に日本語のエクリチュール(書きことば)をこなせる者は少なかった。しかも幸恵は和風に親しんだ優等生たちが捨てて顧みなかったアイヌの古辞・古文にも堪能で、祖母や母からユーカラの暗誦まで伝授されていた。京助にはそれがアイヌの神様が育てた希望の芽のように感じられたのである。

 京助が読み終わるのを待って、幸恵が口を開いた。

「先生、ユーカラって、そんなに価値のあるものなんですか?」

 そこには、日本人がなぜアイヌのことを研究するのか、他人のことはほっといてほしいという拒否のニュアンスが含まれているように感じられた。そこで京助はこう答えた。

「あなた方のユーカラは、あなた方の祖先の戦記物語で、叙事詩という口伝えの文学なんだ。ヨーロッパでも『イリアード』『オデッセイア』という叙事詩は、その最後の伝承者だったホメロスの時代に文字が発明されて初めて書き留められ、後世に伝えられた。叙事詩は民族の歴史であると同時に文学であり、宝典でも聖典でもある。いま、これを文字にして残しておかないと、ユーカラは消滅してしまう。だから、私はこの研究に全財産を費やし全精力を注いでも少しも惜しいとは思わない」(同前)

 京助の語り口はいつも熱っぽくロマンティックで、表現がいささかオーバーだった。大学の講義ではその語り口が人気を呼び、女子学生たちが競って前方の席を確保しようとしたと伝えられる。このときの熱弁もアイヌの少女の心を熱くとらえたらしい。幸恵は眼に涙を浮かべながらいった。

「わかりました。私はこれまで自分がアイヌであることを何か恥ずかしいことのように思っていましたが、先生のお話を聞いて勇気が湧いてきました。私もこれからユーカラの勉強をしてみようと思います」

 そのとき京助は、この利発な少女を東京に呼んで高等教育を受けさせてやりたいと思ったが、薄給の身でそれは叶わぬ夢だった。一方、幸恵には父親譲りの心臓の持病があって、東京の学校へ進学するのは体力的に難しかった。その夢が曲がりなりにも実現したのは、それから4年後のことである。

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 金成家を辞したあと、京助は旭川、名寄、余市を回って札幌のジョン・バチェラー宅を再訪した。コタンの写真を飾った応接間で近文の一夜について報告すると、バチェラーは自分のことのように喜んだ。

 その席で、京助は2人の若い女性を紹介された。ひとりはバチェラーの養女、八重子(幼名向井フチ)。この女性もアイヌの伝道師で、のちに歌集『若き同族ウタリに』を著した。もうひとりは作家の中條ちゆうじよう百合子。2年前、日本女子大学在学中に『貧しき人々の群』を発表して注目されていた。その後、アメリカ留学をへて非合法の共産党に入党、宮本顕治(のちの日本共産党委員長)と結婚して宮本百合子と改名する。

 有名な作家がなぜここに?と訝る京助に、バチェラーが事情を説明した。百合子の父で建築家の中條精一郎は、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の設計監督として文部省から派遣され、一家で札幌に移住した。東京生まれの長女百合子は、生後8カ月から3歳までをここで過ごした。

 今度、父と一緒に渡米することになったので、外国生活の見習いを兼ねて旧知のバチェラー宅に滞在し、近在のコタンめぐりを楽しんでいるという。

 百合子は感情表現が豊かで、ウイットに富んだ会話に上品な知性が感じられた。

 ひとときの歓談のあと、京助が辞去しようとすると、八重子と百合子に「話があるから」と、玄関脇の小部屋に連れ込まれた。そこで八重子はまず「あなたはアイヌの同族ウタリなのか」と問い、ユーカラを研究する動機や目的を厳しく問い詰めた。

 百合子は椅子から降りて床に跪き、京助の膝頭に顎を押し付けるような姿勢で鋭い質問を放った。それはまさしく思想的な査問会だった。京助は追及にたじたじとなりながらも、日頃自分の考えていることをすべて正直に打ち明けた。そのアイヌ談義は11時を過ぎ、隣室のバチェラーから「声が高い。もう少し静かに」とたしなめられるまで続いた。

 別れ際に百合子は「機会があったらまたお会いしたい」といって、こう付け加えた。

「私は金田一さんのことを世間離れのしたアイヌ語学者とばかり思っていましたが、この民族に人間愛の精神をもって接しておられることを知って、とてもうれしく思いました。アイヌ学はヒューマニズムの学なんですね」

 京助は『貧しき人々の群』の作者に「ヒューマニズムの学」といわれたことが無性にうれしかった。そこで京助が「あなたもぜひアイヌをテーマにした小説を書いてください」というと、百合子は「そのつもりです」と答えた。

 中條百合子は札幌滞在中に「風に乗って来るコロポックル」という54枚の小説を書いた。京助に勧められたとおり、イレンカムというアイヌの裁き手を主人公にした短篇である。ところが、渡米前のあわただしさのなかで、原稿を紛失してしまった。この作品に愛着のあった百合子は、必死になって探したが、生前にはついに見つからず、没後に発見されて全集に収録された。  

 小説は紛失したが、このとき札幌で書いたエッセイ「親しく見聞したアイヌの生活」は『女学世界』10月号に掲載された。寒い土地に住むアイヌは炉の神様を大切にする。この神様はおばあさんで「フッチ」と呼ばれている。アイヌの人々は見たまま思ったままをすぐ歌にしてうたう。こんなに自由で生気に満ちた民族が失われてしまうのは惜しい――といった内容が、いかにも若い女性らしい、しなやかな文体で語られている。

 この文章を読んだとき、京助はあの札幌の一夜を懐かしく思い出した。

 

(つづく)