第十六章 幸恵上京

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 京助から送られた3冊のノートに取り組んでいたころ、幸恵は恋をしていた。相手は村井曾太郎という2歳年上のアイヌで、知り合った当時は旭川第7師団の兵士だった。背が高くがっしりとした体つきで、父親の知里高吉と風貌がよく似ていた。村井家は名寄の有力アイヌの一族で、知里家と同じく農業と酪農を営んでおり、曾太郎の母親と幸恵の養母マツは以前から親交があった。

 若い2人の馴れ初めは、幸恵が女子職業学校を卒業した大正9年(1920)春ごろのことだと思われる。マツは近文の教会で聖書や讃美歌を教えるかたわら、希望者には特別にローマ字を教えていた。そこへ曾太郎がやって来て生徒の列に加わった。兵舎から教会までは歩いて約30分。やがてその時間と距離は幸恵への熱い思いで満たされるようになった。

 幸恵は特に美人というほどではなかったが、年のわりには大人びていて立ち居振る舞いに色気があり、近隣の青年たちの注目を集めていた。藤本英夫『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』(草風館、2002)によれば、「おれのほうが先に幸恵に惚れていた」と告白する青年もいたという。

 曾太郎は翌10年(1921)春に除隊して名寄に帰ったが、汽車で2時間の距離を物ともせず、しばしば幸恵に会いに来た。気管支カタルを病んでいた幸恵にとってそれは大きな慰めになり、症状は次第に快方に向かった。「私もこのごろ丈夫になりました」と京助に手紙を書いたのは、この年の秋の初めのことである。

 ちょうどそのころ、弟の真志保が旭川の北門尋常小学校高等科に入学してマツの家に同居することになった。真志保は曾太郎を兄のように慕い、ときにはお小遣いまで貰うようになった。

 そんなある日、幸恵が曾太郎と遊びに出かけたまま、夜になっても帰ってこなかった。心配になった真志保は、夜中に何度も起きて玄関へ行って見たが、そこに姉の下駄はなかった。翌日は明け方から雪になった。朝早く起きて外に出て見ると、薄く積もった雪の上に新しい下駄の跡がついていた。

「いまでは、ほんとうによかったと思っている。あの若さで人を愛することを知っていたんだから」と真志保がのちに妻の萩中美枝に語ったと、石村博子の近著『ピリカチカッポ知里幸恵と『アイヌ神謡集』』(岩波書店、2022)が伝えている。以下の記述も同書に教わるところが多い。

 しかし、この恋はすぐに暗礁に乗り上げた。曾太郎の人柄をよく知る祖母モナシノウクとマツは、2人はいずれ結婚するだろうと温かい眼で見守っていたが、実母のナミが強硬に反対した。開拓農家の主婦の過酷さを身に染みて知っているナミは、心臓に持病をかかえる幸恵に農家の嫁がつとまるはずはないと思ったのである。曾太郎が小学校の高等科しか出ていないことも反対理由のひとつだった。

 それでも幸恵が自分の言いつけに従わないと知ると、ナミは深い雪のなかを登別から旭川までやってきた。ナミは娘を台所の板の間に座らせ、長時間にわたって曾太郎と別れるよう説得した。幸恵は泣きながらそれを聞いていた。マツが見かねて幸恵の肩をもったので、今度は姉妹の仲が険悪になった。幸恵には自分のことより、2人の母がいがみ合うことのほうが悲しかった。

 その後も曾太郎からの求愛は続いた。幸恵はナミの言いつけを守って一旦はそれを断ったが、「体の弱い私はいつ死ぬかわからないが、死ぬときはあなたの胸に抱かれて死にたい」と手紙を書いた。あなたを愛してはいるが結婚はできませんという決意の表明である。

 大正11年(1922)に入ると、幸恵は曾太郎への思いを断ち切るかのように上京の準備を急ぎ、3月1日に『アイヌ神謡集』の序文を書き上げた。これは天才少女、知里幸恵の絶唱と呼ぶにふさわしい名文である(引用は岩波文庫版による)。

《その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう》

 この書き出しにつづけて、大自然に抱擁された「彼等」の生活が語られる。 

《冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮してふきとりよもぎ摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とるかがりも消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、まどかな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう》

 しかし、それも今は昔。押し寄せる植民地化の波によって「彼等」の夢は破られ、大地は急速に変貌してゆく。

《太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念ママに支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう》

 時は流れ、世は進展する。激しい競争場裡に取り残された同族のなかから、いつかは強者があらわれて進みゆく世と歩をならべる日も来るだろう。それが私たちの切なる望みなのだと断わったうえで、幸恵はいよいよ『アイヌ神謡集』刊行の意義に説き及ぶ。

《けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにもいたましい名残惜しい事で御座います。

 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。

 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます》

 亡びゆく民族の遺産を、アイヌに生まれアイヌ語のなかで育った自分が書き残す。それはまさしく「無限の喜び、無上の幸福」だったに違いない。

 幸恵はこの原稿を京助に送り、「健康も回復したので近く上京したいと思いますが、ご迷惑ではないでしょうか」と問い合わせた。するとすぐに「それは私の方で前からお願ひしてきたことです。私の家でよかったら、いつでも喜んで歓迎します」と返事がきた。これで幸恵の上京の意思は固まった。

 幸恵の結婚に反対した登別の両親は、この上京にも同じ健康上の理由で反対した。そこで幸恵は父親の高吉あてに懇願の手紙を出した。

「何卒後生のお願ひですから、お父様御賛成下さる様におねがひ申上げます。(中略)ほんとに、此の度だけ何うぞお願ひをお聞き入れ下さいまして、不孝な娘の望みを達してやって下さる様にお願ひ申上げます」

 この必死の願いが功を奏して、頑固な父親もついに折れた。曾太郎との仲を引き裂いたことに内心やましさを感じていた母も、今度は意外にあっさりと上京を許した。

 ところで、前記『ピリカチカッポ』によれば、幸恵と曾太郎は3月に名寄で仮祝言を挙げたという話があり、地元ではそれが半ば定説になっているという。

 しかし、幸恵はのちに京助の問いに対して「嫁として舅姑に仕えることを考えると、病身の自分には満足なことはできない。それはお互いの不幸だと思わざるをえなかった」と答えているから、仮にもせよ、この時期に祝言を挙げたとは考えにくい。真相はおそらく、上京の挨拶にきた幸恵を迎えて、村井家で送別会が開かれたということだろう。

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 大正11年(1922)4月28日、幸恵は家族に見送られて旭川を出発した。荷物のなかには清書した『アイヌ神謡集』の原稿が入っていた。曾太郎には「本が出たらすぐに帰ります」と約束していたが、その約束が果たされることはなかった。

 登別の実家で10日ほど過ごしたあと、5月11日の夕刻に室蘭から青森行きの船に乗った。翌日未明に青森港に着き、午前6時15分青森発の上り列車に乗った。

 列車は翌13日午前5時に上野駅に着いた。到着ホームには京助が待っていた。2人は駅前から人力車に乗って本郷森川町の金田一邸へ向かった。途中の商店や住宅はまだ戸を閉ざしていた。東京の人たちは夜更かしをするので朝が遅いのだろうと幸恵は思った。

 金田一家では、京助の妻静江、8歳の長男春彦、1歳になったばかりの四女若葉、そして幸恵と同年輩のお手伝い、きくが出迎えた。静江は若葉を産んだころから不定愁訴の症状がつづき、日によって気分がはげしく変化した。

 東京に着いて4日目の5月17日、幸恵は登別の両親に4時間かけて長い手紙を書いた。

《(青森港で船を下りると)道の両側、彼方にも此方にも赤い大林檎を山と積んで、光った眼に商売人の色をたゝへた男たちが、「姐さん、ねえさん、林檎をおかひなさい、東京へのお土産に」なんて、何処へ行くとも云ひやしないのに、人の顔に書いてあるのを読む様な目をして「おいしいんですよ、東京の人もよろこびますよ」だのって、口々に呼びかけるのです。(中略)あんまり林檎が美味そうなのにのどがかわき出したので、六十八銭出して大きな林檎の十五はいってゐるのを買ってブラ下げて来ました。スルトまた法被を着た宿引だか何だかにつかまったので、「いゝえ、今一番で行くんです」と言ってプイとそらして参りました。六時十五分発、東北本線上野行に乗りこんで汽車が動き出した時は、私は、あの小さいフォークで林檎の皮をむいて頬ばってゐたのでした》

 見るもの聞くものがすべて珍しい初旅の興奮を伝えて、これはなんとも見事な描写力である。この手紙の書き手がもう少し長生きしていたら、あるいは小説家としても一家を成したかもしれない。 

 6月1日からは日記を書き始めた。「おもひのままに」と題されたこの手帳サイズの日記帳は、幸恵の短い生涯の最後の日々を伝える貴重な資料となった。これらの手紙や日記はすべて登別の「知里幸恵 銀のしずく記念館」に収蔵展示されている。

《昨日と同じに机にむかってペンを執る、白い紙に青いインクで蚯蚓みみずの這ひ跡の様な文字をしるす……たゞそれだけ。たゞそれだけの事が何になるのか。私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連なる尊い大事業をなしつゝある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為、(中略)私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ》

 啄木の日記がそうだったように、幸恵のこの日記にも、どこかに読者の眼を意識したようなエクリチュールが感じられる。ひょっとすると、幸恵はこれを遺書のつもりで書き始めたのかもしれない。その最初の読者だった京助は、なぜかそれを終生秘蔵して人目にさらそうとしなかった。

 この年の夏は、ことのほか暑かった。京助は当時、東大と国学院のほかに、早稲田、中央など4つの大学の講師をかけもちしていたが、大学が夏休みに入ると、幸恵とともに終日書斎にこもった。

《私の書斎にいてもらって、アイヌ語の先生になってもらうと同時に、私からは英語をおしえてあげつゝ、お互いに教えつ教わりつして、本当にお互いに心から理解し合って入神の交わりをしました。涙を流してアイヌ種族の運命を語り合うことなどが習慣のようになりました。しかし、幸恵さんはいつでもその悲しみの嗚咽おえつの下から、感謝の祈りを神様にさゝげさゝげされました》(「故知里幸恵さんの追憶」)

 京助がここで「入神の交わり」などと書いたために、地元の旭川では「幸恵は金田一先生の子を宿していた」というあらぬ噂が立った。弟の真志保も一時はそれを疑っていた形跡がある。

 しかし、「入神」とはもともと技量が上達して霊妙の域に達するという意味だから、ここはあくまで学術的に息が合った師弟の交わりと解すべきだろう。もし仮に何かがあったとしたら、京助がそれを追悼文のなかで公開することはなかったはずである。

 この「入神の交わり」を通じて、京助のアイヌ語学は飛躍的に向上した。

《私が十年わからずにいた難問題を捕えて、幸恵さんに聞くというと、実に、袋の中の物を取り出すように、立派に説明してくれる。その、頭脳のよさ、語学の天才だったんですが、本当に天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性だったんです》(「『心の小道』をめぐって」)

 その十年来の「難問題」のひとつに、アイヌ語における動詞の複数形の問題があった。

《ですから私は、十人のアイヌがこうやった、とその複数形を使うと、複数形があって、誤りはないはずなのに、なおされる。いつでも必ずなおされるので、「なぜ複数形があって、その複数形を十人なり二人なり、はっきり数字が一人じゃないということを表しているのに、複数形を使うと間違いなのか、どういうわけか」と聞いたら、幸恵さんは笑っていうのです。

「先生、十人とか二人とか、はっきり一人じゃない、とわかっているのに、複数形を使うと、馬から落馬したとか、被害をこうむった、という言い方と同じです。ですから、私は、馬から落ちたとなおし、被害があったというふうになおすのです」

 といって、その例をいくらでもあげてくれました。そして、ヒマラヤ山中に住んでいる二、三の種族などもそうだが、アイヌ語もそうだったのか、とすっかり感服したものです》(『私の歩いて来た道』)

 それから9年後の昭和6年(1931)に刊行された京助の代表作『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』の第7章「文章法」に、こういう一節がある。

《アイヌ語に数の制あり、単数・複数によりて人称辞・代名詞及び動詞が形を替えるのであるが、その用法の上に甚だ特色あり、久しく知りがたいものであった。(中略)名詞そのものには単複による形の変化はない。動詞に単複による語幹の変化あること、殊に自動詞に於て然り》

 その「久しく知りがたいもの」を教えてくれたものこそ、このときの幸恵のことばにほかならない。京助は昭和7年(1932)にこの研究で帝国学士院(現在の日本学士院)恩賜賞を受賞して学者としての名声を確立した。つまり金田一京助を金田一京助たらしめたのは幸恵の教えだったといっても過言ではない。

 幸恵が寄寓している間も、静江の心身の不調は続いた。「赤ん坊の声を聞くと死にたくなる」と訴えたというから、いわゆる「産後鬱」だったのかもしれない。そういうときには幸恵が若葉をおんぶして近所へ散歩に出かけた。歩きながらイフンケ(子守唄)を口ずさんでいると、自分も子どもが欲しくなった。

《何だか自分が母親になった様な、涙ぐましいほど赤ちゃんがかはゆくて、母らしい気分で赤ちゃんをあやし、赤ちゃんのために心配する……。子供が欲しい。またしてもこの望みが出てくるのだ》(六月二十九日の日記)

 長男春彦の相手をして、東大構内へ遊びに行くこともあった。花を摘みながら柔らかな芝生の上を歩いた。三四郎池の木々の間を飛び回る小鳥たちを見ていると、祖母と過ごしたオカチペの森の生活が思い出された。

 6月14日には静江に連れられて三越百貨店へ行った。静江は幸恵に似合う服を探して売り場を巡り歩いたが、幸恵は商品の多さに圧倒されて目が回り、心身ともに疲れはてた。

《すべてが私の目をまるくする種であった。何を見たのかちっとも覚えていない。何でもあゝいふものは私よりも色の白い人たちが興味を持って見るものであらう。私はたゞ別の人間の住む星の世界を見物にでも来た様な気がした。自分で欲しい、自分の身につけて見たいなどゝはちっとも思はなかった》

 金田一家にアイヌが出入りすることは世間周知のことだったが、最近若い娘が来たというので近所の評判になっていた。ある日、幸恵が家の外で若葉を抱いていると、近所のおばあさんが近づいてきて、勝手口にいたきくを指さしながら「あの娘さんがアイヌですか?」と尋ねた。幸恵が「いいえ、アイヌは私です」と答えると、老婆は「へえ、あなたがそうだったの」と、へどもどしながら立ち去った。

 書斎でその問答を聞いていた京助は《おかしいやら、痛快なやら、また涙ぐましさに、覚えず読みさしの本をほうり出してしまったのであった》(「秋草の花」)と書いている。これらのエピソードは、幸恵が周囲の日本人に対して「別の人間の住む星の世界」を見物にきたような違和を感じながら少しも劣等感を抱くことなく、「アイヌは私です」と明言できるだけの主体性を確立していたことを示している。京助が「涙ぐましさ」を感じたのは、そのことへの感動だったに違いない。

 しかし、幸恵の内心は穏やかではなかった。日曜日には足しげく教会に通った。6月11日には本郷教会の朝礼に参加し、夕食後に本郷中央会堂で牧師の説教を聞き、そのあとさらに救世軍の本郷小隊に駆けつけている。「教会へ行く事が私には大きな楽しみなのだ」(6月14日)と書いているが、一方でそれは「偽善者とは私の事、本当に私の事」(六月九日の日記)という自覚と、それに対する自己処罰をも意味していた。

 あるとき、静江に「おきくは家の小物に手をつける悪癖があったが、最近はあなたの正直さに感化されて盗まなくなった」と耳打ちされた幸恵は、その日の日記にこう書いた。

《ハテ、私に一たい何んなよいところがあるのか、臆病な卑怯な心の持ち主の私の、何処が人を感化する力を持ってゐるのだ――自分で自分をさへよくする事が出来ない私ではないか……おゝはづかしい。(中略)

 私にはどんな性癖があるのだ。――人前を飾る――――それではないか。即ち虚偽! 言葉にも行動にも。他人の感情を害ふ事を無闇とおそれる私。やはり臆病なのだらう。心にもないお世辞を吐いたりする》(六月十四日)

 こうした「偽善者」意識の芽生えは、思春期の女性には(男性にも)格別珍しいことではないともいえるが、幸恵はとりわけ罪の意識に敏感な少女であり、それが彼女の感受性の基層を形成していた。

 その間にも幸恵の心臓病は次第に悪化し、最期の時が近づきつつあった。

 

(つづく)