第二十章 父と子

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 昭和12年(1937)8月11日、横浜市鶴見区の病院から京助に電話がかかってきた。「入院中の金田一ヨネさんが重篤です。すぐに来てください」。それはまさしく寝耳に水の知らせだった。京助は取るものも取りあえず横浜へ急いだ。

 病院では枯木のように痩せ衰えた姉が弟の到着を待っていた。医師は「衰弱がひどくて、もう回復の見込みはない」といった。京助はすぐ自宅に引き取ることにした。苦労をかけつづけた姉に対する、それがせめてもの恩返しだった。病院に車を頼み、担当の医師に同乗してもらって、深夜1時に杉並区東田町の新居に到着した。

 ヨネはすでに重湯も喉を通らず、氷水やジュースをすするのがやっとの状態だったが、それでも炎暑の夏を23日間生き延び、9月2日に帰らぬ人となった。波乱に満ちた58年の生涯だった。

 この夏、京助は病人の介護をしながら、秋に人文書院から出る『採訪随筆』の推敲と校正をつづけた。そういえば、大正元年(1912)9月に父の久米之助が死んだときにも、『新言語学』の校正刷に目を通していた。初めての著書となった同書の扉に、京助は父と姉に対する献辞を捧げた。

 ヨネの初七日の法要を終えた9月8日の夜、京助は『採訪随筆』の序文と献辞を書いた。「つつしみて此の書を永芳院玉宗妙心大姉の御霊に捧ぐ」。この献辞には、長男の自分に代わって一家を支えてくれた姉に対する感謝と贖罪の思いが込められていた。

 久米之助が金田一本家の義父(京助たちにとっては母方の祖父)直澄から分与された屋根瓦製造工場の経営に失敗し、大沢川原おおさかわら小路の家屋敷を借金のかたに取られたあと、ヨネはこれも直澄から譲られた盛岡駅前の割烹旅館「清風館」をひとりで切り回して一家の家計を支えた。 

 京助は盛岡中学校を卒業する前に、野村長一(胡堂)、石川一(啄木)らの文学仲間を「清風館」に招いて短歌の会を催した。胡堂がのちに「生まれて初めてライスカレーというものを喰った」と書いたのはこのときのことである。

 久米之助の死後、ヨネは番頭の豊治と結婚した。長男として「清風館」を相続した京助は、実印を姉夫婦に預けて、それまで通り経営を任せることにした。旅館の景気はよくなかったが、それでも夫婦が食べていけるだけの収入はあった。

 しかし、豊治はもともと山っ気の多い人物で、貧乏旅館の亭主の座には満足しなかった。金鉱山でひと山当てようと、京助の実印を使って盛岡銀行から借金を重ねたが、計画はことごとく裏目に出て、莫大な債務が残った。

 当時、盛岡銀行の経営は、京助の伯父勝定から娘婿の国士(京助の従妹りうの夫)の代に移っていた。豊治夫妻にはまだ「うちの銀行」という甘えがあったようだが、国士は金田一家と血のつながりがないだけに取り立てが厳しく、問題はついに裁判所に持ち込まれた。

 京助が帰郷して親族会議が開かれた。盛岡とその周辺に住む弟妹が久しぶりに顔を揃え、豊治の弁護士も同席した。議論の大勢は、罪はすべて実印を無断使用した豊治にあるのだから、この際きっぱりと縁を切って、刑務所へでもどこへでも行ってもらおうというところに落ち着きそうになった。するとそれまで黙って項垂れていたヨネが突然顔を上げ、「わだすはこの人にどこまでもついてぐ」といって泣き出した。

 ここは京助の出番だった。「借用証に私の実印が捺されている以上、私の責任は免れない。豊治さんはともかく、姉さんに罪はない。私が被告人として法廷に立つことにしましょう」 

 それを聞いて感動した弁護士が法廷で熱弁をふるった結果、「学者である被告人に法的な瑕疵はない。返済の保証もなしに金を貸した銀行側にも責任がある」という判決が出て一件は落着した。

 その直後に、豊治は出奔した。仙台へ逃げたとか、横浜で見かけたとかいう噂が流れた。そのうちにヨネも姿を消した。豊治の後を追ったものと思われたが、そのまま消息を絶って長い歳月が流れた。

 ヨネは流浪の末に行き倒れて、鶴見の病院に収容された。名前だけは名乗ったが、素性を明かそうとはしなかった。金田一という珍しい姓に気づいた医師が「もしや、あの金田一京助さんの身内では?」と問い質すと、最初は否定していたが、何度目かの問いにしぶしぶ京助の姉であることを認め、「こごさは呼ばねえでくなんせ。弟には迷惑かげたくねがら」といった。

 しかし、病院にしてみれば、入院治療費の問題もあって、親族に連絡しないわけにはいかなかった。京助は有名人だったから、電話番号を調べるのに時間はかからなかった。

「弟さんはすぐ来るそうですよ」と医師が告げると、ヨネは黙って頷いたという。

 昭和十年代といえば、戦争一色の暗い時代だったと思われがちだが、実は意外に華やかな一面もあって、浅草のオペラ館や新宿のムーラン・ルージュが人気を集めていた。オペラ館の主役がナンセンス・コメディーのエノケンこと榎本健一だとすれば、ムーラン・ルージュの花形は岩手県釜石出身の美人女優明日あした待子まつこで、京助はこのトップスターの熱烈なファンだった。

 京助がムーラン・ルージュに通い始めたのは、国学院大学の教え子の伊馬いま春部はるべがこの劇場で軽演劇の台本を書いていたからである。「先生、たまにはレビユーでも観て頭を休めてくださいよ」と伊馬に誘われたのがきっかけで病みつきになり、特に同郷の明日待子をかわいがった。息子春彦の回想「父京助と女性」によれば、そのかわいがり方がまたいかにも京助流だった。

《京助の死後、待子さんに聞いてみると、自分はウナギがきらいであるのに、京助に誘われて竹葉へ行き、目をつぶって食べたときの苦しかったこと、朱色のワンピースで、衿元を白のフリルで飾ったのがあって、お地蔵様のよだれ掛けのようでいやだったが、京助が目を細めて「とても似合いますねえ」とほめるのでうれしかったというような思い出の数々が口をついて出てくる。いろいろの出会いがあったらしい》

 明日待子は戦後、ムーランをやめて北海道の大きなデパートの社長夫人に収まっていたが、京助の死を新聞で知ると空路上京して漆黒の喪服姿で式場に現れ、遺影の前ではらはらと大粒の涙を流した。その姿は《どんな芝居の名場面にもまして感動的だった》

2

 昭和12年(1937)3月に東京帝国大学国文科を卒業した春彦は、5月に本籍地の盛岡で徴兵検査を受けた。第二乙種合格で、12月に「第一補充兵籤外七番」の通知が届いた。不適格者が7人出た場合は盛岡連隊に応召せよという意味である。この年7月に日華事変(日中戦争)が始まっていたので、いつ赤紙(召集令状)が来るかわからなかった。

 春彦は、父の故郷とはいえ自分にとっては見知らぬ土地の盛岡で入隊するのはいやだった。東京からあまりにも遠く、ことばもうまく通じないように思われた。そこで東京に本籍を移してほしいと京助に懇願した。

《父は、私の頼みを聞いて、かいびやく以来の渋い顔をした。何と答えていいかわからぬ風だった。が、私の主張の強さに根負けして、本籍を移してくれた。これ以来、金田一京助は、東京都杉並区東田町一ノ一一五の人間ということになった》(「父ありき」)

 このとき京助は、自分の家族だけでなく、吉祥寺に住んでいた弟の安三一家も同じ戸籍に移した。盛岡の戸籍には戸主の京助以下おびただしい数の弟妹とその子供たちの名が並んでいたのに、いきなり自分の家族4人だけにしてしまうのがさびしかったのである。安三は鉄道省に勤めていたので、春彦たちにも鉄道の無料パスがもらえたのは思わぬ余得だった。 

 ちなみに京助は、それから22年後の昭和34年(1959)に盛岡市の名誉市民に選ばれた。本籍を移したことで故郷に背いたような気がしていた京助は、それをことのほか喜んだという。

 昭和13年(1938)の4月に召集令状が来て、春彦は甲府の第一師団第四十九連隊に入隊した。京助は「本籍を変えたから召集が早く来たんだ」といって嘆いたが、春彦には何とも答えようがなかった。

 入営の日、京助は甲府まで春彦に付き添い、息子が営門に入るのを見守った。その後、甲府に3日間滞在し、朝鮮は京城郊外の龍山に出征する春彦ら新兵の一隊を甲府駅頭に見送った。そのとき詠んだ「弱卒行」十二首のうちの一首。


 ひとり子を君に捧げてわが帰る甲斐の山里花盛りなり


 龍山に到着してまもなく、春彦は胸を病んで陸軍病院に入院した。余談だが、松本清張は昭和19年(1944)6月、34歳で福岡の第八十六師団歩兵第七十八連隊補充隊に応召し、この龍山陸軍病院に衛生二等兵として勤務した。もし春彦の入院が数年遅れていたら、彼はあるいは清張の看護を受けていたかもしれない。

 春彦の入院を知った京助は、居ても立ってもいられなかった。君(天皇)に捧げた命ではあっても、学業半ばで病没させるわけにはいかなかった。そこで春彦とともに仕上げた『国語アクセントの研究』2冊を持って海を渡った。訂正すべきところがあれば、いまのうちに聞いておきたいと思ったのである。

 春彦は白衣姿で病院のベッドに横たわっていた。まさか京助が朝鮮までやって来るとは思わなかったので、「お父さん!」と叫んで絶句した。京助は荷物を放り出して駆け寄り、黙って息子の手を握りしめた。

「戦友が次々に戦地へ発って行くのに、自分はここで寝ているしかない。それがいちばんつらいのです」

 春彦はそういって唇を噛んだ。京助には慰めることばがなかった。その夜、京助は「病卒行」十四首を詠み、翌日清書して春彦に渡した。


 をとこじものたおれて後に止まむのみ弱卒の努力を父は買ふべし


「をとこじもの」は「男であるのに」を意味する古語で、『万葉集』に「脇挟む児の泣く毎にをとこじもの負ひみ抱きみ」という用例がある。この父子にしか通じない「心の小道」といえるだろう。

 半年後に除隊して帰国した春彦は、京助から少しずつ距離を置くようになった。「何でも一方的に進めようとする父に反発したくなった」からだという。石川啄木がそうだったように、名家の長男として大切に育てられた京助には、いつまでたっても惣領意識が消えなかったようである。

 帰国後も大学院に残って日本語アクセントの研究に励むようにとすすめる京助に対して、春彦は「いや、私は働きながら研究を続けます」といって府立第十中学校の国語教師になった。そしてそれを機会に家を出て独立することにした。

 府立十中は現在の都立西高で、昔も今も杉並区の宮前にある。東田町の家からは井の頭線の浜田山駅まで歩き、3つ目の久我山駅で降りれば片道30分ほどで行ける距離である。しかし、どうしても家を出たかった春彦は、「その学校は家から遠いのか」と京助に訊かれたとき、こんな嘘をついた。

「阿佐ヶ谷から新宿に出て小田急線に乗り換え、下北沢でまた井の頭線に乗り換えなくてはならないので、どうしても一時間以上かかります。ですから、赤坂のほうに下宿して、そこから通うことにします」

 方向音痴で地理に疎い京助は、頭からそれを信じた。「そうか、そんなに遠いところなら仕方がないな」。ちょっと調べればすぐわかるはずなのに、専門以外のことにはまったく頭のはたらかない、典型的な学者馬鹿だったのである。

 春彦が浦和高校在学中に下宿していた三上という一家が、この頃、東京の赤坂に越してきていた。そこで今度も三上家に間借りすることにし、赤坂から1時間以上かけて久我山の学校へ通った。その後、春彦は昭和17年(1942)に三上家の長女珠江と結婚する。ひょっとすると、お目当ては最初からこの女性だったのかもしれない。

 春彦は母の静江が貧乏学者の父と結婚して苦労するのを幼時から目の当たりにしてきた。金銭的な迷惑をかけられ通しだった啄木との「美しい友情」、次々に上京しては長期滞在していくアイヌの老人たちとの息のつまるような生活。そうした苦労が積み重なって、もともと病弱だった母の心身を蝕んでいくのを見てきた。

 だから、自分が結婚するときは、父の希望する良家の令嬢ではなく、母と気の合うやさしい娘を選びたいと思っていた。珠江はその条件にぴったりの女性だった。

《妻が、その後、母と仲よく行っていることは私にとって幸せである。しゅうとめと嫁の間の争いの苦労を、私はほとんど経験しない。母の性質を思うと、これは奇跡に近い。私は学問の上でもその他の点でも、色々の意味で父のような輝かしいことはできなかったが、結婚だけは父より成功したと思う》(「父ありき」)

 静江にとっては、仲のいい嫁に恵まれた晩年が、生涯でいちばん幸せな時期だったのかもしれない。

3

 太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)12月、京助は東京帝国大学教授に昇進した。60歳の定年を1年後にひかえた、お情け人事ともいえる昇進だった。京助は8年前に高等官三等、従五位に任じられていたが、教授就任とともに高等官二等に昇級した。

 教授への道を開いてくれたのは、博士号取得のときと同じく同期の橋本進吉だった。教授会で昇任が認められた日、橋本は京助を自宅に招き、ビールで乾杯しながら、こんな打ち明け話をした。

「これまで君の昇進を阻んできたのは、じつはこの私なんだ。何度か昇進の話はあったのだが、藤岡(勝二)先生の手前もあって、私が抑えてきた。君と同期だということで、逆に公正さを疑われる恐れもあったしね。しかし、いまやその心配もなくなったので、遅まきながら君を言語学科の教授に迎えることにした。どうか私を許してほしい」

 少し意地悪な見方をすれば、これは先に教授になった橋本が同期の万年助教授に邪魔をした詫びを入れながら同時に恩も売るという、いささか調子のいい弁明に聞こえなくもない。しかし、生来信じやすい京助は、ただただ橋本の友情に感謝し、感涙にむせんだのである。

 昭和18年(1943)3月、京助は東京帝大教授を退職した。書類上は「依願免官」となっているが、要するに定年退職である。この間に大著『国語研究』を上梓し、勲四等瑞宝章を受章した。退職した年の5月には三省堂から京助が監修した『明解国語辞典』の初版が刊行された。京助と辞書については、章を改めて詳しく見ていくことにしたい。

 昭和19年(1944)に入ると戦局が悪化し、東京は空襲の危険にさらされるようになった。近隣の住民は次々に疎開していったが、京助は膨大な蔵書とともに杉並の家にとどまった。そもそも皇国日本が鬼畜米英に負けるはずはないと信じていた。

 春彦が心配して、珠江の弟を連れて防空壕づくりにやってきた。庭の松の木の下に、家族三人がやっと入れるだけの小さな穴を掘った。静江と若葉が不安そうにそれを見守っていた。

 故郷の岩手県内なら、父もあるいは疎開する気になるかもしれないと考えた春彦は、紫波郡日詰町に住む叔父(京助の四弟)の直衛に頼んでみるようにと京助を説得した。京助はしぶしぶ「自分は東京にとどまるつもりだが、妻子だけそちらへ疎開させたい」という手紙を書いた。

 すると、すぐに返事が来た。「いま、盛岡の市民は続々と日詰に疎開し、日詰の町民は山奥の村へ疎開し、山奥の村民はもっと深い山の中へ逃げ出そうとしている。疎開などというものは臆病者の気休めにすぎない。まして兄貴ひとりを東京に残して逃げ出そうとするようなご婦人方のお世話はできません」。

 静江は結婚当初から異邦人ともいうべき盛岡の人たちが苦手で、親戚づきあいを避けてきた。そのこともあって、安三を除く京助の弟妹たちは、この兄嫁をあまり快く思っていなかったらしい。 

 京助の教え子で春彦の先輩にあたる言語学者の服部四郎が、青梅の養蚕農家の一室に疎開していた。春彦は服部を訪ねて、母と妹、父の蔵書の一部を預かってもらえないかと頼んだ。幸い、蚕室のひとつが空いていたので、そこを借りることにした。

 こうして杉並の家にひとり取り残された京助は、慣れない自炊をしながら著作に励んだ。前年の『明解国語辞典』と『アイヌの神典』につづいて、この年の6月には『言霊をめぐりて』を上梓した。その直後に初孫が誕生して京助は「おじいちゃん」になった。

 同年8月には登別に金成マツを訪ね、マツが筆録したユーカラのノートが無事手元にあることを告げた。そして、この際それを知里真志保に託して研究に役立ててもらってはどうかとすすめた。もとよりマツに異存はなかった。こうしてマツのノートは真志保の手元に置かれることになった。

 やがて米の配給が途絶え、代わりにときどき酒と煙草が配給されるようになった。そこで仕方なく、栄養補給のために飲めない酒を飲み、それまで吸わなかったきざみ煙草を、父の遺品の煙管きせるに詰めて吸った。煙にむせて涙が止まらなくなることもあった。

 昭和20年(1945)6月末、春彦が奥多摩で手に入れたジャガイモをリュックにつめて持ってきた。春彦は自分の妻子も母たちの近くに疎開させていた。青梅から立川まで歩き、満員電車で三鷹へ、そこからまた徒歩で杉並へという、およそ半日がかりの行程だった。


 京助は頬がこけて皺が深くなっていたが、意外に元気そうだった。都内で焼け出されて静江の部屋に間借りしていた一家の主婦にジャガイモを茹でてもらい、みんなで食べた。「アイヌのコタンでは、これさえあれば生きていけるのよ」と上機嫌で食べ終えた京助は、ぽつりとこう呟いた。

「沖縄へ米軍が上陸したそうだが、もしここへ米兵が攻めて来たら、私は竹槍で刺し違えて死ぬつもりだよ」

 しかし、米兵は攻めて来ず、京助の家は奇跡的に空襲をまぬがれた。

 

(つづく)