第十二章 啄木昇天
明治45年(1912)3月31日、啄木の窮状を知った京助は、静江に事情を話し、4月分の家計費から10円を出してもらって小石川久堅町の石川家に駆け戻った。
京助が息を切らしながら枕元に座り、「石川君、これで何とかしてくれ」と1円札10枚を手に握らせると、啄木はしばらく眼をつぶったまま何もいわなかった。せめて紙に包んで渡せばよかったなと思いながら眼を上げると、啄木は胸の上で両手を合わせて拝むような恰好をした。対座していた妻の節子も、無言のまま大粒の涙を膝にこぼした。京助もにわかに胸が詰まって涙がこみあげてきた。それからしばらく、3人は無言のまま涙を流しつづけた。
「病んで寝ていると、つくづく人の情けが身にしみます」と病人が口を切った。「きっとまた金田一さんにご無理をさせたんでしょうね」
「いやいや、これは前に話した翻訳料の半分だから心配はいらないよ」
「そうですか、あなたの処女作がいよいよ世に出るんですね。よかった、よかった」
啄木は少し元気を取り戻したように見えた。そのあと1時間ほど世間話をして、京助は石川家を辞した。
それから2週間後の4月13日、夜明けに金田一家の門が叩かれた。静江が出て見ると、門前に人力車が停まっていた。
「小石川の石川さんから参りました。こちらの旦那さんにすぐ来てくれとのことです」
それを聞いて、京助はついに来るべき時が来たと思った。その日は土曜日で8時から10時まで国学院の授業があった。そのため枕元に着て行く服を用意しておいたので、支度はすぐに整った。
車に乗り込むとき、静江が背中から声をかけた。「授業はなるべく休まないでくださいね」。講師料の1円が入らないと、その月の家計に支障が生じるからである。
車が石川家に着くと、節子が玄関に出迎えた。
「昨日の夕方から昏睡状態になって、目を覚ますたびに金田一さんを呼んでくれっていうんです。今夜はもう遅いからとなだめたんですが、今朝も暗いうちからせがむものですから、こんな時間にお呼びたてして申し訳ありません」
玄関を上がって取っ付きの唐紙を開けると、啄木はこちら向きに寝ていた。痩せこけて骸骨じみた目、鼻、口が一斉に開き、そこから風が吹き出すようなかすれ声で、啄木はひとこと「頼む!」といった。
遺していく家族のことを頼まれたのだとはわかったが、そのときの京助には啄木一家を引き受けて世話をするだけの経済的な余裕はなかった。そのため、ろくな返事もできないまま呆然としていると、啄木は安心したかのように昏睡した。
そこへ若山牧水がやってきた。京助の乗ってきた人力車を節子がそちらへ回したらしい。牧水は近所に住んでいたので、最近は足繁く石川家に出入りしていた。
節子が枕元で「若山さんがいらっしゃいましたよ、若山さんですよ」と大きな声で繰り返したが、啄木は返事をしなかった。何度目かの呼びかけに応えてやっと「知ってるよ」といった。知ってるなら早く返事をすればいいのにと、京助と牧水が目を見合わせていると、啄木は牧水を手で呼び寄せた。
牧水が枕元の畳に両手をついて身を乗り出すと、啄木はその手首に目をやりながら「きみはいいなあ、そんなに太っていて」といった。牧水がぷっと吹き出し、その場にふさわしからぬ笑い声がはじけた。
それから啄木と牧水は何かの打ち合わせを始めた。京助にはさっぱり事情が呑み込めなかったが、1年後に牧水が読売新聞に寄稿した「啄木臨終記」を読んで、当時二人の間で雑誌刊行の話が進んでいたことを知った。
啄木はその前に歌人の土岐哀果と『樹木と果実』という雑誌の刊行を計画したが、印刷所工員のストライキのために頓挫していた。今度の雑誌は啄木の死によって頓挫し、結局2つとも「幻の雑誌」に終わった。
牧水との話の途中で、啄木は京助のほうに顔を向け、「今日は国学院の講義がある日でしたね。時間は大丈夫ですか」と訊いた。京助が「まだ大丈夫」と答えると、またしばらく牧水と話したあとで、「もう行ってください。遅れるといけないから」といった。部屋の出入り口に控えていた節子も、京助の耳元に口を寄せて「この分なら大丈夫だと思います。どうかいらしてください」とささやいた。
そういわれて、京助もその気になった。出がけに静江から「なるべく休まないで」といわれたことも耳に残っていた。そこで、「じゃ、行って来ようかな」といって立ち上がった。部屋を出るときに振り返ると、啄木は眼でうなずいてみせた。それがこの世の見納めになった。
国学院の授業を終えて11時ごろ久堅町へ戻ると、近所のポストのそばに啄木の娘、京子が立っていた。母に頼まれて手紙を出しに来たらしい。京助が腰を屈めて「お父さんは?」と問うと、京子は「寝ている」と答えた。京子にとって最近の父はいつも寝ている人だった。
京子を伴って家に入ると、玄関の屏風が逆さまに立てられ、啄木の着物が逆さまに掛けられていた。節子が啄木の顔の上の白布を取って「どうぞお別れをしてください」といった。そこには先刻と寸分変わらぬ顔があった。その口は今にも開いて「知ってるよ」といいそうに見えた。しかし、頬に手を触れてみると氷のように冷たくて、啄木がすでにこの世の人ではないことを納得させられた。
啄木の葬儀は、4月15日午前10時から浅草の等光寺で営まれた。ここは土岐哀果の実家で、先月亡くなった母カツの葬儀も哀果の好意でこの寺で行われた。
小石川から運ばれてきた啄木の棺は、ここで金田一京助、土岐哀果、若山牧水、佐藤北光らによって本堂に安置された。会葬者は夏目漱石、木下杢太郎、北原白秋、佐佐木信綱など40数名に上った。与謝野鉄幹は少し遅れて到着した。次女房江を身ごもっていた節子は葬儀には加わらず、自宅で待機していた。
この葬儀には当時の日本を代表する文学者がほぼ全員顔を揃えていた。生前に詩集と歌集を1冊ずつ残しただけの文学青年の葬儀としては、それは盛大にすぎるものだった。啄木は生活者としては不遇だったが、文学者としてはきわめて潤沢な交友関係に恵まれていたのである。
それから7年後、大正8年(1919)4月12日付けの「時事新報」に、京助は「啄木逝いて七年――石川君最後の来訪の追憶」という文章を書いた。
《垂死の病人が、跪座して肘を挙げ眥を決して、社会の病患を指摘し現代の組織を呪詛する声が、悲しと聞かれずに何と響こう。「そうだ」とは同じ切れず「そうでない」とも争えず、闇然として涙を呑めば、夫人もそっと顔を掩って泣いているのであった。気づいた様子もなかったけれど、敏感な詩人はやっぱりこれに気づくのであったらしい。即ち其歌である――『友も、妻も、かなしと思ふらし、病みても猶、革命のこと口に絶たねば』》
この歌は啄木の死後に刊行された第二歌集『悲しき玩具』に収められた。本郷弓町の「喜之床」の2階で病臥していた明治44年(1911)6月の作と推定される。当時の啄木は、この年1月に判決の出た大逆事件に触発されて幸徳秋水やクロポトキンの思想に共鳴し、社会主義への傾斜を強めていた。ロシアの革命家たちへの共感をうたった詩「はてしなき議論の後」が書かれたのも、このころのことである。
しかし、天皇制帝国主義という明治の国体を堅く信じて疑わなかった京助は、啄木の新しい思想についていけず、病める社会主義者の熱弁を枕元で聞きながら肯定も否定もできず、ただ「闇然として涙を呑」む以外になかったのである。
これにつづけて京助は《此の切実なる欣求が、石川君の魂に果して何を齎したか? 石川君はあの社会主義詩を残して此の世を呪詛しつつつ死んだか? 果ては一片の希望を握って力の尽きるが儘に瞑目したか?》と自問しながら、次のように追憶する。
《併し乍ら私はこういう事を十分なる所信を以て読者に報告することができる。其は四十四年の夏から秋へかけての事だったと思う。其の間に一度杖に掴まって私の家迄来てくれたのが恐らくは石川君が此の世の最後の訪問であったろう(私は生涯此の時の石川君を忘れる事が出来ない)。私が驚いて玄関へ立ち迎えると、其処に杖に掴まって立っている人は石川君と云うよりは石川君の幽霊のようであった。其程面窶れしていたに係わらず気分は極めて軽そうに「やあ」と云ってにこにこしていた。中二階の私の室へ通って坐った時には、少し息切がしていた様ではあったが、目馴がしたのか非常に晴やかな石川君に見えていた》
記憶だけに頼って書かれた京助のエッセイの例に洩れず、この文章にも裏付けとなる資料が存在しない。日々のできごとを克明に記した啄木の日記にも、なぜかこの訪問に関する記述はない。そのため研究者のなかには、この「報告」自体をフィクションと見る向きもあるようだが、情景描写の迫真性から推して、少なくとも啄木の来訪だけはあったと見るのが自然だろう。しかし、問題はそのあとである。
《挨拶し乍ら「今日は本当に心から来たくなって突然にやって来た」と云い云い、「実は愉快でたまらない僕の心持を少しも早くあなたに報告したさに来た。私の思想に就ては随分御心配を掛けたものだが、もう安心して下さい。今僕は思想上の一転期に立っている。やっぱり此の世界は、此の儘でよかったのです。幸徳一派の考えには重大な過誤があったことを今明白に知った」そう云って「今僕の懐くこんな思想は何と呼ぶべきものだかは自分にも未だ解らない。こんな正反対の語を二つ連ねたら、笑われるかも知れないが、強いて呼べば社会主義的帝国主義ですなあ」》
これによれば、啄木は晩年になって幸徳秋水一派の思想(無政府主義)に重大な過誤があったことを悟って「社会主義的帝国主義」に転向したことになる。しかし、啄木はこのころ、大逆事件に関する思想的見解を述べた「V NAROD SERIES」を執筆し、社会主義歌人土岐哀果との親交を深めていた。啄木の日記はもとより土岐側の資料にも、啄木の転向を窺わせる記述は見当たらない。つまり、それを知っていたのは京助だけだったということになる。
《此の日の石川君は何を語っても日頃に似ず凡ての判断の恐ろしい妥当性、凡ての推理の驚くべき透徹、私はただ歓喜の涙に目をしばたたくのであった。其の思想が呑み込めぬ迄もなお論理的形式は私にもわかるのであったから。今の言葉に云い換えるなら、此は石川君の思想の当然の帰趨として個人主義的国家主義、或いは民本主義的国家主義と呼ぶべきものだった様である。名義は兎も角要は君が前半世の帝国主義と後半世の社会主義と、此の全く相反する二大対立を包容する所の、更にもひとつ上の大きな統一態へ入ったことなのである。石川君の憧憬していた壁一重に咫尺していた所のものは、即ち愛の世界――民衆の愛であったのである》
これは京助の「如是我聞」である。つまり、その日の啄木の発言を自分はこのように聞いたということで、そこには当然、京助自身の「願望」が反映されている。
大正時代の初め、啄木はプロレタリア文学運動の先駆者として左翼陣営に取り込まれようとしていた。官学アカデミーの優等生にして国家主義者でもある京助にとって、それは身を切られるようにつらいことだった。だから彼はなんとしても啄木をこちら側に引き留めておきたかった。「民本主義的国家主義」などという無意味な造語が何よりも雄弁にそれを物語っている。ちなみに吉野作造が「民本主義」を唱えたのは、啄木の死から4年後、大正5年(1916)のことである。
この文章はこう結ばれている。
《ああ、石川君がどんな心を懐いて墓場へ行ったかは、やっぱり私にはわからない》
この啄木転向説に噛みついたのは、啄木研究家の岩城之徳(1923-1995)である。岩城は『短歌』昭和36年(1961)4月号の50年忌記念特集座談会「啄木とその時代」のなかで、「大逆事件についてはすでに明確な認識を持っていた啄木が、この時期になってアナーキズムの過誤を発見し、それをわざわざ関係が疎遠になっていた金田一氏に報告するために訪問したとは考えられない」と、訪問自体を否定した。
これに対して京助は、同誌6月号に「最終期の啄木――啄木研究家の怠慢、報告者の無識」を書いて反論、世に名高い「啄木論争」が始まった。
この論争で、岩城はさまざまな文献資料を駆使しながら啄木の思想的転向がなかったことを緻密に実証してみせたが、京助は自分の「記憶」を絶対視して誤りを認めず、「岩城君の強弁にあきれる」「知らぬことを想像するな」などと若い岩城を恫喝するような姿勢に終始した。
関係者がすべていなくなった今、この「事件」の真相は名探偵金田一耕助の推理をもってしても解決不能の謎だといっていいが、この論争に限っていえば、明らかに岩城に分があるといわざるをえない。京助と啄木が「日本一美しい友情」(桑原武夫)で結ばれていたのは事実だが、さりとてそれは京助の啄木論の正当性を保証するものではなかったのである。
昭和43年(1968)に語り下ろされた『私の歩いて来た道』では、この問題はもう少しソフトな言葉でいい直されている。
《生き残って、彼の生涯をふりかえってみるというと、かつて啄木がだんだん普通選挙が必要だ、婦人選挙もあるべきだ、社会党というものがあるべきだ(そのころ社会主義というと、お巡りさんにあとをつけられたものだったから、私などは考えることもできなかった)、社会党と保守党とが対立して、互いに政権をこうするべきだ、というふうにいっていたことが実現していることに驚きます。私などそんなことは、啄木の夢だと思っていたのが、夢どころか、ちゃんと戦後には社会党内閣ができた。啄木は、ひとつひとつ時代に先んじていたんだなと思います》
ここでは啄木の「社会主義」は時代を50年先取りした先覚的な思想として、改めて見直されている。そして、かつての「民本主義的国家主義」は、そっくりそのまま戦後民主主義に置き換えられている。
《最後には、今日の我々の思想の全体というものは、個々のために存在し、個々というものは全体のために存在するんだ。全は個のため、個は全のためという、最近の普遍的な思想――啄木はそこまで到達してひとつの大往生をしていった。そうした彼を回想してみると、急に大きな啄木が目の前に浮かんできます。ですから私の、いきとどかなかったことをも、啄木はあの世で微笑して、許してくれたろうと思い、いくらか心がなごんできたら、やっとその夢から解放されて、夢をみないようになりましたが、夢をみなくなると、それもまた寂しい気がしました》
話は元に戻って明治45年(1912)4月15日、啄木の葬儀を終えて帰宅した京助を新たな災厄が待ち受けていた。「チチキトク」の電報である。取るものも取りあえず、京助はすぐに盛岡へ向かった。郷里はまさに花の盛りだったが、彼にはそれが自分の親不孝を責めているように感じられた。
久米之助は肉体と精神を同時に病んでいた。事業の失敗による失意と心労の日々が彼の心身を蝕んだのである。京助は長男でありながら経済的には何の助けにもならず、一家の生計は盛岡駅前で旅館を営む長姉ヨネの細腕に支えられていた。
久米之助の精神病は一進一退を繰り返した。難しい病気だけに、地元の病院よりも設備の整った東京の病院に入院させたほうがよさそうに思われた。そこで東京に詳しい三省堂の同僚に相談すると、彼は巣鴨にある病院を紹介してくれた。
問題は久米之助がそれを承知するかどうかだった。気分のよさそうな日を見計らって話を切り出すと、父は拍子抜けがするほどあっさりと承諾した。これまでの親不孝の罪滅ぼしに、せめて身近で世話をしたいという京助の願いは、こうして叶えられた。
京助は日を置かずに巣鴨の病院に通いながら翻訳原稿の校正に励んだ。父が生きているうちに本にしたいと思った。その思いが実を結んで、京助の最初の著書『新言語学』は6月13日に出版された。跋文には「渺たる小冊子」とあるが、本文428ページの大冊だった。扉裏には「姉上へ」と献辞し、自分に代わって一家を支えてきたヨネへの感謝を表した。
久米之助は東京の夏を乗り越えた。9月の初め、京助が見舞いに行くと、父は珍しく冗談をいった。和やかに談笑したあと、京助が「じゃあ、また来るからね」といって去ろうとすると、父はぽつんと「俺はお前に飯粒ひとつ食わせてもらったことはなかったな」といった。それはまるで自分に言い聞かせるような、しみじみとした口調だった。
帰りの道すがら、京助は何度もその言葉を反芻した。自分は確かに父親の喜ぶようなことを何ひとつしてこなかった。死んだ啄木のためにはできるだけのことをしてきたつもりだが、実の父親にはうまい物ひとつ食べさせてやることもできなかった。
それもこれも、自分が一銭の金にもならないアイヌ語の研究に身を入れたせいだ。しかもそれはユーカラの聞き書きをノートしただけの段階で行き詰まっている。父のためにもアイヌ語にはこの辺で見切りをつけたほうがいいのではないか……。思考は堂々巡りするばかりで、いっこうにまとまらなかった。
9月16日、久米之助は死んだ。享年58。京助は自筆年譜に「父死す。憂悶、危うくアイヌ語学を廃せんとす」と記しているだけだが、長男の春彦によると、それは尋常な死に方ではなかったらしい。
《久米之助は、小柄ではあったが、人並み外れた力の持ち主で、力自慢だったそうだ。それが病院であばれたらしい。さぞや始末に困ったことであろう。病院では臨終を知らせず、死体になった後でも、どうして死んだかは、はっきり言わなかった。が、遺骸を取りに行った京助を病院で迎えたのは、腕っ節の強そうな屈強の若者たち数人で、京助はその若者たちの目の光り具合から、こいつらが自分の父親に押し掛かって取り押さえ、そうしてその息の根を止めたのではないかと直観したそうである》(「父ありき」)
明治から大正へと改元されたこの年は、京助にとって災厄の年だった。しかし、天運はまだ彼を見捨ててはいなかった。