第十五章 三冊のノート
大正7年(1918)の夏、北海道近文の金成家で忘れがたい一夜を過ごした京助は、9月初めに帰京するとすぐに鄭重な礼状をしたためた。「真底からの御厚意一生御恩に負ひて忘れヤすまじく」で始まるこの手紙のなかで、彼は知里幸恵に宛てて「アイヌ語の筆記にはローマ字が一番適しているので、どうかローマ字を勉強してください」と書いた。
この手紙をきっかけに、以後、幸恵が上京するまでの4年間、京助と幸恵のあいだで頻繁に手紙が交わされた。そのうち京助からのはがき20通は、登別の「銀のしずく記念館」に保存されている。いずれも慈父が愛娘に宛てたようなやさしい文面である。
大正8年(1919)、女子職業学校の3年生に進級した幸恵は発熱して寝込むことが多くなり、2学期からはほとんど休学状態が続いた。そのせいか、この年の手紙は1通も残されていない。翌9年(1920)3月に、幸恵からの久しぶりの手紙でそれを知った京助は、すぐに返事を書いた。
「暫くでした。御たよりありがたく拝見しました。が何といふ悲しい事でせう。実はもうお卒業の3月ですから、いよいよ今度ハ御出京のはこびにでもなるかしら、そしたら、せまいけれどうちへ来ていただけますか、など手紙をあげて見よう見ようと思ひつゝ、学期末の忙しさに取まぎれてゐたのでした。御病気なととは夢にも思ひませんでした。お大事になさい。一番若い人が何とした事でしょう。神さまに任せて楽観しながら御保養の事、くれぐれもお願ひします」
大正9年(1920)3月に女子職業学校を卒業した幸恵は、5月初めに谷口という医学博士の診察を受けた。症状は慢性気管支カタルだが、心臓に先天性の欠陥があり、根治するのは難しい、ただし無理をしなければ当面生命に別状はないだろうという診断だった。心臓の病名は僧帽弁狭窄症。いまは内科的外科的な治療が可能だが、当時は不治の難病だった。16歳の少女には、それはほとんど死の宣告のように感じられた。
この年6月、京助から3冊の大学ノートが送られてきた。「MITSUKOSHI」の社名の入った140ページもある大判のノートで、そこにはこういう手紙が添えられていた。
「御病気ハその後如何ですか。どうぞ一日も早くおさっぱりなさるやう祈って居ります。このノートブックをあなたの『アイヌ語雑記』の料として、何でもかまはず気のむくまゝに御書きつけなさい。それハ私のためではなく、後世の学者へのあなたの置きみやげとしてです。あなたの生活ハそれによって不朽性を持ってくるのです。永遠にその筆のあとが、二なき資料となって学界の珍宝となるのです。えらい事を書かうとする心は不必要で、たゞ何でもよいのです。それが却って大事な材料となるのです」
自分の病気が治らないことを知った幸恵は、おそらく京助に絶望的な心情を吐露し、自殺をほのめかすようなことを書いたのかもしれない。それに対して京助は、ユーカラの筆録という目標を与えて生への意欲を掻き立てようとした。「後世の学者へのあなたの置きみやげ」といった文言がその間の事情を雄弁に物語っている。
幸恵はすぐに返事を書いた。
「私は後世の学者へのおきみやげなどといふ大きな事は思ふことも出来ませんけれど、ただ山程もある昔からのいろいろな伝説、さういうものが、生存競争のはげしさにたえかねてほろびゆく私等アイヌ種族と共になくなってしまふことは私たちにとってはほんとうに悲しい事なので御座います。ですからさういふ事を研究して下さる先生方には、私たちはふかいふかい感謝の念をもってゐるので御座います。私の書きます中のウエペケレの一つでもが、先生の御研究の少しの足しにでもなる事が出来ますならば、それより嬉しい事は御座いません。そのつもりで私の知ってゐる事は何でも、オイナでもユカラでも何でも書かふと思ふて、それをたのしみに毎日、ローマ字を練習して居ります。あのノートブック一ぱいに書きをへるまで幾月かかるかわかりませんけれどきっと書きます」
こうして幸恵の人生の目標が定まった。それは京助が初めて幸恵に会った日から密かに望んでいたことでもあった。
幸恵は学校ではローマ字を教わらなかったので、先生は養母のマツだった。マツは英語で手紙が書けるほど横文字に堪能で、ユーカラの発声や発音にも通じていたので、幸恵にとっては最良の教師だった。
ところで、ここで幸恵がユーカラを「ユカラ」と表記していることに注意しなければならない。ユーカラを原音どおりに表記すればyukarで、yuの部分は伸ばさず、最後のrは英語の子音と同じ無声音である。だからカタカナ表記ではユカラ(ラは小書き文字)とすべきところだが、日本語で語頭のユにアクセントを置くとどうしても長音になり、語尾のrは直前のaに引かれて母音のラになってしまう。
バチェラーのアイヌ語辞典ではyukaraと表記されており、京助もそれにならってユーカラと表記した。それに最初に異を唱えたのが幸恵で、以後は次第にユカラ(ラは小書き文字)と表記する人が増えた。現在、北海道の公文書ではすべてユカラ(ラは小書き文字)が採用されている。
しかし、日本の活字文化にはラ行の音を小文字で表記する習慣がなく、また終生それをユーカラと表記した京助の著作を多数引用する必要もあるので、本稿では従来どおりユーカラと表記することにする。
京助には「ノートブック一ぱいに書きをへる」と約束したものの、それはしばらく空白のままだった。気管支カタルの症状が一進一退で気分がすぐれないうえに、祖母モナシノウクが体調をくずし、母マツも持病のリュウマチが悪化したため、夏の2ヶ月は家事と看病に追われる日々が続いた。
秋風が立つころ、ようやく状況が好転した。9月8日付けの手紙で、幸恵は京助にこう近況を伝えている。
「秋風が吹くやうになりましてから祖母も元気ですし、私も気分がよくなってまいりました。遠からず母も床を払ふ事が出来るだらうと思ってゐます。ローマ字は少しなれました。先生の御手紙によりまして、自分の責任の重大な事を自覚いたしました。今度冬支度がすみましたならば専心自分の使命を果すべく努力しやうと思って居ります」
幸恵が「専心自分の使命を果すべく」ノートに向かい始めたのは、大正9年(1920)暮れから翌10年1月にかけてのころである。最初の筆録は鱒に化けた悪魔の話。1ページを2つに仕切って、左半分にはローマ字のアイヌ語が、右半分には日本語の訳文が、小さな文字でぎっしりと書き込まれている。大切なノートを節約しようと思ったらしい。
「大昔、悪魔がオイナカムイを試みるために両頭の鱒に化けてオイナカムイが作ったウライ(魚をとる仕掛)にはいってゐました。けれどもオイナカムイは悧巧ですから歌をうたって其の鱒をすてゝ悪魔の心を外へそらしましたから、それからは何の悪魔も悪戯をしなくなりました」
そのときオイナカムイがうたった歌は、こんなふうに訳されている
鱒のぼっちゃん、鱒の赤ちゃん、私の言ふことをよくおきゝなさい。
東の方に鱒の小父さんと鱒の小母さんが夫婦になって
6人の男の子と6人の女の子とをうみました
これを読んで、私は金子みすゞの詩「お魚」や「大漁」を思い出した。もっと正確にいえば、金子みすゞの詩集を読んだとき、知里幸恵の『アイヌ神謡集』を思い出した。両者は詩の発想と語り口が瓜二つといっていいほどよく似ている。
金子みすゞは幸恵と同じ明治36年(1903)に山口県で生まれ、ちょうどこのころから詩を書き始めた。2人のあいだに交流はなかったが、鳥獣虫魚のいのちに対するやさしいまなざしと、それを詩として表現できるしなやかな感受性を共有していた。そのまなざしや感受性を培ったものが、彼女たちの育った豊かな自然環境と、児童雑誌『赤い鳥』に代表される大正の文化だったことはいうまでもない。
『赤い鳥』は芸術性の高い創作童話の確立をめざして、大正7年(1918)に鈴木三重吉によって創刊された。鈴木の呼びかけに応えて、芥川龍之介、小川未明、北原白秋、西条八十、秋田雨雀らが「大正デモクラシー」の時代にふさわしい清新な童話や童謡を寄稿した。
自由とヒューマニズムと個性の尊重を基調とするその作風は、従来の自然主義文学や新興のプロレタリア文学とは異なる新しい物語のスタイルをつくり出した。幸恵もみすゞも、この時代の新しい空気を吸って育った文学少女だったのである。
しかし、幸恵の『アイヌ神謡集』の文体に最も大きな影響を与えたのは、なんといってもそれを実際に謡って聞かせたモナシノウクである。幸恵はマツの養女になる前に、5歳から6歳にかけての約2年間を、人里離れたオカチペという山中の小屋で、モナシノウクと2人だけで過ごしている。
それは昔ながらのアイヌの暮らしで、カムイ(神)とともに生きる日々だった。アイヌでは自然現象や動植物はもとより、食器や道具、家の戸口や便所に至るまで、この世のすべてはカムイのはたらきによるものとされており、人々は寝ても起きてもカムイに感謝を捧げながら生きる。
幼い幸恵にとっていちばんの楽しみは、夜の炉端で祖母の昔話や歌を聞くことだった。
英雄が群がる敵をばったばったと切り倒すユーカラをはじめ、動植物を主人公にしたカムイユカラ、ウエぺケレという昔話、物悲しい子守唄のイフンケ、自分の心情を即興で謡いあげるヤイマサなど、何度聞いても飽きなかった。モナシノウクが「今夜はこれまで、さあ寝ましょう」というと、幸恵は「もっともっと」とねだって困らせた。春秋の筆法をもってすれば、ユーカラに捧げられた幸恵の生涯は、この2年間に決定されたのだといっていい。
アイヌの口承文芸は、韻文体の物語と散文体の物語に大別される。韻文体の物語をユーカラといい、散文体の物語をウエペケレという。ユーカラはさらに神のユーカラ(カムイユカラ=神謡)と人間のユーカラ(英雄叙事詩)に分けられる。
神のユーカラは、フクロウ、キツネ、ウサギ、オオカミ、カエルなどの自然神が主人公となって自らの体験を語る一人称の物語で、オキキリムイという半神半人のキャラクターが狂言回しとして登場することが多い。そしてサケヘと呼ばれる囃子ことばのリフレインが謡いのメロディを生み出していく。
人間のユーカラは、孤児の少年ポイヤウンペが無数の敵を相手に孤軍奮闘、縦横無尽の活躍をする英雄物語である。彼は自在に空を飛び、水中に潜り、殺されてもたちまち生き返るというスーパーヒーローで、最後には囚われていた美女を助け出して故郷に凱旋する。
ユーカラといえば、一般的にはこの英雄叙事詩のことを指す。語り終えるのに何日もかかる大河物語だが、モナシノウクはその全篇を諳んじていた。そして幸恵は何よりもこの英雄物語が好きだった。
一方、散文体のウエぺケレは教訓説話ともいうべき昔話で、人間の主人公が主として自分の失敗談を語る。そのほかにウポポ、リムセといった古い踊りの歌があり、その多くは神を讃える内容になっている。アイヌの子供たちは、こうしたさまざまな口承文芸を通して自然の大切さを学び、人間としての生き方を学んだのである。
京助から贈られた大学ノートは少しずつ、だが確実に埋まっていった。「何でもかまわず気の向くままに」といわれたとおり、1冊目のノートには、ユーカラ、ウポポ、ウエぺケレ、早口ことばなど、さまざまなジャンル作品が脈絡なしに並べられている。ただ、何を書いても、そこには幸恵独自の語感とリズム感があって、すでに立派な文芸作品になっている。たとえばアイヌの子供たちのことば遊び歌と思われる1篇。
年寄り鳥は何処へ行った!
糀をとりに行った
其の糀を何うした?
酒に造ってしまった
其の酒は何うした?
飲んでしまった
ノートの11ページ目に「小狼の神が自ら歌った謡『ホテナオ』」が出てくる。これが京助のために筆録された最初のカムイユカラ(神謡)である。その書き出しの一節。
「(ホテナオ)或る日に退屈なので浜へ出た。遊んでゐたら 一人の小男がやって来た。それで川下の方へ下ると 自分も川下の方へ行き 川上へ来ると自分も川上へ来て 道をさへぎった。スルと川上へ六回 川下へ六回になった時 小男は非常に怒を顔にあらはして言ふには(ピイトントン ピイトントン!)」
この訳文はたどたどしいが、公刊された『アイヌ神謡集』(岩波文庫版)ではつぎのように改訳されている。
ホテナオ
ある日に退屈なので浜辺へ出て、
遊んでいたらひとりの小男が
来ていたから、川下へ下ると
私も川下へ下り、
川上へ来ると私も川上へ行き道をさへぎったすると川下へ六回
川上へ六回になった時小男は
持前の癇癪を顔に表して言うことには、
「ピイピイ
この小僧め悪い小僧め、そんな事をするなら
この岬の、昔の名と今の名を言い解いてみろ」
これは一種の問答歌で、その呼びかけの部分がサケヘ(リフレイン)になっている。アイヌはよく歌う民だった。山へ狩りに行っては歌い、川へ水汲みに行っては歌い、浜で魚をとるときには労働の唄を歌った。この問答歌には、そうしたアイヌの特性がよく表れている。
大正10年(1921)4月半ば、北海道にも遅い春が訪れた。幸恵は冬の間に書き留めた1冊目のノートを京助に郵送した。そして「自信はないけれど、とにかくお目にかけます。悪いところはご教示願います」という手紙を別便で出した。すると、すぐに返事が届いた。消印は「本郷10・4・23」となっている。
「御手紙は昨日、筆記は今日、拝受致しました。あまり立派な出来で私は涙がこぼれる程喜んで居ります。もっともっと帳面をぜいたくに使って下さい。余りこまかに根をつめて書いてハ、からだへ障るといけません。片面へアイヌ語の原文、片面へ訳語、といふ位にして、それも、真中へだけ書いて、端は註でも書く所にして置いたらいゝでせう。まだまだ、拝んでゐる所で、これから読む所です。読んだら、又感服しさうです。そしたら又申し上げます」
それから1ヶ月かけてノートを読み込んだ京助は、今度はこんな手紙を出した。
「こんなに立派にしおほせる人があらうとは夢にも思ひかけませんでした。これならこのまゝ後世へのこして結構な大したお仕事です。どんなにか御面倒だったでせう」
京助を感激させたのは、訳文の予想外の出来ばえもさることながら、母語としてのアイヌ語を完璧に日本語に訳せるアイヌがついに現れたという喜びだった。
これまで数多くのユーカラを筆録してきた京助は、アイヌ語の理解にかけては人後に落ちないという自信を持っていたが、「アイヌにとって自分はなお外部の人間にすぎない」という思いを捨てきれないでいた。ほんとうの意味でユーカラの筆録が可能なのは、自らユーカラを謡える者でなければならない。彼は長らくそういう人材を探し求めていたが、その願いを叶えてくれそうな人材がついに見つかったのである。
京助から「涙がでる程感動した」「後世にのこる立派な仕事だ」と褒められた幸恵は、さっそく2冊目のノートを埋める作業に取りかかった。幸いなことに気管支カタルの症状が和らぎ、モナシノウクとマツも体調が回復して普通の生活ができるようになった。
何よりもうれしいのは、和人の同級生たちとの間でつねに緊張を強いられてきた学校生活が終わって、自分のために使える時間がたっぷりあることだった。その時間をアイヌの伝承を後世に伝えるために使うことが幸恵の幸福であり、生き甲斐でもあった。
アイヌ語に相当する日本語が見つからないときは、京助に手紙で相談した。「ainuのituituyeを日本語で何と云うふのか、私にはいくら考へても思ひ付きません」と書くと、「御尤デス、簸るト申シマス」という返事が来た。「簸る」とは箕を使って穀物の皮や屑を取り除くという意味で、日本人でも知る人は少なかった。
大正11年(1922)9月、幸恵は書き上げた2冊のノートを京助に送った。第2のノートには5篇のカムイユカラが、京助の指示したとおり左右対照に記載されており、それはそのままの順番で『アイヌ神謡集』に収録された。
第3のノートはウエペケレを集めたものだったと推定されるが、京助がどこかで紛失したらしく、いまも見つかっていない。
2冊のノートを読んだ京助は、これは本にして世に問う価値のあるものだという確信を深めた。そこで柳田国男の郷土研究社から出始めた「爐邊叢書」に加えてもらうべく、欧州滞在中の柳田に手紙を出し、その返事が来る前に、幸恵にこう書き送った。
「私はあらゆる人々に向って、あなたのこの美しいけだかい企画と努力と、立派なこの成績とを誇ってゐます。ぜひ版にしてあげたいと思ひます。(中略)土俗研究の発表機関として「爐邊叢書」といふものが発行されてゐます。その中へ、あなたのこの蒐集を一冊に編纂して加へたいと思って居います。私ハ今からさうした暁の、世への驚異を想像してひとり微笑を禁じ得ません」
幸恵はすぐに返事を書いた。
「まるで夢のやうでございます。百千万の祖先のためにどんなに喜ばしいことかわかりません」
そして、このまま世間に発表するのはあまりにも不完全で恥ずかしいので、どうか厳しく添削してほしいと付け加えた。
すると京助から「よしんば誤りがあったとしても、その誤り自体がわれわれの参考になるので、あなたが心配することはない。このままで出しましょう」という返事が来た。
こうして幸恵の上京の日が近づいた。