第十七章 美しい鳥

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 大正11年(1922)7月6日、爐邊叢書ろへんそうしよの編集者岡村千秋が、幸恵に原稿を頼みに金田一家を訪れた。『アイヌ神謡集』の刊行に先立って『女学世界』という雑誌に何か書いてほしいという依頼だった。そのとき幸恵は若葉のおもりで外出していたので京助が代わりに応対し、「それはいい、ぜひ書いてもらいましょう」という話になった。帰宅してそれを聞いた幸恵は、自分に何が書けるだろうかと思い悩んだ。

 2日後に再び岡村がやってきた。今度は雑誌に掲載する写真を撮るためだった。石庭を背景に和服姿で佇み、両手を軽く組んで少し恥ずかしげな微笑を浮かべたその写真は『女学世界』9月号に掲載され、幸恵の晩年の姿を後世に伝える貴重な資料となった。

 ところが、同月12日になって、岡村がある懸念を伝えてきたと、京助の口から聞かされた。それは、東京へ出てきた幸恵が、黙っていればそのまま日本人で通せるのに、あえてアイヌを名乗って『女学世界』に寄稿すると、世間から見下されて、つらい思いをするのではないかという心配だった。

 これはもちろん岡村の、そしてそれを取り次いだ京助の善意による気づかいだったのだが、すでに物見高い近所の老女に対して「アイヌは私です」と宣言していた幸恵にとって、それは余計な心配であり、むしろアイヌ民族に対する侮辱のように感じられた。その夜、幸恵は日記にこう書きつけた。

《さう思っていたヾくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサム(郷原註=和人)のやうなところがある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない。そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在を知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である》

 当時、アイヌの出自を隠して実業界で成功した人がいて、地元では密かに崇敬されていた。幸恵の前にも、ある意味では同じ成功への道が開かれていた。しかし、幸恵はきっぱりとそれを拒否し、「私はアイヌだ」と名乗る道を選んだ。それを「神の試練の鞭」として受けとめていた事実は、その生い立ちに照らして重要である。

 幸恵はさらにこう書いている。

《アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。

 それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。

 ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!》

 ここで幸恵はみずからの内なる民族意識を確認し、自分ひとりが見上げられるより同族と共に見下げられほうがうれしいとまで言い切ってみせる。「おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ」という叫びには、岡村や京助の鈍感で無理解な忖度をはね返すだけの熱量が感じられる。

 しかし、幸恵のこの思いは、なぜか正確には伝わらなかったらしい。『女学世界』9月号の口絵ページには、幸恵の写真、名前とともに、奇妙な紹介文が組み込まれていた。

《素直な魂を護って 清い涙ぐましい祈りの生活――アイヌ種族の存在を永遠に記念する為め 一管の筆に伝へ残さうと決心した知里幸恵女。美しい出自を持つ素晴らしいアイヌ乙女が美しい父祖の言葉と伝説を伝へ残さんと……》

 この甘ったるい紹介文が京助の筆になることは彼の回想からも明らかだが、なぜかどこにも署名がなく、編集部が幸恵の写真に付けた少し長いキャプションといった体裁になっている。これでは幸恵の意思がまったく生かされていないうえに、その出自を世間から隠そうという当初の目的にも反している。

 そもそもこの企画は『アイヌ神謡集』の出版予告を兼ねたものだったはずだから、その著者の出自を隠すのはもともと無理な相談だし、およそ無意味なことだったのである。

 どうしてこんな無様なことになったのか。それは結局、アイヌ民族に対する京助の及び腰の姿勢にあったというしかない。

 前述のように、京助がアイヌ語学を専攻したのは、日本の「国語学」の創始者にしてのちの東京帝国大学文科大学長、上田萬年のすすめによるものだった。天皇制国家主義者の上田は、「国体」の根幹をなす言語という意味で「国語」という名辞と概念を創出し、その正しいあり方を確定するために、日本を取り巻く諸国語と日本語との関係を研究しようと思い立った。

 そこで弟子たちに命じて中国語、朝鮮語、琉球語などを研究させることにしたが、アイヌ語をやる者がいなかったので、東北出身の京助に白羽の矢が立てられた。上田のこの構想には、いずれはアジア諸国を併合して日本の「国語」を共通語にしようという、のちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」に通じる思想が含まれていた。

 京助もまたこの国家主義的な植民地思想と無縁ではなかった。京助は終生アイヌを愛し、アイヌを支援することに力を尽くしたが、アイヌは所詮「滅びゆく民族」であり、和人と同化して自然に消滅するのが一番の幸せだと信じて疑わなかった。だからこそ、彼はアイヌの文化遺産であるユーカラを自分の手で後世に残そうと考えたのである。

 それが京助なりの善意であり、学者的な良心の発露だったことは疑えないが、幸恵たちアイヌにとってみれば、そうした善意や同情自体が和人の思い上がりであり、アイヌ民族への見下しにほかならなかった。つまり、「入神の交わり」で堅く結ばれていたはずの師弟の間には、深くて越えがたい溝が横たわっていたのである。

2

 北海道に残してきた恋人、村井曾太郎との仲も微妙に変化しつつあった。石村博子の労作『ピリカチカッポ(リは小書き文字)(美しい鳥)知里幸恵と『アイヌ神謡集』』によれば、幸恵は5月17日に曾太郎への第一便を投函し、25日には村井一家に8枚の絵葉書を送った。30日に曾太郎から返信があり、6月2日にその返事を出した。その日の日記に、幸恵はこう書いている。

《真剣、私の心に真剣な愛があるか。真剣な愛を彼に捧げてゐるのか、果して。純真な美しい愛か。おゝ私は愛します。たゞ貴郎を愛します。身も魂も打ちこんで……》

 ここには、自分はほんとうに彼を愛しているのだろうかと自問して確信が持てないまま、無理にも愛していると思いこもうとする少女がいる。一方にそんな疑いが生じたとき、その恋はすでに終わりつつあったと見るべきだろう。

 曾太郎からの返事は3週間後の22日に届いた。その日の日記には、曾太郎はなぜか「S子さん」という名で登場する。

《S子さんからの長いお手紙、ひらくと、ぱたりと落ちたのは二円のお銭。あの方の愛は純粋なのだ。私の愛はにごってゐる。おゝ御免なさい。私はあなたの為に生きます。お銭など送って下さらなくともいゝのに……》

 幸恵はすぐに返事を出したが、曾太郎からの返信はなかなか来なかった。1ヶ月後の7月22日にやっと届いた手紙は、幸恵を落胆させずにはおかなかった。

《鉛筆の走書で書いてあることも、私の聞きたいと思ふことは何も書いてゐない。そして浮ッ調子なようにもとれる。然し、やはり何処かに愛のひらめきが見えるのは嬉しい事である》

 曾太郎からしばらく手紙が来なかったのは、農繁期で忙しかったこともあるだろうが、それ以上に、幸恵の「私の聞きたいと思ふこと」に答えられなかったためだと考えられる。この時期、教会へ通いつめていた幸恵は、おそらく偽善や原罪といった自分の宗教的な関心事について曾太郎の意見を求めたに違いない。

 しかし、農家の長男の曾太郎には、そんなことを考えている暇はなかったし、またそれを文章で表現するだけの知性も持ち合わせてはいなかった。2人を隔てる時間と距離が、それまで見えなかった格差を浮かび上がらせた。「鉛筆の走書」は、曾太郎の自嘲の表現だったように感じられる。

 こうして恋人との間が疎遠になる一方で、郷里からしばしば悲報が届くようになる。

 6月22日には、近文のマデアルという女性が肋膜炎にかかったという知らせが届いた。幸恵はその日の日記に「あの人は弱々しい体格の持主だった。ほんとうに素直な優しい気性の人」と懐かしみながら「何故アイヌは、知識と健康をあわせ得る事が出来ないであらうか」と書いた。これが幸恵の日記に登場する「アイヌ」ということばの初出である。

 6月29日の日記には、直三郎という少年の病気のことが出てくる。「とうとうあの子が肺病になったといふ。なんといふ痛しい事であらう。(中略)何故神は我々に苦しみをあたへ給ふのか。試練! 試練!!(中略)私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ」

 悲しみに追い討ちをかけたのは、やす子という娼婦の死だった。やす子は少女のころ町の遊郭に売られ、性病にかかって近文の実家に返された。前借金が残っているので治ったらすぐ戻ってくるようにと抱え主にいわれていた。「治れと祈るべきか治らないでと祈るべきか迷いました」という手紙がマツから届いたとき、幸恵は心の平静を失った。

「旭川のやす子さんがとうとう死んだと云ふ。人生の暗い裏通りを無やみやたらに引張り廻され、引摺りまはされた揚句の果は何なのだ!」

 その怒りを京助にぶつけると、京助は淡々と「アイヌはいま、すべてが呪わしい状態にあるのだね」といった。そこで幸恵は必死に神に呼びかける。

「おゝアイヌウタラ、アウタリウタラ! 私たちは今大きな大きな試練をうけつゝあるのだ。あせっちゃ駄目。(中略)人を呪っちゃ駄目。人を呪ふのは神を呪ふ所以ゆえんなのだ」

 7月11日には、幼いころに幸恵をかわいがってくれた近所の葭原よしはらキクが亡くなり、キクの娘みゆきは10歳で孤児になった。同月14には前記の直三郎が死んだ。

 悲劇は身近なところでも起きた。7月26日、静江夫人の親戚の娘で幸恵とも親しかった「みいちゃん」が鉄道自殺した。結婚して間もない20歳の若妻の死だった。

 近親者の相次ぐ死と東京の猛暑が幸恵の心身を痛めつけた。8月後半に入ると、日記を書くだけの気力も失われ、呆然と日を送ることが多くなった。このままでは迷惑をかけるから北海道へ帰りたいと告げると、京助は驚いて幸恵をすぐに病院へ連れて行った。

 それでいったん小康を取り戻したが、8月28日未明に激しい腹痛に見舞われ、30日の早朝には心臓発作に襲われた。静江は医者へ、お手伝いのきくは氷屋へ走り、京助は水を飲ませ、長男の春彦は幸恵の胸をさすり続けた。

 ようやく危機を脱した幸恵は、登別の両親に「今一度幼い子にかへって御両親様のお膝元に帰りたうございます」と手紙を書き、静江と相談して9月25日を帰郷の日と決めた。

 京助は盛岡中学の同級生で内科医の小野寺直助に幸恵の往診を依頼した。小野寺博士はのちに消化器医学の世界的権威となり、同じく盛中の同級生だった野村胡堂の主治医をつとめた。

 9月7日に金田一邸で幸恵を診察した小野寺は「心臓僧帽弁狭窄症」と診断し、安静にしていれば大丈夫だといった。しかし、渡された診断書には「結婚不可」と書かれていた。妊娠すると心不全を引き起こす危険があるのだという。幸恵にとって、それは3年前に「不治の病」の宣告を受けたとき以上の衝撃だった。同月14日に両親に出した手紙のなかで、幸恵はこう書いた。

「私は自分のからだの弱いことは誰よりも一番よく知ってゐました。また此のからだで結婚する資格のないこともよく知ってゐました。それでも、やはり私は人間でした。(中略)いろいろな空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持ってゐました。(中略)然しそれは心の底の底での暗闇で、つひには征服されなければならないものでした。はっきりと行手に輝く希望の光明を私はみとめました。(中略)それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです」

 幸恵が暗闇の底で前途に「希望の光明」を見いだしたのは、この手紙を書いた前日に、爐邊叢書の渋沢敬三が『アイヌ神謡集』のタイプ原稿を持って金田一家を訪れたからである。渋沢は、幸恵の原稿があまりにもきれいに書かれていたので、そのまま印刷所に渡すのが惜しくなり、わざわざタイピストに頼んで打ち直させたのだという。

 その日から、幸恵は病身に鞭打って校正に取り組んだ。そして4日目の夕方、「ああ、これで全部済みました」といってペンを置いた。父の書斎でそれを見ていた春彦は、明日、根津神社の祭礼に一緒に行こうと約束して自分の部屋に戻った。

 その直後に容態が急変した。近所の医者が呼ばれて強心剤の注射を打とうとすると、幸恵は「それは最後の手段だそうですね。私はまだそれをしてほしくありません」といって拒否した。その後の経過は京助の回想に俟つしかない。

《あっと思ふ間に、口から桃色のシャボン水様のものを仰山に吐かれるので、びっくりして私は両手に抱き起し、幸恵さん幸恵さん、と声をかぎりに呼ぶ、と三声目が届いたのか、そのときかすかにハアと答へたのが二人の間の最後の交渉で、あとは呼んでも、答へが無く、たった今まで校正をしてゐた姿もそのまゝはやこときれて、呼べど返らぬ芳魂ほうこんの再び引き戻すべきすべもなく、ただ狂ふやうに幸恵さん、幸恵さん、を連呼するばかりで、茫然として為すところを知らなかった》(「胸うつ哀愁!!アイヌ天才少女の記録」) 

 大正11年(1922)9月18日午後8時30分、上京して129日目、19歳と3ヶ月の短く儚い生涯だった。

 京助は雑司ヶ谷墓地に小さな墓を建てて 遺体を埋葬した。アイヌの風習に従って火葬ではなく屈葬だった。周囲にはまだ空き地が残っていたので、墓石の隣に椎の木を植えた。墓地台帳には特別に「アイヌ人」と記されている。

3

『アイヌ神謡集』は幸恵の死から約1年後の大正12年(1923)8月10日、爐邊叢書の1冊として郷土研究社から刊行された。それから3週間後の9月1日に関東大震災が首都圏を直撃し、一瞬にして資料の多くが失われた。幸恵が最後に心血を注いだ校正済みのタイプ原稿もついに見つからなかった。

 巻末には京助が『女学世界』に寄稿した「知里幸恵さんのこと」がそのまま掲載され、「追記」として次の一文が加えられた。

《今雑司ヶ谷の奥、一むらの椎の木立の下に、大正十一年九月十九日、行年二十歳、知里幸恵之墓と刻んだ一基の墓石が立っている。幸恵さんは遂にその宿痾しゆくあの為に東京の寓で亡くなられたのである。しかもその日まで手を放さなかった本書の原稿はこうして幸恵さんの絶筆となった。種族内のその人の手に成るアイヌ語の唯一のこの記録はどんな意味からも、とこしえの宝玉である。唯この宝玉をば神様が惜しんでたった一粒しか我々に恵まれなかった》

 幸恵が亡くなったのは9月18日の夜だったはずだが、ここで京助はなぜか「19日」と記している。いま私たちが手に取ることのできる岩波文庫版『アイヌ神謡集』は、この郷土研究社版を底本とし、北海道立図書館北方資料室「知里幸恵ノート」を閲覧して補訂したとされているが、なぜかこの死亡日の異同に関する説明はない。

『アイヌ神謡集』には13篇のカムイユカラが収められている。いずれもキツネ、ウサギ、フクロウ、カエルといった動物たちが人間にいたずらをして懲らしめられたり、オキキリムイという小さなヒーローが悪神ウエンカムイをやっつけたりするという話で、形の上では日本のおとぎ話に似ているが、おとぎ話ほど単純ではない。

 たとえば、最もよく知られた冒頭の1篇「梟の神の自ら歌った謡」。


 「銀の滴降る降るまわりに、

 金の滴降る降るまわりに。」

 という歌を私は歌いながら

 流に沿って下り、人間の村の上を

 通りながら下を眺めると

 昔の貧乏人が今お金持になっていて、

 昔のお金持が今の貧乏人になっている様です。

 海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に

 おもちゃの小矢をもって遊んで居ります。

 「銀の滴降る降るまわりに

 金の滴降る降るまわりに。」という歌を

 歌いながら子供等の上を通りますと、

 (子供等は)私の下を走りながら

 云うことには、

 「美しい鳥! 神様の鳥!

 さあ、矢を射てあの鳥

 神様の鳥を射当てたものは、

 一ばん先に取った者は

 ほんとうの勇者、ほんとうの強者だぞ。」

(引用は岩波文庫版に拠り改行を一部改めた)


 このあと、「私」(梟の神)は貧乏な子の放った小矢にわざと射られてその貧しい家を訪れ、私を「大神様」と崇める両親のために一家を金持ちにしてやり、村に平和と幸せをもたらす。そして「――と、ふくろうの神様が物語りました」という決まり文句で話は締めくくられる。

 見られるように、この訳文にはたどたどしいところが多く、表記や措辞も一定していない。アイヌ語の研究が進んだ現在では、もっと正確に、もっと上手に訳せる人がいるだろう。しかし、「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」という美しいリフレインだけは間違いなく幸恵の詩才によるものであり、それがこの1冊を歴史的な名著にしているといっていい。

『アイヌ神謡集』は、京助とその一家の全面的な協力と援助がなければ成立しなかった。そして京助の主著『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』もまた、知里幸恵の献身的な協力なしには成立しなかった。仏文学者桑原武夫は、金田一京助と石川啄木の関係を「史上最も美しい友情」と名づけたが、私たちはいま、京助と幸恵の交わりを「史上最も美しい師弟愛」と呼ぶことができるだろう。

 

(つづく)