第十九章 ニシキギの家

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 京助の大著『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』は、昭和6年(1931)1月に東洋文庫から刊行され、翌7年(1932)5月に帝国学士院恩賜賞を受賞した。その祝賀会が同年3月28日夜、新宿中村屋の2階和室で開かれた。当日はあいにくの雨で、出席者は26名と少なかったが、折口信夫が国学院の学生時代の思い出を語り、東洋文庫の石田幹之助が出版に至るまでのエピソードを披露したりして大いに盛り上がり、京助にとって生涯忘れられない一夜になった。

 この年(1932)8月、旭川から金成マツが上京して半年間、杉並の京助宅に滞在した。幸恵の墓参と合わせて、亡母モナシノウク秘伝のユーカラを伝えるためだった。10年前に幸恵が亡くなったあと、モナシノウクは「幸恵が死んだ、幸恵が死んだ」と呟きながら泣き暮らし、とうとう病床に臥すようになった。

 それを知った京助は、昭和2年(1927)に旭川に出かけてモナシノウクを見舞い、ついでにマツの語る「虎杖丸クズネリシカの曲」を筆録した。その後もときどき見舞いの品を送ったりして慰めてきたが、昭和6年(1931)4月、モナシノウクは自宅で息を引き取った。生年は不祥だが、おそらく80歳近い長寿だったと思われる。

 道南随一の伝承者といわれたモナシノウクのユーカラを、京助は筆録したことがなかった。機会あるごとに頼んではみたのだが、その都度、彼女は恥ずかしげに首を振った。娘のマツや孫の幸恵が伝えているのだから、自分が出しゃばる必要はないと遠慮したのかもしれない。

 マツは4年前の昭和3年(1928)8月、幸恵の七回忌のときにも上京し、京助宅に3ヶ月間逗留した。このときは幸恵の遺志を果たすべく自分の知っているユーカラを全部口述するつもりだったが、当時の京助は東京帝大のほかに早稲田、国学院など五つの大学で言語学を講じて忙しく、マツのユーカラを聞く時間がなかった。

 暇を持て余したマツは、退屈しのぎに自分でペンをとり、「投げ輪の曲」をローマ字でノートに筆記した。全部で10ページほどになった。その夜遅く帰宅した京助にそれを見せると、京助は一気に読み終えて、「僕はずっとこれを待っていたんですよ」といった。

 マツは幼時からモナシノウクの薫陶を受けたユーカラの名手であり、人に教えるほど達者なローマ字の書き手でもあった。だから、京助は以前から、モナシノウク秘伝のユーカラを忘れないよう筆録しておくようにと勧めていたのだが、マツは「そんなことしなくたって、一度覚えたものは忘れませんよ」といって取り合わなかった。

「先生がそんなに喜んでくださるなら、これからは全部自分で筆録することにします」

 マツの筆録は、それから24年にわたって休みなく続けられ、その総数は90余篇、ノート70余冊、1万5000ページに達した。それが京助のユーカラ研究の貴重な資料になったことはいうまでもない。

 マツは自分のユーカラを筆録するだけでなく、自分と同じように上京して京助宅に逗留する他のアイヌのために筆録者の役を買って出た。京助があとでその筆録を朗読しながらチェックしていると、マツはまるで初めてそれを聞いたかのように面白がり、「それからどうなったんですか。早く続きを聞かせてください」とせがんだ。ユーカラはあくまで口承文芸だから、いったんそれを文字にしてしまうと、安心して忘れてしまうものらしい。マツ自身も、モナシノウクのユーカラを筆録したあとでは、全部を暗誦するのが難しくなっていた。

 こうして長らく口から耳へと語り継がれてきた「声のユーカラ」は、語り手の死とともに消滅した。もしこの時代に『アクロイド殺し』のディクタフォン(録音機)があったなら、と改めて思わずにはいられない。

 京助とマツは、折にふれて幸恵の思い出を語り合った。ある日京助は、かつて幸恵が筆録した平取のアイヌ、コタンピラの「蘆丸の曲」のノートを持ち出して朗読した。それを聞いたマツは、ひとしきり涙にむせんだ。

「これは日高アイヌのことばです。私は平取の教会に12年いたのでよく知っていますが、あの子は一度も日高へ行ったことがないはずなのに、なぜこれほど正確に日高ことばを筆録できたのか、不思議でなりません」

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 恩賜賞を受賞すると京助の名声が高まり、講演や執筆の依頼が殺到するようになった。京助はもともと人にものを頼まれるといやとはいえない性格だったので、時間と体力が許すかぎりそれを引き受けた。そのために忙しい身がさらに忙しくなったが、その「時間貧乏」とひきかえに、一家の経済状態は次第に好転していった。

 しかし、家庭人としての京助は、あまり威厳のある人物とはいえなかった。家族はもちろん、京助が偉い学者らしいとは承知していたが、夫や父親としての彼に対しては、いろいろ不満な点が多かったのである。

 たとえば、ことば遣いが女性的でおかしいとか、食事のあと、お茶でガボガボと口をゆすぐのはやめてほしいとか、さまざまな注文が出された。だが、京助はそうした意見にはいっさい耳を貸さず、翌日も同じことを繰り返した。家族が重ねて注意すると、京助はこういって開き直った。

「世間の人たちは、わたしのことを神様のように尊敬してるのよ。わたしを偉いと思わないのは、おまえたちだけなのよ」

 息子の春彦はのちに『父京助を語る』の冒頭で《偉人郷土に容れられず、英雄凡婦の尻に敷かれる》と書いている。キリストが故郷では単なる「大工の息子」だったように、この神様は家庭内では「困ったお父さん」にすぎなかったのである。

 そこで家族は、この神様を敬して遠ざけることにした。夕方、彼が帰宅すると、春彦は父の嫌いなラジオ番組を切り、妻の静江は「今夜もお父さんの好きな粕漬けのシャケと湯豆腐にしましたよ」といって、いそいそと出迎えた。

 京助は豆腐が大好きで、静江が献立の相談をすると、「豆腐があれば何にもいらないよ」と答えた。夏は冷や奴、冬は湯豆腐が定番だった。豆腐の次にはトロロが好きだった。なぜか「お」をつけて「おトロロ」と呼んだので、「お父さんはあれがよっぽど高級な食べ物だと思ってるんだね」と家族の話題になった。

 シャケノコ(イクラ)とウニも好きだった。総じて子供のころに盛岡で食べたものは何でも大好物だった。家族はウニを好まなかったので、自分で壜詰めのウニを買ってきて、ピチャピチャと音をたてながら食べていた。正月のお雑煮にシャケノコを入れてくれと頼んで、江戸っ子の誇り高い妻に「だめです」と手厳しく却下されたこともあった。

 秋の一日、みんなで井の頭公園へハツタケ狩りに行くことになった。吉祥寺の横溝正史宅の隣に住んでいた弟の安三が京助宅に来たとき、「あそこの松林にはハツタケが生えていそうだ」という話をした。京助は少年時代に弟の次郎吉や安三とよくハツタケ狩りをしていたので、「よし、行こう」とすぐに相談がまとまった。

 約束の日は絶好の秋晴れだった。京助は春彦と2人連れだったが、安三は夫婦と娘4人のほかに、お手伝いさんにゴザやカゴを積んだ乳母車を押させてやってきた。

 当時の井の頭はまだ公園として整備されておらず、池の周辺には武蔵野の面影を残す樹林やススキ野が広がっていた。ハツタケは湿気の多い松林に自生する担子たんし菌類のきのこだから、このあたりは最適地だった。

 その日の京助のはしゃぎようは、まさに子供そのものだった。真っ先に松林に飛び込んでハツタケを見つけると、「あったぞ! あったぞ!」と叫んでみんなを呼び集め、探し方や見分け方を教えた。

 京助と安三以外にはみんな初めての体験だったので、自分の採ったきのこがハツタケかどうか教えてもらいたいのだが、京助はその時間が勿体ないといわんばかりに、ひとりであちこち駆け回っていた。

 子供たちがいちばん楽しみにしていた弁当の時間になっても、京助はなかなか戻って来なかった。やっと戻ってきたかと思うと、そそくさと食べ終えて、すぐにまた飛び出していった。京助にとってハツタケ狩りは単なるピクニックではなく、まさしく「狩り」だったのである。

 秋の日暮れは早い。思ったほど収穫は上がらなかったが、また今度ということにして、一同は帰途についた。池のほとりに茶店があったので、そこで休んでいくことにした。京助はさっそく包みを広げて、「どうだ。わたしのハツタケはみんな立派だろう」といって自慢し、そのなかの特に大きいものを指でつまんで「昔はこれを味噌汁に入れて食べたものだ」と感慨深げにいった。

 たまたまそれを耳にした茶店のおかみが、「じゃあ、うちで作ってみましょうか」と申し出た。京助は喜んで、ひとつかみのハツタケをおかみさんに渡した。

 ちょうどそのとき、店のラジオから野球の早慶戦のニュースが流れてきた。京助は大正15年(1926)から早稲田大学の講師をしていた上に、母校の盛岡中学から早稲田の野球部に入る者が多かったので、熱烈な早稲田ファンだった。

 当時、慶応には宮武、山下という二人のスーパースターがいて、早稲田は完全に圧倒されていた。ところが、その日は佐藤という外野手がセンターオーバーの本塁打を打って、六対二で早稲田が勝った。京助は人目もはばからず「やったあ!」と叫んで飛び上がった。

 そこへおかみさんがハツタケの味噌汁を盆に載せてあらわれ、「お口に合いますかどうか」と差し出した。それをひと口すすった京助は、しばらく瞑目したあと、「うーん、これでもう思い残すことはない」といった。《私はあんなに純粋な喜びに浸っている父の顔を見たことがない》と、春彦は「ハツタケ狩りの一日」という文章のなかで書いている。

 昭和9年(1934)4月、春彦は旧制浦和高校から東京帝国大学文学部国文学科に進学した。数年前、春彦が将来の進路を相談すると、京助は教え子の服部四郎が書いた「東方アクセントと近畿アクセントの境界線について」「国語諸方言のアクセント概観」という二つの論文を示し、「これを読んでみなさい」といった。それを読んだ春彦は、日本語のアクセントを生涯の研究テーマをにしようと決心し、父のすすめる国文科に入った。

 ちなみに浦和高校で春彦と同級だった文芸評論家の福田恆存は「大学ではきみのおやじさんの言語学を聴きたいのだが、アイヌ語ではなあ」といって英文科に進んだ。福田はのちに京助と激烈な「仮名遣い論争」を展開することになる。

 学科こそ違え、同じ学部の教師と学生になった父と子は、毎朝8時に家を出て、中央線阿佐ヶ谷駅から電車に乗って本郷の大学へ通った。駅までの15分間、2人は日本語の音韻組織について論じあった。議論に熱中して思わず声が高くなり、前を行く人が何事ならんと振り返ることもあった。

 京助は2年前に柳田國男のすすめで『国語音韻論』を刀江書院から刊行していたが、そこではアクセントの問題に触れる余裕がなかったので、いずれ増補版を出したいと思っていた。東京で生まれ育った春彦は、いまだに東北なまりのとれない京助にとって、標準語アクセントの格好のお手本だったのである。

 このころ京助は、アイヌをテーマにした随筆を頼まれることが多かった。原稿を書き上げると、いつも家族の前で読んで聞かせた。それは蓋平館別荘で同宿していたころの啄木にならったもので、聴き手の反応を見ながら原稿を手直しするためだった。家族はみんな、やりかけの仕事を中断して、その朗読を謹聴しなければならなかった。

 樺太アイヌの子供たちとの交流を描いた「片言を言ふまで」も、こうして仕上げられた。昭和9年(1934)に梓書房から出た随筆集『北の人』に収められ、のちに「心の小道」と改題して岩波書店の中等学校用国語教科書に掲載され、広く知られることになった。

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 昭和10年(1935)3月、京助の学位論文「ユーカラの語法――特にその動詞に就て」が東京帝国大学教授会の審査を通り、京助は文学博士の学位を取得した。このとき京助は52歳。その経歴と実績に照らして、あまりにも遅い博士号だった。

 奇しくもその日、京助のアイヌ語研究を「台湾のクスノキ」と揶揄した言語学科の前主任教授、藤岡勝二の葬儀が行われていた。その式場で京助に論文審査の結果を耳打ちした当時の主任教授、橋本進吉は「もし教授会があれを否決したら、おれは辞表を出すつもりだった」と告白した。橋本は自分が京助を押しのけるかたちで教授に就任したことに、ある種の後ろめたさを感じていたのである。

 文学博士になった京助は、昭和11年(1936)、杉並区東田町1の115(現在の成田東4の21の4)に土地を購入して家を新築した。それまでのバラック建てと違って、今度は自分で設計した和風本建築の2階家だった。庭に大きな松の木を2本植え、書斎の窓から見える場所にニシキギを植えて、この書斎を「錦木の屋」と称した。

 ニシキギは初夏のころ黄緑色の小花を無数に咲かせ、晩秋には鮮紅色に紅葉する。盛岡の生家にはニシキギの群落があり、秋になると庭が紅色に染まった。京助は何よりもその紅色が好きで、自分の本の装丁には紅色を所望することが多かった。三省堂の『明解国語辞典』をはじめ、京助が監修した国語辞典の表紙の色は、ほぼ例外なく紅色である。

 昭和12年(1937)7月に勃発した盧溝橋事件をきっかけに、日本は戦争への急坂を駆け下りつつあったが、このニシキギの家では、比較的平穏な日々が続いた。夕飯の食卓に一家4人がそろうと、京助はいつも満足そうに「やあ、みんな集まったな」といった。

 京助が少し遅れて席につくと、なぜかみんなが笑っていた。「どうしたの?」とわけを訊くと、娘の若葉が「お父さんは今夜もきっと、あのセリフをいうだろうって話していたのよ」と答えた。京助はその夜ももちろん、「やあ、みんな集まったな」といい、いつものように音を立てながら豆腐を食べた。 

 この年(1937)1月、幸恵の弟、知里真志保の『アイヌ民譚集』が郷土研究社から刊行された。幸恵の葬儀で父の高吉が上京した折、京助は弟たちの教育について訊いた。高吉は高央と真志保の兄弟を室蘭中学校(現在の室蘭栄高校)に通わせていたが、真志保は授業料を滞納して休学中だった。

「バチェラー先生から援助の申し入れがありましたが、私は断りました。西洋人のお世話にはなりたくなかったのです」

「では、日本人の私がお世話するのはかまいませんか?」

「それはもう願ってもないことでございます」

 こうして京助は知里兄弟の教育の手助けをすることになった。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)へ進んだ高央のために学資の一部を補助し、室蘭中学校を卒業して地元の役場に勤めていた真志保には高校進学の準備をするように励ました。

 真志保は昭和2年(1927)、室蘭中学四年生のときに、教師に勧められてアイヌの昔話(ウエペケレ)「山の刀禰とね浜の刀禰物語」を和訳した。滞りがちな授業料の足しにするためだった。その原稿は京助の仲介で雑誌『民俗』に掲載された。京助は真志保に幸恵の再現を見ていた。

 昭和5年(1930)3月、真志保は高校受験のために上京した。京助がどこを受けるのかと尋ねると、まだ決めていないという。そこで試しに前年度の第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の入試問題をやらせてみると、ほぼ満点に近い出来だった。

 同年7月に一高を受験した真志保は、受験者150人中12番の成績で合格した。盛岡中学を卒業した野村長一(胡堂)が2浪してやっと一高に合格したことを思えば、真志保はきわめて優秀な学生だったことがわかる。

 真志保は9月から向ヶ丘の学生寮に入った。アイヌの寮生は彼が初めてだった。成績がよかったので教室で差別されることはほとんどなかったが、軍隊の内務班ともいうべき寮では、陰湿ないじめを受けた。同期の寮生たちは彼と同室になることをいやがり、食堂で彼と一緒に食事をすることを避けた。最大の悩みは寮の風呂に入れてもらえないことだった。そのため彼は数日おきに京助宅を訪れて、もらい風呂をするようになった。

 知里家では子供たちを最初から日本語で育てていたので、真志保のアイヌ語の知識は京助に及ばなかった。「アイヌ語には単数と複数の区別があるのですか」といった初歩的な質問をして、かつてアイヌの長老に同じ質問をした京助を苦笑させた。その都度、京助は丁寧にアイヌ語文法の特性を教え込んだ。

 翌年、文科甲類2年に進級した真志保に、京助はアイヌの昔話を訳してみないかとすすめた。真志保は学校の昼休みの時間に3篇の小話を訳して持ってきた。この「アイヌの民譚」の訳稿は、京助の短い解説をつけて日本民俗学会の機関誌『民俗学』に掲載された。

『アイヌ民譚集』は、それらの小話を集大成したもので、3年の春休みに一気に書き上げられた。姉幸恵の『アイヌ神謡集』と並んで、アイヌの口承文芸を今に伝える古典的な名作である。

 その序文で、京助はいつもながらの熱すぎてわかりにくい文体で、こう賞揚した。

《本書は胆振いぶり方言を胆振人なる君の筆で記録し、君の筆で訳出したものであるから、アイヌ語の綴り方、切り方、又邦訳の一語一語の全く手に入った訳出は、何人も追随を許さないものである。(中略)姉さんの『アイヌ神謡集』が已にさうであった様に、今度も、吾々ストレンヂャーに由って歪められざる、純真な話し手の言語感情を知る為に、故意に、一言の干渉も注意もせずに原稿も校正も全然著者自身の創意に任せて成る本書はこの点、永くアイヌ語学界に不滅の光を点ずるものであると言ってよからう》

 ここで京助は「ストレンヂャー」ということばを一種の謙譲語として使っているのだが、真志保はそれを誤解したらしく、「矢張一般の先入観念によって、不用意にも歪められたお言葉である」と同じ本の後書きで反論している。確かに京助は自分をわざわざ「余所者」などと卑下してみせる必要はなかったのである。

 真志保はその生い立ちからして他人のことばに敏感で傷つきやすい人だったのに対して、京助はどちらかといえば他人の気持ちに少し鈍感な人だったようである。

 こうした小さな誤解や行き違いは、その後もしばしばしば師弟の関係を危うくし、やがて決定的な離反を招くことになる。

 

(つづく)