第十八章 恩賜賞への道

1

 大正2年(1913)に上京して筆録ノート10冊分のユーカラを語り伝えた「アイヌのホメロス」こと日高の紫雲古津村のワカルパは、帰郷する前に、京助にある宿題を残していた。

《長篇叙事詩「虎杖丸クズネリシカ」は全部で六回戦の物語だが、自分が知っているのは四回戦までだ。その後の物語を聞かないうちに年寄りたちと死に別れてしまったからだ。貫気ヌツキベツの黒川トゥナレは最後まで知っている。旦那ニシパが沙流のユーカラを究めようと思うなら、ぜひトゥナレ老人に会ってもらいたい》

 ワカルパは帰郷後まもなく伝染病にかかって死んだので、これはそのまま京助への遺言になった。京助は2年後の大正4年(1915)夏、官費でのアイヌ語調査旅行の帰りに紫雲古津村に寄ってワカルパの法要をおこなったが、黒川トゥナレを訪ねることはしなかった。貫気別へ行くには、沙流川をさらに16キロも遡らなくてはならなかったからである。

 京助がその約束を果たしたのは、大正12年(1923)の夏、ワカルパの死から10年後のことである。このときはまず紫雲古津村に寄ってワカルパの法要を営み、翌朝早く、ワカルパを京助に紹介した老女コポアヌの案内で貫気別をめざした。

 この旅の思い出を綴った随筆「太古の国の遍路から」には、ひとり旅だったように書かれているが、全集の自筆年譜では「久保寺・宮坂二君と貫気別に黒川トナレを訪う」となっており、実際には同行者があったらしい。久保寺逸彦は国学院大学の教え子で、のちに知里真志保と並んで京助の二大弟子と称された人である。

 平取びらとりを過ぎると、ちょうど義経神社の祭礼がおこなわれていた。この神社は、アイヌの祖神オイナカムイは実は源義経だったと信じる幕末の探検家近藤重蔵が、聖地ハヨピラの丘に義経像を安置したことに由来するもので、毎年8月14日から16日にかけて賑やかな祭礼がおこなわれる。

 この日はお祭り見学で大幅に行程が遅れ、目的地に着く前に日が暮れてしまった。その夕闇のなかで、馬に乗って同じ方向をめざすアイヌの青年と出会った。青年はコポアヌの知り合いだった。

「婆さんが、なんでまた、そんな人たちを連れて、こんな山道を歩いているんだ?」と尋ねる青年に、コポアヌがこれまでの事情を説明すると、彼は今度は京助に向かって「そんなことを調べに、わざわざ東京からやって来るなんて、よっぽど暇なんだね」と馬鹿にしたような口調でいった。

 そこで京助が例のごとく、ユーカラがいかに貴重なアイヌの文化遺産であるかを力説すると、青年は馬から下りて肩を並べて歩きながら、次から次へと京助を質問攻めにした。

 その夜、一行は貫気別の手前の村、沙流川の対岸にあるニオイに泊まることにした。京助たちは和人の農家に、コポアヌは青年の家に泊めてもらった。翌朝早く、貫気別への道を急ぎながら、コポアヌは京助にこんな話をした。

「あの男は若いに似合わずユーカラの名手でね、私たちは夜っぴてユーカラを謡い明かしましたよ。あとで婆さんから旦那に教えてやってくれといって、長いユーカラをひとつ丹念に教えてくれました」

 この青年、木村留一は、こうして京助のユーカラ研究史にその名を留めただけでなく、のちにニオイ・コタンの先進的なリーダーとして知られることになった。

 一行がやっとの思いで貫気別に到着すると、黒川トゥナレは明日をも知れぬ重病人だということがわかった。その兄の家を訪ねると、「弟はもう痩せ衰えて見る影もない。初めての人には会いたがらないだろう」という。そこをなんとかと頼んで何度も取り次いでもらったが、その都度おなじ答えが返ってきた。

「それではせめてお見舞いのことばだけでも述べさせてください」というと、兄は「それなら上衣の厚司アツシだけでも着替えさせて来よう」といってしばらく待たせたあと、一行をトゥナレの小屋に案内した。

《中へはいると、右座の寝床にむしろのとばりを半分引き上げた下、枯木のようにやせ衰えた翁が、髪も髯も銀のよう、鼻筋のみ細く立って、弱々しく開いた薄目が消えて暁の星のよう、ひっそりとして妻子もなしに、ひとり寝ている真っ白な神々しい顔を見出した時、胸をうたれながら思い浮べたのは、あのいばらの冠をいたゞいた名画の中のクリストの面ざしそっくりなことだった。痛々しく、静かに寝台シヨツキに近寄って長老に対する礼だから、両手をさし伸べてもみながら、初対面の会釈のことばを述べた》(「太古の国の遍路から」、以下同)

 その「初対面の会釈のことば」とは「神の如き噂を世に伝うる人」に始まり、「今こそこうして相見ることのうれしさよ。つつしみて敬意を尊前にいたすものである」に終わる格調の高い韻文である。

 これに対してトゥナレは「老いさらばえた身を、かかる慇懃なことばもて顧みたまうことのありがたさよ。つつしみて敬意を尊前にいたすものである」と返辞を述べたあと、天井から吊した帯につかまって身体を起こすと、やおら「虎杖丸」の最終戦を語りはじめた。

 しかし、それはかつてワカルパの語った戦記とまったくおなじものだった。「虎杖丸」の戦記にはさまざまな数え方があって、大きく数えると4つだが、細かく分けると6つにも8つにもなる。ワカルパは、自分が知っているのは四回戦までだといったが、結局はそれで全部だったのである。

 ところが、トゥナレによれば「虎杖丸」よりもっと長いユーカラがあった。それは「鹿のかわごろも」という十回戦の物語で、自分の最も得意とする曲目だから、息のつづくかぎりそれをお聞かせしましょうということになった。

 そこで京助はトゥナレに喉を潤してもらうために一升(約1.8リットル)の酒を取り寄せた。噂を聞きつけた村人たちが集まってきて、小さな小屋は大入り満員になった。しかし、誰ひとり口をきく者はなく、室内には森厳の気がたちこめた。


 我が伯父イレシユアチヤ我が伯母イレシユウナルペ

 我が兄イレシユユピと、我が姉イレシユサポ

 我を育ててイレシユパヒネ我らありたりオカアニケ……


《さすが翁の明晰な語音が陰森としてまず胸をうつ。しかしながら、一口一口に奄々えんえんたる気息がすぐにつまって、時々重く苦しい咳となってしまう。酒で口を湿しては、やっとあとを継いでいく。私は一音の微をも聞きもらさじと、全身の神経を二つの耳に集め、火の出るようにペンを走らす。だんだん知らず知らずにせり出して翁の膝へ乗るばかりに近寄り、ペンも折れよと書き継いでいると、翁の声が次第にかすれて、また昏々こんこんとして咳にめいってしまう。時には喀痰して、五分、十分も休まなければならない》

 コポアヌが気をもんで、「エカシは何の病気だ」と周囲の者に尋ねると、4年前の冬に熊を追って幌尻山ぽろしりやまの沼の縁に迷い込み、沼の蛇体の気に触れたのだという。幌尻山は人を寄せつけぬ神の山で、ひとたびそこに足を踏み入れた者は生きては帰れないとされていた。

《翁はあとをつづける。私はペンを取ってそのあとを追いかけながら――運命だな。今から中止したって、うつるものならもううつっているだろう。ああ、よくよくだ――ペンが熱を帯びてただまっしぐらに走る。だが、待てよ、爺さん! 「お! そこは今いったね、もう一度書くのか!」というと、聞いていた男女が「エカシ、エカシ、そこはいった。その先をやれ!」。爺さんあわてて、「あっそうか、おれぁ、書かれるのがはじめてだで、落としちゃいけない、落としちゃいけないと気遣うものだから、む、む、阿呆だなあ」と自分を責めて、また口を湿して後を継ぐが、いつかまたまた一つところをぐるぐるめぐる》

 やがて一升の酒が底をついた。翁の髯面が真っ赤に染まり、呂律がますます怪しくなった。昔は四升の酒を平らげたというが、長患いの末に久しぶりにありついた酒にすっかり飲まれてしまったらしい。

「ニシパ、もうやめましょう。そんな後先あとさきしたものをトゥナレのユーカラとして世に残されるのは恥ずかしい」と兄がいうと、トゥナレは「ニシパ、もう二度と会うことのない命だ。ちゃんとやるから書き残してくれ」といった。しかし、それはもう無理だった。

《私はペンを投じて目を閉じた。「ああ、これが、アイヌの民族的大叙事詩がこの世にも影を没する最終の幕か!」。すべてを地に返す夕が、奥沙流川のかなたに蒼然としてせまっているのであった》

 この「最終の幕」について、瀕死の重病人に酒を飲ませてユーカラを語らせたのは非人道的な学者のエゴイズムだと批判する声があった。しかし、もしトゥナレの最後のことばが真実だとすれば、それはむしろきわめて人道的な行為だったといえなくもない。

2

 その前年、大正11年(1922)11月に、京助一家は本郷森川町から真砂まさごちようへ転居していた。知里幸恵の死から2ヶ月、その悲しみを忘れるための転居だった。相変わらずの借家住まいだったが、今度は部屋数がひとつ多かった。

 大正12年(1923)の夏、貫気別への旅を終えた京助は、8月31日にこの家に帰ってきた。そして翌9月1日、旅装を解く間もなく関東大震災に見舞われた。幸い一家は無事だったが、もう都心に住む気にはなれなかった。

 京助は郊外に家を探した。静江の体調は相変わらず回復の兆しが見えず、長男の春彦も体が弱かった。震災で心身ともに打ちひしがれた家族に、せめて郊外の新鮮な空気を吸わせてやりたかった。

 大正15年(1926)2月1日、一家は住み慣れた本郷から豊多摩郡杉並町成宗三二二番地(現在の杉並区成田東三丁目)の新居に移転した。政府の住宅復興政策による、低利、20年満期、一戸3千円までの融資制度を利用して建てたバラック(仮小屋)風の家だった。本当はもう少し立派な家になるはずだったが、性悪な大工にひっかかって「資金が尽きたからここまで」と完成前に投げ出されてしまったのである。引っ越しの日は雪で、赤いトタン屋根にうっすらと雪が積もっていた。

 京助はこの家が気に入っていた。40歳を過ぎてから初めて持った自分の城だった。周囲には畑が広がり、南へ10分ほど歩くと、なだらかな丘と赤松の林があった。春には蛙が鳴き、夏には蛍が飛びかった。「丘へ行ってくる」と告げて散歩に出かけるのが日課になり、子供たちへのおみやげに松ぼっくりを拾って帰ることもあった。

 ある日、京助は近所の露店で数羽のひよこを買ってきた。安い買い物だったので、どうせオスばかりだろうとは思っていたが、案の定、いずれも赤い鶏冠とさかに白い尻尾をピンと跳ね上げた白色レグホンのオンドリに育ち、近所の農家の人に「やあ、この家はオンドリばっかり飼ってらあ」と笑われることになった。こうして時代は大正から昭和へと移っていった。

 昭和3年(1928)3月、京助は東京帝国大学言語学科の助教授になった。46歳での助教授就任は、当時としては異例の遅さだった。しかも主要講座の「言語学概論」は持たせてもらえず、「アイヌ語入門」と「アイヌ語講読」という教養科目の担当にとどまった。

 当時の主任教授は、上田萬年の後を継いだ藤岡勝二。蒙古語と満州語が専門で、京助の学生時代からの先生だったが、そのころからなぜか京助を嫌っていた。ひょっとすると、上田萬年や柳田國男にかわいがられる京助に嫉妬していたのかもしれない。

 藤岡教授は定年を間近にひかえていた。後任は京助だろうと学内では見られていたが、藤岡は朝鮮の京城大学から小倉進平を呼び戻して後釜に据えた。小倉と京助は学部の同期生だったから、これは明らかに面当て人事である。こうして京助は「万年助教授」の道を歩むことになった。

 学界での不遇は、人事だけにとどまらなかった。京助は大正11年(1922)に学位論文「ユーカラの研究」を大学に提出していたが、アイヌ語のわかる者がいなかったので、なかなか審査してもらえなかった。「あんなもので博士になれるなら、台湾の山奥の樹齢何百年というクスノキを眺めていれば、みんな博士になれるよ」と藤岡教授がいったという噂が流れた。この論文は結局、付属図書館に保管されたまま、関東大震災で灰になった。

 捨てる神があれば、拾う神があらわれる。しょんぼりと肩を落とす京助を見かねた柳田國男は、これまでの研究を一冊の本にまとめることをすすめ、自著『雪国の春』の版元だった岡書院の岡茂雄を紹介した。また渋沢栄一の孫で民俗学者の渋沢敬三は、当面の研究費として毎月50円(現在の約10万円)を名を秘したまま岡を介して届けてくれた。京助は学界では不遇だったかもしれないが、研究者としては異例の強運に恵まれていたのである。 

 この前後の経緯は、岡茂雄の『本屋風情』にくわしい。藤本英夫『金田一京助』(新潮選書)から孫引きさせてもらう。

《大正十五年の秋、私が所用で(柳田)先生をお訪ねした時に、「君一肌ぬいでみないか」と唐突にいわれた。「金田一君が畢生の仕事として、アイヌのユーカラの解説研究を欧文で書き上げ、学位論文として帝大に提出したが、だれも審査するものがなくて、付属図書館においたんで震災で焼けてしまった。金田一君は落胆して、もう私にはやり直す力がないといって消沈しきっている。そこで君にいうのだが、欧文ではなく和文でもいいから、ぜひ思い直してもう一度やってくれるように勧めて、できたら君の手で出版してやってくれないかということだ」といわれた》

 岡はかねがね日本人でなければ成しえない研究を上梓して国際的な意義のある仕事をしてみたいと願っていたので「とにかくやってみましょう」と答えた。すると柳田は「厄介だろうが、金田一君が途中で挫けないように何遍でも行って催促してやってくれたまえ」と付け加えた。

 岡はさっそく京助の新居を訪ねた。その家は中央線阿佐ヶ谷駅の東南約20分のところにあり、いも畑と田んぼに囲まれていた。

《玄関の扉といい、柱また壁といい、お世辞にも立派とはいえないどころか、正しくいえば、粗末極まる建物に見えた。(中略)世界にただ一人という貴重なアイヌ語学者を、かような貧しげな陋屋にしか住まいできないように仕向けている、日本の文教政策のあり方に、烈しい憤りを覚えた》

 岡が柳田から聞いた話を伝えると、京助は「それではもう一度、勇気を出してやってみましょう」と答えた。そこで岡は「そのご決意が鈍らないように、頻繁に社員をうかがわせて催促させていただきます。資料集めやカードの作成など、お手伝いできることがあれば、何でもその者にお申し付けください」と約束した。

 後日、そのことを渋沢敬三に話すと「それはよかった。ぼくも研究費の足しに毎月50円を進呈することにしよう。ただし、それは岡書院からのこととして、ぼくの名前は絶対に出さないでくれ」といった。岡は渋沢にいわれたとおり、毎月末に50円を自分の金として京助に届けたが、その都度「なんともいえない面ばゆい思い」がしたという。

 こうして周囲を固められてしまうと、京助としてはもう逃げるわけにはいかなかった。最初は遅々として筆が進まなかったが、そのうちに気分が乗ってきて次第に原稿がはかどるようになった。こうして2年後の昭和3年(1928)秋には、全体の半分ほどが仕上がった。

 岡は海外に出しても恥ずかしくない造本にしようと思い、親交のある岩波書店の岩波茂雄に「印刷所はどこがいいだろうか」と相談した。すると岩波は「それなら三秀舎に限る」と即答した。

 三秀舎の仕事は早かった。入稿するとすぐに校正刷りが出るので、京助は後半の原稿を執筆するかたわら校正に追われ、寝るひまもないほど忙しくなった。岡はひやひやしながら京助の健康を気遣ったが、もともと体力に恵まれていた京助は、一度も倒れることなくこの難局を乗り切った。

 いよいよ定価を決める段になって、岡は、はたと思い悩んだ。この本が何部売れるものか、さっぱり見当がつかなかった。当時は大学の数も少なく、公立図書館は全国でも数えるほどしかなかった。とすれば、売れるのはせいぜい3、40冊だろう。これではとても元がとれず、印税も払えそうにない。

 そこで東洋文庫で引き取ってもらえないかと渋沢敬三に相談すると、この話は渋沢から新村出へ、新村から上田萬年へ、上田から東洋文庫主幹の石田幹之助へと伝えられ、ようやく日の目を見ることになった。

 こうして大著『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』全2冊は、昭和6年(1931)1月、東洋文庫から刊行され、著者の京助には研究費という名目で4000円(現在の約800万円)が支払われた。昭和6年といえば金解禁後の不景気で東北の農村では娘の身売りがつづいた年で大金である。

 ちなみに東洋文庫は大正13年(1924)に三菱財閥の岩崎久彌がG・E・モリソンから購入した和漢洋の東洋学関係文献を収蔵するために建てた図書館で、現在は国立国会図書館の支部になっている。渋沢といい岩崎といい、京助のアイヌ語研究は財閥系資本によって支えられていたことになる。

 京助はこの著作によって翌7年(1932)5月に帝国学士院恩賜賞を受賞し、学界の頂点に上りつめた。それ以来、他の著作も次々に出版されるようになり、「アイヌ語の金田一京助」の名は学界の内外で広く知られるようになった。

 ところが、京助は晩年の自伝『私の歩いて来た道』のなかで、恩賜賞へと至るこの道がまるで気楽な散歩道だったかのように語っている。

《昭和の初めごろのことですが、岡書院の岡さんという人が「先生の研究を本に書いてください」と言ってきました。「アイヌの本を出したって売れませんよ」と断わったのですが、引きさがらない。前後30回ぐらい日曜毎に頼みにきました。その岡書院の裏には渋沢さんの紐がついていた。(中略)これが昭和5年に書いて6年に出版され、7年に恩賜賞をいただくことになったものです》

 これではまるで、しつこく頼まれたので仕方なく、1年ほどでさっと書き上げて恩賜賞をもらったといっているようなもので、岡茂雄の5年間にわたる献身的な無償奉仕はもとより、柳田國男、渋沢敬三、石田幹之助らの行きとどいた配慮に対する感謝の姿勢は感じられない。

 さすがの岡も腹にすえかねたらしく、「真を覆い、実を曲げ、更に幾分の傲りをもまぶして、まことしやかなお話の筋を、なぜ作り上げられなければならなかったのか、私には解せないのである」と書いている。

 ことば探偵金田一京助は、他人のことばには敏感だが、自分のことばには意外と無頓着な人だったようである。

 

(つづく)