第九章 友情合宿

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 明治41年(1908)の春から秋にかけて、金田一京助と石川啄木は本郷菊坂町の下宿「赤心館」で共同生活をした。それは「友情の強化合宿」とでもいうべき日々だった。

 京助は毎日カバンをさげて霞ヶ関の海城中学校に出勤し、海軍志望の学生に国語を教えた。啄木は終日部屋にこもって小説を書きつづけた。京助の先生ぶりは次第に板に付いてきたが、啄木の小説はいっこうに日の目を見なかった。

 京助が学校から帰ると、2人は2階の啄木の部屋で、毎晩遅くまで語り合った。人生論から文学論まで、話題は尽きなかった。生活費はすべて京助の財布から出ていたが、議論はいつも啄木がリードした。啄木は京助の4歳年下ながら人生経験では一日の長があった。

 啄木が5月10日から書きすすめてきた短篇「病院の窓」は5月26日午後に完成した。憔悴した顔で京助の部屋に現れた啄木は「ようやくできました。読んでみてください。よかったらどこかに紹介してくれませんか。その前にまず、ご褒美として僕に2円恵んでください」といった。

 10日ほど前、娘の京子がジフテリアに罹って危篤状態に陥ったと、函館の宮崎郁雨から知らせがあった。病状はやがて回復したが、妻の節子から「早く上京して一緒に暮らしたい」という催促の手紙がきた。「病院の窓」は、そういう切羽つまった状況のなかで書かれた小説だった。

 翌日、京助はその原稿を持って中央公論社を訪れ、編集長の滝田樗陰に面会を求めた。樗陰は京助に初めての論文「アイヌの文学」を書かせてくれた恩人である。あいにく樗陰は不在だったので「親友啄木の作品です。よろしくお願いします」というメモとともに受付に預けてきた。帰りにイチゴと夏ミカンとビールを買ってきて、2人で打ち上げの祝いをした。

 啄木はさらに5月30の朝から12時間ぶっ通しで31枚の短篇「母」を書き上げた。翌日、京助はそれを持って再び中央公論社を訪ねたが、樗陰はまたしても不在。6月1日になってようやく面会が実現した。樗陰は「いちおう読んでみましょう」といった。そして2日後、前に預けた「病院の窓」と一緒に返送されてきた。啄木の小説は樗陰のお眼鏡にはかなわなかったようである。

 それでもまだ諦めきれない啄木は、その日から2日がかりで「天鵞絨ビロード」93枚を書き上げ、6月4日に森鴎外邸を訪れた。鴎外は留守だったので、「病院の窓」とともに置いてきた。5日後に鴎外からはがきで、「病院の窓」は春陽堂で買い取ることになったが、原稿料は掲載後の支払いになると連絡があった。

 啄木は11日にお礼言上を兼ねて再び鴎外邸を訪れ、残された「天鵞絨」の原稿を持ち帰ったが、そのなかに語句の誤りをただす鴎外手書きのメモが挟まっていた。陸軍軍医総監として多忙なはずの鴎外が、ちゃんと原稿を読んでくれていたのである。 

 その夜、京助は啄木の下宿代にあてるために冬物の衣類一式を12円で質に入れた。ところが啄木は下宿代を10円しか払わず、残りの2円で自分の単衣ひとえを買ってしまった。そのため京助はさらに5円を用立てなければならなかった。

 翌日、啄木は1円だけ京助に返済し、夜店で買ってきた青磁の花瓶をプレゼントした。その金は冬物のあわせと羽織を質入れしてつくったものだったが、1円で自分の卓上ランプを買ったので、すぐにまた文無しになった。

「手元に金があると、なんだか落ち着かなくて物を書く気になれないのです。僕はやっぱり貧乏がしように合っているんでしょうね」

 手元に金があってもなくても、小説はなかなか書けなかった。その代わり、短歌ならいくらでも作ることができた。小説の筆が進まなくなると、自虐的な気持ちで短歌を書き散らした。そこにはもはや詩集『あこがれ』を出したころの見栄や気取りはなく、はだかの自分を洗いざらしの日本語で表現する快感があった。それはまさしくことばによる自慰だった。

 いったん書き出すと止まらなくなり、6月23日から25日にかけて断続的に246首の短歌を詠んだ。そこには「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」など、のちに歌集『一握の砂』に収められることになる幾多の名歌が含まれていた。 

 その書き散らしの歌稿を京助に見せながら、啄木は「近頃は頭がすっかり短歌になっていて、何を書いても歌になります。父母を詠んだ40首は泣きながら書きました」といった。

 当時、啄木の父一禎は家族の口減らしのために青森県野辺地の旧師の寺に身を寄せ、母カツは函館で啄木の妻子とともに宮崎郁雨の世話になりながら上京の日を待ちわびていた。それもこれも、すべては自分の不甲斐なさのせいだった。啄木はただ泣くしかなかったのである。

 それを聞いて、京助も泣いた。泣きながら「とにかく、あなたがしっかりしなければ」と励ました。しかし、そのことばが無力であることを、いった本人がよくわかっていた。

 7月9日、今度は京助に悲報が届いた。妹のヨシが北上川に身を投げて死んだと、弟の次郎吉が知らせてきたのである。その手紙を持って啄木の部屋を訪れた京助は、物もいわず入り口に佇んでいた。「とにかく中へ」と招じ入れられた京助は、涙ながらにこれまでのいきさつを語った。

 金田一家の第5子で次女のヨシは、京助と同じく幼いころ里子に出された。長女のヨネがそれを悲しんで両親に泣きついたので、5歳のときに実家に返された。

 しかし、ヨシはすっかり泣き虫になっていて、いったん泣き出すといつまでも泣きつづけた。そのうちにヨネも愛想をつかし、ヨシは兄妹のなかで次第に孤立するようになった。同じ里子体験を持つ京助はやさしく接したつもりだったが、ヨシにはそれが伝わらなかったらしい。

 それでもヨシは縁あって盛岡から30キロほど離れた花巻に嫁ぐことになった。嫁入りの日、京助はヨシに「俺はお前をほかのみんなと同じように愛していた」と告げたかったが、ヨシはなぜかプイと顔をそむけた。

 1年ほど前、ヨシは婚家から実家に戻った。たまたま帰省していた京助が声をかけると、ヨシは「あのとき兄さんは、それ見ろといって突き放した」と恨めしげにいって泣きだした。京助は「俺がそんなことをいうはずはない」と弁明したが、ヨシはもう聞く耳を持たなかった。

 7月4日、ヨシは黙って実家を抜け出したまま行方不明になった。家族が手分けして探すうちに、7日になって盛岡市の郊外、見前村の北上川の川原に女性の死体が漂着したという知らせが入った。みんなで現場に駆けつけると、そこには両膝を紐で縛り、頭髪を固く結い上げて覚悟の自殺をとげたヨシの亡骸があった。享年20。死体の周囲には月見草の花が咲き乱れていた。

 長い物語を終えた京助に、啄木が「今夜はここで枕を並べて寝ますか」と問うと、京助は「いや、夢を見そうだから自分の部屋で寝ます」と答えた。11日の夜行で帰省するという京助に、啄木は「その日は上野まで見送りに行きます。どうにもならないことで、あまり自分を責めないでくださいね」といった。

 京助は盛岡でヨシの霊前に手を合わせたあと、7月14日の夜遅く帰京した。啄木の部屋を覗くと、啄木は珍しく自分の詩集『あこがれ』を読んでいた。

 翌15日の夕方、今度は啄木が暗い顔をして京助の部屋にやってきた。

「なんだか淋しくなりましてね。近ごろ、死にたいという想いが心に浮かんで消えないのです」

 啄木が引き受けていた金星会の歌稿の添削料が少し上がって、三銭切手を11枚入れた封書が届いた。これまでより1枚多かった。うれしかった。しかし、三銭をうれしがる自分の境遇を思うと無性に悲しくなったという。

「自分の文学の価値はたったこれだけのものかと思うと、やりきれないのです。妹さんの真似をしようとは思いませんが、死のささやきを聞いていると、なぜか心が安らぐのです」

 盛岡の話をすると湿っぽくなるので、京助は樺太の思い出を語った。ボートから下りた途端に数十頭のカラフト犬に吠えたてられて肝をつぶしたこと、波濤をかすめて飛ぶ渡り鳥の群れを見ながら時を忘れたことなどを話した。すると、啄木の表情が明るくなった。

「あなたの話を聞いていると、なぜか心が軽くなる。おかげで今夜はぐっすり眠れそうです。ありがとう」

 しかし、啄木の心の平安は長くは続かなかった。7月27日、先月から滞っていた下宿料の催促を受けた。お手伝いのアイという娘がおかみさんの使者として厳しく責め立てた。啄木は「無い袖は振れぬ」と防戦につとめた。アイが5、6度階段を昇降したあと、おかみさんがやってきて、こう宣告した。

「あしたの夕方までに、なんとしても先月分の15円を入れてください。それができなければ、すぐにここを出ていってもらいます」

 そのとき啄木の財布には一銭もなかった。とりあえず英和辞典を古本屋に売って電車賃をつくり、あちこち金策に駆け回った。しかし、借りられるところからはすでに借りたまま返していなかったので、それでもなお貸そうという奇特な人はいなかった。

 最後に訪ねた北原白秋も不在だとわかると、もう自殺以外に道は残されていないと思った。北山伏町の白秋の借家を出て春日町の坂を上っていたとき、市電が猛スピードで坂を下ってきた。これに飛び込めば死ねると思って身構えた瞬間、電車は無情にも通り過ぎていった。

 その夜遅く下宿に戻った啄木は、京助に一部始終を語った。「死のうと思ったけど、死ねませんでした。人間はなかなか死ねないものなんですね」

 翌日、京助はおかみさんに会って、今後啄木の下宿代は自分が責任をもって払うので、本人には催促しないと約束させた。しかし、京助にも十分な手持ちがなかった。京助が海城中学でもらう月給は35円で、2人分の下宿代を払うと5円しか残らない。しかも海城中学は経営難で、給料が遅延することも珍しくなかった。

 そこで京助は「いまちょっと余裕がないので、僕の分を5円まけて2人で25円にしてくれませんか。あとで金が入ったら払いますから」と頼んでみた。学生時代から毎月きちんと払いつづけてきたので、それぐらいの信用はあると思っていた。

 ところが、おかみさんは「書生さんというものは、金は持っているだけ使ってしまう。あるときに払ったほうがいい」といって、頼みを聞いてくれない。35円の月給を取っている人が30円を払えないはずがないというのである。

 それを聞いて腹がたった京助は「わかりました。払います。あしたまで待ってください」といって、返事を待たずに背を向けた。下宿代を清算して赤心館を出るつもりだった。

 翌日、京助は神田の松村書店を呼んで蔵書を売り払った。高校時代から買い集めた文学書が中心で、そのなかにはハイネの極彩色版詩集、ゲーテやシラーの豪華版詩集、ケーニッヒの『ドイツ文学史』といった稀覯本も含まれていた。

 古本は荷車に2台分あったが、本代は40円にしかならなかった。しかし、京助は自分の文学青年的な一面を切り捨てて学問ひとすじに生きようと決めていたので、文学書を手放すのはそれほど苦痛ではなかった。

 京助はその金で溜まった下宿代を払い、ついでに盛岡から持ってきた上物の南部鉄瓶を「長らくお世話になったお礼です」といっておかみさんに手渡した。下宿を女房にまかせて自分は役所づとめをしている亭主がそれを見て、「お前は金田一さんに何か失礼なことをいったんじゃないのか」と、おかみさんを問い詰めたという話をあとで聞いた。

 その日、啄木は鴎外邸の観潮楼歌会に出かけて留守だった。深夜に帰ってきて京助の本棚ががら空きになっているのを見つけた啄木は、思わず何か声を発した。京助の『思い出の記』では「やあ! 私のためにどうも」といったことになっているが、啄木の日記には「死んだら守る」といったと記されている。「生きているあいだに恩返しすることはできそうにないが、自分が先に死んだら必ずあなたを守る」という意味だったらしい。

 あとでその日記を読んだ京助は「啄木でなければいえない、腹の底から出たお礼のことばだったのに、そのときはそれを理解できなくて申し訳ない」と感じたという。ここはもちろん京助が詫びるべき場面ではない。詫びるべきなのは、自分の借金をほったらかしにして歌会に出かけた啄木のほうである。

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 9月6日、京助と啄木は本郷森川町新坂上の「蓋平館別荘」に引っ越した。木造3階建ての新築物件で、「東京一高級な下宿」という触れこみだったが、部屋代5円、食費7円で、これまでより割安だった。

 窓を開けると眼下に西片の町と森が広がり、天気のいい日には富士山が見えた。最初は3階の8畳間に同居したが、2日後に啄木は家賃の安い「九番」に移った。それは「珍な間取の三畳半、称して三階の穴」という小部屋で、部屋代は4円だった。窓からは小石川、神田方面の街並みと靖国神社の森が見えた。

 下宿を移ってまもなく、京助は海城中学を辞職した。辞めたくはなかったが、辞めざるをえなかった。彼には教師の資格がないことが判明したからである。

 当時、帝国大学の卒業生は、教職課程を履修しなくても、自動的に中学教師の資格が与えらた。英文科を出れば英語の教師に、国文科を出れば国語の教師になることができた。ところが、京助の出た言語学科は、中学側に受け皿となる教科がなかったので教師の資格が得られなかったのである。

 突然の失職で無収入になった京助は、10月の初めから、恩師の金澤庄三郎教授の推薦で、三省堂の『日本百科大辞典』編修所に校正係として勤めることになった。学生時代にアルバイトをしていた職場だが、今度は正規の採用だった。その直後に国学院大学の嘱託講師の職も得て、収入はようやく安定した。

 一方、啄木の小説は相変わらず売れなかった。万朝報の懸賞小説に応募したがあえなく落選し、国民新聞の徳富蘇峰に記者として雇ってほしいと履歴書を送ったが無視された。そんなときにはいつも京助が泣き言の聞き役をつとめた。

 10月の半ば、新詩社同人の栗原古城(本名元吉)から朗報がもたらされた。古城は東京帝大を卒業して東京毎日新聞の記者をしていたが、啄木の小説を連載するよう社長の島田三郎に頼んでみようといってくれた。これは千載一遇のチャンスだった。

 啄木はさっそく旧稿『静子の恋』を全面改稿して『鳥影ちようえい』という小説に取りかかった。これは郷里の渋民村の旧家、金矢家の人々をモデルにした小説だったが、書き始めてまもなく、モデルのひとりで盛岡中学の同級生だった金矢光一がひょっこり訪ねてきた。啄木はその偶然にびっくりしたが、小説のことは黙っていた。

 長篇小説『鳥影』は11月1日から12月30日まで59回にわたって東京毎日新聞に連載された。原稿料は1回2円の契約だった。これですっかり気が大きくなった啄木は、11月初めに浅草十二階下の私娼窟へ出かけてミツという名の娼婦を抱いた。妻の節子によく似た女だった。以後、啄木は少しでも金が入ると、足繁く浅草へ通うようになる。

 大晦日に『鳥影』の原稿料がまとめて入った。それは啄木が小説で稼いだ最初の収入だった。彼はその金で溜まっていた下宿代と借金を清算した。「借金というものは返せるものなんだなあ! 借金を返すってのは、よい気分のするものですね」と感に堪えぬようにいった。そのことばは京助をいたく感激させた。

《石川君の此のいつわらざる天真の声――それは一つの詩だった。創作だった。しかもどの詩集にも歌集にも漏れている石川君不用意の突嗟とつさの最も自然に発した自らの歌だった。半生の借りっぱなしをめぐって、石川君に金銭上の悪声が此迄これまで多くの旧友をそむかせたのであったが、それは石川君には不可能を強要する無理解のしもとだったのである。借金を返し得ずにいる苦しみを、ひとりでどんなに苦しんでいたかが、一度に思いやられて、私は覚えず笑いを収めて闇然としたのである》(『定本石川啄木』所収「菊坂町時代の思出」)

 この啄木擁護論は、いささか贔屓ひいきの引き倒しの観はあるものの、それを書いたのが啄木にたかられっぱなしだった京助であるところに、有無をいわさぬ説得力がある。

 明治42年(1909)が明けた。京助は数えで28歳、啄木は24歳になった。

 この年1月1日に文芸誌『スバル』が創刊された。『明星』廃刊のあとを受けて平野万里、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋など新詩社系の若手詩人が森鴎外の後押しで結集した雑誌で、当時隆盛をきわめた自然主義文学に対抗する浪漫主義の拠点となった。

 創刊号の発行名義人は啄木になっていたが、これは名義だけのことで、実際の編集発行人は歌人で弁護士の平出修ひらいでしゆうだった。平出は発行費用も負担した。啄木はのちに平出から大逆事件の裁判書類を借りて読み、深刻な思想的転換を迫られることになる。 

『スバル』の編集発行人という肩書は、啄木に勇気と自信を与えた。2月3日、彼は東京朝日新聞編集長、佐藤さとう北江ほつこう(本名真一)に、この創刊号と履歴書を同封した就職依頼の手紙を出した。北江は盛岡出身で当時41歳。面識はなかったが、お互いに名前だけは知っていた。

 北江はすぐに会いたいと、はがきでいってきた。2月7日、啄木は京橋の本社で北江と面会した。話は3分で終わった。北江は校正係でよければ月給30円で雇うと約束した。その夜、京助は一張羅のフロックコートを質に入れて金をつくり、都心の高級料理店で啄木と祝杯をあげた。

 2月19日、東京帝大生の野村長一(のちの胡堂)が予告なしに啄木を訪ねてきた。胡堂は盛岡中学で京助と同級だったが、一高入学までに2年浪人したので、まだ法科大学の学生だった。啄木が前回上京したとき以来、ほぼ3年ぶりの再会だった。その日、京助は三省堂に出社していて会えなかった。

 胡堂のあとから『鳥影』のモデルになった金矢光一もやってきたので、3人で下宿の昼飯を食べながら積もる話に花を咲かせた。金矢はまもなく帰ったが、胡堂は夕方までいた。そのとき胡堂は名目だけの婚約者と別れ、いまは同郷の橋本ハナとつきあっていると告げた。それを聞いて、啄木は少し羨ましく、少しだけ不愉快に感じた。

 こうして、京助と啄木の周辺で、物事は少しずつ動きはじめていた。

 

(つづく)