第八章 中学教師
明治40年(1907)の初秋、金田一京助は40数日にわたる樺太アイヌ語採集の旅を終えて東京へ戻った。出かけるときは東京帝国大学の学生だったが、帰ってみると何の肩書もない浪人になっていた。
樺太からの帰途、京助は盛岡に一泊して伯父の勝定に研究の成果を報告した。勝定は心から喜んでくれたが、「大学を卒業したお前に、もうこれ以上の経済的援助はしない」と宣告した。そこには破産した久米之助一家を長男として何とかしろという言外の意味も含まれていた。
盛岡から東京へ向かう夜汽車の座席で、京助は一睡もせずに夜を明かした。列車が福島県の東海岸を走っているとき、朝日があかあかと海上に昇ってきた。それを見て、彼は「よし、やってやろう!」と心を決めた。
《貧乏は覚悟の前だ。父母や姉にも、必ずわかってもらえる日がくる。貧乏さえ覚悟すれば、暮らしだけはやっていけないことはない。そう決心して座席から立ち上がり、「やるぞ!」と、さし昇る朝日に向かって、そう言って決心して、東京に着いたものです。そのとき私の生涯の生き方が本当にきまったのでした》(『私の歩いて来た道』)
帰京するとすぐ、柳原にある上田萬年の私邸を訪れた。上田は京助の語るオチョポッカでの経験談に熱心に耳を傾けながら、ビールで歓待してくれた。暗くなって京助が辞去しようとすると、上田は「まだよい、まだよい」といって引き止めた。途中からは夫人も加わって、歓談は深夜まで続いた。
文科大学に博言学科(のちの言語学科)が設けられた当初から、上田は日本人アイヌ語研究者の登場を熱望していた。日本にしかいないアイヌ民族のことばを研究するのは、日本の言語学者の責務だと考えていたのである。その念願がいま叶えられようとしていた。学界のリーダーとして、この弟子の活躍がよほど嬉しかったに違いない。
下宿への夜道をたどりながら、京助はしみじみと幸福を感じていた。彼にとって上田は学問上の慈父だった。この慈父のためにもアイヌ語研究をしっかりやり遂げようと、改めて心に誓った。
すると自然に故郷の父のことが思い出された。慈父といえば、久米之助はまさしく慈父を絵に描いたような人だった。自分はいま、その父の期待を裏切ろうとしている。経済的に苦しんでいる父のために、自分は何もしてやれないし、今後もおそらくできないだろう。「おゆるしゃってくなんせ(許してください)」と、京助は心のなかで手を合わせた。
帰京から半月ほどたったある日、カタカナで宛名書きをした手紙が届いた。オチョポッカで仲良しになった少女、ヨーキからの便りだった。
《テガミ、アゲマス、ヨンデクダサイ。ヘンジ、クダサイ。ソシタラ、マタ、テガミ、アゲマス。ヘンジ、クダサイ、ソシタラ、マタ、テガミ、アゲマス……》
この手紙は同じことばを何度も繰り返したあと、最後に「サヨナラ」で結ばれていた。オチョポッカの集落で、ヨーキは京助を見かけると、いつも「トノー」と呼びながら駆け寄ってきた。「トノー」は「旦那様」を意味するアイヌ語である。
日本の文字を知りたいというヨーキのために、京助はカタカナを教えることにした。ひらがなよりも字画が簡単で覚えやすいだろうと思ったからだ。ヨーキはすこぶる熱心で、五十音のカタカナを数日のうちに覚えてしまった。それがあとで「トノー」に手紙を書くための準備だったとは、そのときの京助には思いも及ばなかった。
たどたどしい手紙を読みながら、京助は胸が熱くなった。それはアイヌとの「心の小径」がエクリチュール(書きことば)の上でも開通したことを意味していた。京助はすぐに返事を書いた。ヨーキの願いどおり、文通は何度も繰り返された。
ヨーキとの文通が始まったころ、『中央公論』の編集部から思いがけない原稿依頼があった。アイヌ語に関する評論を連載で書いてもらいたいという注文である。京助は中学時代に『明星』に短歌を発表したことはあるが、それはあくまでこちらから投稿したもので、頼まれて原稿を書いた経験はなかった。しかも『中央公論』は当時もっとも権威のある総合雑誌だった。京助は高揚と畏怖を同時に感じながら「アイヌの文学」と題する評論を書きはじめた。
このとき、この無名のアイヌ語研究者に原稿を依頼したのは、おそらく滝田樗蔭だったろうと思われる。ひょっとすると上田萬年か金澤庄三郎の紹介があったのかもしれない。当時のアカデミズムとジャーナリズムの関係は、いまよりずっと親密だった。なにしろ文化人の絶対数が限られていたのである。
滝田樗蔭は明治37年(1904)秋、東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)在学中に中央公論社に入社し、文芸欄の拡充につとめた。大正元年(1912)には30歳という若さで主幹(編集長)に抜擢され、公平かつ峻厳な編集者として幾多の新人作家を育てた。
正宗白鳥の持ち込んだ原稿を酷評して彼を発奮させ、菊池寛の下宿に自家用の人力車を乗りつけて原稿を注文、この無名作家をいたく感激させたというエピソードはよく知られている。京助もまた、この名編集者に見いだされた無名の書き手のひとりだったのである。
金田一花明の名で書かれた「アイヌの文学」は、明治41年(1908)1月1日発行の『中央公論』新年号から連載が始まり、3月号まで3回にわたって掲載された。新年号執筆者の顔ぶれを見ると、国木田独歩、鈴木三重吉、真山青果、田山花袋、北原白秋と多士済々で、与謝野鉄幹の長詩も掲載されている。かつて『明星』で鉄幹に見いだされた少年歌人は、いまこうして一流雑誌の目次で師と肩を並べるまでになったのである。
「アイヌの文学」は、ひとくちにいえば北海道と樺太におけるアイヌ語採集旅行の記録である。それが単なる研究報告ではなく、すぐれて文学的な紀行文になっているところにこの作品の特長があり、京助がこれをあえて「花明」という文名で発表した理由があるといえる。
彼はまず読者を北海道アイヌの中心地、平取へと誘う。沙流川に沿って日高山地を分け入っていくと、トドマツの原野の向こうに「異様な草屋」の集落があらわれる。「壺中の別天地」ともいうべきこの村の戸数は4、50戸。すべて同族である。「暦日素より知らず、開闢以来文字が無く」「あしたに食を求めて夕べに之を尽して終う」ような生活である。
アイヌ民族は義に篤く、美術、工芸、詩歌を楽しむという特性を有する。男児は小刀を使って彫刻を学び、女児は刺繍を習う。その「異趣奇工」はすでによく知られているが、その詩歌はまだあまり知られていないと前置きして、京助は似湾と白老で採集した哀歌「ヤイシャマネ」を紹介する。ヤイシャマネとは「かなしや、つらや、困ったなあ」という意味のことばである。
「アイヌは総じて、歌を嗜む民族だ。絶海の外、窮地の涯、行くとして部落に歌ごゑの聞えぬ所はない」。アイヌの歌曲はいろいろあるが、なかでもヤイシャネマ(Yaishamane)の一曲は絹を裂くような若い乙女の歌である。「さなきだに悲しさ迫る胡浜の浦風、一揚一抑、その声咽び、その調せまり、凄艶哀切、言ひ知らぬ悲痛の韻が罩る」
京助は明治の人だから、気分が高揚すると漢文調が前面に出てくる。このあたりの文章は、その文学的な素養が漢詩と漢文にあったことを如実に示している。いいかえれば、このアイヌの哀歌は、京助のいささか古風な詩的感受性と共鳴して、深く彼の心をとらえたのである。
ヤイシャマネの多くは、和人の若者とアイヌのメノコ(娘)の悲恋をうたったもので、時代とともに俗化してきた。しかし、アイヌにはもともと「古語を以て成り、口づからこの民族に語り伝へられて来た律語の古謡――神曲」が存在する。この古謡こそ「ユーカラ(Yukara)」である。
ただし、それを「ユーカラ」と呼ぶのは北海道アイヌのなかでも沙流の周辺だけで、千島、根室、釧路方面では「サコロベ(Sakorope)」といい、樺太アイヌは「ハウキ(Hawki)」と称する。呼び名は違っていても、それがいずれも「謡い物」を意味していることに変わりはない。
京助は最後に、平取の古老カネカトクから採録した英雄伝説「峡中記」を引用しながら、アイヌには口づてに謡いつがれてきた叙事詩が存在することを明らかにする。そしてマシュウ・アーノルドの定義以来、文字に書きしるされたものだけを文学としてきたのは大きな誤りで、このような口承の叙事詩もまた文学にほかならないと力説する。
こうして京助は、一度は諦めたはずの「文学」に再びめぐり合うことになったのである。
文芸評論家江藤淳の自伝『一族再会』に、古賀喜三郎という人物が登場する。江藤の曾祖父(父方の祖母米子の父)で元佐賀藩士。明治の初めに海軍に入り、海軍兵学校監事、横須賀鎮守府衛兵司令などを歴任した。海軍中佐で退役したあと、.明治24年(1891)に私財を投じて麹町区元園町(現在の千代田区麹町3丁目)に海軍将兵の養成をめざす海軍予備校を創立した。
この学校は明治32年(1899)に霞ヶ関2丁目に移転し、改正中学校令により日比谷中学校を併設、翌33年(1900)には海城学校と改称した。同39年(1906)、日比谷中学校を閉鎖し、海城中学校として発足。昭和2年(1927)に豊多摩郡大久保町(現在の新宿区大久保)に移り、戦後の学制改革で私立海城高校となって現在に至る。
明治41年(1908)4月、京助はひょんなことからこの海城中学校に嘱託講師として勤めることになった。ある日、本郷の古書店めぐりの途中で仏教書専門の森江書店に立ち寄ると、知り合いの店主に「勤め口は見つかったのか」と訊かれた。「まだです」と答えると、店主は京助に仏教学者の椎尾弁匡を紹介し、椎尾は同じ仏教学者で海城中学校の校長をしている石塚龍学に声をかけてくれた。
その翌日、石塚校長はわざわざ京助の下宿「赤心館」を訪ねてきた。「海城中学は一時休校していたが、成績のいい生徒百人ほどを残し、優秀な教師を呼んで再興したいと考えている。自分もまだ校長になったばかりだが、あなたには国語教師のかたわら、生徒たちの相談相手にもなってほしい」と懇願した。失業中の京助にとって、これは願ってもない話だった。
4月1日に初出勤した京助は、3年C組の担任を任された。腕白ぞろいで知られるクラスだった。最初の授業で、京助はさっそく失敗をやらかした。欠勤した教師の代わりに教科書の土井晩翠の章を講じていると、生徒の一人が「天上の星と地上の花は姉妹だと書かれていますが、そんな不思議なことがありますか」と質問した。
これは京助が高校時代に読んで感動し、自作「つゆくさ」の下敷きにした詩だった。だから彼は「天上の星と地上の花は、この世で最も美しく清々しいものの一対だ。だから詩人はそれを美しい姉妹にたとえたのだ」と自信をもって説明し、その詩を朗唱してみせた。すると、腕白坊主どもの眼に輝きが生まれた。
そこまでは上々だった。教科書の次のページには朱楽菅江の狂歌が載っていた。菅江は江戸時代末期の狂歌師で『大抵御覧』や『故混馬鹿集』などの著書がある。中学校の国語教師なら当然知っていなければならない名前である。ところが、京助はうかつにも「さあ、次はシュラスガエの狂歌だね」といってしまった。すぐに一人の生徒が手を上げた。「先生、それはアケラカンコウと読むのじゃありませんか」
その声は小さかったので、後ろのほうの席には聞こえなかったようだったが、京助の耳には寺の梵鐘のように響いた。以来、京助は「玉琢かざれば器を成さず。まして自分は玉ではなく石なのだから、ずっと琢きつづけるしかない」と自覚するようになった。もしこの失敗がなければ、この新米教師がのちに国語辞典の監修者として名を成すことにはならなかったかもしれない。
3年C組に悪童が一人いた。授業中にいたずらをしたり大声を発したりして手がつけられない。京助はその子の名前を出さずにクラスの全員に静かに語りかけた。
「悪い子が一人いると、組全体が不幸になる。先生も授業を妨げられてうまく教えられない。それは私の不幸であるだけでなく、われわれ全員の不幸でもある」云々。
京助が話し終えると、その生徒が席を蹴って立ち上がった。「先生、それはぼくのことですよね。よくわかりました。これからは気をつけますので、どうか許してください」
その眼には涙が光っていた。京助は駆け寄ってその子の肩を抱きながら「いいんだ、いいんだ」といった。この青年教師は、国語の実力のほどはともかく、指導者としてはなかなか優秀な先生だったようである。
4月28日、京助は生まれて初めて月給を手にした。総額35円。帝大卒の教師の初任給としては決して高給とはいえないが、2年前に渋民尋常小学校の代用教員になった石川啄木の月給が8円だったことを思えば、まずまずの金額といえるだろう。
翌29日の午後、その啄木がふらりと京助の下宿にあらわれた。散歩の途中でちょっと立ち寄ったとでもいうような無造作な様子だった。
《茶の瓦斯縞の綿入に、紡績飛白の羽織へちょこなんと茶の小さな紐を結んで、日和下駄の半分歯の欠けたのを突っ掛けて、手荷物というのは、五、六冊の本の包(実はそれは日記と、自分の書いた新聞の切抜だった)を、弁当箱でも持った様に手に持っているだけだった。帽子を脱ぐと、髪は五分刈で、おまけに三ヶ所ほど禿をこしらえて「台湾坊主の直り掛けだ。社長の大薬罐に私の小薬罐なんですよ」などと、玄関をはいるなり、朗らかに笑ったのである》(「流離から再会へ」)
前回、詩集出版をめざして上京したときの啄木は、五つ紋の羽織に仙台平の袴、中折れのソフトにステッキという派手な扮装で京助の度肝を抜いたが、今度は逆に、あまりにも地味な服装で彼を驚かせた。啄木はその間に「石をもて追はるるごとく」ふるさとを離れ、およそ一年にわたって北海道各地を転々としていた。その漂泊流浪の日々がかつての「天才詩人」の驕慢とナルシシズムをきれいに洗い落としていたのである。
二人はさっそく京助の部屋で積もる話に花を咲かせた。気がつくと、二人ともすっかりお国訛りが戻っていた。啄木はのちに「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」とうたったが、わざわざ停車場まで行かなくても、ふるさとの訛りはすぐそばにあったのである。
《私の涙ぐましい程、嬉しくもなつかしかったのは、何を云うにも、今度の石川君は、しみじみとして、気取りもなければ、痩我慢もしなければ見栄坊もなく、一切の過去を綺麗に清算して少しのわだかまりもなく、真実真底から出て来る本音のようなことばかりが口を出る、という気分だったことである。云うことが、そうだろう、そうだろう、と、みんなそのまま受取れてびしびしと来るばかりだったことである》(同前)
日が暮れると、2人は近くの「豊国」という牛鍋屋へ行ってビールで乾杯した。月給をもらったばかりで、京助はふところが温かかった。そこで啄木は、妻子を函館の詩友宮崎郁雨に託して単身上京したこと、いまは千駄ヶ谷の新詩社に身を寄せているが、いずれは小説で身を立てたいと思っていることなどを語った。一方の京助は、いよいよアイヌ語研究に身を捧げる決心をしたと告げた。
その夜は啄木を下宿に泊めることにした。衣桁に掛かった京助の背広を見て、啄木は「新調したんですね」と羨ましそうにいった。京助が当面の身の振り方を尋ねると、啄木は「下宿を探すつもりだが、このとおり荷物ひとつ持っていないので、部屋を貸してもらえるかどうか心配だ。しばらくここに置いてもらえませんか」といった。「いいですよ、いつまでもどうぞ」と京助は答えた。
翌日いったん新詩社へ戻った啄木は、それからも毎日、赤心館を訪れた。5月4日に2階の六畳間が空いたので、啄木は風呂敷包み1つを持って越してきた。しかし、その日はまだ部屋が片づいていなかったので、2人は京助の部屋で枕を並べた。そして翌5日、啄木は京助から譲り受けた古い机と椅子を自分の部屋に運んだ。この日は京助の26回目の誕生日だった。
啄木は下宿代をかせぐために小説を書きはじめた。夏目漱石の『虞美人草』程度のものなら1ヶ月で書けるという自信があった。最初に手がけたのは、北海道時代の記者仲間をモデルにした短篇「菊池君」である。
5月10日に京助がお茶の道具と当面の生活費を持って陣中見舞いに訪れると、40枚の予定のうち21枚まで書けたといって喜んでいた。しかし、この作品は予定を大幅にオーバーして100枚近くなっても結末がつけられず、そのうちに頭痛がひどくなったため、ついに未完に終わった。
つぎに釧路新聞の同僚だった佐藤衣川をモデルに「病院の窓」を書いた。さらに1ヶ月ほどの間に「母」「天鵞絨」「二筋の血」「刑余の叔父」の4本を書き上げて出版社に持ち込んだが、どこでも相手にされなかった。このうち観潮楼歌会で森鴎外に斡旋を頼んだ「病院の窓」と「天鵞絨」は春陽堂に売れたが、原稿料が入ったのは8ヶ月後のことで、その間の生活費はすべて京助の財布から出ていた。
このころ、啄木の部屋に植木貞子という女性が出入りするようになった。前回の上京中に新詩社主催の文士劇で知り合った踊りの師匠の娘で、そのころはまだ少女だったが、このときは19歳の娘盛りで、2人はすぐに男女の仲になった。
しかし、啄木はやがて貞子を持て余し、彼女がやってくると、わざと京助を部屋に呼んで、2人だけになるのを避けるようになった。まだ女を知らない京助にとって、この「お邪魔虫」の役はなんとも居心地の悪いものだった。
この女性の来訪は赤心館の女将や女中たちの心証を害し、ただでさえ下宿代が滞りがちな啄木の評判をさらに悪くした。その一方で、啄木は筑紫の閨秀歌人、菅原芳子とラブレターまがいの手紙のやりとりを続けていた。京助がそれを咎めた形跡はない。
この時期の啄木は「詩人と紹介されると侮辱を感じる。歌人と呼ばれると虫酸が走る」と自嘲し、自分はあくまで小説家だと思い込もうとしていた。しかし、その小説がまったく売れず、生活費の一切を京助のお情けにすがる状態だった。死にたいと思い詰めて路面電車に飛び込もうとしたが死ねなかった。そんな啄木を、京助は黙って支えつづけた。