第四章 木隠れの花
明治34年(1901)3月、盛岡中学を卒業した金田一京助は、同年9月、仙台の官立第二高等学校(現在の東北大学)に入学した。当時の高校は夏に入学試験をおこない、秋に新学期が始まった。20世紀の最初の年に、京助は新しい人生のスタートを切ったのである。
盛岡と仙台は、いまでは新幹線で約40分、在来線でも3時間半ほどで行ける距離だが、当時はもっと時間がかかり、列車の本数も少なかった。しかも盛岡の南部藩と仙台の伊達藩はもともと敵対関係にあったから、その距離はさらに大きく感じられたに違いない。
官立高校(通称旧制高校)は、帝国大学進学のための予備教育を施す大学予科として明治27年(1894)から順次設立された。修業年限は3年で、現在の4年制大学の前期課程(教養学部)に相当する。一高(東京)から八高(名古屋)まで8つのナンバー・スクールがあり、仙台の二高は、一高、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)と並ぶ最古参校だった。
当時の帝大の入学定員は旧制高校の卒業者数とほぼ同じだったから、学科を選り好みさえしなければ、卒業生は無試験で希望する帝大に進学することができた。だから、現代のように青春の一時期を受験勉強に費やす必要はなく、有り余るエネルギーを心身の鍛錬と修養に注ぐことができた。
旧制高校生たちは、白線帽、黒マント、朴歯の高下駄、腰に手拭いという「バンカラ」スタイルで街を闊歩し、「デカンショ」と総称されたデカルト・カント・ショーペンハウエルの哲学を論じ、酔っては寮歌を高吟し、ストームと呼ばれる乱痴気騒ぎを演じたりして青春を謳歌した。また「メッチェン」(女性)、「ゲル」(お金)、「ゾル」(兵隊)、「ドッペる」(留年する)などといったドイツ語由来の隠語によって仲間意識を確かめ合った。
ちなみに「バンカラ」は西洋風のおしゃれを意味する「ハイカラ」に対抗してつくられた造語で、夏目漱石の『彼岸過迄』に「上はハイカラでも下は蛮殻なんだから」という一節がある。旧制高校生たちは弊衣破帽の「バンカラ」スタイルにこだわることで、逆に自分たちの選良意識を表現したのである。
一方、大正期に創立された東京高校、武蔵高校、成城高校といった公私立の7年制高校は、英国のパブリック・スクールをお手本にして紳士の養成をめざし、ハイカラな校風で若者の人気を集めた。官立高校は戦後は国立大学に、私立高校は私立大学に昇格したが、「バンカラ秀才」と「ハイカラ紳士」という特色は、ほぼそのまま持ち越された。
旧制高校の利点のひとつは、文科と理科の区別なく、すべての学生が古文、漢文、外国語、文学、哲学、倫理、歴史などを幅広く学ぶことによって基礎的な教養を身につけ、「末は博士か大臣か」といわれた将来の指導者たるにふさわしい人格を涵養することができたこと。もうひとつは、全国から集まってきた英才たちが、寮生活を共にすることによって切磋琢磨しながらお互いの個性や適性を確認し、それぞれの資質に合った専攻科目を選定できたことである。だから現代のように受験戦争に翻弄されることはなく、進路選択のミスも最小限に防ぐことができた。
こうしたモラトリアム(執行猶予)の3年間が、当の学生たちにとってユートピア(理想郷)のように感じられたことはいうまでもない。現に寮生活を体験した明治大正生まれの多くの文化人が、そのころの生活を夢のように甘美な思い出として語っている。かつて『文藝春秋』に連載された人気グラビア「同級生交歓」の舞台の多くは戦前のナンバー・スクールであり、そのような「熱い友情」を育てる機会に恵まれなかった戦後育ちの読者を羨ましがらせた。
旧制高校はしばしば文芸作品の舞台にもなった。川端康成の『伊豆の踊子』、石坂洋次郎の『青い山脈』、高木彬光の『わが一高時代の犯罪』などは、旧制高校の存在を抜きにしては語れない。野村胡堂は『胡堂百話』のなかで一高時代の思い出に多くのページを割き、京助の息子、金田一春彦にも『わが青春の記』という回想録がある。
金田一京助もまた、このユートピアの住人のひとりだったはずなのだが、なぜかこのころの思い出を語った文章が見つからない。
自伝『私の歩いて来た道』の第4章は「小学時代から高等学校時代へ」と題されているが、そこに高等学校時代に関する記述は皆無で、第5章はいきなり「大学時代」に飛んでいる。これではまるで、私は高校時代という「道」は歩いて来ませんでしたといわんばかりである。
あれほど自分語りの好きだった人のことだから、この時代のこともきっとどこかに書いているはずだと八方手を尽くして探してみたが、ついに見つからなかった。力作評伝『金田一京助』(新潮選書、1991)の著者藤本英夫も、この時期を「空白の3年間」と名づけている。
高校時代にいったい何があったのか。彼はなぜそれを語ろうとしなかったのか。これは金田一京助89年の生涯のなかでも、最も不可解な謎だといわなければならない。
ここは名探偵金田一耕助の出馬を仰ぎたいところだが、前に見てきたように、彼は『病院坂の首縊りの家』(1978)事件を解決したあと、渡米してロサンジェルスへ向かったまま消息を絶ち、作者横溝正史の死(1981)とともに帰らぬ人となった。かくなる上は状況証拠をかき集めて、帰納的かつ演繹的に真相を探ってみる以外に方法はない。
金田一春彦は『父京助を語る』補訂版(教育出版、1977)の1編「父ありき」のなかで、こう書いている。
《不思議なことには、父には明治以来終戦まで、青春時代をそこで送ったほとんどすべての人が謳歌、讃美する旧制高校の生活を懐かしむ気持ちが全然ないことである。中学時代にはあんなによい友人に恵まれたのに、高校時代の友人としてあとまで交際していたのは、後に文部省へ入った碧海康温氏一人ぐらいのものである。京助には、あの自由奔放な高校生活は向かなかったのであろうか。あるいは、盛岡から出て行った京助は、仙台で田舎者と扱われ、不愉快な思いをすることが多かったのではなかろうか。京助はこの時代、唖の夫婦の家に住んでいたというが、それでは勉強はできたろうが、寂しい生活であったろう。思うに父が高校生活をたっぷり享楽し、もっと人との交際が豁達に振る舞えたら、結婚生活などももっと円満に行ったのではないかと惜しまれる》
親を語って子に勝る者はない。ここには息子にしかわからない父親の秘密が語られている。これによれば、京助の結婚生活はあまり円満なものではなく、その原因はどうやら高校時代の過ごし方にあったと息子には思われていたらしい。
春彦はここで、盛岡から仙台に出た京助が「田舎者」扱いされたのではないかと推測しているが、当時の二高には日本全国から学生が集まっていたはずで、盛岡育ちの京助が特に「田舎者」コンプレックスに悩まされることはなかったはずである。
もし京助にコンプレックスがあったとすれば、それはむしろ、かつて弓館小鰐が「チンポコを持った貴婦人」と評したという、その風貌や振る舞いに原因があったのではないかと思われる。
二高には「誠之寮」という学生寮があり、入学後1年間は必ず入寮するきまりになっていた。京助もむろん入寮したはずである。そこでは当然「バンカラ」が幅をきかせ、「豪傑」気取りの男たちが青春を謳歌していた。つまり、そこは「貴婦人」のいるべき場所ではなかった。彼らの謳歌するユートピアは、彼にとっては耐え難いディストピア(地獄郷)だったのである。
そこで京助は、1年の「刑期」が明けると早々に寮から逃げ出し、市内某所に下宿した。それが「唖の夫婦の家」だったというのは、なにやら暗示的である。もしそれが意思的な選択の結果だとすれは、そこにはおそらく「誰とも話したくない」という隠遁への思い、今日風にいえば「引きこもり」の心理が働いていたに違いない。
ちなみに、この「隠れ家」の所在地も、あちこち探してみたが、ついにわからなかった。金田一耕助なら、あるいは簡単に見つけてくれたかもしれない。
ただし、この時期の京助に、まったく友人がいなかったわけではない。春彦が名を挙げた愛知県出身の碧海康温のほかに、北海道から来た栗林三作という友人がいた。栗林は「室蘭の海運王」といわれた実業家、栗林五朔の弟で、学究肌の学生だったが、生来病弱で、在学中の明治35年(1902)7月に早世した。したがって、この交友は入学後1年足らずしか続かなかった。京助は明治36年(1903)12月発行の校友会機関誌『尚志会雑誌』58号に挽歌二首を載せている。
ともすれば面かげ淡く泣かしめて
この初秋のみ声かへさぬ
空とほく魂は蝶にさそはれし
初秋かぜの音のかなしき
その2年後、アイヌ語調査のために初めて北海道に渡った京助は、亡弟の友人として栗林五朔から手厚いもてなしを受け、現地調査に際してもさまざまな便宜を図ってもらった。その意味で、栗林三作は「ことば探偵」金田一京助の生涯を語る上で欠かせない人物のひとりだといえる。
この時期、京助は短歌のほかに詩も書きはじめていたらしい。当時は蒲原有明、薄田泣菫に代表される象徴詩の全盛時代で、『明星』誌上でも詩のページが半分以上を占めるようになっていた。明治36年(1903)11月発行の『尚志会雑誌』第57号に、京助は金田一花明名義で『露くさ』という詩を発表している。この時期の京助を知る貴重な資料なので、長さをいとわずに全文を引用しておこう。
かがやきにほふ天のとに
ひとり木がくれ忍びては
ひとみうるみし若星の
とこよこの世に降されし
天には容れぬつみもちて
天路をなほも恋ひわたり
あした涙にもえいでゝ
愁のきしに小さう咲く花
あしたには露目におびて
愁ひにほそく咲きなよび
ゆふべにはまた隠れ家に
かなしみふかく籠りけり
寂しさなれしあるじには
寂しき香こそをかしけれ
ひと夜まがきのふる鉢に
露くさ生ひて花咲きにけり
もとより誰をうらみにと
怨みはひとに負はせねど
花にかくれて咲くはなの
いろのさまこそ悲しけり
夕ぐれ畔つゆくさに
あつき涙をわかちしか
立去りかねて戸に立つに
あゝひとの子の踏みてしもゆく
ここで「天には容れぬつみ」のために地上に降され、木隠れにひっそりと咲いている花は露くさである。詩語としての露くさは「はかない命」の象徴として用いられることが多いが、京助はそれを「孤愁」の象徴としてとらえ、そこに「寂しさ(に)なれしあるじ」、つまり自分の境遇を重ね合わせている。「ゆふべにはまた隠れ家に/かなしみふかく籠りけり」というのは、作者自身のことにほかならない。
近代詩を読みなれた読者なら、この詩に土井晩翠の影響を見いだすに違いない。晩翠は明治32年(1899)に第一詩集『天地有情』を出版し、翌33年(1900)に自分の母校である二高の英文科教授に就任していた。島崎藤村と並び「藤晩」と称されたこの詩人の帰郷は、仙台市民の大きな関心事だったから、京助も当然それを読んでいたに違いない。彼はさっそくその詩風をまねて、一連二行の長詩を書いたのである。
京助はつづけて翌月の『尚志会雑誌』第58号に、今度は「つゆくさ」と題する詩を発表した。漢字とひらがなの違いはあれ、2ヶ月つづけて同題の詩を発表したのは、よほどこの花に惹かれるものがあったのだろう。
おもかげ淡くきえてゆく
そのまぼろしのきよくとも
森かげとほくあとおひて
夜つゆふかくはいとはせよ
興しきりなる夕まぐれ
よき句にこゝろとられても
ゆめ野によわきよわぐさの
はな踏みたまふことなかれ
あゝ秋はまた八千ぐさに
相逢ふきみとおもふにも
やま河とほきかなしみに
うた筆ほそくふるひけり
うらみはおなじ歌の鳥
きみや青葉のほとゝぎす
愁ひはおなじ岸のはな
われやうるめるつゆくさの
あゝ夢ふかきゆふ野路に
うた反故おもくかへるとき
み裳にさゝやくつゆくさの
ほそき江にしの光り見ば
あゝきみ奥のほそみちに
くさにこもれる草のかど
おもひいでゝはなよぐさに
あつきなみだはをしみ玉はじ
これは一連四行の新体詩で、中学時代に傾倒した『明星』調が前面に出ている。「あゝ」という詠嘆詞、「いとはせよ」「ことなかれ」といった命令形の多用には、明らかに与謝野晶子の影響が見られる。詩の新しさという点では前記の「露くさ」に劣るが、形式的にははるかに洗練されており、京助がすでに完成された抒情詩人だったことを示している。
この詩には「帰省中衣水君に」という詞書がある。衣水の正体は不明だが、盛岡中学の下級生で石川啄木とともに短歌結社「白羊会」を主導した瀬川深が「委水楼」と号していたから、あるいはこの「委水楼」かもしれない。いずれにしろこのことは、仙台では「木隠れの花」だった京助が盛岡に帰省すればなお気心の通じる文学仲間に恵まれていたことを物語っている。
明治36年(1903)5月、日本中の旧制高校生の魂を震撼させるような事件が起きた。一高生の藤村操(16歳)が「巌頭之感」という遺書をのこして日光の華厳の滝に投身自殺したのである。この事件は新聞や雑誌を通じて大々的に報じられ、その理由と是非をめぐって侃々諤々の議論を巻き起こした。
彼が滝の上のミズナラの木肌に書き残した 「巌頭之感」の全文は以下のとおりである。《悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーを値するものぞ。萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを》(原文は旧字、ルビは引用者)
いまこれを読むと、旧制高校生の哲学的な素養の深さと文章力に驚嘆せずにはいられない。自殺をする若者はその後も跡を絶たないが、いまの高校生でこれだけの遺書を書ける生徒はまずいないといっていいだろう。
ここに出てくる「ホレーショ」は、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物である。藤村操はこのころシェイクスピアを英語で読んでいた。ホレーショ自身が劇中で哲学を語るわけではないが、主人公のハムレットが彼にこんなふうに語りかける場面がある。
《此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい》(坪内逍遙訳)
「巌頭之感」の基本テーゼともいうべき「不可解」は、どうやらこの一節に発していると思われる。彼は哲学では解決できない煩悶を抱いて死を決意したのである。
藤村操のこの遺書は、当時の知識人をも震撼させずにはおかなかった。一高で彼に英語を教えた夏目漱石は、小説『草枕』のなかで《余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う》と書いた。黒岩涙香は「藤村操の死に就いて」と題する講演速記を自分の発行する新聞『萬朝報』に掲載し、宗教学者の姉崎嘲風は精力的に自殺の是非を論じた。
当時、二高の3年生だった金田一京助にとって、この事件はとりわけ大きな意味を持っていた。当時の彼が藤村操と同じ青春の煩悶に取り憑かれていたというだけではなく、藤村操の関係者が彼の身近にいたからである。 操の祖父、藤村政徳は旧南部藩士だった。その長男の胖は維新後北海道に渡って事業家として成功し、屯田銀行の頭取になった。操は胖の長男として明治19年(1886)に札幌で生まれ、札幌中学から東京の開成中学をへて一高に入学した。学年でいえば京助の2級下である。
胖の弟、つまり操の叔父にあたる人に東洋史学者の那珂通世がいた。通世はその英才を見込まれて盛岡の藩校「作人館」の教授、那珂梧楼(通高)の養嗣子になった。前述のように、京助の伯父、金田一勝定は作人館でこの那珂通世と同門で、維新後も親しく交際していた。2人の会話のなかで、双方に一高生と二高生の甥がいることが話題になったこともあったに違いない。つまり、藤村操と金田一京助は、地理的にも人脈的にも案外近しい関係にあったのである。
だが、京助がこの事件について何かを書き残した形跡はない。彼と同じ年に二高の法科に入学した田子一民は、『尚志会雑誌』57号に「藤村生の自殺を論ず」という文章を寄稿しているが、京助は前記の詩「露くさ」を載せただけである。もっとも、この詩を深読みすれば、たとえば「天には容れぬつみもちて/天路をなほも恋ひわたり」「もとより誰をうらみにと/怨みはひとに負はせねど」といった詩句に、「巌頭之感」に対する応答の響きが感じられなくもない。