自分から未来の情報を話すことはできない。ましてや時帰り中であることを知らせることはできない。
母とテーブルで向きあいながら、私は真剣に頭を悩ませていた。どうにも話の通じない父のことはあきらめ、こうなったら母に、お兄ちゃんへのメッセージだけでも託すしかない。
それなのに私ときたら、母はこの時期から病気だったという事実をなかなか受けいれられないまま、ただ泣くことを繰り返している。
手首に光っていた棒はどんどん薄くなりつつあり、もうほとんど時間が残されていないことを告げていた。
テーブルを挟んで斜め向かいには、少し目を腫らしてはいるものの、穏やかな顔をした母が腰掛けている。私とタマを抱いたら少し落ち着いたのだそうだ。
「おかしゃん、だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫。突然お母さんが泣いちゃったから、てっこ、びっくりしちゃったよね。ごめんね」
「てっこ、おかしゃんしんぱい」
「ほんとに平気だよ」
私にのばされた華奢な手が、そっと頭をなでる。心地よさに目をうっとりと閉じて、すべて忘れてしまいたくなる。
けれど、どうにかして時帰りについては打ち明けず、お兄ちゃんが抱えるであろう後悔について伝えなければ。伝えて、なんとかしてもらわなくては。
ない知恵を振り絞ってだした答えは、母を質問攻めにすることだった。この歳の私が知り得なかった事実を、母の口から語らせるぶんには神様も怒らないはずだ。
「おかしゃん、だいじなはなち。おかしゃんはびょうき?」
虚をつかれたであろう母が、ぽかんとこちらを見たあとで取り繕った。
「そうなの。お母さん、お風邪なの」
「ううん、もっとおもいびょうき?」
「てっこ、いきなりどうしたの。もしかしてお父さんとお母さんのお話が聞こえちゃったかな」
母が、おどけて私の頬をつんとつついた。
質問には答えず、質問で返す。
「おかしゃん、そのびょうき、なおしゅ?」
「うん。もちろんだよ。お薬のせいで大変になっちゃうかもしれないけど、お母さん、絶対に治すからね。だって、てっことまさくんとお父さんともっともっといっしょにいたいもん。お母さんね、じつは同じ病気にかかったことがあるんだけど、すぐに治したことがあるの。だから今度も平気だよ。少し頑張って治したら、またみんなであそぼ」
「わかった。しょれ、おにいたんにも、いって」
「まさくん? どうして突然、まさくんが出てくるの? あ、もしかしてお母さんの病気のこと、まさくんがなにか知ってた? あの子、妙に勘が鋭いところがあるからなあ」
「じぇったい、すぐにいってね、やくしょく」
「うん。そうだよね。まさくんが学校から帰ってきたら言おうかな」
本当に母が伝えてくれるかはわからない。それでも、言いたいことは伝わった。
事故が起きる前に母からこの話を聞いていれば、お兄ちゃんは少なくとも罪悪感に苦しむことはないだろう。
それともう一つ、私の願いを伝えなくては。
「おかしゃん、てっこ、かんむししゃんにぜったいになりゅ。みこしゃんもしゅきだけど、かんむししゃんになりたいの」
母は、大きく目を見開いて、しばらく黙っていた。
「てっこ、あなたって、もしかしてだけど本当にきのうから──」
「うん?」
「ううん、まさかね。そんなに言うなんて、てっこにとって、神主さんになることはすっごく大事なことなんだね。うん、お母さんはいいと思うよ。お父さんは外の世界を知ってほしいみたいだけれど、お母さんは必ずしもそうする必要はないと思うの。なんて、まだ難しいかな」
こちらを覗きこむようにして、母が告げた。そのあとで再びなにかを言いかけ、結局黙ったまま口を閉じる。
「てっこ、わかりゅっ。おかしゃんのいうこと、ちゃんとわかりゅよ」
「そっか。わかるか。うん、そっかあ」
感慨深げにこちらを見つめる母は、やはり知ったかぶりをしていると思っているのだろうか。残念だけれど、ここであきらめるわけにはいかない。ダメ押しで宣言することにした。
「てっこ、ぜったい、かんむししゃんになりゅね。このじんじゃがだいしゅきだから」
時帰りを助けるのが大好きなの、お父さんとお母さんや蓉子おばさん、ご先祖様たちが守ってきたこの場所を、私も守っていきたいの。そうつづけたいのに、急に口が動かなくなった。
これ以上は許さないということなのだろう。
「すごい。てっこは色々とわかったうえで、神主さんになりたいのね。うん、こんなに早くからなりたいものが決まってるなんて、てっこはすっごくラッキーだよ。それならためらわずに、誰がなんていっても挑戦してみるべきだね。お母さん、ますますやる気がわいてきた。頑張って、てっこの神主さん姿をこの目で見なくちゃ」
「うん、おかしゃんにみしぇる。おとしゃんにもいってね」
大きくなったら自分でも言うけれど、母からも説得してもらえば、父のあの頑固頭も少しは柔らかくなるかもしれない。
「もしかしてお父さんに反対された? しょうがないお父さんですね。でもお父さんは、じいじに無理矢理この一条神社を継がされたからね。もちろん、今では満足しているけれど、自分の子どもたちには自由に将来を決めてほしいっていう気持ちが強いみたい」
「あ」
それは知らなかった。
「お父さんがなにを言っても、もとになっているのはあなたたちを想う愛だって、そのことだけは覚えておいてほしいなあ。なんて、てっこが大人みたいにすごく真剣に聞いてくれてるから、ついついおしゃべりになっちゃう」
「うん。おかしゃんとおしゃべり、たのちいね」
告げると、母がくしゃりと笑った。
「ずっとずっと、大きくなってもこんなふうにおしゃべりしてね」
「やくしょく」
「ん」
私の小さすぎる小指に母の細すぎる指がそっと絡む。
涙が溢れて止まらなくなる。
たとえ避けられない未来が待っているとしても、今この瞬間、私と母が信じたい未来を思い描くことは聖神様にも邪魔できないはずだ。
母の手のぬくもりが、絡んだ小指の先から流れ込んできた。手首の光の棒が急速に薄くなっていく。
お兄ちゃんの予想どおり、なにもできないまま時帰りが終わってしまう。
嫌だ、まだまだ母と話していたいのに。いっしょにいたいのに。お父さんにも最後にひと目──後ろ髪をひかれればひかれるほど、光の棒が薄まるスピードが速まっていくようだ。もう淡すぎて、目をこらさなければなにも見えない。
ダメ、神様、あと少しだけ待って。
「おかしゃん、おとしゃん、だいしゅき。あえてとってもうれちかった」
母が、ひゅっと息を吸ったあと、顔を大きくゆがめた。
「てっこ、やっぱり、やっぱりそうなのね。てっこ、待って──」
驚いて口を開いた母の声を、もう聞くことはできなかった。
意識が、小さなてっこから離れて、光の空間にふたたび放り出されてしまったから。けれど、母が最後になにを言ったのか、口の動きだけで伝わってきた。
「ふたりとも、しあわせにっ」
母は、待ってと言った。きっと、小さなてっこから私が抜けだそうとしていることに気がついた。さいごのさいご、小さな我が子のなかにいた私の存在に気づいてくれたのだ。
私たち、ちゃんと会えたんだね、お母さん。
もっと色々と話したいことがあった。父とも、あの歳のお兄ちゃんとも。
大切な話じゃなくていい。もっと、くだらなくて、記憶にも残らない毎日の話を、父と母の子どもでいられる尊さに身をひたして、えんえんとしゃべっていたかった。
光の洪水に優しくさらわれながら、どんどん上にのぼっていく。
どこまでも、どこまでも、のぼっていく。
時をたどって未来に帰っている途中、これまでたくさんの人がそう言っていたように、見知らぬ記憶が、新たに甦ってきた。
体験していないはずなのに、それは自分の記憶なのだ。
高校に上がった私に、父は以前と同じように神主の道を反対してきた。あれほど頑張って二歳の私が主張したこともまったく笑い話としか認識しておらず、結局同じ衝突を経験することになったのだ。それでも、以前と大きく違う点がふたつあった。
私が、父の反対の裏側にある願いを、知っていたこと。そして、お兄ちゃんが私の味方になってくれたことだ。
時帰りする前の人生では、お兄ちゃんはこの問題とは距離を置いていた。そのお兄ちゃんが、自分よりも私のほうがいい神主になると思うとまで口にして、後押ししてくれたのはかなり心強かった。
もちろん、そのときにはタマも「にゃあにゃあ」と懸命に援護してくれた。
そのどれもの事情が重なって、父は最終的に、きちんと神道学科以外を出て、それでも気持ちが変わらなければという条件のもと、神職を目指す許可をくれた。
結局、今と同じ経済学部に進んだことは変わらなかったけれど、入学と同時にしっかりと神職についても勉強し、コツコツと準備を進めている。
すごく心残りなのは、お兄ちゃんについて、大きくは変えられなかったことだ。私が時帰りしたにもかかわらず、母に治療を強いることになったという深い後悔は相変わらずあるようで、夢でうなされていた。
それでも──。
気がつけば、竹林へと戻ってきていた。
「ここは、ずっと変わらないね」
家族全員で幸せに暮らしていたあのころも、今も、竹林は静かにこの地で風に揺れている。
「おかえり」
目の前には、迷子の子どもみたいに不安げな顔をしたお兄ちゃんが待っていた。私を見つけたとたんくしゃりと笑うから、顔いっぱいで笑うから、泣いているのかと勘違いしそうになった。
「帰ってきちゃった」
「ああ。まっすぐ歩けるか」
「大丈夫みたい」
暗黙の了解で〈こよみ庵〉へと向かった。竹林を見渡す席について、お兄ちゃんが抹茶を点ててくれるのを待つ。
「はい、これ」
抹茶とお茶請けを出してくれたお兄ちゃんが、着席するなり面白そうに目を細めた。
「二歳にしてはだいぶ頑張ってたな」
「あはは、覚えてるんだ」
「忘れられないだろう、あのころのことは」
「そうだね。今回は私もちゃんと覚えていられてうれしい。お母さんの顔も、香りも、だっこしてもらったあったかさも、私、ぜったい忘れない」
「うん」
「あとね、進路のこと、私の味方してくれてありがとう。でもどうして? 前のときは無関心だったのに」
「母さんに頼まれたから」
「あ──」
私が母にした必死の訴えを、母は父だけではなく、兄にも託してくれたのだ。
「俺は別に、今から経済学部をやめて神道の道に進んでもいいと思うぞ」
「ううん、それはしたくないんだ。だって、お父さんとの約束、守りたいんだもん。この神社の経営だってちゃんとやりたいし。でも私、知らなかった。お兄ちゃんも、お父さんに言われて建築学科に進んだんだね」
そうなのだ。お兄ちゃんは父に請われて無理に建築の道をあきらめたのではなく、みずから望んで神社に戻ってきたのだと今ならわかる。
「父さんが生きてたら思いきり反対しただろうな。俺たちがこの神社に縛られること、すごく嫌ってたし。俺も建築、かなり好きだったし」
「それじゃどうして、うちに戻ってきたの?」
お兄ちゃんが、急に窓の向こうの竹林に視線を逃がした。
「う~ん、ここには家族の想い出が詰まってるしな。この場所、汀子が神主になるまで守らなくちゃと思ったし」
「え? もしかしてそれ、時帰りする前から?」
「当たり前だろ。でも、俺から急かすのも違う気がして、じれったいなと思いながら待ってた」
言いながらみるみる頬を赤くしているお兄ちゃんの姿に、胸がいっぱいになった。
父も母ももういないけれど、私には、こうして見守ってくれるお兄ちゃんと、タマがいたのだ。
しばらく、ふたりとも無言だった。
私から伝えるなら今しかない気がして、重い口を開く。
「お母さんのことだけどさ。お兄ちゃんのせいじゃなかったの、わかったよね。だって、事故の代わりに病気になったわけじゃないんだもの。お母さんはね、ぜったいに今度も治してみせるって私のことぎゅっと抱いて言ってたの。私たちが大きくなるのを見守ってみせるって。だから、お兄ちゃんはなんにも悪くないどころか、お母さんの願いを少しだけ叶えてあげられたんだよ」
お兄ちゃんの目が大きく見開かれた。
「ちょっと待て。今度もって、まさか、母さんは前にもそんなことがあったのか」
「あ、うん。お母さんもそう言ってたし、タマの話だとそうみたい」
「は? タマの話って?」
「にゃおん」
訳知り顔でいつの間にか私の足もとに控えていたタマを抱き上げ、膝に乗せる。
「たぶんだけど、そうなのですよって言ってる気がする。私ね、時帰りしてるとき、タマと人間どうしみたいに話ができたんだよ。ね、タマ。あの時はいっぱい助けてくれてありがとね」
「にゃおぉぉん」
時帰りの副作用が私の脳に出たのではないかという疑いが、お兄ちゃんの表情にそのまま出ていた。
「抹茶を飲め、汀子」
「もう、お、に、い、ちゃ、ん。ちゃんと最初から話してあげるから、信じてよ」
心配げに私を見守るお兄ちゃんに向かって、今回の時帰りについて改めて話してきかせた。
ちょっとお澄ましした口調のタマと話せたこと、二歳の身ではいろいろとままならないことだらけだったこと、お兄ちゃんの優しさからくる言葉の意味に、過去を旅してようやく気がつけたこと。
家族四人と一匹の時間は、ハチミツみたいに甘かったこと。
そして、別れ際の母のメッセージも。
「お母さんね、たぶん、私が時帰りしてたこと、最後の別れ際に気がついたんだと思うの。ううん、今考えると、私の様子をうかがうようにしたりしていたから、別れる少し前くらいから疑ってた気がするんだ。それでね、最後の最後、ふたりともしあわせにって言ってくれたの」
お兄ちゃんはうつむいたまま、なにも言わない。
「お母さんの病気はきっとけっこう進んじゃってて、私たちが大きくなる姿は見られないかもって半分は覚悟してたんだと思う。だからほんとに切実な願いを伝えてくれたんだと思うよ」
「うん」
竹林のほうへとお兄ちゃんが視線を移した。そちらは、家があるほうだ。父と母が私たちをいつくしんでくれたあの家が。
「だからさ、私たち、しあわせになっていいんだよ」
ぽたり、ぽたり、とお兄ちゃんの手元に滴が落ちる。
タマが私の膝から飛び降りて、お兄ちゃんの足もとに体をこすりつけた。
大丈夫、大丈夫ですよ、雅臣。
きっとタマは、そう伝えている。
お兄ちゃんの泣き方は、時帰りで見たお母さんの泣き方にとてもよく似ていた。
少しして落ち着いたお兄ちゃんと、父と母の想い出を語り合った。どの過去を切り取っても私たちへのあたたかな眼差しがあったことに今なら気づける。
「私ね、時帰りしてみて思ったことがあるんだ。お兄ちゃんは過去を変えたし、私もほんの少し流れを変えて、たくさんの贈り物をもらって帰ってきたんだけど。なかでもいちばんの贈り物はね、どんな道を選んでも間違ってないのかもって思えたことなんだ。だって、どの過去を通ってきた私たちも、ふたりと一匹で頑張ってたじゃない? 聖神様が本当に言いたいことって、そういうことなのかもって」
「──そうだな。そうなのかもしれない」
珍しく素直にうなずいたお兄ちゃんは、あの小学二年生の少年のころに戻ったようだ。
「私ね、時帰りできてほんとによかったよ。お兄ちゃん、私を帰らせてくれてありがとう」
「うん」
「時帰りって、きっと、必要な人もいるんだよ」
「そうなのかな」
お兄ちゃんの返事は否定でも肯定でもなかったけれど、今はこれでよしとしよう。
いつの間にか窓の外が薄暗くなっている。
私の背筋がぶるりと震え、大切な、ほんとうに大切なことをお兄ちゃんに言い忘れてきたことを悔んだ。
「お兄ちゃんに、しゃむい建物ないないって言い忘れたっ」
そっぽを向いて、お兄ちゃんは聞こえないふりを決めこんでいる。
「にゃおぉん」
タマの力強い鳴き声は、きっと心の底から賛成しているに違いなかった。