最初から読む

 

第四話 虹の橋で待たないで

 

 足元を落ち着きなくうろつく私を、汀子が眼光するどく見おろします。

「ねえタマ、ちょっとおとなしくしてて」

「にゃあおうぅぅう」

「シーッ。う~ん、見つからないなあ。ぜったいお兄ちゃんが持っていったと思ったのに」

 雅臣が氏子のマダムに頼まれてご祈祷に出かけるやいなや、汀子が雅臣の部屋に忍びこみました。従姉の佐緒里から、彼女たちにとっては曾祖父にあたる丈一郎の日記について聞いたようなのです。

 丈一郎はマメな子でしたからね。時帰りについてもあれやこれや神社に伝わる文書を調べては、日記に書き残していたのですよ。

 兄妹が暮らす家は、一条神社の敷地とはひとつづきになっている竹林のなかにあり、ふたりの生活スペース以外は、ほぼ資料で埋めつくされております。丈一郎の日記も、とある部屋に保管してあったのですが、そのうちの一冊だけがなぜか欠けていた様子。雅臣が自分の部屋に隠し持っているのではないかと、汀子は疑っているのです。

 そしてその疑惑はどうやら、的を射たものだったようです。

「あ、っっった」

 分厚い美術書のあいだにそっと挟みこまれていた白茶けた綴り本を取りだし、汀子が深呼吸をしています。

 ああ、とうとう行き着いたのですね。その一冊に。

 とある頁に丈一郎が興奮しながら書き連ねていた内容を、私はいまでもよく覚えておりますよ。なぜなら──。

「え、なにこれ、墨で文字がつぶれてる。っていうか猫の足跡が」

 汀子のじっとりとした視線が、私へと向けられました。

「にゃ?」

「かわいこぶってもダメ。この肉球のあと、タマなんでしょ? おまえ、いったいいくつなのよ」

 私にも、もうわからなくなってしまいました。

「これじゃ、ぜんぜん読めないじゃないの。あ、でも後ろのほうは無事だったのね? 筆文字が難しいなあ。ちょっとなら読めるんだけど」

 文字が、だいぶ崩してありますからね。それでも、よく調べればわかるはずですよ。そこに書かれている内容が。

 あの湧き水の秘密や、みずから時帰りを可能にする方法だって。

「にゃっにゃっ」

 夢中で日記をめくっている汀子は気がついていませんが、少し離れた場所から、慌ただしい足音が近づいてきました。

 雅臣のもので間違いありません。出かけたばかりだというのにどうしたのでしょう。

「にゃっ」

「タマ、しーってば」

 煩わしそうに汀子が答えたのと、部屋のドアが開いたのは同時でした。

「おい、そこでなにやってる」

「え、お兄ちゃんっ。ご祈祷は?」

「移動の途中で、先方の都合が悪くなったと連絡があったんだよ。そんなことより質問に答えろ。俺の部屋でなにをやってる」

「いや、掃除してただけだよ。お兄ちゃん、ぜんぜん掃除機かけてないじゃん。ちょうど今終わったところ。ね、タマ」

 見上げれば、汀子の両手のなかにあったはずの日記帳はきれいに消え、代わりに掃除機の持ち手が握られています。さすがですよ、汀子。

「お兄ちゃん、あのマダムはご祈祷代をかーなーり弾んでくださる方なんだからね。代わりに稼げる方法、考えてよ? あと、今日の午後は時帰りのお客様がいらっしゃるから」

「またか。最近、多すぎないか」

 疑わしげに目を細めていた雅臣も、うんざりとため息を吐きだしました。ここぞとばかりに雅臣の脇をすり抜け、汀子が廊下へと逃げだします。

「にゃあ」

「さ、タマ、こっち。〈こよみ庵〉に行ってつづきを読もう。それと今日のお客様のこと、くれぐれもよろしくね。中学生くらいの男の子なんだけど、うちの神社にお参りしながらすっごく涙を流してたから気になっちゃって」

「にゃあん」

 わかりました。無事に境内まで連れてきますから、汀子はその日記の解読を頑張ってくださいね。もっとも、それが果たしてあなたたちふたりの幸せにつながるのかどうかは、神のみぞ知るのですが。

 とはいえ、私は信じているのです。聖神様がいまこの時になって、その日記と汀子を引きあわせてくださった意味を。

 あなたたち兄妹はきっと、自分たちを幸せにする力をもっているはずですよ。

 竹林では青々とした葉たちが秋風に揺れ、なにごとかを囁いてくるようでした。

 

 

 左手の親指のつけ根を、右手の親指でなでるクセがついた。

 ビッケがキャンと鳴きながらよく甘噛みしてきた場所。痩せて軽くなった頭を支えると、荒い息がかかっていた場所。元気だったころは、ビッケが遊びの誘いにくわえてきたオモチャを受けとっていた指でもある。

 鎌倉駅からバスに乗って目的地へと向かう途中も、ずっとなでている。そうしていれば、先月、虹の橋を渡ってしまったビッケとつながっていられる気がした。まだ十歳だった。人間でいうとまだ五十六歳。十五のぼくと小さな頃からいっしょだったのに。

『つぎは八幡宮前、八幡宮前』

 立派な朱色の鳥居が車窓の向こうに見える。鎌倉といえば真っ先に頭に浮かぶ鶴岡八幡宮だ。八幡宮を右手に見て、観光客が連なって歩く坂道をバスがのんびりとのぼっていく。

 海の気配が薄れ、紅葉した山の木々が空を覆いはじめた。

 ぼくも今日は神社に参拝するために、ここまで一時間半かけてやってきた。ただし、鶴岡八幡宮のような大きな神社じゃない。SNSで見かけた、たぶんもっと小さな、一条神社というところだ。アップされていた社殿の写真がおんぼろすぎて目についたのだ。

 祀られているのは時間の神様で、過去への後悔を消してくれるらしい。

 鬱々として自分の消せない過去を回想しているあいだに、車窓の外は市街地から山に変わっていて、つぎの停留所が目指すバス停だった。

 吹きさらしの看板の前に降りたのはぼくたったひとり。静まりかえっている通りの左右を見渡せば、木々の葉がきれいに色づいていた。こういう土が香る道を歩くのが、ビッケはとても好きだった。

 ハッハッとうれしそうにはしゃいで脇を歩くビッケの姿が、うすく透けて見える気がする。

 でも、あんなふうに足元をせっせと歩く小さな存在はもう──。

「あれ?」

 いた。しなやかな体つきの白いやつが、いつの間にか付きそうように歩いている。猫だ。ぼくが立ち止まると、猫も歩みを止めた。

「にゃあん」

 なにかを訴えるときの表情は、犬も猫もそう変わらないらしい。空色の瞳をゆっくりと細めたあと、猫はぼくを先導するように歩きだした。ちょうど神社の方向だ。しばらくあとを追いかけてみたところ唐突に木の看板が出現し、『一条神社』と案内が出ていた。

「にゃあん」

 白猫は一足先に案内の方向へと曲がり、途中でこちらを振り返って急かすように鳴いている。

「おまえ、ぼくをこの神社に連れてこようとしてたのか」

 猫はやっと気づいたのかとでも言いたげに目を細め、竹林に囲まれた参道の奥へと歩みを進めていった。

 参道を抜けた先には、写真の印象よりもずっとおんぼろの神社が待っていた。

 周囲を見わたせば、右手には社殿とは似ても似つかない小ぎれいな建物がある。

「なんだ、ここ」

 戸惑っていると小ぎれいなほうの建物の戸が開いて、巫女さんが姿を現した。

「こんにちは、一条神社へようこそ」

「あ、どうも」

 言いながら、ほおに熱がのぼった気がして目をそらす。

 SNSに投稿されたAI画像みたいに、顔立ちの整った人だ。同じクラスの片倉あたりが、大騒ぎしそうな。

 巫女袴をきれいにさばきながら目の前までやってくると、その人がふわりと笑った。一気に心拍数が上がる。いったいぼくに、なんの用だろう。

「お待ちしてましたよ。ええと、お名前は?」

「あ──」

 どうやらぼくを、べつに約束した誰かと勘違いしたらしい。素直に名乗るのも不用心な気がして、素っ気なく答えた。

「人違いだと思います。ぼく、ここに来るのに連絡とかしてませんし」

「ううん、間違いないですよ。だって私、あなたを夢で見ましたから」

「なっ」

 からかわれている。ようやく気がついて、無視して参拝することにした。それでも顔全体が熱くなっているのが悔しい。おまけに巫女さんは、懲りずに尋ねてくる。

「それで、お名前は?」

 お社へ向かおうとするのに、ずっと視線を感じて落ち着かない。巫女さんとはすこし距離があるにもかかわらず、大きな瞳で間近から覗きこまれている気分になって、気がつけば答えてしまっていた。

「植村渚です。ぼくのことは放っておいてください。お参りしたらすぐに帰るんで」

「え、時間ない? 急いでる? 塾があるとか?」

 慌てたのか、巫女さんは急にくだけた態度になった。

「違います。っていうか、あんまりうるさくされると、お参りできないんですけど」

「あ、そっか。そうだよね」

 きつく言い過ぎただろうか。気になって目の端で確認してみると、ようやく数歩下がってくれたようだ。

 そういえば、まだ手も清めていない。

 手水舎を探して視線をさまよわせていると、申し訳なさそうな男性の声がした。

「うちは、お清めをする場所がないんです。気になるようでしたら、湧き水のある場所までご案内しましょう」

 振りかえれば、今度は神主さんらしき男性がほうきを手にして立っている。この人もまた、クラスの女子が全員ひとめ惚れしそうな容姿をしていた。

 なんだか、少女漫画の世界にでも迷いこんでしまったようだ。

 好奇心も手伝ってうなずいたぼくに、神主さんはついてくるよう言った。ぼくに流し目をくれたあと、迷いのない足取りで境内の向かいに広がる竹林へと入っていく。参道の脇に広がっていたあの竹林だ。

 ただ、神主さんのあとを追うぼくの背中を、べつの足音も追いかけてきた。

「お清めなんて、よく気がついたね。ここの参拝客の方たちって案外気にしない人も多いのに」

「それは汀子が突然あらわれて、脈略もなく時帰りについて語りだすからだ。あれではみんな、手水舎のことなど頭からすっぽり抜け落ちるだろう」

 神主さんが苦々しげな表情で振りかえった。

「あ、お兄ちゃん、ついでにお抹茶用のお水も汲んで運んでくれない?」

「ひとの話を聞けよ、まったく」

「もしかしてご兄妹なんですか」

 思わず、ふたりに向かって尋ねた。どちらも美形なのは間違いないが、顔も雰囲気もあまり似ておらず、血がつながっているとは思わなかったのだ。

「あ、ごめんなさい。私たちの紹介がまだだったね」

 ひょいっとぼくの横に並び立つと、巫女さんが告げた。

「私は若宮汀子。見たまんま、ここで巫女をしています。あの人が若宮雅臣。神主です。それから、渚君をここまで連れてきてくれたこの子が猫のタマ」

「あ、その猫」

 木漏れ日が、タマの薄青色の瞳に反射した。巫女さんに抱き上げられたのが不満なのか、そっぽを向いてしまう。

「ははっ」

「あ、やっと笑ってくれた」

「──」

「ふふふ、大丈夫、私、思春期って慣れてるんだ。ほら、うちには思春期が長めの男子がいるから。ね、お兄ちゃん」

「──」

 神主さんもぼくも巫女さんの声を無視して、右へ左へ、ゆるやかにカーブしながらつづいている小径を歩いた。

 二、三分ほどしたところで、ようやく目的の場所についたらしかった。

 行き止まりになっているそこは山の岩肌が露出しており、青々としたシダがあちこちに自生している。おそらく天然と思われる岩の出っ張りが受け皿になって、上のほうからちょろちょろと染み出してくる清水がいったん溜まってから、三筋の小さな滝のようにすぐ下の小川へと流れ落ちて合流していた。

「この三筋の流れは、過去、現在、未来を表していると言い伝えられています。うちのご祭神は時間の神様なんですよ。さあ、このひしゃくをお使いください。やり方はご存じですか」

「はい」

 この神社の神様のことも、後悔をなくしてくれるという御利益もぜんぶ知ってます。知ってて、すがるような気持ちで来たんです。

 ぶるりと背筋が震えた。水があたりを冷やすのか、ほかの場所より明らかに気温が低い。それだけでなく、ほおの肉にビリビリと強い刺激を感じた。実は竹林の参道に入ったときもすこし身が引き締まるように感じたけれど、ここはもっと強烈だ。とくにこの湧き水のあたりは、山の気みたいなものが剥きだしになって溢れだしている気がした。

 おもわず顔をしかめたぼくに、神主さんがペットボトルに汲んだばかりの清水を差しだす。

「おそらく敏感なほうかと思うので、こちらを飲んでください。少し刺激が和らぎます」

「あ、ありがとうございます」

 半信半疑でひと口飲むと、電流のようだった刺激が本当に少なくなった。味がついているのかと思うほど甘い水だ。

 両手と口元を清めてほっと息をつくと、巫女さんが待ち構えていたようにぼくを見て微笑んだ。

「さて渚君、君はいつの過去に帰りたいのかな?」

「え?」

 助けを求めるように神主さんに視線を移すと、彼もまた大真面目な顔で咳払いをする。

「俺たちなら、君のことを戻りたい過去に送って差し上げられます」

 戸惑って、ふたりを交互に見つめた。どちらも大真面目な顔をしているけれど、そんなこと、厨二病のやつだってきっと信じない。

 答えに困って、バカみたいに突ったっているしかなかった。

 後悔をなくしてくれるというのは、お参りによって心が澄んですこしすっきりするとか、その程度のことだと思っていた。

 それなのに、目の前の怪しいほどきれいな兄妹は、ぼくを帰りたい過去に帰してくれるという。まともじゃない。この人たちは、こうして人の弱みにつけこんでいるのかもしれない。なにかの犯罪に巻きこもうとしているのかもしれない。用心するべきなのに、心のどこかで、すがりたいと思ってしまう自分がいた。もう一度やり直せる可能性があるなら。あの日に帰って、過去を変えられるなら、なんだってする。やってみせる。それくらい、過去に帰ってしたいことがあるのだ。

「ほんとに、そんなことができるんですか?」

 力をこめたつもりなのに、なんだか迷子みたいな声がでた。

 神主さんは、もの言いたげにぼくを見つめていたけれど、やがてふっと息を吐きだした。

「まず、過去でなにをしたいのか話を聞かせてもらいますので、いったんあちらへ戻りましょう。さあ、汀子も。そんなところで、こそこそとなにをしているんだ?」

「えっ? ええと、なんだか水の量が減ってない? と思って」

 目を泳がせている巫女さんに、神主さんが呆れてみせる。

「きのう雨が降ったばかりで、むしろいつもより多いくらいだ」

「あ、そ、そうだっけ?」

 首を振って歩きだした神主さんを見上げ、「にゃあん」とタマがひと鳴きした。

 

(つづく)