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第三話 波間にただよう後悔

 

 目の前にしゃがみこんで私の頭をなでているのは、一色佐緒里。汀子にとっては姉代わりのいとこです。

「タマってほんとに年取らないねえ。なにか秘訣があるの?」

「にゃあ」

 それもこれも、ここ一条神社の御祭神、聖神様のおかげですよ。

 佐緒里は汀子の前にお告げの夢を見ていた蓉子おばさんの娘で、汀子より六つ上。大学を出て都内で働いたものの、やはり海のそばで暮らしたいと材木座にある実家に舞いもどり、家業の居酒屋を手伝いながら、昼間はヨガの講師もしています。

「佐緒里ちゃん、ワンピありがと。秋のお洋服がほしかったから助かる」

「相変わらずお財布事情が厳しいの?」

「うん、火の車。お兄ちゃんにはまた祝詞の営業に行ってもらってるから、今月はちょっと楽になる予定だけどね」

「ははは、汀子ったら強すぎ。ところで、わざわざ会いたいなんてどうしたの。お金なら貸せないよ?」

 さすがは汀子のいとこというべきか。なかなかのしっかり者でしょう?

 膝の上に飛び乗ると、佐緒里が指の腹で頭を掻いてくれました。うっとりとしつつ、向かいに座る汀子を見やると、なにやら思い詰めたような目をしています。

「佐緒里ちゃんはさ、蓉子おばさんから、お兄ちゃんの時帰りについてなにか聞いてない? 誰が夢のお告げを見たのかとか、どうやって時帰りしたのか、とか」

 佐緒里の手がぴたりと止まりました。

「どうしてそんなこと聞くの? もしかして雅臣、まだ時帰りのこと気にしてる?」

「たぶん。それに毎晩、夢でうなされてるの。お母さんの治療を自分のわがままで長引かせて、すごく苦しめちゃったって後悔してるみたい」

「あ~、なるほどね」

「佐緒里ちゃん、なにか知ってる?」

 身を乗りだした汀子に、佐緒里がうなずいてみせました。

「私、おそらくだけど、時帰りしてきた雅臣と過去に会ってると思う。ほら、美和子おばさんが急に入院することになって、お見舞いにしょっちゅういってたからさ」

「お兄ちゃんが時帰りしてる最中だって、どうしてわかったの?」

「う~ん、なんとなく? 入院したてのころ、雅臣の様子がおかしかったっていうか。確かに雅臣なんだけど、知らないやつ、みたいな? でもあんなときだし、いつもと同じなほうがおかしいってあの当時は納得してたんだけど。ほら、おばさんが緩和ケアじゃなく、抗がん剤治療を進めることになってちょっと苦しそうだったでしょう。きっと雅臣が時帰りする前の人生では、緩和ケアで穏やかに亡くなったんじゃないかなって思って」

「そんな、お兄ちゃん──」

 いいえ、汀子。雅臣は、それよりも残酷な過去を生きたのです。あなたたちの母親である美和子はね、雅臣が過去を変える前は、事故で命を落としたのですよ。雅臣はその事故を防ぐために時帰りをしたのです。しかし、そのすぐあとで病気のことがわかって──。母親を交通事故から守った代わりに、一瞬で済むはずだった苦しみを何倍にも引きのばし、いたずらにつらい目にあわせてしまったのだと雅臣は悔やみ、悪夢に苛まれているのです。しかし、美和子が亡くなったのは自然の摂理。交通事故に遭ったときには、おそらくすでに病気だったのです。だって、事故からたった半年で他界したのですから。それに彼女は、たとえ治療の苦しみがあったとしても、最期の日々を子どもたちと暮らせる喜びとともに過ごしたのですよ。ですから、雅臣は決して間違った時帰りをしたわけではないのです。

 そんなふうに割り切れないから、人は後悔を抱えて生きるのでしょうけれど。

「ねえ、なんとか私も時帰りできる方法はないのかな。聖神様に選ばれるのを待つだけじゃなくて、自分の意思で時帰りする方法が」

「ああ、それ、一度は考えちゃうよねえ。私も前に色々とこの家の文献をあさってね、なにも見つけられなかったんだけど、その代わり、お母さんが亡くなるまえに妙なこと言ってたなって思いだしたの」

 佐緒里のまなざしは、時を超えて当時を見つめているようです。

「妙なことって?」

 さわさわと、竹たちがざわめきはじめました。

「雅臣が時帰りするときは、夢のお告げに現れなかったって」

「──それ、本当?」

 ひときわ強い風が竹林を吹きぬけ、お社で向かいあうふたりを取り巻きます。

 目を見開いた汀子は、いったいなにを思っているのでしょう。

 聖神様、どうか若宮兄妹をお導きください。これ以上、彼らに悲しみが訪れないようお守りください。

 どうか、どうか、かしこみ、かしこみも申しあげます。

 

 

 潮風を吸いこむと、今でも感情の海に波が立つ。

 本当は、鎌倉駅で降りるつもりなんてなかった。三時前には午後の診療を行なうために、医院に戻るつもりでいたのに。

 まあ、今日はほかの先生が午後から来てくれる日だから、無理をしてまで間に合わせる必要もないのだけれど。

「空、明るいな」

 海辺の街に独特の、光彩を刺すほどすこんと抜けた空の色。湿気を孕んだ風。

 オフショアにさらされて、凪いでいた血がいっせいに沸きたつのを感じる。

 鎮まれ。若宮大路に出たらきっと海までいってしまう。あの人が好きそうな波を、その波を操っている海の王様みたいな姿を探してしまう。

 この世界のどこにも、もうあの人はいないのに。会いたいなんて、思っちゃダメなのに。

 海ざらしの赤茶けた髪が肩まで伸びていた。適当で、嘘つきで、すぐムキになる、子どもみたいな人だった。

 だけど、波に対してだけは正直で、どんな瞬間も真摯だった。悔しいくらいかっこよかった。

 俺の師匠。憧れの人。一生敵わないと絶望もさせられた人。

 そして俺が、手ひどく裏切った人。

 なあ、ほんとは今でも波を追いかけて世界中を飛びまわって、あのころみたいにサーフィンしてるんだろう?

 問いかけてみても、耳の奥で波音が繰りかえされるだけ。

「このまま引きかえそう。すこし休んでおかないと」

 昼飯を大船駅で食べようと、医院のある戸塚駅から横須賀線に乗った。午前は患者がいつも以上に多く、ほとんど休む間もなかった。そのせいか電車に乗った瞬間に寝落ちし、目を覚ましたときには大船駅をとっくに通り過ぎた鎌倉駅だったのだ。

 慌ててホームに飛び降りて、うっかり駅の外にまで出て、胸の奥に残っている傷に潮風を染みこませて。

 たぶん疲れのせいで、気持ちが柔らかくなりすぎているんだろう。

 きびすを返そうとして、こちらへ向かってくる中年女性にぶつかった。

「あ、すみま──」

 気がつけば、駅のほうから観光客の波が押し寄せ、流れのど真んなかに巻きこまれている。威勢よく交わされる会話は、中国か台湾からやってきた人々だろうか。

 駅前の広場から人波に押し流されるようにして横断歩道を渡り、ロータリーまで運ばれてしまった。

「お客さん、乗ります?」

 顔を上げると、バスの運転席から車掌がこちらを見おろしており、苛立ちのにじむ視線で早めの乗車をうながしていた。

「いや、俺は」

「乗るの、乗らないの?」

 背後からも急かされ、振りかえれば、冗談みたいに長い列が俺の後ろにつづいている。

「ええと、俺は──?」

 答えるあいだにぐいぐいと押され、なぜかバスに足を乗り入れてしまった。

 いったい、なぜこんなことになっているのかわからないまま、降り口にいちばん近い座席に肩をすぼめて座る。

 どこ行きのバスなのだろう。

 しょっちゅう通った鎌倉だが、バスは乗りなれていない。呆然と窓の外を眺めているうちに発車し、人波が消え、家々が消え、ところどころ姿を現すカフェも消え去り、ついには乗客も数人になったころ、さすがにまずい気がして知らない停留所で降りた。

「いったいどこだよ、ここ」

 駅からたかだか十分程度の場所なら、少しは見覚えがあってもいいはずなのに。

 道の両側を樹木が埋め尽くしている。秋で葉が色づいていなければ、もっと薄暗かったに違いない。

「どうすっかなぁ」

「にゃっ」

 みじかく響いた返事に、視線をさげた。いつの間にやってきたのか、真っ白い猫がじいっとこちらを見あげている。淡い水色の瞳にすべてを見透かされているようで、思わず顔をそむけた。

 猫は、いっこうにそばを離れようとしない。それどころか、前足を俺の脚にかけて軽く引っ掻くようにした。

「にゃあにゃっ」

「こら、どうした。なにか俺に用事でもあるのか」

 仕方がなくそばにしゃがみこむと、驚かせてしまったのかさっと飛びのく。そのまま、すたすたと道の向こうへと歩きだした。

「変なやつ」

 遠ざかっていく尻尾を見守っていると、猫が唐突に歩みを止めてこちらを振り向いた。

「にゃっ」

 ついて来い、とでも言うかのように。

 だんだん面白くなって、あとを追うことにした。どうせバスに乗って帰るだけだ。十分くらい猫と散歩してから駅に戻っても、医院に着く時間はそう変わらない。

 歩きだした俺を見て、猫は目を細めたあとで前進を再開した。やがて視界の先でひょいと右へ逸れ、「にゃあにゃあ」と大きく鳴いている。慌てて駆け寄ると猫が曲がった道の入口に、看板が出ていた。

〈一条神社〉と書かれた下には矢印があり、細い道が竹林のあいだを縫うように延びている。てんてんとつづく石畳のひとつに、猫がちょこんと座ってこちらを見ているのだった。

「わかったよ、そっちだな?」

「にゃっ」

 まるで意味を理解しているかのような鳴き声がおかしくて、声を上げて笑う。

 それにしても、聞いたことのない神社である。前に訪れたことも、おそらくはない。

 細い竹林をしばらく行くと、唐突に開けた場所に出た。

 正面に建つのはお社、だと思われる。なんというか強烈なビジュアルである。とにかく古い。今にもこちらに向かって崩れ落ちてきそうだった。

「──廃神社なのか?」

 思わず独りごちた声に、返事があった。

「いえいえ、こう見えても現役なんですよ。ようこそ、一条神社へ」

 声のしたほうへ視線をやり、ドキリとした。滅多にお目にかかれないような美人が、巫女さん姿で立っていたのだ。柳に幽霊ではないが、このうらぶれた雰囲気もあいまって、ときめきよりも背筋が冷える心地がした。

「お疲れみたいですね。もしよろしければ、あちらでお抹茶でもいかがですか。竹林を見ながらゆっくりしていただけますよ」

「はい?」

 巫女が手の平で誘う場所を見やると、お社とは似ても似つかない、モダンな建築物がそこにあった。

 

 ここは神社の経営する〈こよみ庵〉というカフェらしい。実際疲れてもいたし、先ほど、うながされるまま入店してしまった。

 どうやら本格的に午後の診療には間に合いそうにない。あとで一報しておかなければ。

「神社の御祭神が聖神様といって、時を司る神様なんです。せっかくだから、神様にちなんだ名前をつけようって兄と相談して。あ、兄はここで神職をしてます。あとでご紹介しますね。私は、巫女の若宮汀子です。お客様のお名前は──」

「露木透です」

「もしかして神奈川の方ですか? 同級生にも露木君っていたなあ」

「そうっすね。父が葉山の出身で」

「じゃあきっと、お近くからいらしたんですね」

「まあ、戸塚なんで近いといえば近いかも」

 ふだんは“私”で話しているけれど、気さくな巫女の口調に、こちらも自然とくだけた口調になる。

 巫女がすっと差しだしたメニューには『抹茶セット 千八百円』とのみ書かれており、仕方がないからそれを頼んだ。

 椅子の背もたれに体を預け、とりあえずほっと息をついた。このあたりは山あいのせいか、おなじ鎌倉でも海沿いにいるより楽に呼吸できる。

 やがて巫女が、みずから点てたという抹茶をお茶請けとセットで運んできた。建物が新しいせいか、巫女からは、先ほどのぞっとするような雰囲気は消えさり、少し年下の可愛い子が忙しく働いているようにしか見えない。

 じっと見つめてしまったのを、店内を見回しているのと勘違いしたらしい。巫女が苦笑しながら告げた。

「本拝殿とはすごいギャップですよね。兄が元設計士だったんですけど、デザインにこだわって建てちゃって。そのせいで冬は寒い、夏は暑いの最悪な建物になっちゃったんですけど、借景だけは完璧なんですよ」

「たしかにすごいっすね」

 壁一面のガラス窓いっぱいに広がる竹林を、貸し切り状態でゆったりと眺めることができる。人気の場所では、こうはいかないだろう。

 供された抹茶もすっきりとした味わいで、それほど好きではない餡子の入った和菓子も、雰囲気に合っているせいか美味しく感じられた。

「それで、今日はどんな後悔を抱えていらっしゃったんですか」

 巫女が、出しぬけに尋ねてきた。いつの間にか、すぐ向かいに腰かけている。

「──え?」

「あれ、違いました? ここ、そういう方が多くいらっしゃる神社なんですけど」

「そうなんですか。俺は、なんというか成り行きで来てしまったというか──」

 告げたとたん、巫女の瞳が鋭い光を帯びた。

「なるほど、まさに聖神に呼ばれていらっしゃったのですね。いつもより夢の風景を鮮明に感じたわけがわかりました。いいなあ。私なんて、こんなに呼ばれたがってるのに、ぜんぜん選んでもらえなくって」

「そう、なんですか」

 もしかして、まずい場所に来てしまっただろうか。夢の風景とか、呼ばれたがるとか、いちいち思わせぶりだ。なにかの宗教団体だとか、そうでなくとも偏った思想のもとに集って暮らすコミュニティの拠点に紛れこんだとか?

 俺の不安を直接覗きこむようにして、巫女が大きな瞳を向けてくる。

「にわかには信じていただけないのはわかってますが、じつはこの神社から、お望みの過去に戻れるんです。時帰りといって、ご祭神である聖神さまの御業なんですよ」

「なるほど?」

 これは一刻も早く逃げなくてはまずい。今なら相手はこの女性ひとりだ。妨害されても、どうにか振り切って外へ出られるだろう。

 

(つづく)