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 立ち上がろうとしたそのとき、別の声が響いた。

「汀子、俺のいないすきに、時帰りの話を進めるのはいい加減にやめてくれ。しばらく聞いていたが、ちょっと説明を飛ばしすぎだぞ」

 会話に差しこまれた声の主は、店の入口に身を預けて立っている。かなり気障なポーズだが、これがまた何とも現実味のない男前のせいか違和感なく決まっている。すらりと背が高く、それなりに筋肉もついていそうなのが、神主の装束の上からでもわかった。

 一方の自分は、サーフィンをやめてからだいぶだらしない体になった。彼に力づくで押さえつけられたら、きっと逃げられない。

 どうやって逃げるべきか迷っているあいだに、神主がこちらへ近づいてきて丁寧に頭を下げ、向かいの席、つまり巫女の隣に腰かけてしまった。

「俺はここの神主で若宮雅臣と言います。さっそくですが、妹が話していた時帰りについて詳しくご説明させていただきます」

 兄のほうもたいがい、飛ばしすぎである。

 そろそろ遅刻よりも、無事に帰れるかどうかが心配になってきた。

 それでも、こちらの動揺などお構いなしに説明をつづける神主の姿に、なんだかもうなるようになれと捨て鉢な気分になってくる。

 抵抗を諦めて首肯した俺は、それから十分ほど、時帰りとやらについてくどくどと荒唐無稽な話を聞かされるはめになったのだった。

 ただ、話を聞くうちに、なんだかそんなこともありそうな気がしてきたのは自分でも意外だったけれど。

 もしかして、そうできたらどんなにいいかという願望のなせる技かもしれないし、目の前の兄妹や窓いっぱいの竹林がかもす、神秘的な雰囲気にのまれたせいかもしれない。

 ともかく最後まで説明を聞いた俺は、空になった抹茶茶碗から視線を上げ、気の迷いとしか思えない言葉を発してしまった。

「本当に、希望の日に帰れるんですか」

 時帰りなどありえない。小説や映画の世界のなかの出来事だ。しかし万が一、本当に帰れるなら、切実に帰りたいと願う一日が自分にはある。

 兄妹は、お互いに顔を見合わせたあと、同時に力強くうなずいてみせた。

「帰れます。ただし、露木さんのお話を聴いて大丈夫だと判断したらですが」

「もう、お、に、い、ちゃ、ん。そんな脅すようなこと言わないで。露木さん、心配しないでくださいね。聖神様は大丈夫な人しか選ばないですから」

「それじゃあ、お話しします。情けない話ですが──俺は、師匠を裏切ったんです。だから、あの日に帰ってちゃんと話をしたい」

 あの日、俺は高校一年生だった。鎌倉の進学校に通ってはいたが、部活もやらずに毎日サーフィン三昧。波のいい日は朝早くから出かけて波に乗ってから登校し、授業が終わってからはまた浜に直行する日々だった。

 サーフィンをはじめたきっかけは、小学校の同級生から誘われて通った子ども向けのサーフィンスクールだった。運命の出会いというのは、あんなのを言うんだろう。

 はじめてのトライでボードに立ち、波打ち際までたどり着いた。

「おお、さいしょから立てる子、なかなかいないよ。すごいなあ」

 あのときの師匠──黎さんの声が、広い空の下、ただ誇らしかった。

 黎さんは、スクールの講師だった。牧野黎。元プロサーファーで、二十三歳のときに怪我で引退するまで日本のサーフシーンを牽引する存在だったらしい。俺が六歳のときはまだ三十になる手前くらいだったはずだ。

 いちど、プロ二年目の師匠が、バリでチューブを乗りこなす映像を見たことがある。当時の師匠は十八歳。脳天までしびれるくらい、かっこよかった。

 いい加減ぶっていたけれど、根はまじめで繊細なところもあるから、教えるのはすこぶる上手かった。黎さんの導きのもと、どんどん波乗りにハマっていった俺はめきめきと上達し、中学からは大会にも出て、すぐに結果を出せるようになった。

 サーファーとしての道が、未来にまっすぐに伸びている。あのころの俺は、その道の果てまで見える気がしていた。良くも悪くも。

 大人の手助けなしで波をつかまえられるようになったときも、フィンで足の指を切って泣いたときも、ずっと勝てなかった千葉の同い年の少女にジュニア大会で勝てたときも、スクールの子どもたちと素潜りで溺れそうになったときも、はじめて自分専用のサーフボードを買ってもらったときも、高校生になってクラブハウスで夏のあいだはじめてのバイトをしたときも、そこにやってきた女子にひと目惚れしたときも。

 とにかく、海で過ごしたすべての瞬間に、黎さんはいた。

 正直に言って、友人たちよりも、父親や兄よりも、近しい存在だったと思う。

 とにかく、俺は海の子どもで、プロが視野に入ってきたのが、俺が高校に進学した年だった。嵐みたいな年だった。

 サーフィンもゴルフやボクシングなどといっしょでプロトライアルがあり、合格すれば未成年でもプロになれる。

 そのつもりでいた。一族は医者だらけで、俺ひとりくらい波に乗っていてもなんの支障もなさそうだったし、なにより兄は成績優秀で、すでに医学部を出てインターンをしていた。俺が自由にサーフィンにかまけていられたのは、兄の存在も大きかったと思う。

「プロトライアル、受けてみるか」

 高校受験が終わって早々、なんでもないふうに師匠に誘われた。

 だけど俺にはわかった。師匠なりに、ものすごく言い方とシチュエーション、それにタイミングまで考えて、まるでプロポーズでもするみたいに緊張してあの誘いを口にしたということを。

 あの人は、プロになる喜びや栄光だけじゃなく、てっぺんから地獄に落ちる瞬間も知っていた人だから。

「それじゃあ、露木さんはプロサーファーなんですか」

 笑顔で尋ねてきた巫女に、首を振ってみせる。

「いえ、残念ながら俺は──師匠を裏切って、プロトライアルをすっぽかしたんです。きっとその時帰りっていうのをしても、トライアルには行かないと思います。でも、その理由をきちんと話して、謝りたいんです」

 無意識にこぶしを握りしめていた。

「なるほど。その謝罪は、今これからするわけにはいかないのですね?」

 静かに尋ねてきた神主にうなずいてみせる。

「──師匠はもう、いないので」

「わかりました。それでは、儀式を行なわせていただきます。どうぞ今回こそ、後悔のないようにしてきてください」

 深い事情には立ち入らずに腰を浮かせた神主に、思わず声をかける。

「あの、俺は本当に過去に戻るんですか?」

「答えはおのずと出ます。ご心配なく」

 おみくじのような返事を告げると、神主はスタスタと歩いていってしまった。

 

 本拝殿に移り、榊でお清めをしたあと、時帰りの注意点について早口で説明があり、すぐに儀式がはじまった。本拝殿は当初の印象どおりの傷みが進んだ建物だったが、兄妹といっしょのせいか、今は不思議と崩れる不安は起きない。

 儀式を行なうふたりに背を向け、俺は竹林を眺めていればいいらしかった。

 シャン、シャン、と澄んだ鈴の音がする。波が砕け散る音をちゃんと聞けたら、こんなふうに響くかもしれないという気がした。

 たしか、手首の内側に光の棒が現れるんだったな。

 思い出して確認してみる。もちろん、期待などしていなかった。それなのに、腕を内側にひっくりかえすと、ほんとうに光の棒があった。まばたきしても、やはりある。

 この棒が一本で一日帰れるというから、二本の棒が現れた俺は、二日間を与えられたのだろう。なんだかとんでもないことになった。

 シャンッ。

 叱咤激励のように響いた鈴の音にはっとさせられる。振りかえると、巫女がしきりに目線を竹林のほうへと向けていた。おそるおそる向き直ると、竹林の奥が得体のしれない光で埋め尽くされていた。まるで向こうは光の海原でもあるかのように。

「いや、ありえないだろう」

 言いながらそろそろと立ちあがって靴をはき、引き寄せられるようにして竹林へと向かった。眼前では、光がどんどん強くなり、範囲を広げていく。これほど光量があるのに、不思議と眩しくはないのだった。

 あらかじめ言われていた小径へと入っていく。さわさわと竹の葉が揺れる。

 本当に会えるのか。黎さんに。

 ──怖い。会うのが怖い。

 それでも、もう一度会いたい。会ってちゃんと話したい。今度こそ。

「わっ」

 足の裏が地面を踏み損ねたと思ったつぎの瞬間、ふわふわと光の海をたゆたっていた。抱かれるようにして落ちていく。深い深い、意識の底へ。過去へ。

 なんの連絡もせずに、トライアルをすっぽかした。あんな最低の別れ方をして、ずっと後悔を抱えて生きてきた。時を遡ってまで話したいなんて、その苦しさから逃れたいというエゴなのかもしれない。

 それでも、まだまだ子どもだった俺を子どもあつかいせず、ひとりの人として対等に向きあってくれた黎さんに、きちんと真正面から伝えたい。失望させるかもしれないけれど、それさえも受けとめて話すべきだったのだ。

 陸でできる唯一の恩返しは、あの人から逃げないこと。

 もう数えきれないほどなぞった考えをもう一度さらって、そのチャンスが与えられたことに全身が粟だつ。

 あとどれくらい、落ちていくのだろう。

 不思議と、行きつく先が、過去の海だということだけはわかった。

 

 ざぶんと波に巻きこまれ、潮水を思い切り飲みこんだ。

「ぶほっ。からっ」

 ボードに這いあがり、ぷかぷかと漂う。波のコンディションがいいのか、黒のボディスーツに身をつつんだサーファーたちが、オットセイのようにあちこちに散らばっている。

 ずっと向こうに少しぼんやりと見える富士山。夕方にかけては逆光になり、もう少しくっきりと輪郭が浮き上がるはずだ。

 どうやらここは、慣れ親しんだ由比ガ浜の海らしかった。

「はい、また俺の勝ちぃ」

 うれしそうにはしゃぐ声が耳に飛びこんできて、懐かしさに涙がこみ上げそうになった。こみ上げただけですぐに引っこんだのは、そのあとの罵詈雑言があまりにも幼稚だったからだ。

「だっせぇなぁ、まだまだへったくそだなぁ。やっぱ透が俺様に敵うまでにあと百万年はかかりそうだわ。あぁ、ひでえもん見せられた。ざまあ見ろ、ウニに刺されろ、はっはっは」

「──そう言えば、こういう人だったよ」

 百年の思慕も一瞬にしてかき消える品のなさである。

「やかましいっすよ、黎さんっ」

 叫びかえすと、こちらに尻をむけて叩いている。今どき小学生でもあんなあおり方はしない。

「くっだらねぇ」

 つぶやきながら、声が震える。ほんとのバカ、気合いの入ったサーフィンバカとの再会は、ただひたすら塩辛かった。

 

 波をつかまえる感覚は、当時の体が伝えてくれた。興奮がおさまるまで何度かテイクオフを繰りかえし、少し落ち着いてから浜へと向かう。

 さっきはふざけていたけれど、浜では口をむずむずとさせて黎さんが待ちかまえていた。今日はプロトライアルを翌日に控えた金曜日、今は登校前で、早朝浜にやってきたところだろう。

 まさに、神主に伝えたあの日に戻っているという事実が、いまだに信じ切れない。しかし確かに、ここはあの日の由比ガ浜だ。

 浜に上がってから言われたことを、今でも一言一句覚えている。

 一秒、でしょう? 黎さん。

「お疲れ。今日は割と乗れてたな。でもさ、もっともっと自分のタイミング大事にしていいぞ。焦るのはわかるけど、ポイント取りにいこうとしすぎて自滅するやつ、けっこう多いしな。それと透、テイクオフのタイミング、あと一秒我慢だぞ」

 顔をぐいっとこすって、ようやく返事をした。

「──うっす。でも一秒って、遅くないっすか」

 なんども観て暗記してしまった映画の台詞のように、俺も、当時とおなじ答えを返す。

「信じろ。大丈夫だ。よし、また夕方ここに集合な。学校の時間だろ?」

 過去と違う道を進むのは、このあとだ。

「ああ、ええと、いや、今日は学校、行かなくていいかなって。昼過ぎに野暮用もあるし」

 学校はこれからも毎日行ける。でも、黎さんとサーフィンできるのは、今日だけであることを、未来から来た俺は知っている。あしたはトライアルに行かないから。行けなくなるから。

 いつもは子どもみたいにふざけてばかりの黎さんが、急に真顔になった。

「ダメだ。学校サボってサーフィンやるやつは、ろくな大人にならないぞ」

 つぎの瞬間、親指の先でくいっと自分の顔を差してみせる。

「ほら、こんな大人になりたくなきゃ学校に行ってこい」

「ははは」

 このノリが、あまりにも黎さんだ。

 でも、今日は言うことを聞けない。今、学校に行ったら絶対に後悔する。

 それにどうせ登校したところで、授業が終わるまえに、家からの電話で早退することになるんだよ、黎さん。

「いいんだ。俺、ぜったいプロトライアル、合格したいし。それにどうせ、今日はスクールも暇なんでしょ」

「言うなあ。でも今日はちゃんと午前も午後も、予約入ってるからな。にしても、俺がサボり許したみたいになるから、ここじゃなくて別の浜に行けよ」

「大丈夫だって。今日はほら、ノリさんたちもいないし。俺、勝手にやってるからさ。あしたに賭けてるんだよ」

「くぅ、大人として気持ちがせめぎ合うなあ」

 茶色い髪をぐちゃぐちゃとかき回して、黎さんがうなる。

「今回だけだぞ。もう二度とサボらせないからな」

「ざっす」

 雄叫びをあげたいくらいうれしかった。抱きついて子どもみたいに泣きたいのを、辛うじて理性でおさえる。

 いったんクラブハウスに戻り、親をよそおって学校にサボりの連絡を入れた。今はわが母校もアプリで欠席の連絡を入れるだけになったらしいが、俺が在校生だったこの時代はまだまだ不便だった。携帯電話は普及していたもののスマートフォンは登場しておらず、欠席や遅刻は電話連絡が主流だった。

 ふたたび浜に戻ると、黎さんが波待ちをしているところだった。

 周囲の空間が空いている。ほかのサーファーが敬意を払っているのだ。あるいは単純に、あの人が波に乗る姿を波間から眺めていたいだけかもしれないけれど。

 怪我で引退を余儀なくされたなんて信じられないほど、黎さんのサーフィンはかっこいい。

 強いオフショアだ。一秒待てと言った人のタイミングを目に焼きつけたくて、砂まじりの向かい風にも負けじと目を見開いたまま、そのときを待つ。

 あ、これだな。

 すぐ耳元で、黎さんの声が聞こえた気がした。

 沖をちらりと確認したあと、黎さんがゆったりと構える。大きな波になるなんて思えない静かな海面だったのに一気に表面がせりあがり、今日いちばんの波になった。王者の力強いパドリングから、どこにも力なんて入っていないようなテイクオフへ。流れるような動作は、確かに俺よりたっぷり一秒は遅いかもしれない。

「かっけぇなあ」

 波と戯れるようなライディングもあれば、波を飼い慣らしてるみたいなライディングもある。黎さんのは、後者だ。

 あの人が乗りやすい形に波を起こしているんじゃないかと錯覚してしまうほど、パワフルで、それでいてリラックスして見えるあの独特のスタイル。

 今はロングボードだけれど、引退する前は、ショートボードで波の上を跳ねまわり、飛沫を上げてエアの大技をきめていたらしい。黎さんが、イルカが人間の皮をかぶって暮らしていると評されていたころだ。そのころのスタイルを信奉して惜しむ人も多いけれど、俺はやっぱり、今目の前にいる黎さんのライディングが好きだと思う。

 パワフルなライディングなら、今だってすごいやつはいっぱいいる。けれど、何度も洗濯されてくたっと馴染んだTシャツみたいなこなれた格好よさは、早いうちにプロになっていろいろとしょっぱい水を飲んだ黎さんだけのものだ。見ていて悔しいと思う相手も黎さんだけだ。黎さんは俺にとって、海の王様だった。

 それなのに──。

 俺は今日これから、その恩人を、師匠を、裏切る。言葉で、傷つける。

 ただ逃げるのと、言葉ではっきり告げるのと、どちらが手ひどい裏切りなのかわからないけれど、俺は黎さんと話すために戻ってきた。そのことを忘れるなと、手首の内側に強く輝やいている光の棒が、釘をさしている気がした。

「忘れようがないよ」

 砂浜でひとり苦く笑う。

 時帰り前には、今日の昼過ぎに、家の母から学校に電話があった。今回は、母が学校に連絡するよりも前にいったん帰宅し、もう一度、この浜に戻ってくるつもりだ。

 

(つづく)