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 病院からバスで大船駅に出て、まずは鎌倉駅に向かった。駅から若宮大路を通って海に出たあとは、砂浜沿いにゆっくりと歩く。

 夕日が、山の稜線に向かってゆるやかに落ちていく。視界のずっと向こうに、初心者にレッスンしている黎さんの姿が見えた。

 やたらと「フォー」と両手を上げて盛りあげるテンションの高いレッスンは、好き嫌いがはっきり分かれる。個人レッスンのリピーターは正直に言って少なめだけれど、コアなファンが多いのが黎さんだ。

 終わりまで、すこし離れたところにある流木に腰かけて待つことにした。

 海がやけにきれいに見えた。もう二度と見られないわけでもないのに。景色としてもっと美しい瞬間だっていくらでもあったはずなのに、今日がいちばん胸に迫ってくる。

 黎さんが波間で笑っているから? はじめてサーフィンをやる親子があんなにも楽しそうだから?

 贅沢なところで育ったんだな。

 見えるものすべてに、感謝の気持ちがわいてくる。世界は完璧で、どこにも破綻がないように思えた。

 やがて、レッスンを終えた黎さんが、水をしたたらせながら陸に上がってきた。この人が陸にいると、呼吸がすこし苦しそうだ。

「なんだよ、辛気くさい顔して」

 黎さんがぶるんと頭をふって、細かなしずくがあたりに散った。

「つめたっ」

「どうした、ウェットスーツに着替えてこいよ。夕方、軽く流しておいたほうがいいだろ?」

「いや、やめとく。決心が揺らぐから」

「ん?」

 首をかしげた黎さんのシルエットが、夕日を背に浮かび上がる。

「黎さん、俺──」

 何年も頭のなかで繰り返してきたセリフなのに、いざとなるとどうしても声にならなかった。

「なんだ、どうした?」

 おなじく流木に腰かけた黎さんが、すぐ隣から問いかけてくる。

「あ、わかった。ナーバスになってるんだろ? そんなのひと乗りしてくれば吹っ飛んじまうから、今すぐ着替えていってこい。トライアルだろうがなんだろうが、存在してるのは波と自分だけって感覚を思いだせるからさ」

「違うんだ、黎さん」

 波の打ち寄せる音が、胸の深い場所まで響く。いたたまれなくなって、立ちあがった。

「俺、あしたのトライアルには出ない。出られないんだ。傲慢かもだけど、今テストを受けたら、プロになれる可能性あるよね? そしたら、出られる大会の幅も広がって、またサーフィンが楽しくなって、その段階でやめるなんて絶対にできないからさ。

 だから俺、トライアルには出ないで、医者を目指すよ。心のどこかでずっと考えてたことなんだ。いつかはサーフィンから足洗って医者になるって。だから黎さんにはほんとに──」

 親父が倒れたことはあえて言わなかった。言い訳みたいになるのが嫌だったし、そんな話を聞かされて反対できる人なんていない。そんなずるい話し方をしたくなかった。それに、これは環境に左右されたわけではなく、あくまで俺の意思だけで決めたことだ。

「透、顔上げろ」

 一方的にまくしたてる俺の声を、黎さんがさえぎった。砂ばかり見つめていたことにようやく気がつき、ぐっと奥歯をくいしばって黎さんと目をあわせる。

 夕日が差しこんで、黎さんの瞳が茶色いビー玉みたいに透けていた。

「ごめん」

「え?」

 黎さんが、深く頭を下げた。肩まで伸びた髪からしたたる滴が砂に落ちて、一期一会の模様を描きだす。

「どうして黎さんが謝るのさ」

 ぱっと顔を上げた黎さんの目元が歪んでいた。

「俺、知ってたんだ。おまえのなかにずっと迷いがあったこと。それでも、どうしてもおまえのこと諦められなくて、無理に海に引きずりこもうとしてた。大人の俺のほうが手放してやらなくちゃいけなかったのに」

「そんなわけない。俺に気をつかわせないように、わざとそんなふうに言ってるんだろ」

 ぶはっと黎さんが噴きだす。

「ばか、買いかぶりすぎ。俺がそんなに大人じゃないの、知ってるだろ。見込みないやつにプロなんてすすめないから。おまえのほうがよっぽど大人だよ。ちゃんと家とこの先のこと考えて決めたんだろう。俺にはできなかったことをした男に、気をつかわせないようにとか、そんな失礼な態度とれないし、とりたくない」

 黎さんが、がばりと立ちあがった。

「よし、今からお祝いだ。ちょっと早いけど、成人祝いな」

「は?」

「男はな、自分の道を決めた瞬間に大人になるんだ。ほんとはいっしょに飲みたいくらいだけど、あいにくそれは許されないからコーラで乾杯しよう。まあ、俺は飲むけど」

 言うが早いか、黎さんはもうクラブハウスへと戻りはじめている。

 慌てて、日に焼けた背中を子犬みたいに追いかける。一生追いつける気がしない、広い広い、痩せて引き締まった後ろ姿に、今日、最後の日差しがひと筋かかっている。

 なにげなく目に入った光の棒は、かげろうの翅みたいに淡くなっていた。

 あ、と思った瞬間、意識が体から離れた。

 嘘だろ、まだここにいたい。黎さんと話したいことが山ほどあるのに。

「黎さんっ」

 届いてくれと願いながら、声を涸らす勢いで叫ぶ。

「さよならっ、さよなら黎さんっ。酒、飲み過ぎちゃダメだよ」

 黎さんは、おそらく海で研ぎ澄まされた第六感で、空を、俺のほうを振り仰いで目を細めた。

「ありがとうっ、黎さん」

 いまの自分がどんな次元の存在なのかよくわからないまま、淡い乳白色の光の空間を、どこまでものぼっていく。

 涙がとめどなくあふれだすのと同時に、あのあと、黎さんがおごってくれた海味のコーラの記憶が甦ってきた。時帰り前には存在しなかった、でも確かに、今の自分が体験してきた場面だ。

 さいしょは格好つけていた黎さんだけれど、酒が進むにつれてさめざめと泣きだした。

「考え直せ、考え直してくれよぉ。とりあえずトライアルに出てプロになって、それから決めたって遅くないだろぉぉぉ」

 クラブハウスで飲んでいたから、その情けない姿をほかのコーチたちに見つかり、俺にすがりつくのをどうにか引きはがしてもらった。

 それでも最後に別れるときには、ぐずぐずと洟をすすって笑っていた。

「いいか、堂々としてればいいんだ。二度と俺に謝るな。謝ったら許さねえ。あと俺が怪我したら、透が治療しろよ」

「俺、内科医になるんだけど」

「なんだよ、だいたいおなじだろ?」

 黎さんは、大ざっぱで情けなくてかっこいい、最高の師匠だった。

 

 すとん、と両足の裏にうねる地面を感じた。

 足もとはただの地面で、背の高い竹林に囲まれている。どうやら自分はもとの場所に帰ってきたらしい。そして、盛大にふらついている。

「大丈夫ですか」

 駆け寄ってきたのは、俺を送りだしてくれたあの神主だった。

「すいません、なんか眩暈がして」

「これをお飲みください。境内の湧き水です。そういう副作用に効くので」

 受け取ってひと口飲み、その甘さに驚く。つづけてごくごくと飲み干すとだいぶ酩酊感が消えてくれた。

「よろしければ、〈こよみ庵〉でお休みください。少し時帰りのこともお聞きしたいですし。あれ、なんだか時帰り前より、日に焼けてます?」

「ああ、そうでしょうね」

 手首をたしかめると、あの光の棒はきれいさっぱり消えている。

 すべてが夢だったような気がして竹林を振りかえると、波音に似た葉擦れの音だけが静かに響いていた。

 

〈こよみ庵〉に戻ってぼんやりと竹林を眺めていると、再び抹茶が目の前に置かれた。対面に腰掛けた神主が、さぐるような視線を向けてくる。

「あの、目力が強すぎてちょっと」

「はあ」

 今いちぴんと来ていないようだが、男の俺でも変な気分になりそうな美貌の持ち主である。

 動揺をごまかすために抹茶を飲んで、尋ねられた時帰りのことをぽつぽつと語ってきかせた。

 黎さんにきちんと伝えられたくだりまでくると、店の奥でひとり突っ伏していた巫女が、「よかったですねえ」と顔だけ上げて微笑んでくれた。

「後悔していませんか。時帰りしたこと」

「とんでもない。それどころか本当に感謝しています。まず、黎さんが病気になったとき、もう医者になっていた俺は思いきり治療の相談に乗れたんです。その結果、根治はできなかったけれど、あの人らしさを尊重した最善の治療ができたと思います。俺、あのときほど医者になってよかったって思ったことないです」

 時帰り前の黎さんは、ベルトコンベアー的な治療手順に乗せられ、きちんと選ぶこともできないまま、つらい治療を繰り返して弱っていったと聞いていた。

 最後の最後、病院にお見舞いにいった人の話によると、あれほど海で自在に躍動していた人が、もう歩くこともままならなかったそうだ。

 それもこれも、サーフィン関係の人たちとは連絡を絶っていたせいで、ずっとあとになって聞いた話だった。

 しかし俺が時帰りしたあとの黎さんは、自宅で緩和ケアをつづけた。ありがたいことに、そのケアも俺に任せてくれた。最後まで愚痴の吐きどおしだった黎さんらしい黎さんを、看取ることができたのだ。

 そのことが大きな転機となり、うちの医院は、地域のかかりつけ医という位置づけをさらに深化させて、訪問医療を積極的におこなうようになっている。

 しんどいことも多いけれど、医師として充実した日々だ。

「きっと、多くのご家族が救われているでしょうね」

 神主がほんの一瞬、痛みをこらえるような表情をみせた。

「あの、大丈夫ですか? どこか具合でも」

「はは、まるで問診のようですね。俺は大丈夫です。それより最後に、その日焼けの理由をお尋ねしても?」

「ああ、これですか」

 この神社を訪れたときはなまっちろい肌をしていた。焦げたように日焼けして過去から戻ってきたら、確かに気になるだろう。

「黎さんは俺に、たくさん贈り物をくれた人でした。そのお返しはほとんどできなかったけど、伏せってしまう前に、あの人の願いを叶えることはできたんです」

「にゃあん?」

 あの白猫がいつの間にか足もとにいて、小首をかしげた。ひざに乗ってきたのを撫でてやりながらつづける。

「俺、ずっと絶っていたサーフィンを黎さんといっしょに何度かやったんですよ。体調のよさそうな日を選んで、ふたりで海に出て。まるでイルカ時代の黎さんが戻ってきたような力強いライディングで。黎さん、楽しそうだったなあ。あれがきっかけで俺、少しの暇ができたらサーフィンしてるんです」

「なるほど、そういう事情でしたか」

 神主がかすかに口の端を上げてうなずいた。

 もう、サーフィンをやめようとは思わない。きっと、体の状態が許す限り、波に乗りつづける。なぜなら──。

「海にいると、黎さんをそばに感じるんです。下手くそって笑う声まで聞こえる気がして。俺、時帰りをして本当によかった。おふたりとここの神様には、こころから感謝してます」

 神主の口元がむずむずと動き、耳もとまで真っ赤に染まっていった。巫女は顔を上げて、ちんと洟をかんでいる。

「にゃあん、にゃあん」

 我も、我も、というように猫が鳴き、慌てて言い足した。

「そもそもおまえがここに連れてきてくれたおかげだよな。ありがとう」

 告げると白猫は満足したように、丸い目をゆっくりと細めた。

 

(つづく)