第五話 どんな道も
窓の外は、今年いちばんの寒波が押し寄せる冬本番。海からここ、一条神社の境内まで吹きあがってくる寒風に、青々とした竹たちも心なしか震えているようです。
私、猫のタマも冬毛に着替え終わり、よく食べて、春夏よりもすこしふっくらとしております。
こんな日、いまひとつ暖房の効きが悪い〈こよみ庵〉は、屋内にもかかわらずコートを一枚羽織ってちょうどいいくらいです。なんでも、デザインを優先して断熱材や窓のコストを下げたせいだとか。
窓際から離れた席に腰掛けているのは汀子です。先ほどから曾祖父である丈一郎の遺した日記と格闘していたのですが、今、すっくと立ち上がりました。
「タマ、お兄ちゃんのところにいこう。もうこれ以上読んでもわかんないしっ」
どうやら崩した筆文字があまりに難解で、とうとうくじけてしまったようです。しかし雅臣のところへいって、いったいなにをしようというのでしょう。
「こうなったら、直談判するしかないと思うんだよね。だってほら、タマのせいで、湧き水のところでなにをすればいいんだか、結局よくわからなかったし?」
「にゃあん」
そうなのです。掃除をよそおって雅臣の部屋に潜入し、一冊だけ欠けていた丈一郎の日記を見つけたまではよかったのですが、実は私の粗相によって、肝心な箇所に肉球形の墨跡がついてしまい、読めなくなっているのです。読める部分だけでは、どうやら聖神様に選ばれずとも時帰りができるらしいこと、そのためにはこの神社の敷地内にあるくだんの湧き水のところまでいき、なにかをする必要があるらしいということしかわからないのですよ。
あまりに丈一郎が相手をしてくれないものだから、腕に前脚をかけて注意をひこうとしたのです。ところが失敗して硯の墨汁に両前脚で着地してしまい、驚いてそこら中を走り回ってしまって。なんという若気の至りでしょう。
おや、汀子は鼻息も荒く、本拝殿の掃除にいそしむ雅臣のところへ向かうようです。後を追って援護してやらなければ。なにしろ、あの時帰りに慎重な雅臣が、大事な汀子を過去へとすんなりいかせるはずがありません。
当時の事情を大人の目線で理解しているのは、今となっては私のみ。しかも、知っていることの半分も伝えてやれない猫の身なれば、せめてこの美麗かつ神秘的な瞳をもってして、雅臣に訴えてやりたいのですよ。
残された唯一の希望は、妹である汀子の時帰りだということを。
「にゃあうぅ」
〈こよみ庵〉の外に出たとたん、冬風にさらされた毛が逆立ちました。
汀子のあとを追って、本拝殿へと駆け上がります。
例によって雅臣は、ちょうど賽銭箱の裏側を、それはもう丁寧に拭いているところでした。
「ええと、お兄ちゃんっていま時間あるかな」
「どうした? また今日も客がやってくるのか」
若干うんざりした様子ではありますが、雅臣も最近はそこまであからさまに拒絶感を示さないようになりました。これまで引き受けてきた数々の時帰りが笑顔に終わり、かたくなだった心もほんのすこし解れたようです。
これはチャンスですよ、汀子。うまくお願いすれば、あんがい快く引き受けてくれるかもしれません。
「ううん。今日は夢に誰かが現れるとかはなかったんだけどね。その、ちょっと話があるというか」
「またご祈祷にいってこいとか? 学費が足りないのか」
「学費はぎりぎりなんとか払えそうなんだけど、そうじゃなくて」
頑張ってくださいよ、汀子。ほら、勇気を出して。
「私も──」
「うん?」
「私も時帰りをしたいのっ」
汀子の叫びをぽかんとしたまま受けとった雅臣は、徐々に能面のような無表情へと変化していきました。
「聖神様に選ばれてもいないのに、時帰りできるわけがないだろう」
お腹のあたりで組んだ手の指を鳴らしながら、雅臣が呆れ顔をしてみせます。
「それはそうなんだけど、でも何事にも例外っていうものはあるでしょう。だからきっと存在するはずなんだよ、聖神様に選ばれなくも時帰りする方法が」
「あるわけがない。そんな方法があったら、とっくにご先祖様の誰かが大金持ちの連中を時帰りさせて、この神社をもっと立派にしたに決まってる」
雅臣が言い終えたとたん、本拝殿の庇からぶらさがっている大縄が、かすかに揺れはじめました。肉球の裏に、ほんのかすかな地鳴りまで伝わってきます。
「にゃっ」
雅臣、聖神様は地獄耳だと常日頃からあれほど言っているでしょう。
「お兄ちゃんって、嘘つくときはいつも指の骨をポキポキ鳴らしちゃう癖あるよね」
小指を小さくポキンと鳴らしたあと、雅臣が慌てて両手を後ろに組みました。しかし汀子の追及は止まりません。
「聖神様に選ばれなくても、どうにかして時帰りをしたんでしょう? 私、ちゃんと確認したんだよ──これでね」
汀子が丈一郎の日記を掲げてみせました。
「どうしてそれを」
さすがの雅臣も、これには動揺を隠せなかったようです。
「いや、おまえがそれを読めたはずがない。文系のくせに古典が苦手だったよな」
「古典っていうほど昔の文章じゃないし、ところどころは理解できたよ。少なくとも、自分の意思で時帰りができるっていうくだりはちゃんと読めたし」
力なく賽銭箱の前の階段に腰をおろすと、雅臣が大きなため息をつきました。
「いいか、選ばれてここに来る人たちは、必要に駆られてる人たちばかりだろ。でも、おまえは選ばれてない。それはその必要がないからってだけじゃない。おそらく、時帰りをしても状況をよくできないからだ」
切りつけるような雅臣の声に、汀子が一瞬、息を止めたのがわかりました。
「にゃあうぅぅぅ」
今のは少し言い過ぎですよ。
雅臣の膝に前脚をかけて抗議すると、ひょいと抱き上げられてしまいました。私の背をなでる大きな手のひらが、少し震えているのがわかります。鼓動も、常よりかなり速くなっていました。どうにかこの場を乗り切ろうとしているのでしょう。しかし、相手は汀子です。どう言い聞かせても、決意は固いようですよ。
「そうとは限らないじゃない。聖神様が本当に私の邪魔をしようと思ったら、もっと直接的な方法をとれたはずだもの。いつもみたいに地震を起こすなり、日記を隠すなり、どんなふうにも介入できるでしょう? でもそうはしなかった」
「それでも、選ばれてはない。ノーじゃないけど、イエスでもないってことだ」
「ノーじゃないなら、イエスでしょ。私なら、うまくやれる。お兄ちゃんが失敗したっていうなら、お兄ちゃんが時帰りして変えた過去を元に戻してくる」
「──おまえまさか、母さんが治療を受けていたころに戻るつもりか」
「だって、お兄ちゃんがお母さんの運命を変えちゃったんでしょ。だったらその運命を元通りにしてきてあげるって言ってるの。でもそれはね、過去を変えるためじゃなくて、私たちの今を変えるためだよ。もっと笑って暮らすために、いくの」
汀子の決意を聞いた雅臣は、雷にでも打たれたような顔をしております。気持ちはよくわかります。時帰りができるのは一生に一度きり。雅臣がどんなに願ってもやり直すことはできません。それを、妹が代わりにやってくれると言うのですから。
「いや、しかし」
うつむいた兄のそばにしゃがみこみ、汀子が力強くつづけました。
「ねえ、あるんでしょ。聖神様に選ばれてなくても時帰りする方法。私、ほんとにうまくやれる自信あるし、それにお父さんにも言いたいことあるし」
「──失敗するかもしれないんだぞ。おまえだけじゃなく、家族全員、もっと苦しむことになるかも」
「大丈夫、そんなことぜったいさせない」
ため息とともに、雅臣が告げます。
「そこまで言うなら、時帰りをさせてやる。ただし、条件がある」
雅臣の瞳が、ほの暗い光を宿しました。
「時帰りした俺が事故を防ごうとするのを、どうにかして邪魔してほしい。母さんを、楽に逝かせてやってくれ。まあ、そんなことおまえには無──」
「いいよ」
「は?」
「言ったでしょ、今を変えたいって。そのために必要なことなら私、やれるよ」
「おまえ──ばかなこと言うな。母さんを見殺しになんてどうせできないし、そんなことを妹に頼むほど俺は最低の人間じゃないつもりだ」
ふたりの母親である早紀は、雅臣の時帰りによって交通事故を免れ、その一年後、闘病生活を経て亡くなりました。つまり、過去を元に戻すということは、早紀を交通事故に遭わせるということなのです。しかし、このふたりは大きな誤解をしてもいます。そのことを、人の言葉で伝えられたらどんなにいいか。
「とにかく、時帰りのことはあきらめろ」
「いやだ。ぜったいにするっ。私だって、この目でお母さんを見たい。話だってしてみたいよ」
雅臣の瞳が大きく波打ち、ほんの一瞬、憐れみの光が顔をのぞかせました。
「どうなっても知らないからな」
のろのろと雅臣が立ちあがります。そのあとにつづく汀子には聞こえないほどの小さなつぶやきが、私の耳にはたしかに届きました。
たしかに、あのころしかおまえは──。
「いいのっ?」
「ああ。でも条件はさっきと同じだ。母さんを──事故で逝かせてやること。ただし向こうにいって、やっぱり無理だと思ったら」
「思ったら?」
「潔くあきらめろ」
「──」
汀子が口をへの字に引き結びます。この期に及んで、兄から信頼されていないことに失望しているのでしょう。しかしひと呼吸おいた汀子は、決然と兄を見据えました。
「わかった。私、やる。だから、私を過去に帰して」
いつしか境内を見下ろしていた空は分厚い雲に覆われ、ポツ、ポツと地面に黒い水玉模様が浮かびはじめました。
波乱の時帰りを暗示しているようで、いくら顔を洗っても落ち着きません。
先ほどの雅臣のつぶやきは、いったいどんな意味なのでしょう。
過去の私は、時帰りした汀子をうまく助けてやれるのでしょうか。
「降ってきたっ」
兄妹が雨漏りを受け止めるバケツをあちこちに配置し終えるのを待っていたように、雷をともなった大粒の雨が、土砂降りとなってこの頼りないお社に襲いかかりました。
*
冷えきった外気が骨身に染みる。
夜中の雨に洗われた空気は澄み渡り、空にはまだ星がまたたいている。夜でもなく朝でもない。どちらからもはずれたような不思議な空の下、薄い白装束に身を包み、湧き水を目指して歩いていく。
「それにしても、寒いぃ」
なぜよりによって、この季節を選んでしまったんだろう。せめて春先を待てばよかった。
懐中電灯で足もとを照らし、細い道を確かめながら進んでいく。幼いころから庭にして遊んでいた場所でも、この薄暗いなか歩くのは少し不気味だ。かすかな音にもビクつきながら目的地へと急いだ。
お兄ちゃんの説明が耳に甦ってくる。
「自分で時帰りをするためには、通常の儀式だけじゃ足りない。湧き水でお清めをする必要があるんだ。だからまず白装束に身を包んで湧き水のところまでいったら、柄杓に水を汲んで、体全体に打ちかけるように。お清めが不十分だと時帰りできないらしいから、全身くまなく水がかかるように気をつけろよ。戻って着替えたら本拝殿に来てくれ。時帰りの儀式をするから。まあ、おまえの気が変わらなければの話だけどな」
もちろん、私の決意は固い。
今回は私が時帰りをするため、儀式ではお兄ちゃんが祝詞を奏上し、同時に時帰りの舞も納める。お兄ちゃんのときは父が祝詞を上げたのかと尋ねたら、父にも内緒だったせいで、お兄ちゃんが祝詞、舞、時帰りのひとり三役をこなしたのだそうだ。まだ、小学三年生のころだったという。
「父さんに頼んでも反対されるってわかっていたから相談なんてしなかった。でも今思えば祝詞も舞も滅茶苦茶だったな」
淡々とした口調に、むしろ執念に近いような熱量がこもっていた。それでも私だって、お兄ちゃんに負けないだけの覚悟はあるつもりだ。
ゆっくりと進み、ようやく湧き水にたどりついた。普段からこのあたりの空気はひと際冷たいけれど、今は、尖って痛いほどだった。
「にゃあうぅぅ」
「あれ、タマ」
私より先に、なぜか心得たような顔でタマがちょこんと湧き水のそばにいた。
露出した岩肌から清水が湧きだし、天然の岩が水盆の役割を果たして受け止めている。水盆からは、湧き水が三本の筋となって落ち、下を流れる小川へと合流していた。
ここでなにをするのか、私が持ち出した日記帳の記録では詳しくはつかめなかった。けれどお兄ちゃんは、酔った父が過去に漏らしたのを聞いたらしい。神主には代々、口伝されてきたのだそうだ。
「さ、お清めをするからね」
タマに宣言し、水盆のふちに置いてあった柄杓を手にとって器いっぱいにすくった。
外気はすでに零度を下回っている。下手をしたら時帰りの前に凍え死ぬんじゃないだろうか。なにしろこのお清めは、全身がしっかりと濡れるまで行う必要があるというのだ。
意を決して、すくった水を肩からかけた。
「つっっっっめたぁ」
「にゃぁっ」
タマもなぜか、追いかけるように鳴く。
しかし柄杓の水一杯では、白装束は三分の一も濡れていない。もう一度、同じ動作を繰りかえした。
「きゃぁ」「にゃぁっ」「もう一回っ、きゃぁ」「にゃにゃぁっ」
何度か繰り返し、もはや肌の感覚もなくなりかけたころ、ようやく布全体が湧き水に濡れて重くなっていた。
「さ、さすがにもう大丈夫だよね」
離れていればいいのに、タマもそばにいたせいで綿のような毛が重くつぶれ、水をしたたらせている。
クシャミをひとつしたあと、薄暗い竹林を横切ってひとりと一匹、身を震わせながら小走りになって家まで戻った。着替えを済ませ、ドライヤーでタマを乾かして血の気の抜けていた鼻をピンクに戻し、私も紫の唇をもと通りにして、ようやく明るくなりはじめた空をぼんやりと眺める。
「そろそろ約束の時間だね」
ふわふわになったタマを抱いて暖をとりつつ、本拝殿へと向かった。
そこにはすでに、神楽用の装束に身を包んだお兄ちゃんが待っていた。
「本当にいくのか」
「うん」
靴を脱いで本拝殿に正座し、榊で両肩を祓ってもらう。
「たぶんおまえは、なにもできないし、する必要もない」
「え?」
言葉とは裏腹に、珍しく気遣うようなお兄ちゃんの表情に、心の奥がざらりとこすれる。
まあ、お兄ちゃんがなんと言おうと、私には考えがある。私は私の時帰りをするのだ。
タマが背中にすりすりと身をよせ、離れていった。
「それじゃ、今から儀式をはじめる」
体の向きを変えて、竹林と向かい合う。
いつもは誰かが吸いこまれていくあの場所に今日は自分がいくのだと思うと、鼓動が痛いほど強く打った。
お兄ちゃんの祝詞が周囲の空気を震わせ、鈴の音が広がっていく。ビリビリと頬に刺激が走る。湧き水のあたりみたいに、お社周辺の空気が研ぎ澄まされていくのがわかった。
高く、低く、祝詞が響く。そっと後ろを振りかえれば、お兄ちゃんが力強く舞っていた。滅茶苦茶だったという少年のころのつたなさなどまったく感じられず、むしろ儀式のたびに舞っていたかのように所作がしなやかだ。すっと伸びた眉のした、切れ長の瞳は深く澄んで聖神様の眷属かと見まごう神聖さを放っている。長い手足が動くたびに、祝福を宿した光がキラキラと乱反射しながら散るようだった。
「やるじゃない。お兄ちゃん」
もはや嫉妬さえ覚えるような美しさに、思わず独りごちる。
感心したすぐあとで、少し間違えて舞っていたけれど、まあこれくらいは見逃してもらえる──のかな。動揺したのか、つづく祝詞も噛んでいて少し不安になった。
それでも、空気がまた一段澄んだ気がして視線を竹林へと戻すと、視界の奥に小さな光が湧き水のようにこぼれだしていた。
それがなんなのか深く考えるにはあまりに見慣れすぎていた。にもかかわらず、奇跡の御業に心が震える。
手首にも、これまで聞いたことしかなかった光の棒が二本、くっきりと現れていた。
とうとう私の番なんだ。与えられた時間は、二日間。本当にこれから私は──。
あれほど人を送ったのに、緊張で、つぎになにをすればいいのか一瞬わからなくなった。お兄ちゃんの祝詞に耳を澄ましてどうにか落ち着きを取りもどし、靴を履いて光の根源へと向かっていく。小径の入口まではタマが付き添ってくれたけれど、その先へは入ってこない。ここからは、私ひとりなのだろう。
一歩を踏みだすたびに、足がガクガクとぶれた。
ついさっきまで手の平に載せられそうだった小さな光は、もはやこの空間まるごと呑みこめるほど範囲を広げ、気がつけば竹林も溶かされたように見えなくなっている。
「え、うわっ」
何歩目かで足の裏が空を切り、光のなかをどこまでも落ちはじめたのがわかった。
──過去、現在、未来を表しています。
秋にやってきた中学生に兄が説明する声が甦る。
私の体は小さくなって、過去を表す滝の中を落ちている。
そんな馬鹿げた妄想もまんざらはずれていないような気になるほど、現実離れした状態にいる。
ふわり、ふわり、体が落ちる。過去へ向かって落ちる。
いつまでつづくのか不安になるほど時間が経った気がするのに、まだまだ落ちて、落ちて、まばたきをしたつぎの瞬間、どこかの天井を見上げていた。