抹茶処は〈こよみ庵〉というらしい。和モダンという言葉がぴったりの建物があまりにも拝殿と対照的である。戸を引いて店内に足を踏み入れると、先ほどの少女がすぐにカウンターの向こうから顔を出した。
「好きな席を選んでお座りくださいね」
「にゃあ」
相槌のような鳴き声に驚いて店内を見回すと、ここまで連れてきてくれた白猫が、カウンター近くの椅子の上で、体をのばして休んでいた。
「おまえ、ここの猫だったの」
「そうなんです。タマって言います。私は巫女をしている若宮汀子です。お客様のお名前は──?」
「あ、ええと池内穂香です」
勢いで答えてしまったけれど、参拝客の名前など、なんのために聞いてきたのだろう。単に会話の糸口が欲しかっただけだろうか。
「穂香さんって言うんですね。いいなあ、すごくかわいいお名前で。私なんて汀子だから、なんとなく古めかしくて」
シャカシャカとお茶を点てながら、巫女さんが口を尖らせる。しかしわたしに言わせれば、彼女のまとう浮世離れした空気にぴったりの名前に思えた。
やがて抹茶とお茶請けが運ばれてきた。メニューはこの『抹茶セット』ひとつで千八百円らしい。しっかり観光地価格である。
「今日の和菓子は水まんじゅうです。中はいちご餡でさっぱり召し上がれますよ」
「ありがとうございます」
それにしても竹林が名物というだけあって、圧巻の眺めだった。この景色をひとり占めしながらお抹茶をいただけるなら、このお茶代も高くないかもしれない。
「今日はどうしてうちにいらしてくださったんですか?」
気がつけばそばの椅子に腰かけて、巫女さんがこちらを見つめていた。
「偶然、SNSを見かけてなんとなく行ってみようかなって」
「なるほど。そんなふうに無自覚でいるときって、かえって自分に必要な道を選びやすいのかもしれないですね」
「はい?」
「穂香さん、今日はここの御祭神である聖神様に呼ばれていらっしゃったんです。ということは、なにか後悔していることがおありですよね」
驚きのあまり、動けなくなった。神様に呼ばれてきたとは、どういう意味だろう。そういえばハッシュタグでは後悔から立ち直れるとかなんとか書いてあったが、なにか関係があるのだろうか。
私の疑問をすくいとったように、巫女が告げてきた。
「驚かずに聞いていただきたいのですが、この一条神社では、神様に選ばれた参拝客が過去の望む地点まで戻れるんです。私たちはこの奇跡の御業を“時帰り”と呼んでいます」
「──はあ、って、ええ!?」
大真面目に話す巫女には悪いが、とても正気で話しているとは思えない。SFか、あるいは宗教か。いずれにしても、早々にここから抜け出さなくては。
「あ、その目、信じてないですね? わかります。最初から信じてくださったお客様はほぼゼロですから。でも、信じる信じないは別にして、なにかしらの後悔は抱えていらっしゃいますよね」
「それはまあ。でもみんな、そんなものじゃないですかね」
巫女に向き合っていた上半身を少しずつもとの向きへと戻し、そっとバッグの取っ手に手をかけた。
「お会計、お願いできますか」
「え、待ってください、もう少しちゃんと時帰りについて説明させてください」
「いえ、もうほんとに、大丈夫ですから。お会計をして帰ります。息子も学校から戻りますし」
「あ、お子さんが」
それまで強引だった巫女が、しゅんと萎れたようになる。
「帰ってきたとき、お母さんがいないとがっかりしちゃいますもんね。お宅は遠いんですか」
「ええ、ここからだとそれなりに時間がかかるので」
嘘だ。本当は一時間もあれば戻れるから、ランチでもして帰るつもりだ。
ほとんど涙目でレシートを渡され、現金しか受け付けていないというので財布を取り出して支払った。引き留めたいのをこらえているらしい彼女をおいていくのはなんだか気の毒な気もしたが、同情心を振りきって出口へと向かい、引き戸を勢いよく開けた。
驚くほど軽く開いてバランスを崩した体を、向こうに立っていた誰かが「おっと」と支えてくれる。
「す、すみません」
どうやら私を支えてくれたこの人物と、同時に引き戸を開けてしまったらしい。
慌てて人物を見上げ、つぎの瞬間、声を失ってしまった。写真で見た神主である。
ああ、神様、こんなにも美しい人物をおつくりくださってありがとうございます。
少女のころから見目のいい男性に弱い。恋愛対象としてどうこうというよりも、アイドルを愛でる気持ちだ。ただしそんな相手は、これまでの人生で画面の向こうかコンサート会場の遠く離れたステージ上にしか見たことがなかったのに、まさかこの寂れた神社で、すぐ間近で拝む幸運に恵まれるとは。袴姿がまた、男性のもつ妖艶さをいちだんと引き出している。
「あの? お帰りはあちらですけど」
ぽうっと立ち尽くしていた私に、男性が怪訝な表情で告げた。
「あ、いえ、実は──時帰りでしたっけ? その話、もっとくわしく聞かせてください」
われながらあきれるほど態度を一変させて店のほうを振り返ると、巫女さんが心得た様子でうなずいたのだった。
「こちら、兄で神主の若宮雅臣です。お兄ちゃん、この方が今日のお客様の穂香さん。お子さんが学校から帰ってくる前にここを出たいそうだから、早く時帰りして差し上げましょう」
早口で告げる巫女さんに、神主は涼やかな目元をかすかに歪めた。
「それならまた今度、時間に余裕があるときにいらっしゃったらいかがですか」
「お、に、い、ちゃ、ん」
この見た目でこの素っ気なさ。さぞたくさんの女性たちを泣かせてきたに違いない。嫌味な口調でもニコニコとしている見知らぬ女を、神主は忌々しげに見かえした。
「お兄ちゃんのことは気にせず。穂香さんの後悔を聞かせてください。聖神様が、きっとご希望の過去に時帰りさせてくださいますから。ね?」
時帰りとやらの信憑性についてはさておき、わたしは話すことにした。みずからのいたらない育児について、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「息子がいるって、さっき汀子さんにはお伝えしましたよね。いま二年生のやんちゃざかりの子です。宿題をいっしょにやってるんですけど、まず椅子に座らせるだけで苦労しているんです」
「元気なお子さんなんですね」
「ええ。こちらは三十代後半なので、もう体力の限界を感じることも多いくらい。走られたら追いつけなくって困ってます」
しかめ面だった神主が、一瞬、なにかを懐かしむように目を細めてみせた。
「でもまあ、息子がちょっと大きくなってきてこちらの事情も理解してくれるようになったことに甘えてたんでしょうね。ちょうど一週間前の夜に、すっごくイライラして怒っちゃって。それ以来、息子がどこかわたしに壁をつくってる気がするんです」
「そんな──気にしすぎな気もしますけど。でも、聖神様がお選びになったということは、やはり時帰りすべきだってことなのでしょうね」
「いや、親子なんだし、話し合えばいいだけでは?」
言い終えたとたん、神主が端整な顔を歪めた。どうやら妹に足のすねでも蹴られたらしい。同時に、なにか地鳴りのような音とともに店の床が振動しはじめた。
「ほら、お兄ちゃんっ。もう、ちゃんとしてよ」
「わかったよ。やればいいんだろう、やれば」
兄の投げやりな態度を、妹がすまなそうな表情だけで詫びる。
「今の地鳴り、大丈夫ですかね。地震の兆候とか?」
「いえ、これは、聖神様の警告というか、たたりというか。でも地鳴りくらいなら軽いほうです。兄が時帰りの儀式をあまりにもやりたがらないと、本拝殿に雷を落としたり、しめ縄が切れちゃったり、もうさんざんで」
「えぇ?」
それで本殿が、あのような無残な姿になったのだろうか。
「でも大丈夫です。兄の腕は確かなので。ね、穂香さんに、時帰りの儀式をしてさしあげるよね」
「まあ、今回は些細な問題みたいですし、ご協力いたします。ただし、時帰りできるのは人生で一度きりです。そのチャンスを、今回使ってもいいですか」
「わたしにとっては、その価値があります」
どうせ、実際に昨日に戻れるわけではないのでしょう?
儀式といっても、おそらく過去の振り返りだろう。話を聴いてもらって、最後にご祈祷かなにかで清めの儀式でもして締めくくり、といったところだろうか。
それでもいい、すっきりした気持ちでまた息子と向き合えるのならば。
「ちなみに、おいくらですか」
「それはもちろん無料です。うちの御祭神って少し潔癖なところがあるらしくて。あまり金銭の要求を好まないようなんですよね。でももしよろしかったら、お帰りの際にお賽銭でもはずんでいただけたら」
「わかりました」
そんなことを言っても、結局は高額な商品を売りつけられるか、なにかしらの請求をされるのかもしれないが、そのときは絶対に断ろう。まあ、神主の鑑賞料としてお賽銭を多めにするくらいはしてもいいけれど。
神主がすっと立ち上がった。
「儀式は、本拝殿でおこないます。俺の祝詞と汀子の舞が主な内容ですが、ほかにご注意いただく点もあるので、くわしくはのちほど。では、俺は準備がありますので」
立ち上がった神主におそるおそる尋ねる。
「あのう、本拝殿ってあっちの建物ですよね」
「ええ、なにか問題でも?」
「いえ」
問題だらけだが、とても指摘する勇気は出ない。
さっと立ち上がった神主は、ほの暗く光る瞳でこちらを一瞥すると店から出ていった。
神主に見とれているうちに、よく吟味する間もなく、時帰りとやらをすることになってしまった。
気がつけば尋ねられるままに帰りたい日付けを告げ、本拝殿に正座している。
「先ほど申し上げた儀式ですが、はじまるとあなたの手首のどちらかに、光の棒のようなものが浮き出るはずです。一本で一日、半分で半日。時間を消費すると、光はどんどん薄くなっていき、見えなくなったら現在へ帰るときが来たということです。
その棒が現れたのを確認したら背後の竹林を見てみてください。向こうのほうが白く光っているはずです。そしたら、そちらに向かって歩いていってください。光の先が、望んでいる過去の世界です。何か不明な点は?」
「──全部ですね」
「なるほど、では実際にやってみたほうが早いかと」
「ええと、スパルタすぎません?」
そもそも、カウンセリングはどうしたのだ。光の柱だの竹林の向こうだの、この人はなにを言っているのだろう。これではまるで、本当に過去の世界に帰るみたいだ。
「注意点としては、時帰りしても、過去の大きな出来事は変えられないということです。特に人の生死に関わることや、重要な試合の勝敗を左右したりはできません。もし無理矢理に介入すると、今より状況が悪くなる可能性もあるので、くれぐれも注意してください。まあ、親子ゲンカを食い止めるくらいだったら、問題はないかと思いますが。それと、過去で何日過ごしても、こちらの世界ではせいぜい一、二時間です。安心してお出かけください。それでは、竹林のほうを向いて座ってください」
情報を処理しきれずに固まっているうちに、否応なしに儀式がはじまっていく。
榊で清められ、祝詞の声を聞いたとたん、胸がすっと晴れていくような清々しさを感じた。意外なほど澄んだ神主の声があたりの空気を震わせ、見えない波紋を広げていくのが感じられる。やがて、祝詞に鈴の音が混じりはじめた。好奇心に抗えずに振りかえると、神楽用の衣装に着替えた先ほどの巫女が、鈴を打ち鳴らして舞っている。女性から見てもドキリとする妖しさがあり、時帰りのことなど忘れて見とれてしまった。
そのうち目が合ってしまい、竹林へ向き直るよう流し目でうながされた。
慌てて体の向きを変え、「あ」と小さな声が出る。
竹林の奥から、小さな光が漏れでているのが見えたのだ。奥のほうが、まるで小さな太陽でも存在しているかのように輝いている。光はじょじょに大きくなり、やがて竹林の奥いっぱいに広がっていった。
両腕を出してみると、手首の内がわ、ちょうど脈のそばに一本の光の棒がのびている。 ひときわ鈴が大きく打ち鳴らされ、振り返ると、励ますように巫女がうなずいていた。
そうだ、あの子を傷つけないチャンスを、ありえないはずのチャンスをもらったのかもしれない。
立ちあがり、痛いほど激しく打ちはじめた心臓のあたりを手の平でぐっと押さえながら靴をはいた。一歩、また一歩、竹林へと近づき、小径をたどっていく。
この先に進めば、もう、あの子を傷つけなくてすむの?
さらに一歩踏み出したとき、足が空を踏み、体ごと光のなかへと放り出された。
下へ、下へ、空気のうなり声を聞きながら何も見えない光の空間を落ちていく。
本当に、時帰りなんてできるのだろうか。もしかして、あの抹茶に薬でも盛られて身ぐるみを剥がされている最中なのかもしれない。あの神社、お金がまったくなさそうだったし。
にわかに不安になってきたとき、足の裏があっけなく地面を踏んだ。
「え? え?」
見回せば、行きつけにしている近所のスーパーのなかだった。手首を見ると、光の棒がさきほどと同じように見える。スマホで日付を確認したところ、確かに神主に伝えた一週間前のようだ。
「嘘でしょう」
それでも、周囲に広がるのはまぎれもなく現実だという確信がしだいに強くなっていった。
「わたし、ほんとに時帰りとかいうのをしちゃったんだよね?」
だとしたら、やることはひとつだ。息子の有樹を、理不尽に怒らないこと。もちろん、悪いことは注意するけれど、あんなふうに頭ごなしに怒ったりせずにおだやかに叱って、一日を終えることだ。
今日は、好物のシチューにしてあげようか。
決意したつぎの瞬間だった。男の子が、こちらへと突進してくるのが見えた。
「えぇ?」
避けなくてはと思うのに、足が動かない。子どもはよそ見をしながら走っており、わたしの姿など目に入っていないようだった。
ああ、ダメだ──目を閉じてすぐに、全身に衝撃が走る。
「うっ、いってぇ。なんでどかないんだよっ」
そういえば、時帰りする前もこのスーパーの別の場所でおなじ子どもにぶつかられたことを思いだす。
ああ、この感触に、匂いもおんなじ。
びしょ濡れにされてしまったシャツからは、炭酸飲料の甘い匂いが立ちのぼってくる。同時にこの子の親のとんでもない言いがかりが耳の奥で甦ってきて、不快な気持ちになった。
五感を刺激され、本当に時帰りしてしまったのだと認めざるをえなくなった。
それにしても、せっかくの時帰りなのに、二度目ものっけからこんな事件に巻きこまれるとは。大きな出来事を変えることはできないと聞いたが、このくらいは回避させてくれてもいいのにと、時帰りを許してくれた神様がうらめしくなる。
いけない。せっかく過去に来られたのだ。もうそう信じるしかないほどすべてがリアルだ。気持ちを切り替えて息子と接しなければ。
ただの夢なら、目覚めたときに自分を笑えば済む。
前回とは異なり、せめて相手の親に会うのだけは避けようと、粗相をした子どもを黙っていかせた。わたしも急いで会計を済ませ、マンションへと向かう。
スマートフォンの時刻は夕方五時五十分。あと十分で有樹が学童クラブから帰ってくる。
今日は、有樹とシチューを囲んで楽しく夕食をいただく。そして事情も聞かずに怒ったりしない。そのためには、ジュースをこぼされたことも、本来上がってくるはずだった原稿が大幅におくれたせいでほかの原稿の作業と重なってしまったことも、さらに、少しくせのある作家に粗相をしてしまった後輩の尻拭いをして自分の仕事は持ち帰る羽目になったことも、夫がこんなときに限って出張でまるまる一週間いないことも、賢者の心で受け止めよう。すべてが重なった疲れも、子どもには見せず、むしろこの状況に舌をだして笑ってやるのだ。息子を笑顔で寝かしつけたあと、こんな夜でも楽しんでやったぜという心持ちで眠りにつきたい。
あらためて心に決め、家路をたどる足を速めた。