翌日、目覚めると早朝だった。
きのう家に帰ってすぐに風呂で体を洗われ、幼児用の腰が高い椅子に座らされてスプーンを持ったところまでは覚えているけれど、おそらくそのあとで寝落ちしてしまったのだろう。どうやら父か母が、ふとんまで運んでくれたらしかった。
手の内側を確認すると、三本あった光の棒はもう二本に減っている。
「きょうは土曜日か」
父や母と寝起きしている寝室にはカレンダーがかけてあり、幼稚園や習い事の予定が書きこんであった。
あしたは祝日で三連休の真ん中の日だ。幼稚園がないのは正直に言って助かった。
ビッケは、どうしているだろう。もう、あのおねえさんと打ち解けただろうか。あんなにいい人だし、きっとビッケも今ごろは──。ダメだ、昨日からおなじようなことばかり考えてしまう。
起きあがってリビングに顔を出した。
「おはよう。なぎ君、よく起きたね。きのうは疲れてるみたいだったから、もっと遅くに起きてくるかと思ったのに」
「いまなんじ?」
「七時だよ。おなか空いた?」
言われてみれば、腹ぺこだった。母が、手早く朝食の準備をしてくれる。父はまだ寝ているようだった。
懐かしい家族の時間だけれど、なにかが足りない。理由は考えなくてもわかっているから気づかないふりをして、無邪気を装って父を起こしに向かった。
「パパ~、パパ? あさだよ、おきて。ごはんたべてあそびにいこう」
「──うぅ」
ゆっくり寝ている父を起こすのは気が咎めるけれど、この家にいるとビッケと遊んだ思い出ばかりが甦ってきそうでつらい。なるべく早く出かけたかった。
父が目をしばしばさせて、ベッドから身を起こした。
「わかった。そのかわり今日は、お昼ごはん前にはおうちに帰るって約束できるか」
「うん、できる」
調子よく返事をしたぼくを、父が疑わしげに見つめかえす。
「よし、じゃあパパと出かけよう」
「やったぁ」
喜んでみせたあとでさっそく支度を済ませ、父を急かして玄関の外に出た。
「今日はきのうよりもっと暖かいし、坂下公園にでも行こうか」
「いいよ」
海に面した坂下公園は最寄り駅から二駅で、薔薇の咲き乱れる庭園や広い芝生広場、大型の遊具が充実している人気の場所だ。
なにかが頭の片隅で引っかかったけれど、むかし大好きだった場所だし、出かければ少しは気が紛れるかもしれないと素直にうなずいてしまった。
胸騒ぎの正体に気がついたのは、公園に到着してからだった。
そういえばここには、ビッケが大好きだったドッグランがある。
「よし、ワンちゃんたちでも見ようか。それともまずは遊具で遊ぶか」
「ドッグランはいやだ。はやくゆうぐのとこにいこう」
答えたのに、そうもいかなくなった。急にトイレに行きたくなったのだ。
膀胱が未発達なせいか、尿意はなんの予兆もなく襲いかかってきた。待ったなしの緊急事態に、屈辱的ながら小さな体をくねらせて対抗するしかない。
「なぎ君、トイレだな? いちばん近いとこまでパパが連れていくからなっ」
言うがはやいか父はぼくを抱きかかえ、ドッグランの方向へと走りだした。
「パパ、ダメ。そっちはいや」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
声が焦っている。ぼくも手の平に冷や汗をかいていた。
まさかこんな目に遭うなんて──。
「なぎ君、ついたぞっ! さあ、思う存分しっしだっ」
「うう」
父にズボンを勢いよく下ろされ、半泣きになりながら用を足した。中三のプライドがもはやボロボロだ。しかし、悲劇はそれで終わりではなかった。
新たに刻まれた黒歴史にどうにか打ち勝って、気を取り直してトイレを出たときだ。ぼくの耳に、あの鳴き声が飛びこんできたのだ。
「キャンッ、キャンッ」
あ、と思ったときにはもう、見慣れた毛玉が腕のなかに転がりこんでしまっていた。リードが首輪につきっぱなしだから、飼い主の隙を突いて走ってきたのだろう。きのうと同じく、クゥクゥと鼻づらをぼくの胸に押しつけ、まん丸の澄んだ瞳で見上げてくる。
「おまえ、まさかまた逃げてきたのか」
冷たく拒絶しなくちゃいけないのに、どうしても押しやれない。
「あれ、そのワンちゃん、きのうの子かな?」
「うん」
のぞきこむためにしゃがんだ父にも愛想を振りまくつもりか、ビッケは小さなしっぽを懸命に振ってみせた。
「チビ~、チビちゃ~ん」
遠くから声が聞こえてきた。きっとあのおねえさんだ。
「おまえ、チビっていう名前をもらったんだな」
ビッケを抱く腕から、力が抜けていく。
ビッケはもう存在しない。正真正銘、どこにもいなくなってしまったのだ。
あの神主さんは、確かこう言っていた。
「いいですか、時帰りをして過去が変わってしまったら、変わる前の記憶は徐々に薄れて忘れてしまいます。そのことをよく考えて行動してくださいね」
つまり時帰りが終わったあと、ぼくはビッケのことを忘れる。この小さなかわいい毛玉時代のことも、ほっぺに白髪がまじった渋い顔も忘れる。なにより、ビッケもぼくのことを忘れ、チビとして生きていく。
ギュッと目を閉じると、ビッケが息を引き取った夜の記憶が頭をよぎった。シニアの入口とはいえ、まだまだ元気に生きられるはずの年齢で心臓病を患ったビッケは、徐々に弱っていき、あんなに好きだった散歩も気怠げになり、終わりのほうは、ほとんど動けない日々がつづいていた。
あの日、胸騒ぎがしたぼくは部活を休み、塾もさぼって家に帰った。ちょうど父も母も不在で、ビッケは暗いリビングでいつにも増してぐったりとしていた。
──いやだ、もう思い出したくない。あの日のことは。
手を振る父に気づいてやってきたおねえさんに、ビッケをやや乱暴に押しつける。
「ありがとうございます──ってあれ、また君だったの? チビったら、よっぽど君のことが気に入ったんだね」
ビッケを地面に降ろすと、おねえさんが苦笑いしている。リードをしっかりと握りしめていた。
「うちの家族にはまだ心を開いてくれないの。昨日、家に戻ってからも元気がなくてね。もとの飼い主さんに相談したら、もう予防接種も済んでるからってここのことを勧められて連れてきたんだけど、着いたとたんにリードつけたまま走りだしちゃって。きっと君のにおい、覚えてたんだね」
「ははは、こんなに動物に好かれるなんて初めてだよなあ、なぎ君。少しこの子がドッグランで遊ぶの、見学させてもらおうか」
「それなら、なぎ君もいっしょに遊ばない?」
無邪気に笑うおねえさんを恨めしく思いながらも、ぼくはビッケと遊ぶという誘惑に打ち勝てなかった。
そんなことをしたら、きっと別れるときにつらい。それでも、遊ぶ以外の選択肢なんて一瞬で消え去ってしまった。
「わかった。おねえちゃん、行こう。パパはきちゃダメ。ドッグランのそとでみてて」
「はは、わかったよ」
おねえさんにリードを譲ってもらって、ビッケをひいていく。大はしゃぎのビッケは、ボールみたいにぴょんぴょん弾んで、地面より空に浮いているほうが長いくらいだ。
「おねえちゃん、なにかオモチャある?」
ドッグランのなかに入ったぼくは、足元でじゃれつくビッケの耳の後ろを掻いてやりながら尋ねた。
「うん。これ、適当に見つくろってみたんだけど」
差し出されたエコバッグのなかをのぞきこんで、う~んとうなってしまった。どれもポピュラーなオモチャなのだが、あいにくビッケの好みのものがない。
ただ、自信たっぷりに伝えるのもおかしいから、言い方に気を遣う必要がありそうだった。
「おねえちゃん、ここであそんでるワンちゃんたちは、もっとアカとかキイロのオモチャがすきみたいだよ。あと、ボールをなげてとってくるあそびとか、フリスビーもよくやってるよ」
「へえ、ぼく、くわしいねえ。まえにほかのワンちゃんを飼ってたの?」
「ああ──ううん。でも、ワンちゃんすきだから。ここにはワンちゃんがいっぱいだから、よくみにきてる」
「そっか。今日は、あんまり気に入るオモチャがなかったね。教えてくれてありがと。うちの家族もワンちゃんと暮らすのは初めてなの。広いおうちに引っ越したから、ワンちゃんと暮らしたいなって思って、いろいろ落ち着くまで待ってもらってからお迎えしたんだけど全然慣れてくれなくて。もう少し小さいころから暮らしたほうがよかったかなあ」
「ぼくがあそびかたおしえてあげるからだいじょうぶ。ワンちゃん、おいかけっこもだいすきだよ。ほら、おいでっ」
声をかけるが早いか、ビッケがぼくを追ってきた。
子どもの体だと、いくら本気で駆けたってビッケならすぐに追い抜けるはずだ。にもかかわらず、ビッケはそうしなかった。いつもみたいに、耳を風になびかせて、すぐ脇を寄りそうように走ってくれた。
芝生の緑がじんわりとにじんでいく。
ごしごしと腕で乱暴に目もとをこすり、フェイントをかけて反対側へと駆ける。笑顔のビッケが、はずむようにしてすぐに追いつく。
喉が焼けるようになるまで走り、最後は足をもつらせて、ビッケと芝生に転がった。はっはっと荒い息を吐きながら、ビッケがぼくのほおを心配そうに舐めまわす。
「こら、チビ。ダメだよ」
「だいじょうぶだよ、おねえちゃん」
「でも──」
「ほんとにだいじょうぶ」
上半身だけ起きあがると、ビッケが膝にのってきて欠伸をした。ぼくもつられて大欠伸をしてしまった。どうやらお互い、エネルギーがゼロになるまで走り回ってしまったらしい。昔のぼくは、どうしてこんなにコントロールが効かないんだろう。ひとりと一匹で遊ぶのが、どうしてこんなに幸せなんだろう。
これ以上ビッケといたら、本当に離れがたくなる。
ぼくは、おねえさんに早口で告げた。
「おねえちゃん、チビ、げんきがないんでしょう? いっぴきだとさみしくてよくねむれないのかも。だってぼくもひとりだとねむれないし。あと、おやつはお肉とかクッキーがいいとおもう。にんげんのごはんはあげちゃダメなんだって。それから──それから、おねえちゃんがいまよりいそがしくなっても、ちゃんとじかんをつくってチビとあそんで」
この年頃にしてはあまりにも口うるさかったかもしれないけれど、どうしても伝えておきたかったのだ。
「ぜったい、ぜったいやくそくだよ?」
「う、うん」
おねえさんは少し面食らっていたようだったけれど、うなずいてくれた。
「それじゃあねっ」
「え、待って」
ビッケをおねえさんの腕のなかにそっと預けると、ぼくは一度も振りかえらずに父に向かって駆けだした。
帰宅してすぐに父と入浴し、きのうと同じくまだ夕方だというのに夜ごはんを食べ、早々にふとんに入らされた。時間を無駄にできないと思うのに、ほかほかと暖かなふとんにくるまれているうちに、まぶたが重くなってくるから不思議だ。
どうにか手首の内側を確認すると、二本目の光もずいぶんと薄くなっていた。無事に二日目が終わるのだ。おそらく三日目も、多少の波乱はありつつも、こうして過ぎていき、ぼくは未来に帰ることになるのだろう。
時帰りに三日間も猶予が与えられたのはおまけみたいなもので、ぼくがビッケへの未練を断ち切るための猶予期間なのかもしれない。
たった三日間。それでも、子犬時代のビッケはぼくの胸がぐちゃぐちゃにかき乱されるほどかわいらしかった。
おたがいにこんなに小さなころからいっしょに育って大きくなったんだ。転げまわって遊んで、ときどきケンカをして、ぼくが落ちこんでいるときは黙って寄りそってくれた。朝起きたらすぐ隣にビッケがいて、夜寝るときはビッケの体温と鼓動を感じていた。どんなときも、そばにいてくれた。たったひとりのきょうだい、それとも親友。いいや、ぼくの片割れ、ぼくのこころの一部分だ。ビッケを失ってから自分の一部分も欠けて、ぼくは不完全な存在になってしまった。
ダメだ。未練をなくすはずが、ビッケの存在の大きさを思い知るだけの時間になってしまう。
ぎゅっと目をつむって、羊の数を数えた。
そう疲れているつもりもなかったけれど、やはり眠気はたやすく訪れて、すぐに意識を手放すことになった。
目を開いたとき、まだ夢のなかにいるのだと思った。
部屋は街明かりのせいで真っ暗ではなかったけれど、夜だとわかる。
どこか遠くで、犬の鳴き声がしていた。
「うう~ん」
寝返りをうって、ふたたびまどろみのなかに帰ろうとした。しかし、いったん浮上しかけた意識は徐々に力を取りもどし、今度こそぱっと目が冴えてしまった。すぐ隣では、父と母がぐっすりと眠りこけている。
「夢じゃなかった?」
跳ね起きて、あたりの物音に耳を澄ます。相変わらず、どこかで犬が鳴いていた。
「キャンッ、キャンッ」
鳴き声がとつぜんくっきりと耳に響いた。
こんどはすぐ近くだ。
急いでふとんから出て、どの方角から声がするのかを確かめながら慎重に移動した。
部屋の外のほうが、声が近い。寝室の外へと足を踏みだし、うす暗い廊下を足裏で探りながら歩く。手すりにつかまりながら階段を降り、玄関に近づいた。
「クゥ、クゥ」
足音が聞こえたのか、鼻を鳴らして甘える声に、まさかと気持ちがはやる。玄関ドアに駆け寄って勢いよくノブに手をかけたところで、ようやく我に返った。
「キャンッ」
じれたように鳴き、木のドアをかりかりと爪で引っ掻く音。幼いころからのビッケの癖だ。この引っ掻き癖のおかげで、わが家の玄関は下のほうから真ん中あたりまで、犬の成長とともにどんどん傷が増えていくことになった。
「ビッケ」
思わず声に出したとたん、ドアの向こうの鳴き声がやんだ。しかしそれも一瞬のことですぐにまた甘えるような鼻声が聞こえてきた。
「クゥ、クゥ~ン」
もしかして、警察犬さながらにぼくのにおいをたどってここまでやって来たのだろうか。
こんな明け方に、どうやってかあたらしい家族のもとを抜けだして、必死になって会いに来てくれた。そう遠くない場所に住んでいるのかもしれないけれど、度胸のあるほうでもないのに、ありったけの勇気をかき集めてここまできてくれたに違いなかった。
ぼくとはほんの二回会っただけなのに、なぜこんなに懐いてくれるんだろう。このビッケは、ぼくと家族になったビッケじゃないのに。
だいいち、ぼくは自分勝手なやつなんだ。世話なら、ほかの家族のほうがよっぽどよくしていたし、かわいがってもいた。自分の楽しみを優先して、悲しむおまえを玄関に残したまま出かけるなんてこと、珍しくなかった。それなのにおまえは、ぼくのスリッパにあごを乗せて、ぼくが帰ってくるまでずっと待っていた。たかだか数十分の手抜きの散歩をぼくといっしょにするために、ごはんも少ししか食べずに待っているような忠犬に育つんだ。
だから、このまま、あのおねえさんのもとに帰れ。
「クゥ、クゥ、キャンッ」
入れて、と必死に訴えている。目頭が熱くなる。
ドアノブから手を離すことも、回すこともできずにしばらく立ちつくしているうちに、「あっ、いたっ」というおさえた叫び声がドア越しに聞こえてきた。
「こら、チビ、ダメでしょう。こっちにおいで」
足音をしのばせて玄関のすぐ前まで誰かがやってくる。おそらくあのおねえさんだ。
「ウゥゥゥゥ、キャンッ、キャンッ」
無事に確保されたのだろう。ビッケの鳴き声が乱れ、少しずつ遠ざかっていく。
どれだけ近くにいても、あの子犬はビッケじゃない。ぼくの弟だったビッケは、時帰りの終わりとともに消えてしまう。
「もう戻ってくるなよ」
言いながら、ドアの内側にずるずるとへたりこんだ。とたんに、おさえていた感情がこみ上げ、涙が止まらなくなってしまった。まだ薄暗い早朝、玄関で泣き崩れる息子に起こされて、父と母がかけよってくる。ふたりとも、ぼくの号泣のわけなどわかるはずもなく、うろたえながらも必死になだめてくれた。
しかし、いくら抱きかかえられて背中をさすられても、どれだけ甘く慰められても、ぼくの心は幼児に戻ったかのように波うち、涙も嗚咽も、しばらく止まらなかった。
三日目の朝は、遅くまで寝ていた。
もう、完全なるおまけ時間だ。
あとは踏んぎりをつけてこの時代から去り、ビッケのいない世界に戻るだけ。
「うぅ」
悪い夢でも見たかのように、胸が重い。軽く呻いていると、寝室のドアが開いて父が顔をのぞかせた。
「お、やっと起きたか? 朝早くに悪い夢を見ちゃったんだもんな」
ふとんに足を突っこんだまま上半身だけ起きあがり、ぼんやりと父を見あげた。
「さ、今日はどこに遊びにいこうか。ママは掃除をするっていうから、映画でも見にいくか? ちょうどミラエモンの新しい映画をやってるぞ。それともちょっと遠出してアスレチックなんかもいいな。あ、博物館で恐竜博もまだやってたかも──」
「ぼく、どこにもいかない」
放っておけばずっと提案をつづけそうな父の声をさえぎり、唇をへの字にしてうつむいた。
きのう泣きじゃくったせいか、声がすこし嗄れていた。まだ目元も水っぽく、まぶたが腫れているのか違和感がある。
父がすぐそばまでやってきてしゃがみこんだ。
「あのさ、なぎ君、もしかしてなんだけど、犬を飼いたいのかな」
「えっ?」
「いや、だって、おとといからあのチビっていう犬と別れるたびに元気がなくなってたから、そうなのかなってパパは思ったんだけど──ちがったか?」
「ワンちゃんなんてぜんぜんほしくない。どうせぼくよりはやくしむし」
死ぬ、という言葉がうまく言えずに、おかしな単語になってしまった。それでも父には伝わったようだ。
「そうだな、それは動物を飼う人間すべての宿命だな。あ、ええと宿命っていうのは」
「わかるよ、しゅくめい」
「そうか」
ぼくの返事を完全に流している。見栄をはって知ったかぶっていると思われたようだ。
「でもさ、よかったら見にいってみないか」
「──なにを?」
用心深く尋ねたぼくに、父がにっと笑って答える。
「ナイショだ」
「ワンちゃんならいかないよ?」
「わかってるよ。さ、起きて支度しよう。きのうあんなに泣いたら、おなかすいただろう」
きょうも朝から空腹だった。今朝の空腹は悲しみに似ていて、区別がつきづらい。不本意ながらも父に手伝ってもらい、身支度を調えてリビングへと向かった。
「なぎ君、おはよ」
母がちんまりとした朝ごはんを用意してくれていた。きのうも思ったけれど、とても足りなそうに見える。それでも不思議と、食べ終わるころには満腹になっているのだった。
「ごちそうさまでした」
食べる前にくらべて、体がポカポカと温まっている。いくらか気分もよくなったかもしれない。
父がさっと母と目を合わせたあと、ぼくに告げた。
「さ、なぎ君、いこう」
「え、もう?」
「うん、はやいほうがいいと思うぞ」
父はいそいそと玄関に向かっている。母がぼくの手を引いて玄関まで送ってきてくれた。
「パパとお出かけたのしんできてね。ママはすこしご用事があるから」
「うん」
どうせあと数時間だろう。光の棒は、最後の一本。あきらかに色は薄くなってきている。このまま何事もなく帰ることになるんだろう。記憶さえなくなってしまえば、今感じている苦しさも、やるせなさも、まるごと消え去ってくれる。
あと少し。本当にあと少しの我慢だ。