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 バスに乗って、いまはもうない商業ビルにやってきた。子供服売り場のフロアの配置をきちんと覚えていて、母がまず向かう先が、私のお気に入りの店であることがすぐにわかった。

「私、ほんとにお洋服いらないよ」

「ママが買ってあげたいの」

 朗らかに、しかし有無を言わさぬ調子で告げると、母は店まで私の手を引いていった。

「ここのお洋服、好きでしょう」

「いらっしゃいませ」

 胸の奥から懐かしさがこみ上げる。にこやかに迎えてくれた店員の顔を覚えていたのだ。

 母の言うとおり、私はシュシュというこのブランドの洋服が大好きだった。フリルやリボンをふんだんにあしらったふわふわとしたデザインのパステルカラーの洋服たち。母が出ていってからは祖母が私の洋服をそろえてくれたけれど、祖父がこの店の洋服を評した言葉のせいで、それからは、ねだる気が失せてしまった。

「こんなひらひらした洋服ばかり着せて、母親みたいに浮ついた大人に育ったらどうするつもりだ」

 祖父のしゃがれた声が耳の奥でよみがえる。

 洋服に罪はないし、ましてや大人になったときの行動を左右するわけがない。今見ても胸がときめく、ただの可愛らしい洋服だ。

「いいわねえ、ママとお買い物? たしかピンクが好きだったよね。このスカートなんかどうかしら。きのう入荷したばかりなの」

「わあ」

 ショッキングピンクの生地に、濃いグレイのスパンコールでできたリボンがあちこちにあしらわれているスカートだった。ひだがたっぷりだから、これをはいて歩いたら、きっときらきら、ひらひら揺れて可愛らしいだろう。

「それ、いただけますか」

 いつもはしばらく吟味する母が即答した。驚いて見上げると、母が真面目な顔でうなずく。

「ぜったいに似合うと思う」

 母の財布の紐がいつになくゆるんでいることを嗅覚するどく察知したのか、店員が次から次へと洋服を並べだした。

 母は、こちらが心配になるほど簡単に買っていく。さすがにピアノの発表会でも着ないようなドレスまで買おうとしたところで、慌てて母と店員のあいだに割って入った。

「ママ、待って。こんなにたくさんいつ着るの? もういっぱい買ったよ」

 ぎゅっと冷たい手を握りしめると、はじめて我に返ったかのように母が笑う。

「そっか。すぐに大きくなるもんね。またお洋服が小さくなったら──ママに買わせてくれる?」

 返事をしたら声を上げて泣きだしてしまいそうな気がして、唇をへの字にして耐えた。

「もう帰ろう」

「え、ケーキを食べなくていいの」

「うん。家でママといっしょにいたい」

「──そう」

 これからもくるはずだった、ふつうの土曜日を過ごしたくてたまらなくなった。

 ふつうで特別な、土曜日を。

 なんだかしんみりとしてしまって、母とふたり、来たときより無口になってバスで帰宅した。ただし、ふたりしてたくさんの紙袋を抱えていたけれど。

 

 買ってきた洋服を整理したあと、母がココアを入れてくれた。ソファに隣りあって座り、テレビの黒い画面をふたりで見るともなしに見つめる。

「ふたりでお出かけするの、久しぶりだったね」

「うん」

「美優、少し話さないあいだに、なんだかすごくお姉さんになったみたい。まるで大人と話してる感じがするよ」

「そんなこと──」

 なるべく子どもらしい振る舞いをしようと意識していたつもりだけれど、中身が三十代だ。限界があっただろうか。

 しかし、母は違う受けとりかたをしたようだ。

「ごめんね。ママが美優のこと、無理に大人にさせちゃったんだよね、きっと」

 うつむく母に、そんなことはないと言いたいのに、なぜか言葉が出てこない。

 けっきょくなにも言えなくて、沈黙ばかりが長くなった。

 これじゃダメだ。せっかくチャンスをもらえたのだ。頑張らないと。母と同世代の今だから言えることを、伝えに来たのに。

 ココアを一口飲んで、手首の内側で輝く光の棒を見つめた。

 お腹に力を入れる。今を逃して何十年も後悔するのはもうたくさんだ。

 もう、心の声に蓋をしたくない。

「ママ、私は大丈夫だから、ママはじぶんのことだけ考えて。ママが悪いことしたってパパは言うけど、私、どちらかっていうとパパが悪かったと思う。だから、ママはパパから離れて幸せになって。でも、ときどき会えるとうれしい」

「美優──」

 言えた。ずっと言いたかったこと、伝えたかったことを母に伝えられた。

 顔がひしゃげる。涙がこみ上げてくる。

 母が口をかすかに開いたまま、しばらく呆けたように私を見つめていた。かと思うと、あっという間に私を胸にかき抱いた。記憶の底に沈んでいたなつかしい母の香りが、ぬくもりとともに立ちのぼってくる。

「ママ──」

 しかしつぎの瞬間、母は思いがけない言葉を口にした。

「あなた、美優じゃないわよね」

「えっ」

 心臓が大きく鳴った。

「マ、ママ、なに言ってるの。ドラマの見過ぎだよ」

 神主は、時帰りが必ずしも成功するわけではないと言っていたけれど、まさか中身が入れ替わっていたことを見抜かれるパターンもあるのだろうか。

 私を抱く腕にぎゅっと力をこめて、母がさらに畳みかけてきた。

「母の勘をバカにしないで。ぜったいに違う。小学三年生が夫婦関係をそんなに冷静に見られる? 父親のこと、そんなに冷めた目で見られる? 私は、自分のおこないのせいで、娘を置いて出ていくことになったんだよ? それなのに、そんな母親のことを許すだけじゃなくて、幸せを願うってなに?

 お願い、美優じゃないって言って。ほんとの美優はそんなにお姉さんじゃないよね?」

「ママ、私は大丈夫だから」

「そんなわけない。大丈夫なんておかしいよ。私、自分の娘になんてこと言わせてるの。まだ責めてくれたほうがまし。ほら、ママに言いたいことあるでしょう? いくらでも責めて、怒りをぶつけて。お願い」

 今度は私をぐいっと突きはなすと、母が涙でぐしょぐしょになった顔を向けてきた。

 夢のなかで何度も見た母の顔とおなじ。マスカラのはげた、真っ赤な瞳だ。

「──ママ」

 どうやら、言葉どおりに私の中身が偽者だと思ったわけではないらしい。それでも、いっそこの状況を打ち明けたくなった。

 母の気が休まるなら、今すぐにそうしてあげたかった。

 伝えてみようか。神主によると、時帰りのことは物理的に言えなくなるということだったけれど、試してみる価値はある。

「あのね、ママ。私、実は、み」

 唐突に、口が動かなくなった。

「美優? どうしたの?」

「えっと、だから私は、み──」

 未来、という単語をどうしても口にできない。神主が、物理的にと言っていたのは、こういうことだったらしい。

 それにしても、まさか、こんなに直接的に妨害されるだなんて。もっとほかにスマートな方法はなかったのですか、時帰りの神様。

 どうにか唇を動かそうとソファのうえで必死にもがくうち、地面がかすかに揺れだした。

「いやだ、地震?」

 母がぱっと立ち上がって、ソファの背後、ちょうど私の真後ろにまわる。振りかえれば、飾り棚の小物を急いで下に降ろし、そのまま体を張って棚を押さえてくれていた。

 娘を守ろうとしてくれる必死な姿に、胸がじんわりとあたたまる。

 聖神様に妨害されることはよくわかった。それでも、母に今の状況をどうにかして伝える方法がないものだろうか。日本神話で描かれている神様たちの姿は、決して完璧なものではなかったし人情味もあった。時帰りを直接的に伝えることができないとしても、なにか抜け道のようなものが存在していてもいいのに。

 徐々に地震の揺れがおさまっていく。同時に、これならどうだろうという言い方が見えた気がした。

 今度こそ伝えられますように。

 ソファに戻ってきた母に向かって、そっと口を開く。

「さっきママは、私のことを美優じゃないって言ってたよね。私はぜったいに美優だよ。でも、ママの知っている美優とは少し違うかもしれない。私ね」

 神様が用心しているかのように、口元の動きが悪くなった。

「夢、を見、たの」

「夢って、あの眠ってるときの夢のこと?」

 つぎの瞬間、口元にスムーズな動きが戻ってきた。

「そうだよ。しかもすごく悲しい夢。今日のことが出てきて、私はママとケンカしちゃうの。ひどいこと言ったままお別れしちゃってね、私、すっごく後悔してた」

 夢の話として伝えるぶんには、神様もお目こぼししてくださるらしい。

「ずいぶんとリアルな夢を見たんだね」

「うん。でも、ほんとに夢の話だからね。ほんとだよ?」

 くどく念押しすると、母がふふっと笑い声をこぼす。

「わかった。それで? そのあと、美優はどうしたの」

「ママにずっと腹を立ててた。パパやじいじはあんまりママのことよく言わないし、みんなの言うことそのまま信じて、ママは私のこと捨てて出ていっちゃったって誤解したまま育ってね。それでも中学生になったころから、パパとじいじは考え方がおかしいって思うようになって。パパとじいじって、女の人のこと、少しバカにしててすごく嫌だなって。自分だってできないことがたくさんあるのに、相手が女性だと、女だからできない、俺より下、とか平気で言うの」

「それも、その、夢で見た話なんだよね?」

「う、うん。もちろん。私、それで早く家を出たくて必死に勉強して奨学金で大学に行って、気がついたら社会人になってた。銀行で働いててね。パパみたいな相手はぜったいに嫌だって思って、すごくやさしそうな、女性のことを大事にしてくれそうな相手と結婚したの」

「そう」

 夢の話だというのに、母がほっと息をつき、目を潤ませている。

「でも、ね。結婚してから、だんだん、少しずつだけど、会話がなくなっちゃって。結婚相手は、子どももつくりたがらないし、いざ子どもができたらエコー写真を見て不気味だって無神経なこと言うし、家にも夜遅くまで帰ってこなくって。休日は休日ですぐに出かけちゃうし、家のなかにいるのが辛くてね」

 母が、飲みかけていたコーヒーでゴホッとむせた。

「あ、夢の話だよ。よくドラマでそういうの、あるから」

「そ、そうだよね?」

 母は明らかに戸惑っていたけれど、素知らぬふりでつづけた。

「夢のなかの私はね、そのときになってようやくママの気持ちがわかったの。あのときのママが逃げ出したくなって当然だって。ママにはママの人生があって、幸せになる権利もあって、私はそれを応援してあげたいって。あのころに戻れるならそうしたいって、心から思ったの。ええと、その、夢のなかで」

「そんな夢って」

 両手で口元を押さえ、母が大きなため息をついた。

「ママ、私、夢のなかでね、ママとそんなに歳が違わなかったんだよ。だから今日はちょっと大人の気分な──」

 すべて言い終えるまえに、私はもう一度、母の胸のなかに抱かれていた。

「怖い夢、見たわね」

「え?」

「だって、結婚したひとが、美優によくしてくれなかったんでしょう? まだ小学生なのにそんな夢を見るなんて。ママの姿を無意識に刷りこんでしまったみたいで心配。でも忘れないで。あなたは子どもなの。たくさん遊んで、いろんなお友だちをつくって、いろんな経験をして、ゆっくり大人になればいい。ママの幸せなんて気にしなくていいんだよ」

「気になるよ、だって、ママのこと大好きだもん」

 私を抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。

「美優は、ほんとに美優なんだよね? ママの美優なんだよね」

「うん、そうだよ。ちょっと長い夢を見た美優だけどね」

 母は、私を腕から解放したかと思えば、こんどは両手で頬を挟みこみ、まっすぐにのぞきこんできた。

「離れていても、まいにち思ってる。いつでもママのところに来ていいんだからね」

「うん」

 ここで、ずっと心にわだかまっていたことを、勇気を出して尋ねた。

「ママは、相手の人と結婚するの?」

 母が、あわてて首を左右に振った。

「ううん、しないよ。その人とはね、お別れしたの。しばらくひとりでいたくて」

 鼻をすんとすすった母は、おそらく笑おうとしたけれど、ほんの少し目元が歪んだだけだった。

「紅茶でも淹れるね。なんだかほんとに大人の女同士みたい」

「うん」

 母が席をはずしたすきに、手首の光の棒を確認してみる。そろそろ光が淡くなってくるころだろうと思ったのだ。

 言いたいことは言えたと思う。これで思い残すこともない。

 母は夕方、祖母がくる直前に出ていった。何度も振り返り、戻ってきては私を抱きしめたあとで、ようやく駅へと向かう角を曲がった。

 母と暮らしたいと幾度も口から出かけたけれど、困らせることになるとわかっている。

 父や祖父が妨害するだろうし、もしかして訴えたりするかもしれない。

 でも、一度目の別れとは違い、今度の私たちはまた会う約束が出来た。これからは、いつでも好きなときに母に会いにいけるはずだ。

 それにしても──。

「母との別れが終わったのに、どうして線が薄くならないの?」

 光の棒は依然として濃い輝きを放っている。

 途方に暮れているひとりの部屋に、父が祖母をともなって帰ってきた。

 私を一瞥すると、まっすぐに母が使っていた部屋へと階段を上がっていく。慌ててついていくと、ガランとした部屋を確認した父が忌々しげにつぶやいた。

「ふん、ようやく追いだせた」

「──」

 最後に上がってきた祖母はなにも言わず、まるで息子の暴言から私を守るように抱き寄せる。なつかしい祖母の皺だらけの手が目に入り、鼻の奥がつんとした。

 このやさしい祖母がもっと生きていてくれたら、私ももう少しあの家で楽に暮らせただろうか。

「美優、よかったな。あんなひどいママが出ていって」

 子どものころは、父が母を悪く言うたびに胸に重しを投げ入れられるようだった。しかし、母は悪いことをしたのだから、父になにを言われても仕方がないと思っていた。父の味方をしてあげなければと、心の奥が傷つくのをひとりで耐えていた。

 しかし今ならわかる。私は父に素直に伝えてよかったのだ。母を悪く言われるのは嫌だと、父と闘ってよかったのだ。

 息を大きく吸って、父に告げる。

「私の前で、もうママの悪口言わないで。それ、すっごく嫌だ。ママは私に、パパの悪口を一度も言わなかったよ」

 父が唇を震わせてなにかを言おうとしたけれど、ぐっと拳を握っただけだった。

「今日からは、じいじとばあばの家で暮らすんだ」

 前とおなじ台詞。時帰りする前の私は、おとなしくついていった。

 私は無力な、父に縋るしかない子どもだった。

 でも、今は違う。

 手首の内側を見てみると、やはり光はいぜんとして強いまま。心の蓋も、きちんと開いたままだ。

 今ならきっと、言える。

「あの家に暮らすの、ほんとうは嫌だけど、仕方なくついていく」

「美優っ。いったいどうしたんだ? そんなこと言う子じゃなかっただろう。やっぱりママになにか吹きこまれたんだな?」

「違う、そんなこと本当にされてない。私に色々と吹きこんだのはパパでしょう?」

 母だけを一方的に責める姿、自分の非をぜったいに認めない姿が、なぜか夫に重なった。知らずに冷めた目で父を眺めてしまったのかもしれない。父が、気味悪そうに私を見つめかえす。

「美優、おまえ──」

 言葉を飲みこんだ父を、睨みつづけた。見かねたのか、私の洋服の袖口を祖母がそっと引いた。

「さあ、みっちゃん、ばあばといっしょに荷づくりしよう。じいじも待ってるよ」

「──じいじが?」

 疑わしげな私の声に、祖母の肩がピクリとぶれる。

 ここへ来てようやく、私は自分がなにをやり残しているのかわかった。

 私が本当に話さなくてはならないのは、母ではなく、むしろ父、そして祖父だったのだ。

「じいじは待ってないと思うけど、荷づくりはする」

 決意をこめて答えると、ばあばがごく小さく呻いた。

 

(つづく)