プロローグ
それはもう、暑いのでございます。
本来であれば薫風にしっぽを遊ばせるはずの五月も、昨今は事情が異なってまいりました。夏もずいぶんと慌てんぼうになったのか、まるで盛夏が訪れたよう。
砂漠が故郷とも言われるネコ科ネコの私、タマもこの日差しに当てられ、鎌倉は一条神社の本拝殿の奥でぐったりと寝そべっております。ひそかな自慢である白雪のような毛も、今はすべて刈り上げてしまいたいほど。もういつしっぽが割れてもおかしくないほど長い、長い時をこの神社の境内で生きてまいりましたが、これほどの猛暑はなかったかもしれません。
「タマ、お水に氷を入れたよ。それともかき氷を食べたい? 一応どちらも持ってきたんだけど、どっちがいいかな」
頭をなでながら話しかけてくるのは、若竹のように涼やかな容姿の兄とともにこの神社を切り盛りする巫女の若宮汀子。兄は兄で氏子のマダムたちにたいそう人気ですが、この汀子もなかなかのもの。白い着物に赤い袴姿が動く日本人形のような神秘的な容姿によく映えること。まあ、この暑さにこの装いは酷というものですが。私にかき氷をすすめる前に本人が涼をとらなければ。
「にゃあ、にゃっ」
盆に載せられた氷水とかき氷のうち、かき氷の器を前肢でそっと汀子に押しやると、形のよい唇がふっと持ち上がります。
「はいはい、ご主人様。かき氷にお顔をつけるのはいやなのね」
違う、違う、そうではありませんよ。汀子、あなたに食べてほしいのです。あなただって汗だくではないですか。
「にゃぁうぅぅぅぅぅ」
「ねえ、暑いよね。もう、冷房つけちゃうから〈こよみ庵〉においで」
そうではなく、私はあなたの心配をしているのに。
すでに半分は溶けてしまったかき氷を見下ろし、汀子が首を振って私を抱き上げます。 いいのですか。冷房代もばかにならないと、今朝、嘆いていたではありませんか。
「長生きしてね、タマ。ずっとずっと一緒だからね」
汀子──。
じんと胸のなかが熱くなり、ゴロゴロと喉を鳴らして首元に頭をこすりつければ、すぐにやや低い声が響いてきました。
「お兄ちゃんとふたりきりになっちゃったら私、ほんっとに巫女を辞めて家を出るからね」
にゃ?
境内にたたずむ〈こよみ庵〉の引き戸を開けて冷房をつけると、汀子はわたしを床にそっと降ろしました。こちらは、崩壊寸前、いえ、野趣にあふれる本拝殿とは異なり、たいそうモダンな和風甘味処となっております。お抹茶と季節のお茶請け、そして窓の外に広がる竹林は、参拝に訪れるみなさまの目と舌を楽しませる一条神社の名物。ぜひみなさまも機会があったら遊びにいらしてくださいませ。
「ねえ、タマったら聞いてる?」
「にゃ?」
「だから、お兄ちゃんのこと。相変わらずうなされてるよね。神主業の文句は多いし。そんなに辛いなら、私が継いだのになあ」
しゃがみこんで口を尖らせる表情は、幼子のころから変わっていません。ああ、抱きしめて頭をなでてやれたらどんなによかったことか。
「お父さんが亡くなる前に、ここを継ぎたいって、もっともっと強く言ってたら変わってたのかな。そしたらお兄ちゃんがあんなに苦しむこともなかったのに。ねえタマ、お兄ちゃんになにが起きたのか、知らない? わたしもお兄ちゃんみたいに、過去をやりなおせないかな」
「にゃぁう」
そうなのです。神主である汀子の兄、雅臣は過去の記憶に囚われて悪夢に苛まれる日々を送っており、汀子や私の気を揉ませているのです。しかし最近の私は、彼と同じくらい汀子のことも気にかかっているのですよ。
子どものころからこの神社が大好きで、ここのことなら隅々までよく知っている汀子。実際、亡き父親のあとを継いでいれば、きっと素晴らしい神主になっていたでしょう。でもまさか、これほど思いつめていたなんて。
しかし、私の記憶が正しければ、女性の神主が生まれたのは先の戦争のあとのはず。戦前は法律で女性の神主は認められておらず、今にいたっても一般的とまでは言えません。
「そもそも私のほうが金銭感覚あるし、この神社のことも、時帰りのことにも理解があるし? 聖神様だって、私が神主をやったほうがストレスがなかったはずなのにさ。そこのところ、夢に干渉する力があるなら、お父さんの夢にでも出てきて、跡継ぎは汀子じゃ、とかなんとかひと言お告げをくれたらよかったと思わない?」
汀子、ご祭神の聖神様は地獄耳をお持ちです。くれぐれも口を慎まなければなりませんよ。
「今は別に、女性の神職だって、そりゃ全体の二割とは言われてるけれど、ちゃんといるのにさ。神奈川には女子神職会っていうのもあるんだよ。もう設立から四十年経つんだって。いいなあ、私も行ってみたい」
一気に告げたきり黙りこくってしまった汀子は、じっと窓の外を見つめています。
「時帰りできたらなあ。お父さんに、神社は私が継ぐって今度こそ宣言するのに」
視界の向こうで揺れているのは、先ほどお話しした竹林。ここ一条神社の名物です。
さて、さきほどから汀子が口にしている時帰りについて、そろそろお話ししなければなりませんね。
実は、この竹林には秘密がございます。
一条神社の御祭神である聖神様は、日知り、つまり時の神様。御柱のご神威か、それとも土地に由来する神秘の力か。竹林の向こうはどうやら時空が歪むようです。
神主の雅臣が祝詞をあげ、巫女の汀子が神楽を舞えば、後悔を抱える人々を望む過去へと送り出すことができる。そんな特別な場所なのです。
この神業は“時帰り”と呼ばれて古くから一条神社で受け継がれており、門外不出の文書というかたちで、その詳細が代々の神主によって記されてまいりました。
え、そんなにすごい神社なのになぜ本拝殿がオンボロなのかって?
それには色々な理由がございますが、もっとも大きなものとして、時帰りするのは聖神様に選ばれた人のみ、という事実に尽きるのではないでしょうか。しかも彼らはみな、時帰りした事実を他人には告げることができず、そのうちじょじょに神社のことも、時帰りしたという事実さえも忘れてしまうため、この驚くべき御神力はいっこうに知られることなく、今に至っているのです。
境内は観光地とは思えぬほどの静けさを保ち、ご近所の氏子のみなさまでさえ存在を忘れがちなほど。
よって、金銭感覚のきっちりしている汀子が、毎年、毎月、一条神社の存続をかけて運営を黒字化させるために頭を悩ませております。大学生との兼業巫女だというのに、学業や若者らしい遊びや異性とのお付き合いなど、普通の若者が謳歌する青春をちっとも楽しめないまま、いつも神社のことばかり。
本当にこれでいいのでしょうか。
「お兄ちゃんには客寄せに神社の掃除だけしてもらって、私があとのことは全部やれば、みんなが幸せになれるのに」
汀子が頬杖をついて憂いに沈むテーブルに飛びのり、顎のあたりにずりずりと頭をこすりつけます。
汀子、あなたのお父さんがあなたに神社を継がせなかったのには、きっとなにか理由があったのではないでしょうか。これでも、あなたのお父さんを小さなころから見守ってきた私ですから、少しは彼の胸のうちがわかる気がするのですよ。
さわさわと、もどかしげに揺れる竹の葉も、汀子を抱きしめたいと思っているようです。
私も、この竹林も、聖神も、そして誰より雅臣も、あなたのことを見守っていますよ。
本当に、心から。
第一話 『ママが0点だった夜』
本拝殿の床にしゃがみこみ、そこにいつから存在しているのか不明な汚れをせっせと雑巾でこすっているのは、今日も見目麗しい一条神社の神主、雅臣です。もの言いたげな切れ長の瞳、すうっと通ったかたちのよい鼻、引き締まった薄い唇。光源氏もかくやと思わされる容姿は、さいきん、氏子のみならずSNSでもたいそう人気だそうです。
「にゃあ」
「しぃ、タマ、静かに。お兄ちゃんが気づいちゃうでしょ」
祭壇の背後から、雅臣の雑巾がけ姿をそっとスマートフォンで撮影しているのは汀子。
兄よりは丸みのある大きな瞳は神秘的な輝きを宿し、見つめていると吸い込まれるよう。
抜けるような白い肌に花が咲いたような唇は、そのうち多くの異性を魅了することになるでしょう。ただ、ときどき瞳がぎらついていて怖いという意見もありますが。
「季節の写真を撮りだめして、来年の神主カレンダーとして発売したらけっこう儲かると思うの。お兄ちゃんのご祈祷と御札とそれからカレンダーのセット販売とかもニーズを満たせそう」
「俺が、誰のどんなニーズを満たすって?」
いつの間にか、すぐそばで仁王立ちしていた兄に、汀子がへらりと笑ってみせます。
「そ、それはこっちの話。ところで今朝、お告げがあったの。夢で見た空の様子からしてお客様は午前中にいらっしゃるから、ご祈祷、よろしくね」
「またか。最近、多すぎじゃないのか」
時帰りをする人々は、聖神様がお選びになるというのは先述の通り。じつはそれだけではなく、選ばれた人の姿を汀子の夢に登場させて知らせてくれるのです。なかなか連絡の行き届いた御柱なのですよ、聖神様は。時の神様だけに、几帳面なお方なのかもしれません。
「またどうせ、しようもないことで悩んでるんだろ」
「それはお兄ちゃんが決めることじゃないでしょ。三十代後半くらいの働く女性って感じの方だった。お賽銭、はずんでくれるといいなあ」
「祝詞をあげるかどうかは話を聞いてから決める」
「だから、そんなことしたらこの本拝殿がどんな目に遭うかいいかげん学習してよ」
「俺に選ぶ権利がないとしたら、どうして聖神は俺に祝詞なんかあげさせてるんだよ」
ああ、雅臣、それを汀子に言ってはいけなかったのに。
「そんなの──そんなのこっちが聞きたいよっ」
小さな声を兄にぶつけ、汀子が本拝殿から足音を響かせて去っていきます。
「にゃあ」
咎めようと振り返ると、雅臣が少年の日そのままの途方にくれた顔で、ひとりたたずんでおりました。
*
海を眺めでもすれば、少しはすっきりできるかと思っていたのに。
衝動的に横須賀線に飛び乗って鎌倉までやってきた。由比ヶ浜の砂浜でしばらく波音に包まれてみたけれど、ほんの少し気持ちがゆるんだだけ。目を閉じても、傷ついた顔でこちらを睨みつけていた七歳の息子の顔ばかりが浮かんでくる。
息子がちょっとだらだらしていたぐらいであんなに怒ってしまったのは、勤務する出版社の部署でごたごたが重なったり、夫の出張中でワンオペ育児だったせいに違いない。そう思って、ようやく仕事の落ち着いた今日、リフレッシュ休暇をとったのに。あまり効果はなかったかもしれない。
「帰ろっかな」
電車の時間を調べようとスマホを取り出す。画面を起動した拍子に、行きの電車でボンヤリと見ていたSNSの画面が目に飛び込んできた。見知らぬユーザーの投稿がリコメンドされているようだ。ユーザー名が“鎌倉 一条神社公式”ということは、このあたりの神社なのかもしれない。投稿内容が少し変わっていた。
「雑巾がけする神主の画像?」
神主は、AI画像と勘違いしそうなほど整った目鼻立ちをしている。
ハッシュタグが画像の下部にずらりと並んでいるが、そのうちの一つに「あ」と小さな声を上げてしまった。
#後悔から立ち直れるかも?
どんな神様を祀っているのだろう。この後悔から解放してくれる神様がいるのなら、お参りにいってみようか。一条神社を検索すると、駅からバスで十五分、最寄りのバス停からさらに十分ほどかかるらしい。
立ち上がって由比ヶ浜をあとにするとき、SNSを目にしてこの神社に向かう決意をすることがあらかじめ決められていたような、不思議な気分になった。
駅まで戻ってバスに乗り、鶴岡八幡宮の脇の坂道をのぼってしばらく走ったところが、ネットで調べた最寄りのバス停だった。
バスを降りて地図に示されたルートを確認しながら歩いているうち、いつの間にか右折する地点を通り過ぎてしまっていたことに気がつく。
「にゃあ」
唐突に、背後から鳴き声がひびいた。振り返ると、雪のように白い猫がお澄ましして座り、こちらをじいっと見上げていた。
「どうしたの? お散歩中?」
「にゃあ」
白猫がふっと視線をはずして、バス停のほうへと歩きだす。わたしもいくらか引き返さなければならないようだ。案内人のように立ち止まってこちらを振り向く白猫に「待って」と声をかけ、あとをついて行くことにした。
白猫は、振り返り振り返りしながら私を先導していき、とある地点でふっと左に曲がって消えた。小走りで後を追うと、バス停から来たときには気づかなかったごく控えめな看板が立てられている。
〈一条神社〉と丁寧な毛筆で書かれた木製の案内だった。
看板のあたりを入口に、左手に向かって石畳の小径が伸びており、その両側を背の高い竹がずっと奥まで囲んでいた。目当ての神社は、どうやらこの竹林の先らしい。これほど見事な竹林を目にするのは、独身時代、友人たちと京都を旅したとき以来かもしれない。
すこし先の石畳の上で、先ほどの白猫が置物のようにじっと座っている。湧き水を思わせる薄青の瞳でこちらを見上げていた。早くして、と視線だけで急かしてくるようだった。
みずからも竹林の小径に足を踏み入れたとたん、吹き抜けてくる向かい風がさあっと髪の毛を乱す。
「うわ」
「なぁん」
──今、謝った?
そんなはずはないのに、猫が苦笑して謝罪しているように感じたのだ。
ふたたび歩きだした白猫を追って進むと、少し先で唐突に道が開け、どうやら境内にたどりついたらしかった。
午前の日差しに照らされたお社は、人の肌と同じで衰えを繕えないらしい。きちんと建っているのが奇跡に思えるほどのぼろ屋だった。賽銭箱の手前には、ほかの神社と同じように麻縄が垂らされているけれど、少し振っただけで建物が瓦解するのではとためらわれる。
あたりを見まわしていると、鈴の音のような澄んだ声が響いた。
「あ、もういらしてたんですね。道はおわかりになりましたか」
声のほうへと顔を向け、はっと息をのむ。ドラマの撮影現場に迷いこんだのかと思うほど美しい少女が、巫女さん姿で笑っていた。
「ええ。でもわたし、特にお約束してたわけじゃ」
「すみません、変な言い方をしてしまって。でもお待ちしていたんですよ。お参りが済んだら、あちらの抹茶処に寄っていかれませんか? 一条神社名物の竹林を存分にごらんいただけますし、外よりはまあ、涼しいですし」
言われてみれば、ひどく汗をかいている。
「少しだけ休んでいこうかな」
「はい、お待ちしていますね」
少女はうれしそうにうなずくと、抹茶処らしい新しめの建物へと姿を消した。
古びた拝殿はすこし気味が悪く、参拝をさっと済ませて私も少女のあとを追った。