『汀子、起きて。起きなさいったら』
頬をぎゅむぎゅむと押す柔らかな感触で、意識が現実に戻ってきた。
「タマ?」
『そうです。さ、寝ぼけてる場合じゃありませんよ』
タマが頬から前脚をどける。
「わかったぁ」
「にゃあおおおぅ」
「ぜんぜん、かわらにゃいね。タマ」
少々、口元が動きづらいけれど、語彙に注意をはらわず、普通に話せるのはずいぶんと気楽だ。
光彩のひらいたまんまるの目が、心の底までのぞくように静かに見つめてきた。
『汀子、あなた、何年後の未来から来たんです?』
「うんと、いまからじゅうななねんごのみらい。でも、どうちてわかったの?」
『それはわかりますよ。纏っている時間が、ほかの人とはまったく違いますから』
「しょんなことわかりゅなんて、タマってしゅごい。でもわたち、どうちてタマとはなしぇるの? ときがえりのせい?」
タマが、すこし寂しげに顔をふせた。
『そうですか。未来のあなたは、こうして私と話していたことなど忘れてしまうのですね。汀子だけではなく、人の子のなかには時々、そうですね、三歳のはじめくらいまでは意思疎通ができるものがいるのですよ。でも、だんだんと聞こえなくなって、話せていたことも忘れてしまうのです。ちなみに、雅臣とは彼が小さいころも話せませんでした』
「しょうなんだぁ。それじゃ、いまならほかのねこちゃんやワンちゃんともはなしぇるってこと?」
「ええ、おそらく。私の思念ほどよくは聞こえないかもしれませんが、考えていることが伝わるはずです」
「わあ、おはなちちてみたいなあ──って、ダメダメ。じかんがないの」
『おほん、そうでした。汀子が時帰りをするなんて、いったいなんのためです? 今夜はそのことを確認しにきたのですよ』
「あのね、わたち、やることいっぱいあるの。まず、おにいたんのために、おかしゃんからメッセージをちゅたえてほしいっておねがいしゅりゅの。それからおとしゃんに、わたちがここのかんむしになりたいってわかってもらいたくて。でも、どっちもむずかちいの」
『なるほど、今の姿ではなかなか大変でしょうね。でもひとつずつ考えていきましょう。まず、早紀にどんなメッセージを頼むつもりです?』
伝えようとして、胸がキリキリと痛みだした。
母の愛情に包まれて危機感が薄れてしまっていたけれど、母にはこれから避けられない死が待ち受けている。私たち家族は、大きな試練と向きあうことになるのだ。
「あのね、にしゅうかんご、おかしゃんはじこでしんじゃうはじゅだったの。でも、おにいたんがときがえりしてそれをふしぇいだの」
『ええっ、それじゃ、もう少ししたら、未来の雅臣もやってくるのですね』
うなずいてみせると、タマが目を伏せる。
『早紀は一度、交通事故で亡くなるはずだったなんて。でも、人の死を防ぐことは──』
「うん。おかしゃんはたしゅかったかわりに、びょうきになったの」
「なるほど、時帰りのあとは病気で亡くなったのですね』
「そうだよ。そしておにいたんは、じことびょうき、どっちのきおくもありゅの」
『ええっ? そんな例は聞いたことがありません。雅臣はそのふたつの記憶のせいで、どれほど傷ついているのでしょう』
タマが「にゃおん」と悲しげに鳴く。
「おにいたん、おかしゃんをじぶんのわがままでながいじかんくるちめたって。いまもこうかいちてる。夢でもしゅごくうなしゃれて。だからおかしゃんには、ぜんぶおにいたんのせいじゃないってちゅたえてもらいたいの」
『なるほど、気持ちはよくわかりました。それにしても、いったいなぜ聖神様は雅臣の記憶を消さなかったのでしょうか。もしかして自分で時帰りをしたこととなにか関係があるのでしょうか』
「わからないけど。でも、わたちも今度こそおかしゃんのこと、わしゅれないよね。じぇんぶおぼえていられりゅよね」
『汀子──。そうですね。それからあなたがたは、ひとつ大きな勘違いをしていますよ。早紀はね』
タマが言いかけたとき、唐突に寝室のドアが開いた。
「てっこ、声がしたけど眠れないの? あ、タマ、またねんねの邪魔してたのね?」
パジャマ姿の母が、様子を見にきたのだ。さっとタマを抱きあげたあと、母を見あげた私のおでこに優しく触れる。知らないうちに汗で前髪がはりついていたらしく、タオルでそっと拭われた。
風邪を引いたときも、母が生きていたらこうして看てもらえたのかもしれない。
ずっと一緒にいたい。家族みんな、元気なまま、このまま──。
どうにか、事故も病気も、両方を防ぐことはできないだろうか。
考えるほどに無理だと思い知らされ、胸が軋む。
「ほんとにてっことタマは仲良しねえ」
「にゃおん」
母が、声をひそめた。
「ねえ、タマ。てっことまさくんのこと、よろしく頼んだからね。もちろん、今度も頑張るけどさ。きっと──きっと大丈夫だけどさ」
「にゃぁん」
そっと薄目を開けてみれば、母はタマの背に顔をうずめていて表情が見えない。
なにか、あるの?
母が泣いているように見えて、ますます息が苦しくなった。
目が覚めると、もう翌日だった。手首にある光の棒は一本になっている。
与えられたうちの半分は、ただ家族に甘えるだけで終わってしまったなんて。
今日こそ気合いを入れなければ、どちらの願いも叶わないまま終わってしまう。
さっそく両親にメッセージを書いて伝えることにした。
それにしても、昨日の夜に見た母の様子が気にかかる。
なにか悩んでいるようだったのに、タマに話しかけていた言葉だけでは詳しい内容まではわからなかった。
「にゃぁん」
「タマ、ちょうどよかった。えんぴちゅとかみのあるところにちゅれてって。それと、あとでききたいことがありゅの」
「にゃ?」
首をかしげるタマを急かして寝室を出ると、居間へと連れていかれた。
『なにか書きたいならお絵かき帳はどうです? それと、鉛筆よりもしかしてクレヨンなどのほうが書きやすいかもしれません』
「わあ、タマ、てんしゃいっ」
居間の片隅に置いてあるボックス棚のなかに、お絵かき帳やクレヨン、粘土など私の遊び道具がひと通りそろっていた。
いちばん上の棚からどうにかお絵かき帳を引っ張りだし、床に置いて真っ白いページを開いた。クレヨンで書きつける前に、軽く頭のなかで文章をつくってみる。
“治療はお兄ちゃんのせいではない。気にするなと伝えて”
今の母が読んでも意味がわからないだろうけれど、たとえば半年後に開いてとお願いすれば、この一文を伝えてくれるはずだ。
難しいのは少し鈍いところのある父へのメッセージだ。母に対するような、謎の残る書き方では伝わらないだろうから、はっきり、くっきり、意思を示す必要がある。
“私を神主にして。私が大人になるころには、男女なんて関係なくなってるから。私は本気です”
ここまで書けば、わかってもらえるだろうか。
「よち、それじゃ、かいてみりゅね」
『ええ、頑張ってください。でも──』
タマが瞳にすこし不安を滲ませつつ、すぐ脇に寄り添ってくれている。
クレヨンを持ち、紙に最初の一文字である“治”を書きつけたとき、私はタマが発した頑張れという言葉の意味を悟った。
「なに、これ」
画用紙にのたくっていたのは、いわゆるミミズ字。とても他人に伝わる文字ではなかったのだ。
『汀子、あなた、大人になるまで漢字のお勉強をずっとサボっていたのですねっ』
嘆くタマに、大きく首を振ってみせる。
「ち、ちぁうもんっ。ゆびにちからがはいりゃないんだもん」
『冗談ですよ。そうなのです。幼子は指の力が未熟で、鉛筆を上手にあやつれないのです。時帰りのあいだに意味の通じる文字を書けるようになるのは難しいと思いますよ』
「しょんなぁ」
言葉も満足に話せず、文字でも伝えられない。これでは、なんのためにわざわざ時帰りまでしてここにやってきたのかわからない。
「いったい、どうしゅれば──」
『口で伝えるのがいちばん現実的ではないでしょうか。ほら、私に話すようにしてみせれば問題なくわかってもらえるはずですよ』
「しょっか、しょうだよね。でも、ときがえりのことは、バレちゃいけないんでしょう?」
『確かに時帰りしていることは口にできないのがルールです。しかし、相手が気づくのは不可抗力といいますか、問題がないはずです。げんに私は平気だったでしょう』
「しょっか、なりゅほど。じぶんからバラすのはダメだけど、あいてがきじゅくのはオッケーってことだね。しゃすがタマッ。わたち、どうにかおとしゃんとおかしゃんにわかってもらえるように、がんばってくちでつたえてみりゅね。それにしてもひじりのかみしゃまってほんとにゆうぢゅうがきか──」
そこまで話したところで、小さな震動を床に感じて口をつぐんだ。
『地獄耳なのは未来でも変わりませんか』
「う~ん、ひどくなってりゅかも」
お互い、目をあわせてぷっと噴きだす。
タマとは普段から仲がよいけれど、さすがにここまでスムーズに意思疎通できたことはない。言葉で通じ合えることが、とてもうれしかった。
「タマ、わたち、タマとはじゅうっとなかよちなの。ほんとにいつもありあと」
『汀子──』
ぎゅっと抱きあう私たちのもとへ、駆け足でやってきたのは母だった。
「あ、こんなところにっ。よかったあ。布団から勝手に姿が消えてるんだもの。間違って竹林に出ちゃったのかと思って、お母さん、背筋が寒くなったわよ」
タマと抱きあう私を、母がまるごとぎゅっと両腕で包みこんだ。
「ああ、お母さんとタマだけずる~い。ぼくもてっことタマをだっこしたい」
やってきたのはお兄ちゃんだ。母がお兄ちゃんを招き入れて三人と一匹で抱きあっているのを、すでに神主の装束を身に纏っている父も目ざとくみつけてやってきた。
「いいなあ。よおし、お父さんだってみんなを抱きしめちゃうぞっ」
お兄ちゃんの澄んだ笑い声も母のくすくす笑いも、にゃおんと鳴くタマの声も、はっはっはと大きく口を開けた父の声も、ぜんぶひとつに溶け合う。
私も笑う場面なのに、そうしなかったら変なのに。
こらえきれずにえんえんと泣きだした私を、みんながひたすらかわいい、かわいいと褒めるから、涙はしばらく止まらずに流れつづけた。
一日の時間が、驚くべきスピードで過ぎていく。もっと正確に言えば、気がつけばうとうとと寝てしまい、はっと目が覚めたときには平気で一時間が過ぎ去っていたりするのだ。
「てっこ、きのうからよく寝るわねえ。お風邪かなあ」
母も寝る前に心配していたくらいだから、もしかして時帰りで体に負担をかけているのかもしれない。
今も知らぬ間に寝落ちしていたらしく、目が覚めたときには本拝殿の床に敷かれた小さな布団の上にいた。
境内にはうららかな日差しが落ち、そよそよと風が吹きこんでくる。
私が高校生くらいまでは存在していた、境内の山桜の蕾がはちきれんばかりだ。沈丁花の香りが消えるころに、ほころびはじめるのだろう。
時間は確実に過ぎていく。手首の光の棒は、すでに残り一本も淡い。今、伝えなくては。
「おとしゃん」
「おお、てっこ起きたか。トイレにいくか? それともおむつを替えようか」
「てっこ、かんむししゃんになりゅ。みこもしゅきだけど、かんむししゃんにもなりゅ」
愛娘の起きぬけの主張に、ご祈祷の準備をしていたらしい父が動きをとめた。もうなりふり構わずに父に訴える。
「わたち、かんむししゃんになりゅ。おんなのこでも、だいじょうぶ」
「てっこ──」
さすがの父も、ここまで言えば真面目に受けとるだろう。うまくいけば時帰りしていることも察してくれるかもしれない。
慌てて近づいてきた父が、しゃがみこんで視線を合わせた。
いつになく真剣な顔に、いよいよわかってくれたのかと期待がふくらむ。
「その言葉、いったい誰に教えてもらったんだ? あ、わかった。また蓉子おばさんだな? まったくあいつは、自分がなりたかったからって、まだ小さいてっこにまでこんなこと言わせて。困ったおばさんだよなあ?」
「ちぁうよ、わたち、ほんとになりたいよ」
地団駄を踏むのに、父は私の頭をなでて表情を崩した。
「まあ、蓉子おばさんがいくら頑張って言葉を教えても、二歳じゃ覚えられない子は覚えられないからな。うちのてっこはさすが天才だなあ。やっぱりこんな小さな神社からはばたいてもらわないと」
もう、なんでそうなるのっ。
あまりのままならなさに、とうとう視界が滲んでくる。
父は涙目になった私を見つめながらも、ほとんどひとり言のようにつづけた。
「まあ、てっこが本気で神主になりたいとしてもだぞ? 変わってはきているけど、この世界はまだまだ男社会だ。女性ひとりだと嫌な思いをすることもあるだろう。それに、氏子のみなさんに悪い人はいないけれど、まあ、なかにはちょっと女の人に対する態度が心配な人もいるしな。そういうことを考えると、お父さん、てっこには簡単に神主さんになれなんて言えないよ」
「やだ、てっこ、かんむししゃんになりたいっ」
私の頭をふたたび父が優しくなでる。
「お父さんな、さっきもちょっと言ったけど、てっことまさくんのふたりには、もっともっと広い世界に目を向けてほしいんだ。今はこの境内が世界のぜんぶみたいに見えるかもしれない。でも、ふたりにはいろんな可能性があることにも気がついてほしい。神主や巫女より向いていること、好きなことができるかもしれない。だから、まずは外の世界に出てごらん。そのまま戻ってこなくても全然いいんだ。特にてっこは、蓉子おばさんから夢を見る役目をいつか引き継ぐことになると思う。蓉子おばさんも、汀子のばあばから引き継いだからな。だからって、この神社に縛られる必要はないってことだけは、よく覚えておくんだぞ。なあに、てっこが戻ってこないときには、聖神様がなんとかしてくださるさ」
「おとしゃん」
聞きながら、私はすこし驚いていた。高校生のころ、進路のことで言い争っていたときには、ただ頭ごなしに大学へいけと言うだけだった。こんな気持ちを打ち明けてくれたことはなかったのに。
年ごろの娘とどう接していいのかわからないだけで、私の将来を想ってのことだと蓉子おばさんには言われたけれど、当時は素直に信じられなかった。今みたいに話してくれたら、私だってもう少し──。
「あれ、まさくん、いつからそこにいたんだ?」
父の視線をたどったさきに、お兄ちゃんが立っていた。
「う~ん、いちばんさいしょから。でもお父さんが言ったこと、てっこはまだわからないと思う」
「あ、そうだよな。でも、てっこが急に大人みたいな口調になったから、ついついお父さんも本気になっちゃってさあ。っていうか、まさくんにだってまだちょっと早かったよな」
「別に、ぼくはわかったけど」
母よりも、父に対するお兄ちゃんの態度は素っ気ないけれど、それでも耳まで真っ赤にしながらお兄ちゃんはつづけた。
「それにこの神社のこと、ぼくも好きだし」
兄の意外な告白に、なんだか心がじんわりとほぐれる。
父の気持ちはうれしかった。うれしいけれど、やっぱり私も兄と同じでこの神社が好きだ。時帰りをしにやってくる人たちが、笑顔を取り戻して去っていくことに幸せを感じている。大学にいって、ほかの仕事のことだって考えてはみたけれど、この気持ちが揺らぐ気がしない。私が神社を継ぐことで、お兄ちゃんだってひとりで色々かかえこまずに済むはずだ。
「だいじょぶ」
「ん?」
「てっこ、かんむししゃんがいちばんやりたいこと。このきもち、ずっとずっと変わらないから」
「はは、そうなのか? そうだなあ、高校三年生くらいになっても同じ気持ちなら、もう一度話そうな。いやあ、それにしても、てっこの暗記力はすごいなあ。これは、女優さんなんかもいけそうだな」
お父さんの、嘘つき。進路を本当に決めなくちゃいけないころにはもう、お父さんはいないじゃない。
もっと主張しなくちゃいけないのに。きちんと伝えたいのに。
今、言葉を発したら、きっと涙が溢れて止まらなくなってしまう。
「うぅ」
ぽろりと涙のつぶをこぼした私を、父とお兄ちゃんがいっしょになって必死にあやそうとする。父の手をがぶりと噛んでも、手の届く場所を叩いても、ふたりともまったく怒らずに笑っている。
「てっこ、かんむししゃんっ」
しまいには癇癪を起こしたのに抱きしめられて、ただ途方にくれるしかない。
タマが竹林のほうから、気の毒そうにこちらを見つめていた。
お昼ごはんのあと、幼児用の布団に寝そべって眠気と格闘しているとタマが近づいてきた。
『汀子、もうあまり時間がなさそうですね。神主のことはいったん脇において、早紀のほうに働きかけたほうがよさそうです』
「そうしゅる。おとしゃん、にぶしゅぎ」
『まあまあ。本当にあなたたちのことを想ってのことなんですよ』
「うん──」
母にお兄ちゃんのことをお願いするまえに、タマに確かめておきたいことがあった。きのうの夜、母が声をひそめてタマに話していた、あの言葉の意味だ。
しかし私より早く、タマが口を開いた。
『それから、これはとても言いづらいことなのですが、あなたに大事な話があります』
「どうしたの?」
こちらの様子をうかがうようにしたあと、タマが静かに話しはじめた。
『きのうの夜に話しかけたことのつづきですよ。あなたがた兄妹の母親、早紀は、雅臣が時帰りで事故を回避させたせいで、代わりに病気になったと言いましたね』
「うん」
腕がぞわりと粟立った。嫌だ。このつづきを聞きたくない。
『それは違うと思います。なぜなら早紀は、おそらくもう病気なのですから』
「──ほんとう?」
言い返す声に力がこもらない。
『ええ。これが嘘であればどんなによかったことか』
近づいてきて頭を体にこすりつけるタマをぐいっと小さな手で押しやる。
「しょんなのダメッ」
母が病気のことをこんな時期から耐えていたなんて。どんな道を通っても、私たちの前から消えてしまうなんて。
駆けようとしたけれど、どたどたと進む私の横にぴったりと寄り添って、タマもついてくる。
『走るとあぶないですよ、汀子』
「ちゅいてこないでっ」
『でも──』
「こら、ふたりともどうしたの? てっこもタマもおいで」
部屋を飛び出した廊下の先で、母が手を広げて私たちを捕まえた。
お日様みたいな匂いに包まれ、勝手に涙が溢れてくる。幼児の体に閉じこめられると、心まで子どもじみてしまうなんて知らなかった。
どんな道をたどっても母が亡くなることはわかっていたはずなのに、それでも胸のなかで確かに感じられる温もりが消えてしまうと思い知るのはつらい。
聖神様、こんなことになると知っていながら、私を過去に送ったのはなぜですか?
自分から頼みこんだくせに、聖神様にまで八つ当たりしたくなるくらい胸が苦しい。
「昨日からよく寝てよく泣くわねえ。毎日ちゃあんとお仕事してえらいわね」
「おちごと?」
「二歳のお仕事は、よく寝て、よく食べて、よく泣くことなの。知らなかった? 知らなくてもちゃんとできてえらいなあ」
またしても私を褒めすぎる母にあやされ、底辺を這っていた気分がほんの少し浮上してしまう。母は、私の頭をふわふわとなで、ふたたび居間へと連れもどした。
「さ、お母さんとあそぼっか。それとも、眠くなっちゃった?」
「てっこねみゅくない。おかしゃんとおはなししゅる」
まだ少し。あと少しだけ、母といっしょに過ごしたい。父と話したい。両親がいて、世界がどこも欠けていなかったこの日々に、甘やかされていたい。
「ほんとにずいぶんお話が上手になったね。やっぱり天才かなあ。てっこ、お勉強がはじまったら百点のテスト、いっぱい持って帰ってきそうだね。お母さんほんとに──ほんとに、楽しみだなあ」
母がぎゅっと私を抱くから、私もありったけの力で抱きかえす。
「おかしゃん」
私のテスト、お兄ちゃんが苦手な国語だって、いっつも満点だったよ。見せたいよ。見せたかったよ。
学校の作文だって、お母さんのことを書きたかった。いっしょにお出かけして洋服を選びたかった。七五三だって、成人式の晴れ着だって、いっしょに見つくろいたかった。巫女の舞だって見せたかったし、神主になりたいって相談だって真っ先にしたかったのに。
ねえ、お母さん。病気って、本当? きのう病院にいったのは、風邪なんかじゃなくてそのせい? そんなに悪い病気だったの?
言いたいことは尽きないのに、どうしても口が開かない。
「おかしゃん、だっこ」
「あらら、甘えんぼちゃんでしゅね」
私をかき抱くと、母もこらえていたように泣きだした。
父には聞こえないように、抑えた声で静かに、静かに泣きつづける。
母は、きれいで優しいだけじゃなく、こんなに強い人だった。この強さで、最後まで私たちのために頑張ってくれた人だった。
二歳でしかない私は、母を抱きかえすことしかできなかった。