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第二話 『私の話を聞けっ』

 

 夏が居すわる九月のはじめ、汀子が境内を掃き清めながら、ほうきにじゃれていた私にそっと尋ねました。

「タマはさ、お兄ちゃんがどうやって時帰りをしたか知らない?」

 そうなのです。最近の汀子は、一条神社に伝わる文書を読みあさっていたり、本拝殿に向かって長々とお祈りしていたりと、時帰りにいたく興味を持っているようなのです。

「お兄ちゃんが時帰りしたのはお母さんが闘病してたときだよね? そのときは私が年少さんだから、お兄ちゃんは小学校二年生の時点に時帰りしたのかぁ。だとすると、時帰りを決断したのは、当然それより未来のお兄ちゃんでしょう?」

 とつぜんの質問に動揺してしまい、顔をごしごしとこすってごまかします。しかし汀子は追及の手を緩めませんでした。

「お兄ちゃんがいくつのときに時帰りするチャンスがあったのか考えたんだけど、私、お告げの夢にお兄ちゃんの姿なんて見た記憶がないんだよね。ってことは、私がお告げを受け取るようになる前に実行したはずなのよ」

 なるほど、確かにそうなりますね。

「で、私がお告げの夢を見るようになったのは小五のときだから──私が三歳から小四くらいまでのあいだ、つまり、お兄ちゃんが満七歳から十四歳のあいだに時帰りしたってことだよね。そういえば私の前って、誰がお告げの夢を見てたのかな。お母さん? それともお父さん? あのころの時帰りの舞って、誰が踊ってたんだろう」

「にゃあう」

 ネコ語でその質問すべてに答えるのは少々無理がありますよ、汀子。

 訴えるように見あげれば、汀子は私の答えなど期待していなかったのか、盛大なため息をついています。

「にゃう、にゃにゃにゃ、にゃうにゃう」

 あなたの前にお告げを受けていたのは、今は亡きあなたのおばさんなのですよ。ほら、材木座の『土手』に嫁いだあの蓉子おばさんが、お告げを受けて神楽も舞っていたのです。彼女の子育てが忙しくなって、こちらの手伝いに来るのが難しくなったころ、聖神様が心得たようにあなたにその役目を移したのですよ。

 はじめて夢で参拝客を見たと話したとき、家中が大騒ぎになったでしょう。蓉子おばさんが「ようやくお役御免だわ」と万歳していたこと、あなたは覚えていないのですね。

 語りかける猫語が伝わるはずもなく、しゃっと汀子がほうきを動かしました。

「お兄ちゃんに色々聞いてみたいけど、変に勘ぐられたら面倒だしなあ。あ、お兄ちゃんといえば、さいきんやけに時帰りに協力的だけど、相変わらず悪夢にうなされてるよねえ。いったいどうしたら、ちゃんと眠れるようになるんだろう」

 汀子も、雅臣を悪夢から救うヒントが過去の時帰りにあると考えているのですね。ならば、兄のために時帰りをしたいのでしょうか。なんて、なんてやさしい子に育ったのでしょう。

「お兄ちゃんのお肌が荒れたら、マダムたちからのご祈祷の依頼に差しつかえちゃう。どうにかして穏やかに眠ってもらわなくちゃ」

「──にゃ?」

 足元にぐりぐりと頭をこすりつけると、汀子がしゃがみこんで私の頭をふわりとなでました。

「そうだ、タマ。きょうもお客様のご案内をよろしくね。ちょっと重めの事情を抱えてそうなの。参拝しているときの表情がかなり暗くてね。お兄ちゃん、すんなり時帰りをさせてくれるといいんだけど」

 なるほど、それは一筋縄ではいかなそうです。慰めるつもりで巫女袴の裾に体をこすりつけると、今度はさっと抱き上げられ、お腹をすんすんと吸われてしまいました。

「あ~あ、タマがヒト語をしゃべれたらなあ」

 ほんとにねえ。

 それにしても汀子。あなた、いったいいつの時点に戻りたいのです?

 にゃあにゃあと尋ねる声をおねだりと誤解され、またお腹を吸われてしまいました。

 もう、およしなさいっ。

「わ、いたっ」

 

 

 ごめんね、美優。ごめんね。

 母の夢はいつも、この言葉で終わる。

 まいにち、薄くてもていねいにお化粧をする人だったのに、夢のなかの母はマスカラもファンデーションも涙で不格好にはがれおち、髪の毛も乱れたまま縋りついてくる。

 はっと目が覚めた瞬間から、ずっしりと気分がふさがっていた。

「いったい、いつまでこんな夢を見るのよ」

 よりによってきょうは誕生日なのに、また見てしまった。

 夫はもうゴルフに出かけてしまったらしい。明け方、玄関ドアの音を夢うつつで聞いたけれど、起き上がって見送ることはしなかった。彼が私の誕生日を忘れているのは想定内だったはずなのに、いざ現実となるとやはり胸がひんやりとする。

 この三年間、ずっと彼を許せていない。子どもができたときに、エコー写真を見て「なんか不気味だな」と言い放った。あの段階での流産はよくあることだから、彼のせいでも誰のせいでもないのだと頭ではわかっていつつも、やはりあのときうけたショックも一因だったのではないかと心のなかで責めてしまう。赤ちゃんが去ったあとも、「またそのうちできるよ」と他人事みたいだった。

 やがて、いつまでも同じところに立ち止まっている私への彼の苛立ちが伝わってくるようになった。だから、どうにか立ち直ろうとカウンセリングに通ったり、趣味を探したり、ランニングをはじめたりして、くすぶる怒りをなだめながら夫と暮らしてきた。

 彼に対して、自分のネガティブな感情をはっきりとは伝えていない。

 父や祖父から自分の心を守るために、感情に蓋をして、あえて逆らう言葉をぶつけないよう過ごすうち、いつの間にか夫にも、なにか言いたくても言えなくなってしまっていた。

 だから、なるべく一緒にいない。朝ごはんも休日も別々。リビングで時々並んでお茶を飲むけれどお酒は飲まないし、努めて表面的な会話に終始している。天気の話だとか、電気料金やお米の値段が上がったことだとか、そういう、初対面の相手とでも成立するような会話を交わす。

 問題なく過ごしているようで、私たち夫婦は子どもを失ってからギクシャクしたままだ。

「静かだな」

 カーテンの向こうからかすかな明かりが漏れているのに、朝が来た気がしなかった。

 空気に無数の棘が混じったようなこの雰囲気を、私は知っている。むしろ、懐かしいとさえ思ってしまう。父と母がまだいっしょに暮らしていたころの実家のそれと、とてもよく似ているから。

「起きて動かなくちゃ。せっかくだし」

 誰もいない家にいるのが耐えがたい気がして、週末は必ず外出するようにしている。いつもは近所のカフェや公園だけれど、きょうは鎌倉までいってみるつもりだ。SNSで見かけたぼろぼろの社殿になぜか心惹かれ、実際に見てみたくなったのである。

 潮の香りを胸いっぱいに吸いこむ自分を思い描き、どうにかベッドから抜けだした。

 

 鎌倉駅についたのが朝の九時。さすがは人気の観光地といった人出で、国内外から訪れる人々で駅の周辺はそれは賑やかだった。しかし、いざバスに乗って十五分ほど揺られただけで、車窓からはほぼ山の木々しか見えなくなった。神社最寄りのバス停に降りたったとたん、おなじ市内とは思えぬほどの静けさが広がっている。

 昨日までの残暑が嘘のように風が涼しい。道路脇に竹や木々が生い茂っているせいか、そう雲は多くないのにあたりが薄暗く、ほんの少し不気味だった。

「このバス停であってるんだよね」

「にゃ」

 返事をしたかのような鳴き声に、驚いて「ひゃっ」と小さく叫んだ。見れば足もとに、たいそうきれいな白猫がちょこんと座っている。

「どうしたの? なつっこい子だね」

 しゃがみこんで頭をなでてやると、うっとりと目を閉じている。人慣れしているから、このあたりの飼い猫なのだろう。

「にゃあ」

 もうひと鳴きすると、白猫は、空が暗くなっているほうへと歩きだした。そういえば、つい先ほどより黒々とした雲がふえてきた。もうすぐ雨が降りだすのかもしれない。

 どうやら猫が進むのと同じ方向に目指す神社があるようだ。ナビを見ながら進む私を、かなり先まで行っていた白猫が、立ち止まって振りかえっている。近づいていくと、急かすように「にゃあん」と何度か鳴いた。

「どうしたの、伝えたいことがあるの」

 猫が二本足で立ち、訴えるようになにかを引っ掻いている。さらに近づいてみれば、道ばたの立て看板をカリカリとやっているのだった。

 看板には“一条神社”と流麗な文字でしたためられた案内板があり、右手を差す矢印が添えられていた。

「へえ、ここだったんだ」

 矢印の差す脇道へと、猫といっしょにそれてみる。小径の両側を背の高い竹林が囲んでおり、入口からは終わりが見えない。頭上には、絵筆を走らせたような細い青空が伸びていた。

 あれ、あんなに曇ってたのに晴れてる?

 立ち止まって見上げていると、白猫がわざわざ戻ってきて足元に顔をこすりつけた。

 うながされるようにしてまた歩きだす。なんだか、竹林に見られているような気がして落ち着かない。うまく説明はできないけれど、バス通りとは明らかに空気が異なるようだ。そういえば鳥居が見当たらないから、この竹林が代わりに、境内と外界を分けているのかもしれなかった。

 唐突に竹林が途切れ、開けた場所に出た。眼前に、SNSで見たとおりの、いや、それ以上の相当なぼろ神社が辛うじて建っている。

 裏手に回ってみると、屋根の一部が焦げついていた。地面にはひび割れたあともあって、お社が崩れないのが奇跡に思えるほどだった。

「なんだか親近感わくなあ」

 知らずに独りごちていた。日常をぎりぎりのところで保っている今の自分と目の前のお社が、とてもよく似ていると思ったのだ。

「いらっしゃいませ」

 正面に戻ってお財布を取りだしたところで、唐突に背後から声をかけられた。振り返ると、少しびっくりするほど美しい巫女さんが満面の笑みを浮かべて立っている。

「すみません、お待たせしちゃいましたか。買い物に出てて。雨が降るかと思ったら急に晴れるから拍子抜けしてたんですけど、きっとお客様のおかげですね。うちの神様が喜んでるみたいです」

「あの、どなたかとお間違えでは? 私はただ参拝に来ただけなので」

「いえいえ、お待ちしていたのは間違いなくお客さまです。くわしくはぜひあちらのカフェで。名物の竹林も楽しめますし」

 巫女さんが手の平で指し示したほうへと視線を向けると、おなじ境内に建っているとは思えないモダンな建築物があった。

 お社の見た目が強烈すぎて、気づかなかったな。

「〈こよみ庵〉というんですよ。ささ、少しでも座るとかなり体が楽になりますし」

 有無を言わせない口調にどことなく不穏なものを感じつつ、好奇心も手伝って少し休んでいくことにした。

 

(つづく)