陽の光が海面に反射してとてもきれいだ。陸では体を緩ませてくれる温かな春風も、海で濡れたあとは容赦なく体温を奪っていく。
立ちあがってボードを脇に抱え、海に入っていった。
黎さんがこちらに気がついて、ニッと白い歯を見せて笑う。
もう三十過ぎのおっさんなのに、こうして目があうと、黎さんとはじめて出会ったときの小学生みたいな気分になる。
知ってますか。俺はもう、今の黎さんより年上なんだ。きちんとしているかは疑問だけど、それなりに大人になったんだ。波には、もう乗っていないけれど。
海水で顔を乱暴にこすり、パドリングをして波間に浮かぶ黎さんのボードを目指していく。
今はまだなにも起きていないから。
俺の前に、サーファーとしてのキラキラとした未来だけが広がっていた最後の時間を、今この一瞬を、黎さんといっしょに無邪気に楽しんでもいいですか。
「出たっ、学校サボった不良」
こちらの気も知らずに、黎さんが無邪気に笑っている。
「週五サボったことある黎さんにだけは言われたくないっす」
「おまっ、それ誰から聞いた? あ、ノリさんだろう? あの人、くだらねえことばっか教えやがって」
じゃれあっているあいだに、いい波がやってきた。
「よっしゃ、あれ行ってこい。タメの一秒、忘れんなよ」
「うっす」
黎さんとふたりでサーフィンをしている。そのことに、胸がいっぱいになった。
ここで、すこし待つ。
テイクオフしようとする体を一秒だけ止めて、波に乗る。
「よっしゃ、その感じな。あしたもそのタイミング忘れんなよ。駆け引きに引っかかりさえしなきゃ、上位は間違いないからな」
ターンした瞬間、両手を上げて笑う黎さんが視界にはいり、自分がこんなにも、この世界を美しくとらえ、日々を愛していたことを思いだした。
スクールのレッスンに入った黎さんを横目に、午前中いっぱいサーフィンに興じたあとで、クラブハウスでシャワーを浴びて帰宅した。
「急に具合悪くなって早退してきた」
潮水の痕跡を残したつもりはなかったのに、なぜか母親には嘘をすぐに看破され、居間で長い説教をくらう羽目になった。
「まったく、いくら明日がトライアルだからってあなた、学校をサボるなんてありえないでしょ。そんな態度じゃサーフィンのこと、応援できないからね。聞いてるの?」
「うん、ほんとごめん。でもどうしても、今日は波乗りしたかったんだ」
兄とは年の離れた次男だったせいか、甘やかされてきたという自覚がある。殊勝に頭をさげた俺を見て、母は大きくため息をついたけれど、それ以上は叱ろうとしなかった。
代々、内科医の家系で、地域に密着したかかりつけの医院として頼りにされてきた。先生と敬われる祖父や父親を内心では誇らしく思いつつも、成績優秀な十歳上の兄がいたから、次男の俺はサーフィンに打ちこんで、将来のことはゆっくり考えればいいと思っていた。しかし、兄は臨床よりも研究に打ちこみたいと言って、実家の跡継ぎになることを拒否したのだ。たしか、この日の一週間くらい前のことだったと思う。
あした両親に宣言するといって、その前の晩、兄は俺に打ち明けてくれた。まさに青天の霹靂だった。
「インターン期間が終わったら、大学病院に残って研究医の道に進みたいと思ってる。医院は継がないつもりだ。これから親のプレッシャーがきつくなるかもだけど、俺はおまえも好きな道に進んでいいと思ってるから。なにかあれば力になるからな」
そんなふうに言われても、俺は、兄貴みたいにみずから道を切り拓いてきたことのないお気楽次男だった。親に期待されたこともなければ、道を示されたこともなく、自分の望みを守れる精神的な強さも覚悟も、己のなかに宿っているか疑問だった。
ただひとつだけわかっていることがあった。はたから見れば今どき古くさいと感じられるかもしれないが、やはり三代つづいた医院を息子たちふたりともが継がないなんて、なかなかありえないということだ。
あの夜、兄は、ほんのすこし申し訳なさそうにしながらも、瞳はこの先への希望で輝いていた。変に聞こえるかもしれないけれど、兄と黎さんが、一瞬、とてもよく似て見えたのを今でも鮮明に覚えている。
子どものころから、弟思いな人だった。よく小さなころはいじめられていたという世の弟たちの苦労話を聞くけれど、俺に関して言えば可愛がられた記憶、弟だからと譲ってもらった記憶しかなかった。どこへ行くにもついていったし、きっと邪魔だったろうに、いつも笑顔で面倒を見てくれた。
そんな兄だから、両親の期待に応えようと、精一杯自分を抑えつけてきたであろうことは想像に難くなかった。
そこまでわかっていても俺は、弟根性でこんなことを尋ねた。
「研究と町医者、同時にはできないの?」
「うん、それは難しいと思う」
「──そっか」
どうせ俺が医院を継ぐなら、あのとき“応援するよ”のひと言でもかけてあげられたらよかった。今でも兄は、父が倒れたことも、俺が医師になったことも、自分のせいだと負い目を感じているふしがあるから。
「どうしたの、珍しく物思いにふけっちゃって」
母の声で、我にかえった。
自宅のリビングは今と変わらないようで、少し異なっている。嵌め替えたばかりの掃き出し窓はサッシまでぴかぴかだったし、観葉植物たちも今ではもう消えたものもちらほら。なにより、落ち着いて観察してみれば母が若々しい。
「お母さんさ、少し休んできたら? 疲れて見えるよ」
「え? そう? 大丈夫よ」
わかっている。しかし、このあと電話がかかってきたらしばらく大変になる。今のうちに少しでも休んでおいたほうがいい。
伝えられないもどかしさを押しころし、だまってコーラを飲み干した。
そろそろだ。
最後のひと口を飲みこんだとき、家の電話がけたたましく鳴った。
「あら、誰かしら」
母がのんきにつぶやいて、受話器を持ち上げる。
「もしもし?」
そう言ったきり、どんどん青ざめていった。
時帰りする前は学校にいたから、母がこんな顔で電話を受けていたことを知らなかった。
立ち上がって近づき、呆然と立ったままの母から受話器をそっと取りあげる。
「すみません、お電話代わりました。俺が代わりに話を聞きます。はい、透です。ええ、A病院ですね。はい、わかります。はい、はい、ええ、わかりました」
いったん受話器を置いてタクシー会社に電話をかけ、家の前まで来てもらうことにした。振りかえると、母はまだ立ちつくしている。
「指示されたものをメモったから、すぐに病院に向かおう。まず、保険証はどこ?」
「えっ、あ、そうね。準備しなくちゃ」
電話をかけてきたのは、父の医院で看護師をしているベテランの女性、岩田さんだった。俺も小さいころから知っている相手だ。
──先生が倒れたの。途中までは意識があったんだけれどね。透君、お母さんといっしょに病院まで来られる?
そう告げたあと、早口ながらも丁寧に父の状態と病院の場所、持ち物を指示してくれた。
父は手術に同意したあと意識を失ったこと、これから緊急手術が行なわれること。岩田さんは家族ではないため病状は説明してもらえなかったが、経験上、おそらく脳ではないかということ。岩田さんの推測はただしく、父は脳出血を起こしており、その手術が成功するということまで知っているはずなのに、動揺して返事をする声がうわずった。
たしか手術後、担当医から詳しい説明がなされたと記憶している。その場には兄も駆けつけていた。
手早く準備を済ませて、ちょうど到着した迎えのタクシーに飛び乗り、父が運びこまれた病院へと向かった。
母といっしょにいられてよかった。今は徐々に気持ちを立て直しているようだけれど、電話を取った直後のあんなに心細そうな顔は、あとにも先にも見たことがなかった。
幸い道も空いており、病院には予想より早く到着した。父はすでに手術中だった。たしか、四時過ぎまでつづく大きな手術だったはずだ。
無事に終わるのを待って──今回こそ黎さんに会いにいく。
家族用の控え室で母と待っていると、記憶どおりに兄が駆けつけた。
三人ともしばらく無言だった。
そろそろ告げてもいいころだろうか。二度目だというのに、やはり胸が引きちぎられるようだ。
「あのさ、母さんも隆兄ちゃんも心配しなくていいから。俺が医院を継ぐ。でも父さんが復帰するまでしばらくかかるだろうから、そのあいだだけ、おじさんたちに医院のことをお願いできないか、母さんと兄ちゃんから頼んでくれない?」
「透──おまえ、あしたサーフィンのプロトライアルだよな。ずっと頑張ってきたんだろ」
「そんなの別にまた来年でも受けられるし、兼業プロもたくさんいるしさ。どっちにしろこんな状況じゃ集中もできないから、今回はいいんだ」
目が泳がなかっただろうか。表情は平静を保てていただろうか。
無言のまま、赤い瞳で俺を見上げる母さんに、笑ってみせる。
「さっきも言ったけど、父さんは絶対に復帰できるから」
「だったらなおさら、自分の夢を諦めちゃダメだろ。医院のことは俺からおじさんたちに頼んでなんとかするからさ、透はなんにも気にしないで好きなこと追いかけていいんだ」
訴えかける兄の視線を正面から受け止めたとき、当時も抱いた想いが鮮やかに甦ってきた。
俺は、実家を継ぐことが嫌じゃなかった。むしろ、そうしたいと素直に思ったのだ。
心のどこかでわかっていた。本当は、いつ覚悟を決めるかという問題だった。
サーフィンは自分の一部だったし、世界そのものといってよかったけれど、心のどこかで、どれほど努力しても自分が望む場所までは到達できないこともわかっていた。どんなスポーツもそうであるように、能力の差を突きつけられる機会ならくさるほどあったから。実際、中学生で早くもプロになったやつらを見て、鬱々と眠れなかった夜も数えきれないほどあった。
記憶の澱に葬り去っていたけれど、俺は、けっこう静かな気持ちでこの選択をした。しかしそのことを黎さんにだけは告げる勇気がなくて、サーフィンからではなく、黎さんから逃げたのだ。
トライアルをすっぽかした俺を、黎さんは怒るどころか心配して、なんども連絡をくれていた。俺が事故でも怪我でもなく、ただ単に行かなかったのだとわかったあとも、留守電には「お~い、浜に来いよぉ」と軽さをよそおった声でメッセージを残してくれていた。
でも俺は知っていた。俺のふるまいが原因で黎さんが相当落ちこんでいたことを。自分のせいでサーフィンをやめたのではないかと、あさっての方向に誤解をしていたとも聞いた。
やる前から諦めるやつ、情けないやつ。そんなことを、黎さんなら言わない。にかっと笑って新しい道へと送りだしてくれたはずだ。それでも内心で失望されるのが怖くて、俺は一度もメッセージに返信をしなかった。
しまいには着信拒否にしてスクールの人たち全員と交流を絶ち、その後の黎さんの情報がまったく耳に入らないようにしてしまった。
父に医院を任せてもらえるくらいになったら挨拶に行こうなんて、それらしい言い訳まで用意して。そんなの、もう間に合わないことを知りもしないで。
今度こそ逃げない。そのあと、十年以上にわたって後悔を抱えることの恐ろしさをもう知っているから。
口をへの字にしてこちらを覗きこむ兄に、俺は静かに笑ってみせた。
「兄ちゃん、俺、実はサーフィンに限界感じててさ。それより医者のほうが自分に合ってるって、心のどっかではわかってたんだ。だから、しぶしぶこの選択をするわけでもない。ちゃんと望んでそうしたいと言ってるから大丈夫だ」
「──そうなのか?」
「ん」
わずかに目を見開いたあと、兄はあいまいにうなずいた。まだ俺の言葉を疑っているのだろう。母は、無言で泣いている。
「母さん、ほんとに大丈夫だからさ。手術してくれる先生のこと信じて待とう。そうだ、俺、コーヒーでも買ってくるよ」
ふたりをその場に残して、病院に併設されているカフェまで早足で向かう。
涙が遅れてやってきたけれど、どんな感情を昇華するために流れているのかわからなかった。
それから二時間ほどしてようやく長い手術が成功し、俺たちは集中治療室のガラス越しに父の姿を見た。
ちなみに親父は、根性のリハビリで二年後には診察室の椅子に返り咲くことになる。
「父さんは、ぜったいに大丈夫。こっちが止めてもまたすぐに聴診器を首からぶらさげて笑ってるよ」
「そうね、そういう人よね」
母がようやく笑った。兄は、無言のままじっと父を見つめていた。
「俺、ちょっと黎さんのとこに顔だしてきていい? あしたの話、したいんだ」
「トライアルには出たら? 幸い、手術は成功したんだし、お父さんだって応援してたのよ?」
「いいんだ。来週は模試だし、医学部に進学するなら、そろそろ頑張らないとさ」
「──そう」
母は一呼吸おいたあと、「ありがとう」と声を絞りだしてまた泣いた。たぶん、慌てて手洗いに向かった兄も。