最初から読む

 

 父と並んで、家の門を出た。昨日、ビッケはどんな気持ちでここまでやってきたのだろう。きっとぼくのにおいはドアごしにでも嗅げたはずだ。永遠に開かないドアを見て、どんなに悲しい思いをしただろう。

 はやく新しい家族に馴染むんだ。おまえにきちんとかまってやれる家族と、うまくやっていくんだ。

 きっと近所のどこかにいるに違いないビッケに心のなかで話しかけながら、父の隣を黙って歩いた。

 意外なことに、父はそう歩かないうちに、一軒の住宅の前で立ち止まった。スマホの画面と表札を交互に見て確認している。

「ここだな」

「──だれの家?」

 尋ねてはみたけれど、ぼくはここがどんな場所なのかよく覚えている。海外の住宅を思わせる、白い木の壁の一軒家。ここは、ビッケが産まれた場所だ。さいしょはきょうだいたちと、最後は一匹になって、新しい家族が見つけてくれるのを待っていた場所だ。

 一階をウッドデッキが取り囲んでいて、木製のロッキングチェアの上で、猫が日なたぼっこをしている。

 じりじりと後ずさりした。

「パパ、ぼく、ここいやだ」

「いいや、パパを信じろ。絶対に気に入ると思うぞ」

 なにも知らない父の言葉に、地団駄を踏んだ。

「こんなとこやだ。こうえんにいきたい」

「さあさあ、いいからいいから」

 父が、門の脇にあるインターフォンを押す。

『は~い?』

「あ、ご紹介でうかがった植村と申しますが」

『はい、そのままお待ちくださいね』

 人のよさそうな声とともに、やんちゃな鳴き声が響いている。

 くぐもった足音につづいて、そっと玄関が開いた。

「ようこそ。さ、お入りください」

「ありがとうございます」

 父がぼくの手を引こうとしたのを、勢いよく振りはらった。

「いやだってば。いかない」

 叫び終わるまえに、門の外に向かって走りだす。

「こらっ、なぎ君っ」

「あらどうしましょう──きゃっ、あなたもダメよ。ハウスッ」

 いやだ。あの家に入ったら、どうしたってビッケのことを考えてしまう。ビッケはもういないのに。ほかの家の子になってしまったのに。

 父はおそらく、ぼくが子犬を飼いたいのだと誤解していて、ビッケ以外の子を家族に迎えようとしているのだ。

 そんなこと、耐えられない。ぼくの家族になる犬は、あとにも先にも、ビッケだけだ。

 門を出て、迷いなく右に曲がった。すぐあとから父が追いかけてくる。どんなに走ったってこの体じゃすぐに捕まるから、ぼくしか知らない抜け道を使う。

 急いで道を渡り、家と家のあいだのごく細い隙間に、横向きになってすべりこんだ。

「あれ、なぎ君? おおい、なぎ君、どこだぁ?」

 父の焦った声が聞こえてきた。心配をかけるのは申し訳ないけれど、今ばかりは言うことを聞くわけにいかない。

 さらに奥へ、奥へとカニ歩きで進んでいく。しかし、今度はありえない声が追ってきた。

「キャンッ、キャンッ」

 まさか──。

 おそるおそる後ろを振りかえると、子犬がちぎれるほどしっぽを振って、ぼくに向かってかけてくる。

「こ、こら、またっ」

「クゥ、クゥ、クゥゥゥン」

 いいかげん、頭を抱えたくなった。なぜそう何度も、家族のもとを抜けだしてくるんだ。あのおねえさんは、ちゃんとビッケが逃げださないように管理していないのだろうか。

 いつまでもここでぐずぐずしていたら、父に見つかり、あの家に連れもどされてしまう。足元にまとわりつくビッケを踏まないように注意しながら、前へ、前へと慎重に進み、ついに広い道へと出た。しかたなくビッケを抱えてやれば、鼻をくんくんと鳴らしておとなしくなる。

「なにやってるんだよ」

 どうして飼う前の飼い主に、もうこんなに懐いているのだろう。もしかしてぼくには、ぼくとビッケの想い出の匂いでもついているのだろうか。

「なあ、それってどんな匂いなんだ? 寂しい思いをたくさんさせたから、きっと悲しい匂いだろう? それなのにどうして──」

 水っぽくなった目もとを乱暴にこすって、とりあえずビッケをあの家の庭に戻すことにした。玄関チャイムを鳴らして事情を話せば、あのおねえさんのもとに返してくれるだろう。

 残った光の棒は、もうかなり薄くなっている。

 あたたかな体を抱きしめ、これで本当の本当に最後だと自分に言い聞かせながら歩く。

 のろのろとさっきの家へと戻り、ビッケを抱いたまま玄関チャイムを押した。

「なぎ君、なぎく~ん?」

 すぐそばから、ほとんど泣きそうになった父の声が聞こえてきた。はやく合流してあげなくては。

『は~い』

「あの、このワンちゃんって、ここからもらわれた子ですか? ぼく、つれてきました」

 カメラに向かって、ビッケを掲げてみせた。

『あら、今、うちの息子たちが捜しまわってるのよ。よく見つけてくれたわね。さっき玄関を開けたときに飛びだしちゃって』

「えっ? ここにかえってきてたの?」

 尋ねたけれど、もうモニターの通信は切れている。

 なぜだろう。もしかしてこの子はビッケではなく、よく似ているきょうだい犬だろうか。いや、ぼくがビッケを間違えるわけがない。このたれ目も、顔と背中のぶち模様も、たしかにビッケのものだ。

 どちらにしても。もうお別れだ。

「ここでバイバイだからな。ちゃんとあのお姉さんのとこに返してもらうんだぞ」

 玄関が開き、意外にも今とそう変わらず溌剌とした様子のおばさんが現れた。

「わあ、ほんとにチビだ。さ、おばちゃんが預かるね」

「ウゥゥ」

 おばさんが手を差し出したとたん、ビッケが身を固くしてうなりだした。それでも無理にぼくから引きはがして、おばさんに押しつける。

「それじゃ、さよなら」

「あ、ちょっと」

 ろくに顔も見ないでおばさんに挨拶すると、その場から走って逃げだした。

 もうこれ以上は耐えられないと思った。

 まだ腕のなかに、ビッケのぬくもりがのこっている。あのあたたかさが消え、鼓動が止まって硬くなった抜け殻を、知っているから。

 だからごめん、ビッケ。

 胸が焼けるほど苦しくなっても、足を止めずに実家へと走りつづけた。

「おおい、なぎ君、なぎく~ん?」

 ふたたび父の呼び声が聞こえてきた。とたんに気がゆるんで視界が潤んでいく。今だけは小さな子どもに戻りたかった。

「パパ、ここだよ。ここにいるよ」

 父が道の向こうで手を振っていた。左右を確認し、走って横断歩道を渡ると父が抱き上げてくれる。

「勝手にいなくなっちゃダメだって言っただろ」

「うん」

「──どうした、泣いてるのか。迷子になっちゃったのか?」

「ううん、泣いてないよ」

 ただ少し、胸が痛いだけ。この決断が正しいと信じているのに、痛くて、痛くて、どうしようもないだけ。

「か、かえろう、パパ」

 しゃくりあげながら告げる。苦しい。ビッケを忘れることが、こんなに苦しいなんて。

「あっ」

 抱き上げたぼくの肩越しに、父が小さく叫んだ。

「え?」

 振りかえると、ありえないことに、ビッケが無防備に道を横切って、こちら側に来ようとしている。

「どうしてっ」

 たしかに、さっきのおばさんに預けてきたのに。

 車が向こうからやってくる。笑いながら助手席に目を向けているせいで、運転手は前方のビッケが目に入っていないようだった。

「ダメだ、こっちに来るなっ」

 叫んだのと、ようやくビッケに気がついた運転手が急ブレーキをかけたのは同時だったと思う。

 父の腕のなかからもがきでて、ビッケのもとへと走る。

 ビッケは道の真ん中で固まっている。一瞬目を閉じたせいで、轢かれたかどうかがわからない。痛くてあんなふうにうずくまっているのか、それとも驚いて固まっているだけなのかわからない。

「いやだ、ビッケ。ビッケッ」

 ぼくがビッケのもとに到着すると、車のなかから運転手が降りてきた。ムッとした表情を隠そうともしていない、小柄な中年男性だった。

「君の犬か。ダメだろう、ちゃんとリードかなにかつけてないと。こっちはいい迷惑だよ」

「ぶつけたの? ねえ、この子のこと轢いたの?」

「は? 急いで止まってやったのに、なんだその態度は」

「そもそも、おじさんの前方不注意でしょう? 助手席ばっか見てたじゃないかっ。ぼく、警察にそう言うからっ」

「は、はあ?」

 つい、素でしゃべってしまった。父が面食らっている。

 小さな子どもに理詰めで責められるとは思っていなかったのか、男性も顔を赤黒く染めていた。

「な、なぎ君、なにかのアニメで覚えたのかな? ここは大人同士で話すから」

「なんだ、保護者か? おたく、子どもにどういう口のききかたを──」

 父は男性に向きなおると、ぼくに劣らず怒りのにじむ声で静かに問いかけた。

「そもそも、横断歩道の手前は減速がルールですよね」

 こうなったときの父はちょっと手強い。おじさんの相手は父に任せ、ぼくはビッケの様子をたしかめた。震える背中をなでてみたけれど、ビッケはうずくまったまま動こうとしない。

「大丈夫か? 車にぶつかったのか?」

「言っとくけど、轢いてなんかないからなっ」

 怒り狂う男のことは無視し、ビッケに語りかけつづける。

「道に飛び出しちゃダメじゃないか。危ないのがよくわかっただろう。痛いところないよな?」

 いつもなら耳を半分持ち上げてくれるのに、まだ怯えているのか、垂れた耳は後ろに倒れたままだ。ビッケは震えながら、白目を見せてぼくに上目遣いをしてきた。

 どうして? どうしてぼくをおいていくの? こんなにいっしょにいたいのに。

 すんすんとなる鼻から、そうやって責める気持ちが伝わってくる。

「だって、だってさ、ビッケ──」

 つい、昔の名前で呼んでしまった。この子はもう、チビなのに、ビッケじゃないのに。

 ビッケの耳が半分立った。ようやく立ち上がって、ぼくの膝頭をかりかりと引っかいてくる。もう一度、今の名前をねだっているみたいだった。

「ビッケ?」

「ワンッ」

 ビッケは、笑っていた。あの、愛情だけでできた笑顔をまっすぐにぼくに向けていた。

「ビッケぇ。ケガしなくてよかったなあ」

 もうたまらなくなって抱きあげ、ふわふわの毛に顔を埋めると、クゥクゥと甘えた声で鳴きながらぼくのほおを舐めてくれる。生きているビッケの体温が、冷えた胸の奥まで届く。

「親子して、ちょっと頭がおかしいだろっ。邪魔だから脇にどいてくれますかね」

 工夫のない捨て台詞をはいて、男性はふたたび車に乗りこむと去っていった。

 ビッケはといえば、変わらずぼくの腕のなかにいる。

「実はなあ、その子、どうしてもあのお姉さんや家族に懐かなくて、しょっちゅう脱走しようとしたらしいんだ。ぜんぜんごはんも食べなくて元気がなくなっちゃったんだって。それで、もとのおうちに今朝早く、返されてきたんだってさ。パパな、実はその子は無理でも、その子のきょうだいならまだいるかもしれないと思って、あのお姉さんとドッグランで会った日に、さっきのおうちの連絡先を聞いておいたんだ。ほかの子犬の見学にいこうと思ってたんだよ」

「うん、知ってる」

「はは、やっぱりバレてたか。今日のなぎ君は、なんだか刑事みたいだなあ。でもさ、その子が返されてきてたのは、運命かもしれないぞ? なぎ君さえよかったら、その子と家族になってみないか」

 どきりとした。そんなのダメなのに。時帰りまでして、この運命に逆らおうとしたのに、これじゃ意味がない。

「──なぎ君?」

「しむんでしょ? ぼくよりはやく、このこ、しんじゃうでしょ」

「キャンッ」

 しっぽを振ってビッケが鳴く。抗議しているみたいだった。

 父がしゃがみこんで、ぼくと目線の高さを合わせる。

「知ってるか? 犬ってな、人の半分も生きられない。きっと、半分の半分より一生が短い。でもさ、時間が限られているぶん、人間よりも、ぎゅうっと濃い時間を生きてるんじゃないかな。そばにいる人間のことを大大大好きになって、そのことをまっすぐに伝えてくれるんだ。だから、パパが思うに、この子に限らずペットっていうのは、人間に愛を教えてくれる先生なんだよ。人がなかなか持てない純粋な愛情を、この子はごく自然に持っていて、なぎ君やパパやママに差しだせる。それはすごく幸せなことなんだって、パパもなぎ君がいるからわかる。人より一生が短いからって、けっして不幸せじゃないんだ」

「だけど、ぼくはどうなるの? ぼくはさいご、ひとりになるんだよ? かなしくてさみしいよ」

「いいじゃないか。そういう悲しみも寂しさも、この子がくれたものならきっと引き受けられると思うぞ。この子と積み重ねた時間が、なぎ君を強くしてくれるから。なんて、なぎ君にはまだ難しかったかな」

 ビッケがくれた悲しみや寂しさなら、引き受けられる。ビッケと過ごした時間がぼくを強くしてくれる。

 父の言葉が、暗闇に迷いこんでいたぼくのこころを優しく包みこむようだった。

 不思議なことに、それまでぼくを苦しめるだけだった痛みが、ビッケがくれたものだと思ったとたんに、キラキラと輝く宝物に思えた。なくしてしまいたいと思っていたのに、ビッケがくれたものなら、どんなに小さな痛みも捨てたくない。素直にそう思えていた。

「ビッケ」

「キャンッ」

 気のせいじゃない。ビッケは確実に、自分の名前として“ビッケ”に反応している。とろけそうに笑っている。まるで人生のあらゆる幸福が、この短い名前にぜんぶ詰まっているとでもいうみたいに。

 ぼくとビッケは、いっしょの時間を生きることが、あらかじめ決まっていたのかもしれない。ビッケのくもりのない瞳には、ぼくたちをつなぐ絆の糸が、ずっと見えていたのかもしれない。たぶん白と茶色の混じったふわふわの糸だ。

「ビッケか。いい名前じゃないか。さ、あのおうちの方にご挨拶して、ビッケを連れて帰ろう。それでいいよな」

「──うん」

 うなずいた刹那、小さな体から意識だけが抜けだしたのがわかった。

 ああ、終わりなんだ。もっともっといっしょにいたかったのに。

 ビッケ、ビッケ、大好きだよ。

 小さなぼくごしに、こちらを不思議そうに見上げるビッケの姿が遠ざかっていく。

 もといた時間へとのぼりながら、ビッケと過ごした日々が脳裏につぎつぎと甦ってきた。

 クッキーが好きだった。歯みがき用おやつは嫌いだった。

 シャンプーはぼくじゃないと絶対にさせなかった。ぼくと寝るのが大好きだった。

 散歩のときに通りかかる家のおねえさん犬に恋をしてた。ドッグランでは、ちょっといばりんぼだったけどたくさんの友達がいた。

 笑うだけで、ぼくや家族を幸せにしてくれた。ぼくが泣いているときは、心配そうにぬいぐるみを持ってきてくれた。ぼくはもう中学生だったのに、試合に負けて泣いていたときもそうやって慰めてくれた。

 だんだん体が弱ってきて、もう走れなくなっても、まるでぼくを散歩に連れだすのが役目だと言わんばかりに、重い体を引きずって、ぼくを外に連れだそうとした。最後の、最後まで、ぼくになにかを与えようとしてくれた。

 ぼくはその半分だって返せなかったのに。

 ビッケ。ぼくの大事なビッケ。

 一生をぼくと過ごしてくれてありがとう。いっしょに大きくなってくれてありがとう。たくさんの、本当にたくさんの幸せをくれてありがとう。

 ビッケがくれた愛をぜったいに忘れない。

 もう飼わないなんて言ってごめん。あんなにぬくもりにあふれてた日々をなかったことにしようとしてごめん。ビッケのいない未来なんて、ありえなかったのに。よかった。本当に、ビッケとの想い出を失わずに済んでよかった。

 もう二度と、飼うべきじゃなかったなんて思わない。約束する。

 だからビッケも、約束してほしい。

 ぼくのことを、虹の橋で待たないで。スリッパにあごを乗せてぼくの帰りを待っていたみたいに、ぼくがそこに行くまでじっと待たないで。

 代わりに、好きなものに生まれ変わって、会いにきて。

 風でもいい、雨の一粒でも、鳥でも、花でもなんでもいいんだ。

 どんなものになっても、ぼくはきっとそれがビッケだってわかるから。

 だからもう一度、ぼくに会いにきて。

 

 気がつけば、もとの竹林にぽつんと立っていた。

 目の前では神主さんが、ぼくの様子をうかがうように佇んでいる。

「あの──」

「お帰りなさい。きちんと歩けますか」

「はい」

 無言でハンカチを手渡された。そう言えば顔がぐちゃぐちゃになるほど泣きながら、光の海をのぼってきたのだった。

 一歩踏み出したところでよろけてしまい、神主さんが腕で支えてくれた。

「副作用でふらつく人が多いんです。しばらく〈こよみ庵〉でお休みください。その前にこちらのペットボトルのお水を。手水舎代わりのあの湧き水です。楽になりますから」

「ありがとうございます」

 神主さんにつかまりながらどうにかたどり着いた〈こよみ庵〉では、巫女さんがぐったりと机に伏せっていた。

「大丈夫なんですか」

「ええ、舞で疲れただけですから。それより、こちらのお抹茶でも飲みながら、お話を聴かせていただけませんか」

 メモ帳を携えて目の前の席に陣取ると、神主さんがじっとこちらを見つめた。瞳に夜空のような奥行きを感じて、落ち着かない気持ちになる。

「にゃあ」

 タマもやってきてぼくの膝の上に陣取り、香箱座りをした。ふわふわとした背中をなでるうちにようやく落ち着いてきて、ぼくは神主さんに話してきかせた。

 不思議なことに何度突きはなしても、ビッケが戻ってきたこと。結局は放っておけずに時帰りする前とおなじようにビッケと家族になり、幸せな日々を過ごしたこと。ビッケをもう一度飼うことに決めて、本当によかったこと。

「お父さんの言葉に、なんだか救われたような気がして。ビッケがくれた痛みだと思うと、痛みごと受け入れて、これからもやっていけるって思えて」

「愛ですね」

 それまでぐったりとしていた巫女さんが、唐突に身をおこしてハンカチを目に当てた。

「そう、ですね。そうとしか呼べない気がしてます。時帰りをしてよかったです。ありがとうございました」

 頭を下げると、神主さんは長い息を吐きだした。

「俺は、君に謝らなくてはいけません」

「どういうことですか」

 顔を上げると、神主さんが決まり悪そうに竹林に視線を逃がした。

「時帰りの重要なルールをひとつだけ、わざとお伝えしなかったんです。時帰りでは、たとえば人の生死や試合の勝ち負け、そのほか、他人にとっては小さな出来事でも本人にとって重要な節目となる出来事を変えることはできないんです。ですから、君が犬を飼わないという選択肢は、そもそも用意されていなかったのではないかと思います」

 すぐには返事ができなかった。あれほどビッケを突き放そうと奮闘したことが、すべて無駄だったというのだろうか。

 でも、あの葛藤を乗り越えられたから、今のぼくがいることもわかっている。神主さんは、きっとお見通しだったのだろう。

「謝らないでください。ぼくが時帰りのおかげで元気になったから、ビッケも安心して虹の橋を離れて、ちゃんと天国に行けたと思うんです」

「キャゥキャゥ」

 ぼくのかたわらでおとなしく寝そべっていたタマが、突然、不思議な鳴き方をした。

「タマ、どうしたの?」

 神社の兄妹も、面食らったようにタマを見つめている。

 でも、ぼくにはわかった。

 きっとタマは、ビッケからの伝言を伝えてくれたのだ。

 ──またね。

 うん、またね。ぜったい、またね。

 右手の親指をそっとなでて窓の外を見れば、雲の向こうに去っていくビッケのしっぽがふわりと揺れて見えなくなった。

 

(つづく)