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「あ、れ?」

 どうやら落下し終えたらしい。

 ということは、ここは本当に過去なのだろうか。

 見慣れた私の部屋の天井だけれど、やけに高いし、部屋全体も、とても広く感じる。

 起き上がってみれば、私はミニサイズの布団でねんねでもしていたようだ。

 一歩進もうとしてうまく力が入らず、ぽすんと尻餅をついてしまった。目の前に放り出された足に愕然とする。

 それらは、二十四センチの足ではなく、ふたつのかわいいあんよだったのだ。

「うあぁぁぁ」

 徐々に実感がわいて、小さく叫んだ。

 今だっておなじ家に住んでるけれど、ここはまだ私の部屋ではなく、ただの畳の部屋だ。もしかして夜は布団を敷いて寝室になるのかもしれない。それに、父と母の気配がそちこちに漂っている。誰かの子どもであるという懐かしい感覚に、胸がきゅうっと音をたてた。

「あら汀子、起きちゃった?」

 廊下側から、ひょいっと懐かしい顔がのぞく。

「よっこおばたんっ」

 普通に呼びかけたつもりが、自然と幼児言葉になってしまいうろたえた。おばさんと久しぶりに会えて感極まったせいかもしれない。

「うん。そうよ」

 とろけそうな顔でこちらに駆け寄ってくると、蓉子おばさんがしわくちゃになった服を整えてくれた。今はもう亡くなっているおばさんも、まだこんなに元気だ。

 ぎゅっと抱きつくと、懐かしい香りに包まれた。

「おかしゃん、どこ?」

「う~ん、ちょっとご用事。でも、もうすぐ帰ってくると思うよ」

 またしても、おかしな話し言葉になってしまった私に対し、蓉子おばさんはまったく驚きもせずに返事をしてくれる。もしかして、さっきの“おばたん”も、普段からの呼び方なのだろうか。

 考えてみれば二歳の体に宿ったのだ。幼児言葉しかしゃべれなくなってもおかしくない。

 おばさんが携帯電話を取り出したのをすかさず確認すると、画面には三月五日の十時十五分と表示されていた。

 ──え、三月五日っ?

 お兄ちゃんが私を送ったのはこの二週間後、事故に遭う当日の三月十九日だったはずなのに。

 もしかして、時帰りの舞を一部すっとばしていたせいだろうか。それとも祝詞も何カ所かつっかえていたのが原因か。

 神聖な儀式だから、少しの間違いがこのズレにつながったのかもしれない。

「どうちよう」

 自然と口にでたひとり言もやはり幼児言葉で、これはもう認めざるを得なかった。どんなに努力してもたぶん、時帰りのあいだはこんな話し方しかできないに違いない。

「てっこ、大丈夫? ふふ、まだ寝ぼけてるかな」

「ううん、だいじょぶ」

 実際には、まったく大丈夫ではない。

 誰に言われなくても、これから時帰りしてくるであろうお兄ちゃんの邪魔をする気などなかった。母を事故死させるなんて、私には無理に決まっている。それよりも、お兄ちゃんが事故を防いだあと、母に事情を伝え、闘病はお兄ちゃんのせいではないと伝えてもらう予定だったのに、こんなしゃべり方ではそれも叶わない。

「うぅん、むじゅかしい」

「あははは、なにがそんなに難しいのかなあ」

 よっこおばさんに抱き上げられ、ほおずりをされた。とりあえず、父や兄とも会わなければ。兄はまだ学校だろうから、まずは父だ──生きている父に会える。

「おとしゃんは?」

「これから時帰りの祝詞あげるところなの。よっこおばちゃんも舞を踊らなくちゃ」

「てっこも」

 小さな口が思うように動いてくれず、不器用にしか話せない。それだけでなく、おばさんに降ろしてもらい一歩踏みだそうとしてすぐにつまずき、おばさんが慌てて支えてくれた。なにもない床なのに、いったいなににつまずいたのだろう。

 おばさんは私をふたたび抱きあげて、膝を優しくこすってくれた。

「それじゃ本拝殿までいっしょにいこう。てっこも舞をしたい?」

「てっこ、のりとしゅる」

「だよねぇ。よしよし、てっこはきっといい神主さんになるよ」

 蓉子おばさんは満足気に幾度もうなずいている。

 そういえばおばさんは生前、私が神主になることにかなり好意的だったことを思いだした。今では記憶も曖昧だけれど、おばさん自身も昔、神主になりたかったのだと聞いたような気がする。

「さあ、いこうか。その代わり、儀式のあいだはいい子にしててよ?」

「うん。しゅっぱーちゅ」

 おばさんに抱かれたまま竹林を抜けて境内までたどり着いた。おんぼろ具合が驚くほど変わらない。

「おとしゃんっ」

 懐かしい背中に、考えるよりも先に声が出てしまった。

 神主の装束に身を包んだ父がゆっくりとこちらを振りかえり、満面の笑みを浮かべた。三十を超えたばかりの父は、自分が大学生になった今となっては、ただの青年にしか見えない。

「てっこ、きょうはお母さんがいないから特別だぞ。儀式のあいだは絶対にしーっだからな? 蓉子、そろそろ着替えてきてくれ」

 視界が潤んでいく。父が亡くなったのは私が高校三年のころだ。ときどき、会いたくてたまらなくなる顔が、今は目の前にある。胸に飛びこもうとしてまたしても転びかけたところを、大きな手が支えてくれた。

「おっと、さ、こっちだ。蓉子おばさんはお着替えがあるからな」

 驚いたふりをして父の首にしがみつき、声を上げて泣く。

「はは、どこか痛くしたか? あぶなかったなあ」

 父にあやされながら周囲を見れば、これから時帰りをするらしいおじいさんが本拝殿のなかで不安げに座していた。

 蓉子おばさんがやや表情を曇らせ、小声で尋ねる。

「兄さん。早紀さんはいいって言ってたけど、あとで迎えにいったほうがいいよね。儀式が終わったら私もいこうか」

「いや、儀式のあとはいつもぐったりだろう。材木座までおまえを送って、その足で俺が大船までいくよ」

「でも──ひとりで平気?」

「心配するな」

 父が私を抱く腕に力がこもる。

 話の流れからして、母は少し遠くに出かけているらしい。

 お兄ちゃんは、母の交通事故を阻止しようとして時帰りをした。けれど、母は事故に遭わなかった代わりに病気になってしまい、苦しい闘病生活の末に亡くなることになった。

 お兄ちゃんは、そのことを今でも自分のせいだと悔やんでいるのだ。あれならいっそ母さんを事故死させてくれと、私に頼んでしまうくらいに。

 私はそんな兄の想いや私の野心とともに張り切って過去にやってきたのに、この短い手足にきっと三頭身くらいのたよりない体。なにより、まともにしゃべれない。

 お兄ちゃんができないときは潔くあきらめろといったのは、この身体的な問題を見通してのことだったのだろうか。

 たしかに、今の状態では自分の目的さえも達せられるか心許ない。

 実は、いざとなったら筆談でなんとかすればいいとのんきに構えていたのだけれど──このぷにぷにの小さな手で文字がうまく書けるかも怪しく思えてきた。

 どうやら、二歳児ライフを甘く見過ぎていたようだ。

 手首には二本の棒が鮮やかに光っている。与えられた時間はそう多くないのに。

 蓉子おばさんが、儀式用の巫女装束に着替えてきた。

 精巧な刺繍がほどこされた装束は、私が今着ているものとは異なる。蓉子おばさんが舞う姿は記憶には残っていないから、わくわくしてきた。

 それに、お父さんの祝詞も──。

 時帰りについて、父が見知らぬおじいさんに説明している。お兄ちゃんの無愛想な口調や私の強引な誘いとは違って、お父さんの接し方はとても丁寧だった。そのおかげか耳にすっと入ってくるし、これからなにが起きるかあまり不安にならない。げんに、先ほどまで落ち着かない様子だったおじいさんが、今は穏やかな顔でうなずいている。

「それでは、はじめますね」

 私は、祝詞をあげる父の隣にぴたりと寄り添うようにして座らされた。正座ではなく足は楽にし、父とおなじように祭壇と向きあう。

 これはチャンスだ。

 今回、私が時帰りをした私自身の目的。それは、私も神職になってこの神社を継ぎたいと、父に訴えることなのだ。

 蓉子おばさんの舞をじっくりと眺めながら、父の祝詞に耳をかたむけた。ぴんと張った神聖な空気をまろやかにするような優しい祝詞だ。湧き水の効果が声に宿ったようだった。

 背後の物音から、おじいさんが竹林へと向かったのがわかった。

 いってらっしゃいませ。あなたの後悔が、この時帰りで和らぎますように。

 舞ながらいつも祈念していることを、そっと心のなかでつぶやく。

 我ながら、お兄ちゃんよりもこの神社の神主に向いている気がするのだけれど。

 こめかみからひと筋汗をたらした父が、祝詞を終えた。蓉子おばさんも、静かに社殿を去っていく。母屋に着替えにいったのだろう。

 先ほどの会話によると、このあと父は母を迎えに出てしまうから、このタイミングを逃す手はなかった。

 汗を拭く父の隣で立ちあがると、私はここぞとばかりに祭壇に向かって声を張った。

「かけまくもぉ かしゅこき ひじりのかみしゃまのひりょまえぇにぃ」

「て、てっこ?」

 焦る父に、かっと目を見開いて告げた。

「てっこ、じょうじゅ」

 父は、はくはくと口を開閉させてうなずいてくれる。

「上手どころじゃない。てっこは天才だっ。こんなに物覚えがいいなんて、将来は宇宙飛行士にでもなっちゃうんじゃないのか?」

 ──はぁ?

「ないないっ」

 父の鈍さに腹がたって腕を強めに叩いても、まったく相手にされない。

「うぅ」

 涙を滲ませていると、唐突に、女性とも男性ともつかない中性的な声が響いた。

『おやおや汀子、おいたはいけませんよ』

 あたりを見回すのに、私と父以外には誰もいない。

『ふふふ、こっちですよ、こっち』

 声の主がどこにいるのかわからなかったけれど、背中をすりすりと柔らかなものが通りすぎた。この感触は──。

「タマッ。タ~マッ」

「うんうん、タマだな。てっこ、今日はたくさんおしゃべりしてくれるなあ」

 なにも知らずに笑いながら、父がそばにきたタマの背中をなでた。

 しっぽで父に愛嬌を振りまいたあと、ふたたび私の近くにやってきたタマが、ちょこんと正面にとどまって私の目を覗きこむようにした。目線がほぼ同じで面白い。

 それにしてもタマは、今とまったく容姿が変わらない。

「タマ、おんなじ。しゅごい」

 タマに手を伸ばしてそっと頭をなでてみる。ふわふわの白い毛が手のひらに心地よいのもいっしょだ。

『汀子、あなたまさか──未来からやってきたんですかっ?』

「にゃおぉぉぉん」

 長めの鳴き声と、声が響いたのは同時だった。

 あたりを見回してもやはり誰も見つからない。

 タマが近づいてきて、私の手の甲に前脚でちょんちょんと二度触れた。

『私が話しているのですよ、わかりますか?』

「タマァ?」

 驚きのあまり固まった私を、父は、怯えていると勘違いしたらしい。

「タマ、そのへんにしてやってくれ。すこしびっくりしたみたいだ」

「なああううぅ」

『今はふたりで大事な話をしてるんです。少し黙っていてくれませんか』

 立ち上がった父が私を抱っこし、本拝殿を出る。

『待って、まだ話の途中です』

 父は歩みを止めない。この声はどうやら私にしか聞こえていないらしかった。

 本拝殿から遠ざかる私を、タマがじっと見つめている。

「タマァ」

『あとで寝室まで訪ねていくので、少しドアを開けておいてください』

「またねぇ」

 なるべく不自然に思われないように返事をしたつもりだけれど、うまくいったかはわからない。

 幻聴? それとも本当に?

 誰とも共有できない疑問を抱えたまま父の腕のなかで揺られるうち、いつのまにか眠ってしまっていた。

 

 目が覚めたときには、走る車のなかにいた。

 蓉子おばさんは乗っていないから、もう材木座に送ったあとらしい。ということは、これから母を迎えにいくところなのだろう。

「うぅ」

「お、てっこ起きたか。もうすぐ着くぞ。お母さん、病院終わったところだって」

「おかしゃん、びょうき?」

「そうだ。ちょっと風邪が長引いちゃったみたいでな」

「おかしゃん、おかぜないない」

「──そうだな、早く治るといいな」

 ようやく会える。母は、どんな顔で私を迎えてくれるのだろう。どんな声をしていて、どんな香りがするんだろう。私が笑ったら、喜んでくれるだろうか。

 大船にある総合病院の駐車場へと父がハンドルを切った。今もある病院だけれど、まずは町医者にかかり、そこの紹介状がないと診てもらえない。建てかえられる前だし、このころは違ったのかもしれない。

 父が携帯電話を開いてメッセージを確認したようだ。

「お母さん、お会計が終わったところだからここまで来るって。ちょうどよかったな」

「うんっ」

 しかし、ここで問題が起きた。突然トイレにいきたくなったのだ。オムツをしているのはわかっているけれど、さすがにプライドが邪魔をしてできない。

「おとしゃん、てっこ、チッチ」

「おお、そうかあ」

 振り向いた父がとろけそうな笑みを浮かべるが、動く気配はない。オムツにするものだと思っているのだろう。

「てっこ、チッチだおぅ」

 しかめ面をしてみせると、ようやくピンと来てくれたようだ。

「あ、そ、そうか。オムツを替えてほしいんだな。ちょっと待ってな」

「ちあうっ。オムツないないっ。トイレいく」

「えぇ? トイレはできないだろう? それともお母さんがもうトイレトレーニングはじめたのか? 様子を見てもうちょっとしたらって言ってたんだけどなあ」

 動揺したのか、出がけにドアの縁におでこを強く打ったあと、父があたふたと後部座席のドアを開けた。私をチャイルドシートから抱きあげ、ベビーカーに移し替えてくれる。

 ちょうどぬるい風が吹いて、沈丁花の香りが鼻を掠めた。

 周囲にまで気を配る余裕がなかったけれど、鎌倉の春は今とそう変わらず、頭上には郷愁を誘う夕空が広がっている。

 二歳のころのことなんて、なんにも覚えてないんだな。

 父が、ベビーカーを押しながら通話をはじめた。

「おお、早紀? ごめん、てっこをトイレに連れていくからさ。え? うん、オムツ替えじゃなくて、トイレにいきたいらしい。えぇ? うん、わかった。じゃあ、一階の駐車場側のトイレの前で」

「おかしゃん?」

「そうだ。お母さんがトイレまで来てくれるって。てっこがトイレにいくって言ったら、驚いてたぞ」

「てっこ、トイレ。てっこ、オムツ、ないない」

「どうした、てっこ。そんなに急いで大きくなるなよぉ」

 涙声が頭上から降ってくる。父の情緒はどうなっているのだろうか。

「ひろくん、こっち」

 駐車場側から院内に入れる自動ドアの前で、大きく手を振る女性がいた。すらりとした立ち姿に切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、真っ白な肌にくっきりとした三日月眉。お化粧なんてきっとしていないのに、唇はふんわりと紅い。

 私が父に似ているとすれば、お兄ちゃんはこの母に似たようだ。

 写真で見るより、ずっと、ずっと、きれいな人だ。でも、なんて儚げなのだろう。

 懐かしさよりも、恋しさよりも、私の胸にこみ上げてきたのは、桜の花を見たときのような切なさだった。

「早紀ちゃん」

 父が、早足になった。母もこちらに駆けよってくる。

 仲良しだったのだな、と思ったのも束の間。母は抱きつかんばかりの父を軽くいなして、ベビーカーに座る私の前にかがみこんだ。

「てっこ、迎えに来てくれたの? ありがとうっ」

 もどかしげにベルトをはずして私を抱きあげると、頬になんどもキスを浴びせてくる。

 沈丁花の代わりに、名前のわからない優しい香りに包まれた。

「ん~、ちょっと離れてるあいだにまたかわいくなったみたい。会いたかったぁ。だいすきだいすき、てっこちゃんっ」

 ぎゅっと抱かれながら、父と目が合った。心なしか、恨めしげな顔をしている気がする。

 それはさておき、とにかくトイレだ。

「おかしゃん、トイレいこ」

「あ、そうだった。急がなくちゃ。それにしても、急にトイレなんてどうしたの。おむついやになったの?」

「てっこ、おねえちゃん。トイレないない」

「やだ、前から賢いと思ってたけど想像以上ね。それともてっこ、あなたもしかして――時帰りでもしたんじゃないのっ?」

 母の不意打ちに、心臓が大きく跳ねた。

「あぅ、うぅ」

 動揺してうめくばかりの私の横で、父が「そんなまさか」と慌てている。

 父娘の様子に、母が破顔した。

「な~んちゃって。やだ、時帰りの意味もわからないでしょうに、お父さんとリアクションがおんなじなんて面白すぎる」

「なんだよ、驚かせるなよ」

 父が、立ったまま膝に両手をついて嘆いた。

「ごめんごめん。さ、冗談はさておき、てっこは保育園でお姉さんたちがトイレトレーニングしてるのでも見たのかな。よおし、お母さん、張り切って教えちゃう。いこういこう。じゃ、ひろくん、荷物持ってきて」

「わかった」

 しゅんとしながらも、父がおとなしくベビーカーを押してついてくる。

 歩きながら母が小さくうめいた。

「そうだ。まだ売上帳をつけてないから帰ってやらなくちゃ」

「そんなの俺がやるから休んでくれよ」

「これでもれっきとした社務所の事務員なんだから、仕事奪わないでよ。でもまあ、ひろくんがどうしてもっていうなら、売上帳のほかに、お布施の記帳もお願いしようかなぁ」

「うぁ、う」

 あきらかにひるんだ父に向かって、母がつづける。

「ゴホゴホ、ああ、なんだか病院で疲れちゃった。ゴホッ」

「だ、大丈夫か? やるからな。なんでもやるから、とにかく休んでくれ」

 父と母の力関係を知った春の宵の口、私はトイレまでも思ったようにできず、それでも手放しで褒められ、父と離れたとたん咳ひとつしなくなった母からたくさんのキスとハグを贈られたのだった。

 

 帰宅後、父が、神様に一日の感謝の祈りを捧げる夕拝を終えた。

 学童クラブから戻ったお兄ちゃんが境内の掃除を手伝っているのを横目に、私はすかさず父の隣に座り、祝詞を唱えてみせたばかりだ。

 最初は私が本拝殿に居座るのを渋っていた父も、「てっこ、おとしゃんといっしょ」と訴えただけで、あっさりと陥落してしまった。

 もちろん、所作も完璧にコピーした。まあ、この体でできる範囲だから、転んでしまったりはしたけれど。

「てっこ、かんむししゃん」

「ほんとだな。立派だなあ。お兄ちゃん、今の聞いてたか? てっこはなんにでもなれそうだなあ。はっはっは」

 境内を掃き清めていた兄は、反抗期なのか父の声を無視して黙々とほうきを動かしている。少年時代のお兄ちゃんは背もまだ小さくて、手足が木の枝のように細い。

「てっこはほんとに天才だなあ。よし、お母さんにもあとで見せてあげような」

「あいっ」

「いいお返事だ」

「てっこ、かんむししゃん」

「うん、うん、そうかそうか。でもほかにも色んな仕事があるからな」

 うぅ、お父さんの鈍感っ。

 私を抱き上げた父の頭をグーでポカポカと叩いたのに、父はそれでも笑っている。それどころかほおずりをしてくるから、よけるのに精一杯で、それ以上はアピールもできずうやむやになってしまった。

 父が夕拝後の雑務にかかずらっているあいだ、私は母に食事とお風呂の世話をしてもらうのが習慣になっているようだった。

 せっせと私の面倒を見てくれる母の様子を、どんな一瞬も見逃さないように心におさめた。

 ぱっと見で似ているのはお兄ちゃんだけれど、ストレートの黒髪は私が受け継いでいた。その髪と同じ黒に近い瞳の色も、私と母はおそろいであることを初めて知った。

 私に笑いかけるときにできる小さなえくぼ、私の声に傾けられる小ぶりの耳、長い指。そのどれも、ぜんぶぜんぶ大切に眺めた。澄んだ呼びかけ声も、一言だって聞き逃さなかった。

 ほっそりとした母の全身からは、私のことが愛しくてたまらないという果てのないような想いが惜しみなく溢れでて、私の心にまっすぐ流れこんできた。そのことがごはんよりも私をすくすくと育み、お風呂よりも私をきれいに洗い清めてくれている気がした。

 母とふたりだけのこの時間に、私は笑うだけで最大限に褒められた。

「てっこは、美人しゃんですねぇ。大きくなったらきっと宇宙でいちばんの美人しゃんになっちゃいますねぇ」

 ぷくぷくの小さな手ではスプーンやフォークもうまく使えず、かなりこぼしながら食べても、手放しの賛辞を受けた。

「こんなにきれいに残さず食べられて、えらいなあ。小さいうちからお野菜も大好きなんて、天才でしゅかっ」

 あまりの気分のよさに、時帰りの目的を忘れてしまいそうになったほどだ。

 こんなにかわいがってもらっていたことをなにひとつ覚えていなかった。母の記憶をたくさん持っているお兄ちゃんをうらやましく思うばかりだったから、母を独占し、たっぷり愛情を受け取る時間を手放したくなくなってしまう。

 このまま、もう一度、家族のみんなと生き直せたらいいのに。

 母と少しでもいっしょにいたくて、治療をつづけてほしいと願ったお兄ちゃんの心情が痛いほど理解できた。お兄ちゃんの気持ちは、きっと今の私の気持ちそのものだ。

 時帰りする前、私に潔くあきらめろと告げたのは、私のことを役立たずだと思っていたわけではなく、きっと私がこうなることを見越して、気持ちを慮ってくれたのだ。

「うぅぅ、いたい、いたい」

「てっこ、どうして泣いてるの? どこが痛いって?」

 離乳食用のプラスチックの器を洗い終えた母が、手を濡らしたまま駆け寄ってくる。

「おにいたん、いたい、いたい」

「え、まさくんにいじわるされた?」

 母がきょろきょろとお兄ちゃんの姿を探している。

「ちゃあうよ、ちゃあうよ」

「あら、さっきからずいぶんおしゃべりしてくれるのねえ」

 そういえばお兄ちゃんはどこにいったのか、姿が見当たらない。

『雅臣なら、部屋で宿題をしていますよ。あの子は、神主のほかにやりたいことがあるようで、ずいぶんと勉強を頑張っているのですよ』

「タマァ」

 いつの間にかベビー用の高い椅子の脚もとに、タマが控えていた。

『あなたには、色々と確認したいことがあります。このあと寝室に運ばれるでしょうから、すぐに訪ねていきますね』

「うん」

『寝ないで待っていてくださいよ』

「うん」

「あらあら、見つめあっちゃって。ほんとにふたりは仲良しよねえ」

 口まわりを丁寧に拭き取られてすぐに、トイレをねだった。

 家でも、トイレはまったくうまくできなかったのだけれど、これもまた挑戦したことを褒めそやされた。

 トイレが終わってお腹もすっきりすると、急激に眠気に襲われる。なんだか、じっくりと思考する時間よりも、食べる、排泄する、寝る、などの命を維持する時間のほうにエネルギーが傾いてしまう。

「もう、ねんねの時間だねえ。まさくんとお父さんにおやすみしましょうね」

 母に抱かれて、お兄ちゃんの部屋の前まで移動した。

「まさくん、てっこがねんねするよ」

 そんなことをお兄ちゃんに告げても、反応があるとは思えないのだけれど。

「わかったぁ」

 意外にも、パタパタという足音とともに、お兄ちゃんがドアから勢いよく出てきた。大人になったお兄ちゃんは、こんな素直な返事も、慌てた動きをすることもほとんどないタイプだから、かなり新鮮だ。

「てっこ、もう寝ちゃうのか。あとで遊んであげようと思ってたのに」

 ──え?

「よし、じゃあ、今日はお兄ちゃんといっしょにねんねしよっか」

 ──えぇぇ?

「いいわねえ。きょうはお母さんとまさくんで、てっこを寝かしつけしちゃお」

「うんっ」

 お兄ちゃんの様子がとてもおかしい。こんなに私をかわいがるお兄ちゃんの姿はいくら記憶をたどっても出てこないのに。

 手足は細いのに、そこだけはすこしふっくらとしたお兄ちゃんのほっぺに手を伸ばすと、その手を握られた。

「てっこ、てってがちっちゃいね」

「ふふ、まさくんのてっても小さかったのよぉ」

「ええ、うそだあ」

 母に無邪気な笑顔を見せる小学二年生のお兄ちゃんの瞳には、今のような陰は微塵も見あたらない。

「みんなで寝かしつけなんて楽しいな、てっこ」

 寝室へと向かいながら、あとからついてくるタマと目があった。

「タマァ、ごめんなちゃい」

『しかたがないですね。ふたりが帰ったら、起こしますからね』

「あい」

 そう小さく答え、私をあやすふたりに視線をうつした。

 

(つづく)