夫が出張に出かけ、有樹とふたりだけで夕食を食べるのは今日で四日目だ。時帰りする前、一度目の今夜は、体にも心にも疲労が蓄積してきたころで、すでにこの時間、ぐったりしていた気がする。
「いっただっきまーす」
大好物が週末ではなく平日に出てきたことに喜び、有樹が大きなひと口をほおばった。
「うまっ」
「へへへ、そうでしょう」
口のまわりに髭のようについたホワイトソースがかわいらしい。前回は、冷凍チャーハンを炒めただけだったから、こんな顔にも出会うことができなかった。
「ママ、なんだか今日はすっごくやさしいね」
「え、そう?」
「うん、だって、パパがお出かけしてから、ずっといそがしそうだったし」
「そっか、ごめんね」
こんなにも健気な子に、どうしてあの日は八つ当たりなんてひどいことができたのだろう。しかもあの日の私は、あれが八つ当たりだと気がついてさえいなかったのだ。
「ママ、おかわりちょうだい」
有樹が、早くも深皿を空っぽにして差しだしている。
「もっちろん」
張り切って二杯目をよそったお皿も、あっという間に空になってしまった。
お腹を満たした有樹は、少し休憩したあと日記にとりかかることになっている。
日記は学校の宿題で、毎日好きな出来事を記し、翌日、担任の滝沢先生に提出する。先生からはコメントがつくが、あくまで内容への感想で、文字や文法の間違いに対する指導はない。それをするのは親の役目なのだが、これが職業病もあいまって、子どもの日記に対する眼ざしにしては厳しいものになってしまいがちだ。
前回も、この日記を書くようしつこくせっつき、基本的な間違いをまるで赤字でも入れるように事務的に指摘して直させたあと、すぐに寝るようまた急かした。持ち帰った仕事を早くはじめたかったのだ。しかし、どの過程でもずっとイライラしながら小言を繰り返したせいか、有樹は就寝前についに怒りだしてしまい、結局、寝るのが遅くなった。
お風呂から上がってきた息子は、今回も好きなアニメの主題歌をハミングしながら上機嫌でゲームをやりはじめた。一度目とまったく同じ光景だが、おだやかに尋ねてみる。
「何時から宿題やる?」
きっとこのひと言が大事だったのだ。頭ごなしではなく、子ども自身に決めさせるべきだった。
息子はゲームから顔を上げないまま、「ん~、七時くらい」と返事をした。若干、生返事だったがまずは信じてみる。
「わかった。ちゃんと自分で決めた時間に始めるんだよ」
「オッケー」
わたしのほうは食器類を食洗機に放りこみ、お風呂に入ることにした。
「そろそろ日記をはじめる時間だからね」
「は~い」
久しぶりに聞くのびやかな声に、安堵のため息が漏れる。
湯船に浸かり、頭をからっぽにするのが一日でもっともリラックスできる時間だ。前回は夫が出張中だったせいもあり、有樹を寝かしつけたあとに片づけておくべきこと、明日出社したらやるべきことなどが脳内に繰り返し甦ってきて、まったくリラックスできなかった。おまけにお風呂から上がっても、有樹は約束したはずの日記やプリントに手をつけておらず、だらしなく床に寝そべってゲームに興じていたものだから、大きな雷を落としてしまった。思い返せば、あの夜は第一歩目からつまずいていた。
今日はそんなことはしない。たとえお風呂上がりにおなじ状況になっていたとしても、理性的に諭してみせる。そもそも、前回とはわたしの態度も違う。有樹もきちんと机に向かっているかもしれないではないか。
手首の光の棒は変わらず輝いているが、ほんのわずか薄くなっただろうか。
よし、と気合いを入れてリビングに戻ると、まあ、おなじ光景が広がってはいた。すこしばかりがっかりしたが、深呼吸をして、笑顔で声をかける。
「ねえねえ、有樹がじぶんで決めた日記の時間、もうはじまってない?」
「ほんとだ。でもあともう一回ゲームやっていいでしょう?」
右へ左へころがりながら、こちらも見ずに有樹がこたえる。
「う~ん、それじゃ、あと一回だけね。ママのじゃなくて、有樹の宿題なんだからね」
冷やした水を飲みながらしばらく待ち、もう一度、つとめておだやかに尋ねた。
「有樹、そろそろ終わりじゃない?」
「あと一回やればレア・アイテムが出そうなんだ。ちょっと待って」
大丈夫だ。親の機嫌をうかがわない不遜な態度は、子どもの特権だから、これでいい。そう、いいのだ。
さらに五分ほど待って、ふたたび声をかけた。時刻は十九時三十五分。わが家の就寝時間は二十一時前だから、あと約一時間三十分のあいだに、学童でわからなかったり終わらなかった宿題があれば済ませ、明日の登校に必要な準備を終え、寝支度をして布団に潜りこませる。この怠惰な生き物は、ひとつの動作からつぎの動作に移るまでにやたらと時間がかかるから、すべてを完了するまでに十分な余裕を見なければならない。就寝から逆算して、今はすでにぎりぎりの時間なのである。
「有樹? そろそろだよ~。ママの声、聞こえてる?」
わたしの声の周波数を遮断する特殊フィルターでも耳に装着しているのかと疑いたくなる集中力で、息子は無視を決めこんでいる。
いや、聞こえてるでしょっ。
さすがに詰め寄りたくなるのをぐっとこらえ、そばにいって肩を揺すった。
「ねえ、はじめるよ? さ、座って」
部屋で勉強するような自走タイプではないから、有樹にはリビング学習をさせている。食事を下げたテーブルまでのろのろとやってきて、ようやく日記を広げた有樹は、じっとなにかを考えこんだまま鉛筆を動かそうとはしなかった。
「どうしたの? なにを書くか迷ってる?」
「ううん。あのね、ママ。そういえば忘れてた」
「え、なにを?」
とっさに身がまえた。彼がこういう切り出し方をするときは、ほとんどの場合において悪い知らせだ。前回はわたしが怒っていたから、言い出せなかったのかもしれない。
「あのね、定規セット、あしたの算数で使うから持ってきてってタキセンが」
タキセンとは担任の滝沢先生のあだ名である。そしてタキセンは、決して前日ぎりぎりにあしたまでの急な準備を子どもに伝えたりしないタイプだ。
「それ、いつ言われたの?」
平常心をかろうじて保ちながら尋ねると、有樹の瞳がわかりやすく泳いだ。
「今日の算数の時間だよ」
「ふうん、そうなんだ。急に言われても困っちゃうんだけど、そんなにすぐに準備しろって言われちゃったんだ」
「うん、あしたも算数の時間につかうんだって。今日はあきちゃんに借りたけどさあ」
あきちゃんは、隣の席のしっかり者の女子だ。今日持ってくるよう言われた道具を、ほかの子がすでに持っている不自然さにまでは知恵が回らない息子である。
「へえ、あきちゃんは定規持ってたんだ。ねえ、ほんとは先生にいつ言われたの」
「ええと、金曜日?」
おそらくもっとずっと前にタキセンから通達があったに違いない。仮に本当に金曜日だとしても、土日を挟んで何日も経っている。
「──ふうん」
怒らない、怒らない。怒らないで、あとで解決策を話しあいながら、やさしく諭そう。
「まだ近くのショッピングセンター開いてるから、ママ、急いで本屋さんに定規セット買いにいってくる。有樹はママが戻ってくるまでのあいだ、ひとりで日記を進めてて」
「わかった」
「はい。じゃあ、あとでね」
「うん。あのさ、ママ」
「ん?」
「ありがとう」
「──はいよ」
ママたらしな息子である。
いいように扱われているような気がしないでもないが、さすがに先生から言われた持ち物を何日も持たせないのはまずい。
タキセンは親への直接の連絡はなるべく控え、できるだけ児童に自分のことは自分で管理させるという方針の持ち主だ。有樹が定規セットを延々持ってこない理由も、おそらく察してくれている。わかっていつつも、この種の小さな事件が起きるたび、クラスのママたちは赤くなったり青くなったりしているのである。
ひとりのリビングで一生懸命に日記を書いている有樹の姿を想像しながら夜のショッピングセンターへと駆けこみ、書店の文具コーナーで使いやすそうな定規セットを購入した。ついでに、息子が楽しみにしていたシリーズ本の最新刊も手に入れ、喜ぶ姿を思い浮かべて、うきうきとした気分でとんぼ返りする。
もう暗いのにうんざりするほど暑い。エアコンでうまく体調管理をしてやらなければ夏バテしてしまう。
日記を書き上げたら、やさしく寝支度をととのえさせよう。あの子が布団に潜りこんだら、本を渡してあげよう。いつもより少し寝るのが遅くなってもいいよと伝えて、読ませてあげよう。
そしたらきっと、あの子はこのあいだとは異なり、幸せな気持ちのまま眠りにつくだろう。あしたの朝も、さっきみたいに無邪気な笑顔を見せてくれるだろう。
マンションへと戻って部屋に上がるまで、自然と頬がゆるんでいた。
驚かせようと静かに玄関扉の鍵をあけ、靴を脱いだあとは抜き足差し足でリビングへと戻る。しかし、静かに廊下から室内へ移動して目にしたのは、わたしが出たときとおなじ、だらりとした姿勢でゲームに興じる有樹の姿だった。
「あれ、日記は? もう終わったの?」
硬い声に有樹の肩がびくりと跳ねた。
「あ、もう帰ってきたの」
「ママが出かけてからもう三十分以上経ってるよ。日記はやったの?」
答えを知りながら、努めて淡々と尋ねた。
テレビからは耳慣れたゲーム音が流れてくる。自分のなかで荒ぶる別人格がむくむくと起き上がろうとするのをかろうじて制し、息子と向かいあった。
「まだ」
「そっか。それじゃあ、まずはゲームを消そっか」
「うん。ママ、ぼく、わざとじゃないよ。ただ、楽しくてわすれちゃったんだ」
「わかってる。でも、約束したんだからさ。頑張ろうよ」
後ろ髪を引かれるようにゲーム画面をちらちらと見る息子に大きな雷を落としたくなったが、それでは時帰りが台なしになる。どうにか口のはしをつり上げて告げた。
「ママ、ちょっとトイレに行ってくるね。ゲームを片づけて日記をやろう。今度はできるよね」
しょんぼりとしながらも、ようやくうなずいて立ち上がった有樹をあとに残し、トイレに駆けこんだ。
「どうして、やって、ないのよっ」
ごく小さな声で便器に向かって愚痴り、はあっと大きく息を吐きだす。
怒らない、イライラしない、あの子に寄りそう。
ぶつぶつとつぶやいてから深呼吸を繰り返し、リビングに戻った。
今度こそ日記帳を広げてテーブルに向かう息子の姿に、ようやくひとつ荷物を降ろした気分になる。
ただ宿題をやってもらうだけのことが、なぜこんなにも大仕事なのだろう。
萎えそうになる気力をどうにか奮いたたせ、テーブルの端に腰かけた。この静けさは、ようやく集中してくれた合図だ。一心に文字を書きつらねている表情をそっと覗きこみ、ひゅっと息を吸いこんだ。
いやいややっているはずなのに、とても楽しそうだったのだ。
そういえば、この日の日記はいつになくふざけて書かれていたことを思いだした。文法も滅茶苦茶で、消しゴムで消した箇所もいくつかあったはずだ。
今回はどうだろうか。雑多な家事を忙しなく片づけながら待っていると、ついに待望のひと言がリビングに響いた。
「ママ、できたよ」
「おつかれさま。どれどれ~? 点とか、丸とか、なんとかはの“は”がわいうえおの“わ”になってないかとか、そういう間違いだけチェックするね。自分でも見てみた?」
「うん、今日はばっちり」
やけに自信ありげな有樹の声に、こちらまでうれくなる。
昨日までどうやってもできなかったことを、寝て起きただけで別人のようにスムーズにやってのけたりするのが子どもだ。なかなか難ありだったわが息子の文章力にも、ついに羽化のときがやってきたのかもしれない。
希望を胸に日記帳をのぞきこんだわたしは、しかしがっくりと肩を落とすことになった。
そうだ、あの日「ふざけないでっ」と声を荒げてしまった原因のひとつに、この日記の句読点があったのだった。
まず、相変わらず、“は”であるべき部分には“わ”が書かれている。それはまだいい。わたしの説明が悪かったのかもしれない。しかし、“わ”だけではなく、なにを思ったのか有樹は、句読点の代わりに星マークやハートマークを用いていたのである。
しかし大丈夫。きちんと正しい文章に直してもらって、あとは寝かせるだけで平和な明日がやってくるはずだ。
自分を励ましつつ有樹に消しゴムを手渡し、なるべく柔らかな笑みを浮かべた。
「今から間違ってるところを教えるから、消しゴムで消してそこだけ書き直してね。そうすれば楽ちんに直せるでしょう」
なにを言われているのかわからない様子で、有樹は瞬きを繰りかえした。
「え、どこ?」
「ん~、この“わ”とかさ」
指摘されてはじめて、有樹の表情が晴れた。
「ああ、そっかぁ。なんだ、ここならすぐ直せるね」
「そうだね。でもほかにもあるよ。最初からいこうか」
“わ”、一本横線の多い“青”、また“わ”、何度言っても直らないタオルならぬ“タウル”。だいぶ改善されてはいるが、まだまだ細かな間違いが多い。息子は前回の夜とは違ってゴネもせず、鼻歌まじりにひとつひとつ直していく。親が変われば子どもも変わるのだと内心驚きながら、つぎつぎと指摘していった。
「それで、この星マークだけどさ、作文だから、きちんと点に書き換えようか」
スムーズに動いていた息子の手が、唐突に静止した。
「なんで? まちがってないでしょ」
口が尖っている。息子が手強くなるときの合図だ。こういう場合、変に理由を述べても押し問答になるだけだと前回で学んだ。
「それがルールだから。せっかく書いても、ルールを守って書かなきゃ、誰にもわからない文章になっちゃうでしょう」
「ルールって、ぜったいまもらなくちゃダメなの?」
「そ。ダメなの。だから、星とハートを消して点か丸に変えて」
「でも」
有樹は、日記帳のマス目にじっと視線を落とし、消しゴムを指の先で軽くつまんだまま、いっこうに修正する気配がない。
「いいから、今のマークはぜんぶゴシゴシ消して点か丸に直して。こういうのはおかしな工夫するんじゃなくて、ちゃんとルールを守るのがかっこいいんだよ。できたらママに見せてね」
「──わかった」
小さな、小さな声で答えた有樹が、ようやくマークを消して点や丸に書き換えだした。すこしかわいそうな気もするが、直し終えた日記は完成度が格段にあがるはずだ。でき上がったら思い切り褒めてあげよう。
わたしは有樹が寝たら少しだけ残業だ。コーヒーを淹れて日記の修正が完了するのを待ち、じんわりと胸に広がる達成感に浸った。
時帰りのおかげで、息子の笑顔を守ることができた。いまは少しいじけているけれど、前回のように強く叱責したわけではないし、よく眠れば明日にはけろっと機嫌を直しているだろう。
時帰りの神様、ありがとうございます。
そっと心のなかでつぶやいたとき、飾り棚に置いてあった花瓶が、とつぜんカシャンと音をたてて割れた。
「え」
驚いて近づくと、真ん中から稲妻のような亀裂が入り、真っ二つに割れている。活けてあったスズランが床に散らばっている光景がなんだか不気味で、一条神社で体験した祟りが思い出された。
いや、まさかね。
「悪いんだけど紙袋とビニール袋、両方持ってきてくれない? あ、ここには近づきすぎないで──有樹?」
振り向いてみれば、いつの間にか有樹がリビングから姿を消している。
ダイニングテーブルに置かれた日記帳には、ルール通りに句読点の打たれた日記帳が、ちらばったスズランのように力なく横たわっていた。
子ども部屋をそっとのぞいたが、有樹はすでに明かりまで消して寝入っていた。洗面台をチェックしてみれば、どうやらひとりで歯も磨いたらしい。
寝息をたてる息子の顔を、ベッド脇にそっとしゃがんで見守る。目を閉じている息子は一気に幼さが増し、まだ幼稚園生のようにも見える。
明日の朝にはちゃんと笑ってくれるよね?
暗闇のなかで光の棒を見てみると、ぽうっと発光していた。
「この濃さなら、まだまだ大丈夫そう」
誰にともなくつぶやき、そっと部屋をあとにする。時帰りの疲れが出たのか、夫とスマホで話したあとはベッドに倒れこんでそのまま朝まで寝入ってしまった。