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 ぼんやりと竹林を眺めていたぼくの目の前に、抹茶とお菓子が運ばれてきた。

「ええと、渚君は中学生かな? だったら、お抹茶は平気?」

「抹茶はまあ、大丈夫です。あと、中学三年です」

「へえ、それじゃあ受験生なんだ。今、勉強が忙しいでしょう」

「いえ、中高一貫なんで、そのままエスカレーターで進学する感じです」

 ここはさっきの小ぎれいな建物のなかだ。〈こよみ庵〉といってこの神社の社務所と抹茶処を兼ねているらしい。メニューは抹茶セット一択で、本当は千八百円するらしいけれど、神主さんが学生割引だと言って千円にしてくれた。少し巫女さんの口もとが引きつっていた気がする。

「それで、君は過去のいつに、どんな理由で戻りたいんです?」

 抹茶をひとくち飲んだぼくに、待ち構えていたように神主さんが尋ねてきた。

「ぼくは──、飼い犬のビッケと出会った日に戻りたいです。ビッケをぜったいに飼いたくない、から」

 そんなつもりはなかったのに、語尾がみっともなく震えた。神主さんは片眉を上げて、話のつづきをうながした。呼吸を整えて、ふたたび話しだす。

「ほんとはぼくが飼うはずじゃなかったんです。ぼくが幼稚園のときに、通りかかった家でちょうど雑種の子犬がたくさん生まれて里親を募集してて。もう、引き取り手が決まっていたのに、この子犬をぜったい連れて帰る、なんてダダをこねて無理に譲ってもらって家族になりました。だいたいは二ヶ月のころにもらわれていったらしいんですけど、ビッケだけはもらい手側の事情で四ヶ月くらいまで産まれた家に母犬といて、ちょっと大きくなってて。それがまたふわふわで可愛くて。でも、ぼくの家にこなければ、ビッケはもっと幸せだったはずです。子犬時代はぼくみたいなわがままな子どもの相手をさんざんさせられて、成犬になってからはぼくが友達との遊びや塾であんまり遊んでくれないのを我慢させられて──。あんなにぼくからストレスを受けなければ、ビッケは病気なんかにならずに、もっと穏やかに長く生きられたはずです。だから、ビッケと出会った日に戻って、本来の飼い主の手に引き渡します」

 言葉を切ると、部屋は静寂に包まれた。

 一気に話したせいで喉がからからに渇いている。抹茶ではなくグラスの水を一気に飲み干し、和菓子をほおばった。

「なるほど」

 ぼくがひと息ついたのを見はからったように、神主さんがようやくひと言つぶやいた。

「さ、お兄ちゃん、早く儀式に入ろう? 渚君の話にはなんの問題もなかったでしょ」

「──まあ、少しひっかかることはありますが、いいでしょう。時帰りの儀式をさせていただきますので、さっそく本拝殿へどうぞ。くわしい説明はあちらで」

「にゃあん」

 いつの間にか、タマがぼくの足元に体をこすりつけた。なぜか、励まされているのだとわかる。

「タマ、ぼく、行ってくるよ」

 こんなうそくさい話にも希望を見いだしてしまうくらい、もう心が限界なんだ。

 頭をひとなでしたときの、ふわりとした毛の感触、ほのかに伝わる体温。小さな生き物がじっとぼくを見上げる姿に、相手はビッケでもないのに、こみあげるものがあった。

 

 ぎしぎしと鳴る本拝殿の床に久しぶりの正座をして、神主さんの口から時帰りに関するいくつかの注意事項を聞いた。

 集中しようと思うのに、どうしてもそわそわしてしまう。とりあえず、時帰りの儀式というのは、神主さんが祝詞を上げ、巫女さんが舞を踊るものらしいことくらいはわかったけれど、これからビッケに会えるかもしれないと思うと、あとの話がすんなり入ってこないのだ。過去に帰ったら、うまくやり遂げなくちゃいけないのに。

 足も痺れだしてもぞもぞと動いていると、神主さんのため息が降ってきた。

「ま、あとは現地に行けばわかるでしょうから、省略します。でも、これだけは覚えておいてください。向こうに見える竹林が光りだしたら、手の平の内側に光の棒が現れます。そしたらもういちどスニーカーを履いて、あの小径をたどって竹林の奥まで進んでいってください」

「わかりました」

 さすがに緊張してくる。

 この期に及んで、このふたりを信じていいものかどうかわからない。というか、むしろ信じていない。ただ、ぼくみたいなお金のない中学生を騙しても、この人たちにはなんのメリットもないはずだ。

 息を大きく吐いて、「お願いします」と頭を下げ、指示されたとおりに竹林に向かって正座をした。

「それでは始めますね」

 神主さんが静かに宣言し、ぼくの両肩が榊で清められた。

 すっと息を吸うかすかな音のあと、ついに儀式がはじまった。高く低く、調子をつけて神主さんが祝詞を奏上する。心の深いところまで染みてくるような、清涼な声だった。あの竹林のなかの湧き水に似ている清らかさだ。

 やがて、シャン、シャン、と鈴の音とともに衣擦れの音が祝詞とまじりあった。ちらりと振りかえると、刺繍の入ったきれいな衣装に着替えた巫女さんが、しなやかに舞っている。目が合いそうになって慌ててそらした。

「あっ」

 竹林に向き直ってすぐに、小さく叫ぶ。言われたとおりに、奥のほうに柔らかな光が漏れだしていたのだ。徐々に大きくなる光に圧倒されながら、操られるように立ち上がり、すこし手間取りながらスニーカーを履いた。手首の内側には三本の光の棒が見える。

 三日。それが、ぼくに与えられた時帰りの時間らしい。

 兄妹を振り返って小さくお辞儀をし、ふらふらと小径に近づいていった。そのまま竹林のなかに歩を進める。

 さきへと行くにつれ、神主さんの声が遥か遠くから響く音楽のようにくぐもっていった。鈴の音もかすかになり、気がつけば竹の姿さえも消えさって、光の空間に包まれている。

「あれ、ぼく、落下してる?」

 ごうごうという激しい風のうなりとは裏腹に、ぼくの体はゆったりとし右へ左へと流され、過去に向かって落ちていった。

 

 たんぽぽが、目線のすぐ先で土手を埋めつくすように生えている。

「きれー」

 ぼくの意思とは関係なく、たんぽぽを指差してそんな声が出た。

 ここは?

 ぼくのものらしい手も足も、なにもかもミニサイズだ。きれいという簡単な単語さえも、すこし言いづらかった。

「うわぁっ」

 嘘じゃなかった。あの人たちは、本当にぼくをあの日に送ってくれたんだ。

 なにしろ、本当に地面が近い。頭が重く感じて、いつもどおりに歩こうとするとすこしぐらつく。それでも信じられなくて、漫画みたいに左手でほっぺたをつねってみると、ありえないほどぷにっとしていた。

 ぼくの右手を握っているのは、父だった。このあいだ身長を抜いたばかりなのに、今は見上げるずっと先に父の顔がある。白髪なんてまだなくて、ずいぶんと若々しく見えた。

「よし、そろそろ帰ろっか。お昼ごはんの時間だしな」

「うん」

「え?」

「──いいよ?」

 父が慌てたようにしゃがみこんで、ぼくに視線を合わせてきた。

「──なぎ君、どうした? 具合でも悪いのか。ほら、パパは帰るって言ってるんだぞ? もっと遊びたいとか、帰るのいやだとか言って、パパを困らせなくていいのか?」

「えぇっ?」

「いや、なんでもない。なぎ君の気が変わらないうちに家に帰ろう。帰っちゃおう」

 徐々に、記憶が甦ってきた。

 どうやらぼくは、正真正銘の“あの日”にいるらしい。家へと向かう途中の住宅街で『子犬お譲りします』のチラシを発見し、ビッケと出会った運命の一日に。

 なるほど。だとしたら、帰り道を変えたほうがいい。あの家の前を通らなければ、ぼくたちは出会わずに済むはずだ。

「パパ、あっちからいこう」

「おお、いいぞ。たまには違う道を通るのも楽しいよな。でも少し車の量が多いから、ちゃんとパパと手をつないでるんだぞ」

「うん」

 素直にうなずき、訓練の済んだ忠犬のように父の脇を歩く。父はそんなぼくを、奇跡に出会ったかのような顔で見下ろしている。

 ふわりと視界が高くなった。両脇から抱えられ、父に肩車されたのだ。

「わあ」

 肩車がこんなにも空に近いことに、中学生ながら感動を覚えた。

 そよ風が前髪を揺らして通りすぎていく。

 川面はお日様の光を照り返し、今もおなじ場所にある八重桜が二本、咲きこぼれていた。

 ぼくがビッケと出会った家は、ここからそう遠くない。すこし回り道をして帰るくらいだと、ひょんなことから、うっかりビッケと出会ってしまうかもしれない。たとえば、あたらしい家族に連れられたビッケと、途中の道なんかですれ違うなんてことになったら、気持ち的にかなりキツい。

 ぼくがいなかったらビッケを飼うはずだったあのときのおねえさんが、確実にビッケを連れて帰れるよう、念には念を入れたほうがいいような気がした。

「パパ」

「なんだ?」

「ぼくやっぱりかえんない。もっとあそぶ」

 がっくりとうなだれた父には申し訳ないが、頑として帰宅を拒否し、あっちへ寄り道し、こっちで見かけた遊具で遊び、コンビニで買った昼ごはんを公園のベンチで食べ、また遊具で遊び、ほんの十分の距離を、ゆっくり、たっぷりと時間をかけて移動した。

 正直言って眠くて仕方がなかったけれど、ぐっとこらえて時間を稼いだ甲斐があって、高かった日差しは傾き、そのうち空に色がつきはじめた。

 これだけ時間を稼げば、もうビッケは家に連れていってもらえただろう。

 人なつこいあいつのことだ。うちにやってきた最初の日みたいに、なんのためらいもなく新しい家族に愛嬌を振りまいて、みんなを虜にしているに決まってる。用意してもらった真新しいオモチャにじゃれついているか、遊び疲れて眠りこけているところだろうか。

 ぼくの存在なんて、知ることもないまま。

 そう思うと、胸から全身に痛みが走るようだった。

 手首の内側には相変わらず三本の光の棒が見えるけれど、そのうちの一本は心なしか薄くなっているように見えた。

 もう今日でぼくの願いは叶うのに、どうしてこんなにたくさんの時間を与えられたのだろう。今のぼくにとって、あした以降は、やることのない放課後みたいな虚しい時間なのに。

「──ぎ君、なぎ君っ」

 父に肩を揺すられた。

「目を開けたまま寝ているのかと思ったぞ。疲れたならおんぶしてやろうか」

 ありがたい提案だった。父に背負われるなんて照れくさいけれど、ふくらはぎがずきずきと痛みはじめている。

「うん」

 お日様を浴びて体をたくさん動かしたせいか、まぶたも重くなってきた。そういえば小さいころは、なんの前触れもなくところかまわず熟睡してしまう子だったと母から聞いたことがある。

 目をこすり、差し出された背中に乗ろうとしたときだ。背後から悲鳴が聞こえた。

「こらっ、待ちなさい! 待てったら」

 眠気も吹き飛ぶような大声に振りかえれば、小さな毛玉がすごい勢いで転がってくる。

「キャンッ」「えっ」「渚っ」

 ふたりと一匹が同時に声をあげ、次の瞬間、ぼくの腕のなかに、まだ小さくてふわふわのビッケがいた。

 ちょこんと垂れた耳に、すこし吊り目で気の強そうなつぶらな瞳。全体は真っ白だけれど、背中とほっぺにふわっと茶色いぶちが入っていて、なでると気持ちがいい。背中のぶちのほうに鼻を押しつけるとほんのすこし臭くて、泣きたくなった。

「キャンッ、キャンッ」

 ビッケは鳴きながらもクゥクゥと鼻を鳴らし、盛大に小さなしっぽを振っている。短いしっぽはこのあと伸びて毛に覆われ、綿あめみたいになるのだ。

 涙をこらえて声をかける。

「ビッケ──どうして」

「キャンッ」

 もう別の呼び名があるかもしれないのに、ビッケと呼ばれた瞬間、垂れていた耳がぴょんと半分立ちあがった。

「あははっ、ちっちゃいころからこうだったっけ」

 ぼくが声をかけるたびに、ひと言も聞き漏らすまいと、期待に満ちた瞳で耳を上げていた。

 この姿をもう一度見られるなんて。

 思わずひとなですると、許しを得たとでも言うように、ぼくの顔中を舐めまわしてくる。生あたたかな舌の感触と鼻をつくかすかな臭みに、ビッケと過ごした幸せな記憶がつぎつぎと立ちのぼってきた。

 もう我慢できなくてぽろんと涙がこぼれ、とっさに顔を隠してぐいっと袖口でぬぐう。

「大丈夫だった? ごめんね、うちの子が」

 声の主を見上げると、父の隣で、あの日のおねえさんが、ぼくを心配そうに見おろしていた。当時は気づかなかったけれど、近所の高校の制服を着ている。

「あ、ごめんなさい。おねえちゃんのワンちゃん」

 ビッケを抱えて差しだそうとしたけれど、ぼくの腕にしがみついて離れない。ぼくもまた、ビッケを乱暴には突き放せないでいる。

 おねえさんはぼくのそばにしゃがみこみ、腕のなかにいるビッケをそっとなでた。ビッケは小さくうなっている。

「こら、ダメだろう」

 ついつい元飼い主の癖で、叱った。しまったと顔をあげると、おねえさんが微笑ましそうに目を細めている。

「ふふ、いいの。それよりごめんね、いきなり飛びつかれてこわかったよね」

「ううん、だいじょうぶ」

 おねえさんは、もういちどビッケをゆっくりとなでた。今度はビッケもうならずに、おとなしくしている。それでも体に力が入っているのがわかった。

「この子、今日、産まれたおうちから受け取ってきたばかりなの。でもすごく元気がなくて、わたしにもうなってばかりで。一応だっこはさせてくれてたんだけど、わたしもおっかなびっくりだったからすり抜けられちゃったの。君にはこんなに懐くなんて、これじゃどっちが飼い主かわからないよね。でも、これからゆっくり家族になっていこうって思うんだ」

「あ──」

 この人は、きっとすごくいい人だ。

 自分に懐かないビッケに苛立たず、ビッケのペースを尊重してくれようとしている。

 犬が懐かないとか、元気すぎるとか、そういう理不尽な理由で突き返してくる人が一定数いると、ビッケを譲ってくれたおばさんは散歩の途中で会うたびに嘆いていた。ひどい人だと、その日のうちに返してきたりするらしい。でもこの人は違う。

「ビッケは幸せね、いっしょに大きくなってくれる飼い主と出会えて」

 おばさんの声が耳の奥で甦る。

 でもあの言葉は間違っている。ぼくだって、子犬を突き返しにきた人たちと同じだ。わざわざ過去に時帰りしてまで、ビッケを捨てようとしているんだから。

 飼い主にふさわしいのは、この人のほうだ。ぼくの決断は間違っていなかった。

 くんくんと鼻を鳴らしつづけるビッケを胸元から無理に引き剥がすと、ぼくは今度こそおねえさんにビッケを引き渡した。

「バイバイ──」

 新しい、もっといい名前をつけてもらうんだぞ。

 ビッケの鳴き声を背中に聞きながら、ぼくは父に背負われてその場をあとにした。

 

(つづく)