うっすらと目を開くと、すでに朝陽が部屋に差しこんでいた。ゆっくりと昨日の記憶が甦ってくる。
鎌倉に出かけ、時帰りをして、そのあと──。
不安になって急いで手首を確認する。光の棒はきちんと輝いており、一連の出来事は夢ではなく、私はまだ一週間前の世界にいることがわかった。
あらためて、この身に起きた奇跡を噛みしめる。感謝はもちろんしているが、空恐ろしさもあった。
ただし、この現象について考えてばかりもいられない。光の棒が、昨日に比べてかなり薄く見えるのだ。
あとどれくらい、時間が残されているのだろう。
まずは、朝の有樹と話さなければ。昨晩、大きくケンカはしなかったが、おやすみも言わずに寝てしまったのが気にかかる。
簡単に身づくろいをし、キッチンへと移動して朝ごはんを準備したあと、子ども部屋に向かった。時刻は七時十五分。そろそろ起きたほうがいい時間だ。
深呼吸してから、ドアをノックする。
「有樹、起きて。時間だよ」
返事がない。静かにドアを押しあけると、まだ壁を向いて眠っているようだった。ただし、これはあくまでポーズだ。本当に寝入っているときの彼は万歳で仰むけになっていることが多い。
いやな予感がした。なぜならこの光景が、前回とまったく同じだったから。
「ねえ、有樹、準備して。遅刻しちゃうよ」
せめてもの抵抗で、前回とは違いやさしく話しかけてみた。
どうかご機嫌で起きますように。
「──今日はいかない」
願いむなしく、返事は記憶にあるものとまったく同じだった。
さいしょは、もしや体調でも悪いのかと思って熱をはかったりもしたのだが、結果は平熱だった。だるい、頭が痛い、という訴えもすべて仮病だと決めつけ、無理に腕を引っ張り起こして、着替えさせたのだ。
まったく異なる晩を過ごしたのに、なぜ翌朝の反応がまったく同じなのだろう。そもそも昨日の対応も間違いだったとしたら、いったい今回は、どのように接するのが正解だったのだろう。
わたしはただ、息子に笑っていてほしいだけなのに、その方法がわからない。
「き、気分でも悪いかな」
ベッド脇まで移動して、今回も小さなおでこに手の平をあててみる。やはり、熱が高い感じはしなかった。
「熱は大丈夫みたいだね。どうしたの、なにか学校であった?」
「なんにもないよ」
「それじゃあ、いかなくちゃ。それとも、どこか痛かったり寒かったりする?」
「そういうわけじゃない。でもいかない」
確か前回はこのあたりで、昨夜からの流れもあって雷を落とした。今回は、昨夜とおなじくおだやかに諭してみようか。
迷いのなか、とつとつと訴える。
「でも、さ。ママとパパは会社にいくのがお仕事で、有樹のお仕事は学校にいくことでしょう? いきたくない気分のときがあるのは、ママだって昔は子どもだったからわからないでもないけど、それでも学校って、いきたくないからって休んでいいところじゃないんじゃないかな」
返事を聞くのが怖くて、相手が口を開く前にさっと立ちあがり、洋服をクローゼットのなかから取りだした。こんもりと盛り上がっているベッドの上に洋服をおいて告げる。
「まずはさ、着がえてみない? ママも会社にいかないとだし、ひとりで家に残しておくわけにいかないし」
返事の代わりに、長くて深いため息が聞こえた。
有樹がベッドから這いだし、のろのろと着替えはじめたのだ。
いったんはほっとして、リビングへと戻る。
別の花瓶に飾り直したスズランが視界にはいり、そっと香りをかいで自分を慰めた。
有樹は結局、朝食をほんの少しだけ食べたあと登校した。気味が悪いほど従順だった。
「楽しんできてね」
背中にかけた声に返事はなかった。
おまけに、わたしへの抗議のように、さりげなくのぞいた子ども部屋の机のうえには、きょう提出するはずだった日記が、ぐしゃぐしゃになったページを開いて放ってあった。
昨夜、子ども部屋に戻しておいたときはきれいだったから、今朝、起きてからあんなふうにしたということだ。
会社に急きょ連絡し、リモート作業に切り替えてもらった。前回は苛立ちを抱えたまま出勤し、小さなミスを繰り返してちっとも作業が進まなかったことを思いだしたのだ。
コーヒーを淹れ、昨日の夜、有樹が日記を書いていた椅子に座ってみる。自然とうなだれてしまい、ダイニングテーブルの天板の木目を意味もなく視線でなぞっていた。
「わかったよっ、認めればいいんでしょ、認めれば」
無人になったリビングで、テーブルにあごをのせる。
どうにか見ないふりをしてきたが、昨日の夜から今朝にかけて、時帰りをした甲斐がないほど事態がこじれている。今朝の有樹の、あのすべてをあきらめたような瞳。あれなら、母親を思い切りにらみつけるファイトがあったぶん、前回のほうがまだましだった。
私は失敗した。時帰りの神様に千載一遇のチャンスをいただいたにもかかわらず、有樹から笑顔を奪い、あんな無気力な瞳をさせてしまった。
仕事の合間に、いく度も昨夜のおこないや言動を振りかえり、いったい何が彼をあそこまで追い詰めてしまったのかと考えたが、結局答えは欠片も見つけられなかった。
お昼休憩の時間には、ページの皺を伸ばしながら、昨日の日記を読んでみた。
きちんとした齟齬のない文章。抜けや間違いのない文字。ハートや星が書かれていた箇所は、代わりに句読点が収まっている。もっときれいに正確に書ける子はもちろんいると思うが、有樹にしてはかなり整った完成度の高い文章になったと思う。
それでも──とにかく間違えたことだけはわかる。この日記が原因かどうかもわからないダメな母親だが。
今日は、学童クラブまで有樹を迎えにいこう。
手首の内側に光る棒はまだ明るく輝いているものの、こちらに来たてのころに比べれば確実に輝きが鈍くなってきている。学童に早めに迎えにいけば、すこしは息子といっしょにいられる時間が延びる。間違えたのなら、どうにかして時間内に正さなければ。
気もそぞろになりながら仕事をこなし、午後五時の終業時間になるなり、家を飛びだした。ふだんはのんびりと歩く道を、小走りで急ぐ。
ようやく柵で閉じられた校門前に到着すると、すこし息を整えてから学童クラブ直通のインターフォンを押した。
『はい、楓小学童クラブです』
「池内有樹の母です。今日は仕事が早く終わったので迎えにきました」
『あ、は~い。お入りくださ~い』
明るい女性スタッフの声とともに、通用門の解錠音が響く。ここを入ってすぐ左手にあるのが、学童の活動がおこなわれている別棟だ。
あの建物の中でも、息子は今朝のような、なにもかもあきらめたような顔で座っているのだろうか。いてもたってもいられず小走りで向かっている途中、よりによって滝沢先生が、校庭の向こうから手を振って呼び止めているのが見えた。
「池内さ~ん」
「あぁ──」
思わず小さく呻いてから、愛想笑いを浮かべて立ち止まった。
本当にいい先生なのだが、なにせ話が長い。今、いちばん会いたくないタイプの人種なのだ。
ふぅふぅと息を荒くしながら急ぎ足で近づいてくると、滝沢先生はふっくらとした頬を持ち上げて笑った。
「ちょうどよかったです。有樹君のことでね、ぜひお伝えしたいと思っていたことがあったの。もうほんとにね、かわいらしくて。二年生になると口も達者になって大人顔負けになっちゃう部分もたくさんあるでしょう? それでもやっぱりねえ、特に男の子はまだまだ、ふふふ、有樹君も、お宅でもかわいいですよね?」
「あはははは、そうですねえ」
微笑んでみせながらも、足の先はどうしても別棟に向いてしまう。失礼のない程度に話を打ち切らなければ、軽く十分は会話がつづくだろう。
「あのね、昨日、授業で作文を書いたことは聞いてます? お父さん、お母さんのよいところ、悪いところという作文だったんですけどね。これがまたおかしくて、みんなそれぞれ素直に書いてくれてねえ。今日、持ち帰らせたからぜひ読んでほしいんですけれども」
「作文、ですか」
ドキリとした。有樹は昨日、学校でも授業で作文を書いていたのだ。前回はそんなことも知らなかったし、作文ノートを持ち帰っていたことにも気づかなかった。もしかして、わざと持ち帰らなかったのかもしれない。
「そう、作文。みんなそれぞれなんですけどねえ。もうこの学年になると、大人に評価される文の書き方をだんだんとわかってきちゃうのよね。みんなそういう“きちんとした”文章を書けるようになってきちゃう。もちろん悪いことではないですけれどね」
一呼吸おいて、滝沢先生がつづける。
「昨日の作文は、テーマのほかにも、自分の気持ちを書くときに感情が伝わるように工夫しましょうという課題を出したんです。うれしかった、楽しかった、悲しかったって直接的に書いてもいいんですけど、胸があたたかくなった、心臓がずきりとした、とかね、色々な表現があるじゃないですか。例を紹介して、考えてもらったんです。みんなうんうんうなりながら書いてくれて。有樹君も、ふだんはひょうきんにしているんですけど、あの時はすっごく真剣な顔をしてたんです。それで書き上がってきたのを読んでびっくりですよ」
「びっくりですか」
悪い知らせではないことは滝沢先生の口調から察せられたけれど、それでも親の性で少しハラハラしてしまう。
「ええ、有樹君の創意工夫がね、斜め上だったんです。わたし、なんだかうれしくなっちゃって。文章はいつものままだったんですけど、句点をすごく工夫してくれたんですよ。ママのごはんはとっても美味しいです、のあと、句点の代わりに星マークをつけてくれたり、パパとのキャッチボールが大好きです、のあとに袋文字でびっくりマークをつけてくれたり」
昨日の日記が思い浮かんで、「あ」と小さな声が出た。
「文章はつたないかもしれないけど、真心がこもっていて想いが飛び跳ねてるのがわかるの。今しかできない工夫も、ほんとにかわいくて尊くて。わたし、うんと褒めちゃいました。あ、句読点の指導はもちろんきちんといたしましたので、それはご安心ください」
あまりのことに、曖昧にうなずくことしかできなかった。先生が、来たときと同じように忙しなく去っていくのを呆然と見送る。
少し遠くで、先生がはたと足を止めて振りかえった。
「作文のなかで、ひとつだけハートマークも使ってあるんです。それは家に帰って見つけてみてください。きっとキュンとなっちゃいますよ」
ふふふと笑い、こんどこそ滝沢先生は校舎のなかへと消えていった。
別棟へと急いでいたはずが、一転、足どりが重くなる。
滝沢先生に褒められたとっておきの工夫を、わたしは全否定したうえに、消しゴムでごしごしと消させてしまったのだ。あのとき、息子の胸はどんなに痛んだろう。わたしを喜ばせようとしてくれていた、驚かせようとしてくれていた。きっと普段は口うるさいわたしも、今夜は先生みたいに褒めてくれると、期待で胸がいっぱいだったはずだ。それなのに──消しゴムがノートを往復するたびに、彼の胸はヤスリでこすられるように痛んだに違いない。
作文を書きながら、にこにこと作文に集中していた有樹の顔が思い浮かび、強く唇を噛む。途方に暮れて立ちどまり、校庭に向き直った。
わたしの知らない時間でのエピソードを聞いたせいか、親の手を離れ、有樹がここで積み重ねている日々を改めて想わされた。同時に、彼はひとりの人間なのだという当たり前の事実を改めて噛みしめる。たまたまわが子として生まれてきてくれただけで、有樹は確かにひとりの人間。そのことを、過ぎていく日々のなかでついつい忘れていたのかもしれない。だから、自分の仕事を家庭に持ちこんで文法をふりかざし、彼らしさを奪うような校正をしてしまえたのだ。わたしは、最低だった。
ひとりの人間が心をこめて書いたものを消し去ってしまった。その罪深さにうなだれる。
しばし風に吹かれてたたずんだあと、思い浮かんだことはただひとつだった。
謝るしかない。
悪いことをしたらきちんと相手の目を見て謝りなさい。
「ありがとう」と「ごめんなさい」さえきちんと言える子であればいいと思っていたから、口を酸っぱくして言い聞かせていたことを、親みずからが実践する機会がやってきたのだ。
大きく息を吐いて別棟へと足を踏みいれる。
とにかく、本人と会おう。そして、謝ろう。
玄関を入ってすぐのところで顔なじみのスタッフを見かけて挨拶をすると、すぐに有樹を呼びにいってくれた。
息子が出てくるのを待っているあいだ、じわりと手の平に汗がにじむ。
やがて、先ほどのスタッフに伴われて有樹がやってきた。ランドセルがいつの間にか少し小さくなった。背だって、もうわたしの肩くらいまである。わたしの手を順調に離れつつある、ひとりの少年がやってきた。
「なんで迎えにきたの」
今朝よりも表情があることに、まずはホッとした。怒りの表情でも、抜け落ちているよりマシだ。
「ちょっと、ね。話したいことがあって。近くのカフェに寄って帰らない?」
子どもの食い意地につけこむことは作戦としてありだろう。案の定、有樹のとんがった目尻が、ほんの少し丸くなった。
「別に、いいけど?」
カフェは、きのうわたしが定規セットを買いに走ったショッピングセンターのなかにある。並んで歩いたが、ふたりとも口数は少なかった。少しの距離が遠く感じられ、ただ黙々と歩く。ようやくカフェにたどりつくと今度は満席で、少し待つことになってしまった。いつもなら入らずに帰ろうと言いだすのに、何事かを察しているのか、有樹はおとなしく隣に座っていた。
幸い、五分ほど待っただけで席に案内された。
「ぼく、マンゴーフラッペ」
「わかった。ママはカフェラテにしようかな」
飲み物がやってきてからは、あらためて有樹と向きあった。わたしたち親子のテーブルだけざわめく周囲から切り離され、時帰りしたときにひたすら落下してきたあの空間のような静けさに満ちていた。
「あれっ」
手首の内側を確認し、思わず小さく叫ぶ。気づかないうちに、光の棒がごくごく淡いものになってしまっていたのだ。
「どうしたの」
焦りをどうにか押さえこむ。
「あ、ううん、なんでもないよ。それよりママね、有樹に謝らなくちゃと思ってここに誘ったの」
きっともう、ためらっている時間がない。誠心誠意、謝らなければ。
「ママね、昨日の夜、有樹が一生懸命に工夫して書いてくれたマークを消しゴムで消しちゃったよね。有樹が怒るのも無理ない。ほんとにごめんなさい」
頭を下げて返事を待ったが、なにも聞こえてこなかった。そっと顔を上げると、有樹もすこしうつむいている。目にいっぱいの涙をたたえていた。
「きのうのママ、ひどかった。ぼく、悲しかったよ」
「うん、ママが間違ってた。ほんとにごめんなさい」
許してくれる? とは聞けなかったし、聞くべきではないと思った。
手首の光はもう目をこらさなければ判然としない。
ああ、こうしてきちんと謝るために、わたしは帰してもらったのか。
「いいよ。作文で、マルじゃなくて星のマークはやっぱりへんだし」
「ううん、変じゃない。すごく素敵だと思う。ママの思う正しいことが、いつもベストだとは限らないもの。大切なことを思い出させてくれてありがとう」
もうお母さん、未来に帰らなくちゃ。つづきは一週間前のわたしにバトンタッチするね。
声に出さずに微笑んでみせると、有樹がくしゃりと笑ってくれた。
わたしも顔いっぱいで笑いかえす。
つぎの瞬間、頭のてっぺんが掃除機で吸われたようになって、意識が体から引き離されたのがわかった。
来たのとは逆に、ふわり、ふわりと上昇していく。ものすごいスピードで、きっと未来へと帰っている。
途中、体験していないはずの記憶が、いくつも、いくつも思い浮かんできた。
カフェから帰ったあと、有樹といっしょにカレーライスをつくっていた。久しぶりに、布団を並べて寝たりもしていた。作文ノートを読んで、滝沢先生の言うとおり、キュンとしていた。
ふふっと微笑んで新しい不思議な記憶を噛みしめていると、足の裏がふわりと地面を踏んだ。
あたりを見回せば、もとの竹林にひとりたたずんでいた。
「お帰りなさい」
背後からの声に振り向くと、あの神主がなぜか気遣うようにこちらを見ている。
「大丈夫ですか? ちゃんと歩けます?」
「はい、大丈夫かと」
言われて神主のほうへ歩み寄ろうとしたが、なぜか少し眩暈がした。神主が駆け寄ってきて、腕を差しだしてくれる。イケメンのやさしい仕草に、なんだか症状が和らいだ気がする。
「ゆっくりでいいので歩いてください。とりあえず〈こよみ庵〉に移動しましょう」
「はい。なんだか神主さん、行く前と印象が違う気が──」
思ったより疲れているらしく、言葉を繕えなかった。
神主は気を悪くした様子もなく、淡々と答えた。
「時帰りすると、けっこうふらついてしまう人がいるんです。それに、行く前にもお伝えしたように、時帰りが必ずしもうまくいくとは限りませんし、まあ神罰がくだったらいやですし、すこしは人道的にふるまったほうがいいかなと」
不器用な気遣いが少年のようで、クスクスと笑ってしまう。
〈こよみ庵〉についてからも、満ち足りた気持ちがつづいていた。
わたしとは対照的に、庵のすみのほうでは巫女がぐったりとうつ伏せになって休んでいる。一瞬起き上がって手を振ってくれたが、ふたたび突っ伏してしまった。
「あの神楽を舞うと疲れるようで、必ずああなります。無視してください」
座ったわたしにペットボトルの水が差しだされた。なんでも神社の湧き水を汲んだもので、飲むと眩暈やふらつきが緩和されるらしい。神主が点てたらしいお茶も、意外なほど美味しく感じたのはこの容姿の魔法もあるだろうか。
目の前に腰かけた神主が尋ねてきた。
「今後の参考に、時帰りした人にはお話をうかがっているんです。まずお聞きしたいのですが、時帰りしたこと、後悔していませんか」
「いえ、とんでもない。後悔どころか、本当に感謝しています。おふたりにも、きのう時帰りを決心した私にも。あ、でもこちらではほとんど時間が経っていないんですよね」
「ええ、一時間ほどですね」
「たったの一時間ですか」
驚きながら、時帰り中の出来事をひとつひとつ話して聞かせた。
息子を怒らせた理由をちゃんとわかっていなかったせいで、同じ失敗をしてしまったこと。大きな原因が実は日記だったこと。それでも今回はちゃんと謝れて、仲直りもできたこと。学校で書いた作文のこと。
「作文にはなんて書いてあったんですか」
巫女さんがむくりと体を起こして尋ねてくる。
「ぼくはお母さんが大好きです♡、と書いてありました」
うれしさを抑えきれずに口元をむずむずとさせて告げると、神主も巫女も、驚くほどやわらかな笑みとともにうなずいてみせた。
帰りはタマを抱いた神主が、バスの通りへ出るところまで送ってくれた。
「また遊びにきますね」
「覚えていられたら」
「え?」
意味がわからず問い返すと、神主がふっと笑った。
「大事なことをお伝えし忘れていましたね。この神社のことは、じょじょに忘れます。時帰りしたことも。こちらへ帰ってくるときに、新しい記憶が少しずつ浮かんできたでしょう。そちらの記憶へとだんだん上書きされていくんです」
「そうだったんですか」
確かに、こんなに見目麗しい兄妹とこれほどの御利益がある神社なのに、この寂れ具合。忘れられてしまうならうなずける。
その儚さが寂しい気もするけれど、そろそろこの幻のような神社や兄妹とお別れして、わが家のイケメンのもとへと帰る時間だ。たとえちょっと嫌がられても、早く帰って息子をぎゅっと抱きしめたかった。
神主が、わずかに瞳を揺らしたあと、意を決したように告げた。
「よい時帰りになって、うれしく思います」
「ありがとうございます。猫ちゃんも、どうもね」
おとなしく抱かれていた白猫が満足気にひと鳴きし、なにもかも見透かしているような青い目を細めた。