その夜、私が結婚するまで暮らした祖父母の家に、私と父の荷物を運びこんだ。母と三人で暮らした家は、この半年後くらいに売ったと記憶している。
孫や妻をねぎらうでもなく、不機嫌な声がとんできた。
「おい、飯は六時に間にあうんだろうな」
ぎょっとさせられた。ちらりと私を見た祖父は、さらに付けくわえる。
「ちょうどいい。美優とふたりで準備すれば間に合うだろう。俺はそのあと七時から町内会の会合があるって言ってあったよな。和宏、今夜はおまえも来い」
私を手伝って祖母が疲れていることなど、きっと想像しようとも思わなかったのだろう。孫が母親を失った日だということだって気にもしていない。
祖父の性格は、現在に至るまで変わっていない。祖母もいなくなり、かなり老いた現在は、この時点よりひどくなっているくらいだ。今は施設に入っているけれど、スタッフたちから嫌われていることは、ごくたまに訪ねるだけの私でもわかる。
「みっちゃん、疲れたでしょう。二階で休んでなさい。ばあばがお部屋を準備しておいたから。気に入ってもらえるといいんだけど」
「大丈夫、私も手伝う。それにパパも。ね、パパ」
「は? いや、俺は──」
「だって、これからお世話になるんだよ。ばあばは、ほんとは二人分だけでよかったのに、四人分も色々とやることになって大変なんだよ。それなのに、パパはリビングでただ休んでるだけでいいの」
「みっちゃん、いいのよ。私は」
「いいわけない。パパ、手伝って」
父はなにか言いたげだったけれど、さすがに自分の母親が今日は働きどおしだったことを知っているからか、しぶしぶながらもうなずいた。
そこへ、大きな咳払いが響いた。祖父が私の前に立ちはだかる。
「まったく、そういう口のきき方は母親から仕込まれたのか。生意気な」
やはり、私の最後のミッションは祖母を祖父から守ることだ。女手がふたりになったからって、家政婦がふたりになったわけではないということを、そもそもこの家に家政婦などいないということを、この頑固頭に釘を打つように伝えてからでなければ未来に帰れない。
祖父を見上げ、両腕を胸のあたりで組んだ。
「なんだ」
片眉をつり上げるこの表情が、昔は怖くて仕方がなかった。ごつごつとした威圧的な見た目も、しゃがれた大声もおそろしくて、なにも言い返せなかった。
今でこそ背の丸まったちんまりとした老人になったが、幼いころはいつもこうやって、見上げるように話していた。
祖父が小馬鹿にしたように笑う。その顔も、自分の無力感も、いまだに馴染みがある。
けれど、それも今日で終わりだ。私は大丈夫。今なら、ためらいなく言える。
祖母のために、母のために、なにより私自身の未来のために。
「じいじ、口のきき方のこと言うなら、じいじはもっとひどいでしょう。ばあばは午後からずっと私の荷造りを手伝ったり、お家の掃除をしてくれたりして、少し座って休むくらいの時間もとらずに頑張ってたの。それなのに、じいじのごはんを六時までにつくれ? あと三十分しかないじゃん。今日のごはんなんて近所のコンビニでいいでしょ?」
巌のようだった祖父の顔が、はじめて崩れた。口がだらしなく開き、つぎに唇がわななく。
「そもそも、パパが気を利かして買ってくるべきじゃない? これから実家にお世話になるんだからさ、挨拶のひとつもしてないし。どこまで甘えるの? ママに出ていかれても全然目がさめないわけ?」
今の私は、ビー玉の取れたサイダーの瓶だ。長年、胸のうちにため込んできた鬱憤が、無数の泡のごとく口からはじけ飛んでいく。
まだまだ、まだまだ、言える。さっき言い残すことはないと思ったはずの母にも、父と祖父にも、ぶつけたい想いが、聞かせたい心の声が、堆積している。
「だいたい、ママがどうのってふたりは言うけど、ママがなんでそんな行動に出たかって考えたことないの? パパさ、仕事、仕事って自分は飲み歩いて子育て任せっきりで、しかも生活費、ちょっとしか渡してなくて、ママはパート代でまかなってたの、知ってたよね。忙しい合間を縫って料理をつくっても、文句ばっかり。だったら食べなきゃいいのにしっかり完食はしてさ。ありがとうも、ごちそうさまもなし、食器も下げない、皿洗いもしない。そんな夫が家にいて、ママ、逆によく今まで我慢してたよ」
「う、うるさいっ」
父が手を振り上げた。
殴るのだ。この人は。口で敵わないとなったら、娘を平気で殴るのだ。
落胆とともにギュッと目を閉じる。
つぎの瞬間、パシンッと鋭い音が上がった。それなのに、いつまでたっても頬にも頭にも衝撃がない。
「え?」
不審に思っておそるおそる目を開けると、私の目の前には祖母の背中があった。記憶のなかの祖母は、いつも背中を丸め、なるべく目立ちたくないといったふうだったのに、目のまえの祖母は毅然とした立ち姿で、背中もしゃんと伸びている。
「母さん、どいてくれ」
「どくわけがないでしょうっ。娘に手を出そうとするなんて、恥を知りなさいっ」
脇からそっと向こうをのぞくと、父が突っ立ったまま頬を押さえ、呆然と祖母を見おろしていた。おどおどとしていたはずの祖母の全身から、怒りがたちのぼっている。
祖父は、よろめいて壁に背中をついた。
「さあ、みっちゃん、ふたりは放っておいて、ばあばとゆっくり休めるところに行こう」
祖母が差し出した手をおずおずと握る。皮膚のかたいごつごつとした祖母の手が、ぎゅっと握りかえしてくる。
「ま、待て、飯はどうするっ」
「さっきのみっちゃんの話、聞いてなかったの? コンビニもすぐ近くですってよ」
「母さんも美優も、どうしちゃったんだよ。俺、洗濯物持ってきたのに。すぐ洗わなきゃ乾かないだろう」
父の発言だ。この期におよんであきれるしかないけれど、祖母は親切にも顔だけ振り返ってきっぱりと告げた。
「あなたたちを野放しにしたせいで、みっちゃんを泣かせることになった。自分だけのことなら我慢できたけれど、孫娘がそのせいで犠牲になるのは耐えられません。今夜は自分たちでなんとかなさい」
祖母は今度こそ私の手を引き、玄関の靴箱に置いてあった避難用リュックをつかみ取ると、そのまま家を出た。祖父が追いかけてきたけれど、ちょうどやってきたタクシーを捕まえて、急いで乗り込む。
ばあばは、まるで何度もそうしたことがあるかのように、知らないホテルの名前を慣れた様子で告げた。
「ばあば、今日はホテルに泊まるの? 着替えもなんにも持ってなくない?」
「あら、持ってるわよ」
祖母が掲げてみせたのは、先ほどの避難用リュックだ。
「いつでも家出できるように荷造りしてあったの。単なる腹いせで死ぬまで使うことはないと思ってたけど──みっちゃんをこうして連れ出してあげるための訓練だったのね」
タクシーの後部座席に並んで座りながら、祖母といっしょにほうっとため息をつく。
「ばあば、私、なんだかすごい一日だった」
「疲れたでしょう。少し寝てていいわよ。あとで起こしてあげるから」
「ううん、眠くない。ずっと起きてたい」
言いながら、瞼が下りてくるのがわかった。必死に手首を確認すると、光の棒がほとんど消えかけて見えなくなっている。
いやだ、勇敢なばあばの姿をもうちょっと見ていたい。戦いの女神みたいだった姿を目に焼きつけて、母にも話してあげたいし、この先の人生で迷ったときに自分があるべき姿としてひな形にしたい。
祖母が、決然と言った。
「あのね、みっちゃん。ばあばが言うのもなんだけどね。女の人はね、男の人のお母さんになっちゃだめ。ダメなところを直そうとしたり、幼い部分を育てようとしたり、逆に耐えたり。そんなお世話をするために大きくなるんじゃないの。みっちゃんは自分を幸せにするために大きくな──」
祖母の声が徐々に遠ざかり、小さな私から意識がはがれたのがわかった。
祖母の話がまだ途中だったのに。
来たときとは逆に、上へ上へとのぼりながら、それでも納得する。
家族に言えなかったことを伝えるためだけじゃない。私は、祖母からあの最後の言葉をもらいに帰ったのだ。
体はごくゆったりと上へと運ばれていくのに、頭のなかは嵐が吹き荒れたようになった。身に覚えのない記憶が、つぎからつぎへと舞いこんでくる。しかし不思議なことに、それらは確かに体験したことでもあった。
結局、私と祖母は、一週間ほどホテルで寝泊まりしてから家に戻った。そのあとは祖母と祖父、父と三人で暮らしたけれど、母のところにもしょっちゅう遊びにいったし、今では親子というより親友のような関係をつづけている。
祖母はストレスが減ったせいか、時帰りの前の人生よりもずっと楽しそうに日々を送っていた。私に手本を示すように勇敢な人に生まれ変わった。残念ながら、亡くなった時期はいっしょだったけれど。
祖父は、時帰り前とおなじくらいの時期に認知症を発症し、最終的にはケアホームに入ることとなった。
それでも、祖母に鍛えられた結果、祖父はなんとか箸を並べることと、食器を下げることはできるようになっていた。父も、しぶしぶながら家事をやり、実家にも相応の額の生活費を入れる人になった。一度目は確かタダで居候していたはずだから、まあまあの進歩ではないだろうか。進歩してようやく普通。それでも母と離婚した当時の父の幼さからすると、成長したということにしよう。
私は、時帰り前と同じように夫と出会った。そして不覚にも、ふたたび同じように惹かれ、付きあってしまった。ただし、いっしょに住んではいるものの、入籍はしていない。事実婚というやつである。
夫にもずいぶんと自由にものを言えるようになると、ふたりの関係性もかなり変わった。私たちはよく議論をする。対等な立場で、時には夜通し語る。派手なケンカに発展することもあるけれど、家のなかはいつも賑やかだし、子どもをもう一度考えてみようかという話も出るようになった。もし今度こそ私たちの子どもに会えたら、入籍を考えるかもしれない。
新たな記憶の嵐に少しおいていかれ気味のまま、ふわりと足の裏が地面を踏んだ。
呆然とあたりを見まわすと、どうやらもとの竹林である。
「お帰りなさい」
神主が、別れたときと同じ出で立ちでこちらを見ていた。
神主にうながされるまま〈こよみ庵〉に移動した。お抹茶をいただくと、混乱していた頭が嘘のようにすっきりと落ち着いていった。
「眩暈やふらつきにおそわれる方がいちばん多いのですが、記憶に混乱された方には初めてお会いしました」
「すみません、なんだか怒濤のように新しい想い出が押し寄せてきて。大きなことは変えられないってうかがってましたけど、私にとってはすごく大きなことが変わったんですよ」
神主の片眉が問いかけるようにあがる。
「じつは、時帰りしたあとの私は、子どものころから母と親しく行き来してるんです。それになにより、夫とは」
「まさか結婚しなかったんですかっ」
それまで店の隅でテーブルに突っ伏していた巫女さんが、がばりと起きあがって尋ねてきた。髪の毛が乱れ、顔に袖の跡がついている。
「そうですね、書類上の結婚はしませんでした。これからもしかしたら入籍することがあるかもしれないですけど、今のところはこの関係が気に入ってるんです」
時帰り前は、年齢的なこともあったし、あの家を出るためには結婚という手段しかないと思いつめて、入籍をした。しかし二度目の出会いでは、結婚とは関係なく自分がそうしたいと思ったタイミングで家を出た。私は私だ。それは、夫がいてもいなくても変わらないと素直に思えている。
頭のなかの想いをどうにか伝えようと、つっかえつっかえ話す私を、兄妹は辛抱づよく見守ってくれた。
「よかったあ」
巫女さんは、ほっと息を吐くなり、ふたたび突っ伏してしまったけれど。
携帯電話を見ると、もう夜になるところだった。
「送っていきます」
立ち上がった私につづこうとした神主を、手で制した。
「私より、妹さんを気遣ってあげてください。この部屋、ちょっと足元が冷えるし、もっと寒い季節になると、女性には少ししんどいですよ」
神主が、「こほん」と気まずそうに目を逸らす。
「参考にさせていただきます」
立ちあがった神主が、ほんの少し迷ったあと尋ねてきた。
「最後にひとつだけ教えてください。時帰りをされてよかったですか」
「にゃあん」
私の代わりに、当然と言わんばかりに響いたタマの声に、三人とも声をそろえて笑った。