それから数日後、稲葉正勝は息を引き取った。三十八歳の若すぎる死だった。

 正勝の死を受け、福は落飾して尼となった。喪が明けるとともに、福は登城すると家光の御前に参上した。

「此度、稲葉家の家督と正勝の遺領を、嫡男正則に継がせることをお許しいただき、家光様のご温情には、深く感謝を申し上げます」

 家光は、尼姿になった福を見やって、小さく頷いた。

 正勝は二年前に、相模国小田原城を任され、八万五千石の所領を与えられていた。その遺領を継ぐべき正勝の嫡男には、正妻が遺した正則がいたが、まだ十二歳だった。母はすでに病没し、その上、父をも失った十二歳の少年に、江戸城防御の最後の地である小田原を任せることを、幕府重臣たちは誰もが難色を示したが、家光は断行したのだった。

 それが、せめてもの、正勝への償いだった。

「私が、とどめを刺したのだ」

 家光の呟きに、福は顔を上げた。

「忠長に大姫の件を漏らしたのは、正勝だと……ゆえに、忠長は乱行に及んだのだと、責め苛んだ」

 その言葉に、福はわずかばかり顔を歪めた。

「忠長様に告げたのは……きっと、正利の方にございましょう」

「正利の方?」

「私が、忠長様の近臣であった正利に、大姫様のことを明かしたのです。忠長様に穏便に将軍後嗣を諦めていだけるようにと」

「なんだと……」

 家光の脳裏に、忠長の哀れな笑みが浮かんだ、

〈いいえ、福の息子からですよ〉

 その言葉を受けて、感情的に、正勝だと思い込んでしまった。冷静になって考えれば、そのような内密な話を寡黙な正勝が漏らすはずもなく、忠長の近臣であった正利から聞いたのであろうことは、察しがついたはずなのに。

 家光は、額に手を当てて、愕然とした。

「正勝、許せ……」

 そう口にしても、頷き返してくれる正勝は、もういない。

 叫びたくなる後悔が涙とともに込み上げて、言葉にならない慟哭になっていた。拳を握りしめた家光に、福は深々と一礼した。そうして、顔を上げることなく言った。

「許しを乞わねばならぬのは、私の方にございましょう」

 家光が涙に濡れた目で福を見やると、福は低頭したまま言った。

「〈良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる。それが女子のまっとうな生き方。こんな世の常に、謀反を起こしたい〉。まだ稚かったあの子に、その言葉を背負わせたのは……己の望みを懸けてあの子の生きざまを変えてしまったのは、私なのですから」

「己の望みを懸けて、生きざまを変えてしまった……」

 涙に濡れた視界が歪む。拳を握りしめたまま、掌の癒えぬ痣に爪が食い込んでいく。

「それは、私とて、同じであろう」

「同じ、とは」

「強き者が弱き者を制す、その乱世を終わらせ、真の泰平の世を築きたい。その望みを懸けられて、私は、将軍となったのだから」

〈真の泰平の世のために、あなた様は、将軍となるべくして生まれたのです〉

 そう信じた福によってこの身は生かされ、戦のない世の証として秀忠に将軍職を譲られ、泰平の世に捧げられる贄になったのだ。

 だが、家光自身も、生きる上で、赤子だった正利から福の乳を奪った。妹を朝廷と幕府のために捧げ、孝子の心を壊し、振を側室にして流産の苦しみを与え、忠長を自害に追いつめ、正勝を責め殺した。

 生きるということは、誰かの犠牲の上を歩いていくということなのだ。

 何も、家光や福に限ったことではない。誰しもが、そうなのだ。誰も傷つけずに生きていける者など、この世にいない。誰かが輝けば、どこかに必ず影ができる。

 親が子に願いを懸けることで、子は親の期待を背負って生きねばならぬ。その一方で、子を守るためには、親は自分の人生を犠牲にせねばならぬ。夫婦の契りを交わすということは、その先の人生を背負うということであり、何かを得るということは、それを得られなかった者が必ずいるはずで、勝つということは、敗れた者の屍の上に立つということなのだ。

「そうであるならば……」

 家光は、呟いた。

「この苦しみに塗れた世を生きる私には、守らねばならぬ人がいる」

 福が家光をこの世に引き留めた瞬間から、その責を負って守ると決めたように。自分もまた、この手を差し伸べたからには、守らねばならぬ人がいる。

 家光の言葉に、福は顔を上げた。

「あなた様も、出会ったのですね。自分よりも、守らねばならぬ人に」

 福の言葉に、家光は拳を握りしめたまま、頷いた。

 どんなに欲しても、願っても、死ぬまでそう思える存在に出会わぬ者もいる。もし出会えたとて、相手が同じように自分のことを思ってくれるとは限らない。時に、己の望みは相手にとっての枷となり、握りしめたまま潰してしまうことすらある。

 だからこそ、ただ一つ、確かなことがある。それは、大切にしたい存在は、いつ失ってもおかしくないものだということ。

「どうか、後悔だけは、なきように」

 そう告げた福は、竹千代を褒める時に見せていたのと同じ微笑を見せた。

 家光は、座を立った。

 そのまま部屋を出ると、廊を歩いていく。向かう場所は、振の部屋だった。

「振……」

 前触れのない家光の渡御に、振に仕える侍女たちは、慌てて平伏する。年嵩の侍女が、窺うようにして家光に言う。

「振様は、お体の具合が優れず」

「よい」

 家光はそれだけ言うと、振が臥す部屋に入った。子が流れてから、心身ともに衰弱したままの振は、痩せ細った体を床の上に横たえていた。

 人が入った気配に目を覚ました振が、家光の姿に驚く。

「申し訳ありませぬ。このような、見苦しい姿を……」

 振は、侍女として仕えていた頃からの気質が抜けぬまま、主君に対する非礼を詫びるかのように、体を起こし、乱れたびんを撫でて、低頭する。

「楽にせよ。ただ、そなたの顔を見たくて参ったのだ」

 家光はそう言うと、振の傍らに座した。そうして、どこを見るともなく言った。

「正勝が、死んだ」

 振は、伏し目のまま言う。

「腹心の家臣であられた稲葉正勝様を失ったお悲しみ、深くお察しいたします」

 家光は、振を見やる。

「振も、死ぬのだろう?」

 振が動揺したように、家光を見上げた。家光は、振の潤んだ目を見て、微笑した。

「誰だって、いつか必ず死ぬのだ。この私もな」

 そう言うと、掌を見た。握りしめすぎて食い込んだ爪の痕は、癒えることのない痣になっている。きっと、この痣は、命果てるその日まで残っているのだろう。

 その傷ついた手で、振を抱き寄せた。

 微かに、振は震えていた。初めて触れた夜も、こうして震えていた。それは、ずっと、いつまでも変わることはなかった。

 振の黒髪に頬を寄せ、家光は吐息とともに言った。

「すまぬ。私と出会ったがゆえに、そなたに苦しみを与えてしまった」

「そのようなことは……」

 振を抱く腕の力を強くして、家光は、祈るように言っていた。

「だけど、死ぬ前に、せめて一度だけでもいいから、私に愛されたことを幸せだと思ってほしいのだ」

 振を抱きしめながら、そう願わずにはいられなかった。それが、叶わぬ願いだったとしても。

 誰かの犠牲の上を歩いていくことが、この世を生きるということならば。この傷ついた手を差し伸べたことによって、生きざまを変えられてしまった振を、家光は死ぬまで愛していたかった。

 

 春日が、死んだ。

 あの春日局が死んで、江戸城中が喪に服す中、家光は、独り、立ち尽くしていた。彼女が残した、小さな黒い茶碗を手にしたまま。

 両掌に収まってしまうほど小さなこの茶碗は、うわぐすりの斑紋が青と銀に輝いている。見る角度によって揺らめく斑紋の輝きは、黒地の碗の色とも相まって、まるで天の星々を思わせる美しさだった。

――曜変天目茶碗――

 江戸幕府三代将軍、徳川家光が直々に贈った大陸渡来の最上級の名器。病床に臥した春日局……福に薬を飲ませるために、この希少な曜変天目茶碗は贈られたのだ。

 それなのに、福は、一度も使おうとしなかった。

 家光が見舞いに訪れた時、曜変天目茶碗は、箱から出されてすらいなかった。

 

 

 病床の福の枕元に、曜変天目茶碗の入った箱が贈った時のまま、蘇芳色の飾り紐で固く封印されていた。

 横たわる福の顔は土気色になり、瞼も力なく閉じられ、ふくよかだった体は痩せ衰えていた。けれど、病に侵されて変わり果てた福の姿よりも、開けられた形跡のない箱の方に、家光は言葉を失った。

 この女は、病を治したいという気が、生きたいという思いがすでにない……それはすなわち、福は、家光を独りにする気なのだとわかったから。

 家光は福の傍らに座し、その手を握った。

 枯れ枝のように細くなった指に、たまらず声が震えた。

「なぜ、あの茶碗を使わぬ。そなたが薬を拒むと侍医から聞いたゆえ、最上級の茶碗ならば、と思うて贈ったというのに」

 家光の責めるような問いかけに、福の目がうっすらと開いた。乾いた唇が動き、ようやっと聞き取れるかというほどの吐息のような声に、耳をすませる。

「私は、もうよいのです」

 その答えに、家光は福の手を取ったまま、首を横に振った。

「ならぬ、ならぬぞ。さようなことは……」

 許さぬ、という言葉が、嗚咽に変わっていた。

 薬絶ち、つまり全ての治療を拒むという意志の根幹にあるのは、自ら死を選ぶということだ。

 家光は嗚咽したまま、福の体の上に突っ伏した。周りで側近の家臣や侍女たちが見ているのも構わず、その胸に縋りついて慟哭した。

 この人に一日でも長く生きてほしい、というよりは、自ら死を望む姿が受け入れられなかった。

 福は、家光を独りにしないと、誓ったではないか。

 疱瘡に苦しみ悶え、死を望んだ家光に、福はこう言ったはずだ。

〈泰平の世の贄となったあなた様を、私は絶対に、独りにはいたしませぬ〉

 それなのに、今、目の前で臥す福は、年老いて、痩せ細り、消え入りそうな声で死を望む、弱々しい姿を晒している。

(私には、あれほど生きねばならぬと、言ったというのに!)

 痩せ細った胸に、家光は頬をすり寄せた。衰えた体は、かつての福の姿からは変わり果てているというのに、頬に伝わるぬくもりは、その鼓動は、幼き頃の自分を抱きしめた福と同じだった。

「福……」

 この名を、家光はこれまでいったい幾度呼んだであろう。

 このぬくもりを失いたくない。死して冷たくなっていくことなど想像もしたくない。永遠の別れがあることを、受け入れたくない。いや、受け入れられない。

「福、ならぬ、私を置いて逝くなど、いやだ。絶対にいやだ……たのむ、この茶碗で薬を飲んでくれ、今すぐ病を治して、私のそばにいつまでもいてくれ!」

 胸に縋りついて言いつのる家光に、福は言い諭す。

「いいえ、何事にも、順というものがあるのですよ」

「順……」

「老いていく者から先に逝かねば……」

 福が言いたいことはわかる。老いた者から先に、年齢の順に逝かねば、残される者は、深い悲しみと後悔を抱えていくということも。その言葉を発する福の、母親としての悲しみも、後悔も、家光は、知っているから。

(わかっているが、それでも、それでも……)

 家光は、顔を上げた。

「私を独りにせぬと、申したではないか!」

 そのまま、福の胸倉を掴んだ。

「この苦しみに塗れた世に、私を引き留めたのは福であろう! それなのに、私を置いて、先に逝くのか!」

 胸倉を掴まれても、福は少しも動じることなく、何かを言い返すこともなかった。周りにいた家臣や侍女たちが止めに入ろうとするが、構わなかった。

 胸倉を掴んだまま、唇を戦慄わななかせた。

「私を置いて死ぬことは、絶対に許さない」

 家光は、福の胸倉から手を離すと、枕元に置かれたままの箱に手を伸ばした。蘇芳色の飾り紐を解き、中に入っている曜変天目茶碗を掴み出した。乱暴に掴み出すさまは、到底、大陸渡来の最上級の名器といわれる茶碗を扱う手つきではない。

 茶碗の希少さをわかっている家臣が「ああっ」と、悲鳴を上げる。だが、そんなことなど、もはやどうでもよかった。

 そのまま、家光は、茶碗を福の口に押し当てた。

「飲め、飲むのだ! この茶碗で、今すぐ、薬を飲んで病を治せ! これは、将軍の命であるぞ!」

 家光の厳命に、福は目を閉じ、口を固く引き結んだ。その頑なな態度に、家光は叫んだ。

「私をこの世に引き留めた瞬間から、福はその責を負うと決めたのではないのか!」

 福は、それでもなお、口を開こうとしない。

 福が薬を飲まぬというのなら、こんな茶碗、あってもなくても同じだった。

「飲まぬのなら、この茶碗を叩き割る」

 家光が曜変天目茶碗を振り上げると、家臣たちが青ざめ「家光様っ!」と叫んだ。

 途端、家光の腕を、福が掴んだ。

 もう起き上がることもままならぬと思っていた福が、膝立ちとなり、その体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほど強く家光の腕を掴んでくる。福の顔を見ると見開かれた目は血走っている。

 体を小刻みに震わせて、福は、嗄れた声を発した。

「この苦しみに塗れる世を、あなた様をお守りして生きた私は、死した後は、地獄であなた様をお守りしましょうぞ」

 その言葉に、家光は茶碗を振り上げたまま、顔を歪めた。

「地獄か……」

 引き攣る頬が、泣いているのか笑っているのか、自分でもわからなかった。

 家光は、頬を引き攣らせながら、目を閉じた。その瞼の裏の暗闇に映るのは、振の死に顔だった。

 真っ白な顔で、蝋のように冷たくなっていた。家光に出会い、家光に愛され、その命を落とした振の死に顔が、瞼の裏の暗闇に、鮮明によみがえる。

 正勝の死から二年が経った頃、振は再び懐妊したのだった。

 そして、年が明けて月満ちた閏三月、振は、初めての家光の子となる千代ちよ姫を産んだ。しかし、心身が衰弱した状態での妊娠と出産は、容赦なく振の命を蝕んだ。振は、病臥したまま、二十二歳で没した。

 その千代姫が生まれた年、島原の乱が起きた。九州の島原天草において、キリシタン信仰をする農民たちが、幕府の禁教令に反乱を起こしたのだ。

 戦のない世の証として、泰平の世に捧げられる贄になったのに。あろうことか、己の御代に、戦が起こるとは。

 ついに、家光の心は崩壊した。

 腹痛に微熱、不眠、食欲不振が続く鬱々とした日々の中で、起き上がる気力さえも出ぬ状態になった。島原へ鎮圧に向かう幕府軍の采配を振ることは、不可能だった。月代も剃らず、髭も伸ばし、茫然と臥し続ける家光の姿は、重臣たちが、いっそ島原の乱の総大将は「春日局にすればいい」と陰口を叩くほどだった。

 何もかもがままならぬ中で、振を失った。

 そうして、気づけば振の面影を探していた。

 もう一度、振を愛したかった。この手を差し伸べた途端、女子たちの運命を変えてしまうとわかっていても。振の面影を求めて、家光は側室を次々と迎えた。御端下の侍女であろうと、江戸城下で暮らす庶人の女子であろうと、身分に構うことなく振の面影を重ね、出家して尼となっていた者まで奥御殿に留め置いた。

「こんな私は、地獄へ堕ちるだろうな……」

 孝子の心を壊し、忠長を自害させ、正勝を責め殺し、衰弱した振を懐妊させて失った。その犠牲の上に生き続ける自分は、今もなお、この傷ついた手で誰かの手を取り、その生きざまを変えてしまっている。

 そう、この曜変の輝きのように。

 振り上げた曜変天目茶碗を、睨みつけた。

 涙に滲んだ視界に、曜変天目茶碗の斑紋が、星明かりのように揺らめく。揺らいだ輝きは、一つ瞬くだけで変わっていく。死ぬまで消えぬ痣が残るこの掌の中で、その輝きは、変えられていく。

 それは、目の前にいる、福が、まさにそうなのだ。

 福という女子もまた、家光に出会ったことで生きざまを変えられた、曜変の女だった。

 死にそうだった赤子の竹千代に出会い、その命を生き返らせ、やがて徳川幕府三代将軍家光の乳母として、江戸城奥御殿の頂に立った。

 多くの側室を迎えた家光の奥御殿は、いつしか下働きの女子も含めれば千人を超える侍女たちが仕える場となり、大奥、と称されるようになっていた。奥御殿御年寄であった福は、大奥総取締、とその呼び名を変え、千を超える侍女たちを統率し、時に幕閣にも憚ることなく物申す、絶大な権勢を持つ立場となった。

 曜変天目茶碗を振り上げたままの家光に、福は、不敵な笑みを浮かべた。

「割るならば、割ればいい。何をしようと、私は断じて、薬は飲みませぬ」

「死ぬのか、私を置いて」

「あなた様はもう、私がいなくとも生きていける……その証として私は、薬を絶って死ぬのです」

「何を、申すか……」

「私が死んだとて、大奥は残るのですから」

 その言葉に、家光は「どういうことだ」と問い返す。福は、家光の腕を掴む手の力を少しも緩めることなく言った。

「いついかなる時も、大奥は、将軍を守り続けることでしょう。そのために、私は、奥御殿で働く女子たちの待遇を改め、規則を設け、大奥を、将軍を守る最後の砦としたのです」

 そう言うと、福は家光を見据えた。

「良縁を得て、誰かの妻となり、子を産み育てる……それがこの世の常ならば、大奥に仕える女子たちは、この世の常を歩まぬ術を手に入れた、強き、実に強い女子たちなのです。ゆえに、この先、たとえどんな世になろうとも、微塵も動じることなく、世の贄となる将軍をお守りすることでしょう」

 そう言いきると、茶碗を見上げてうろたえている家臣たちを、福は横目で見た。

「この世の常を選ばぬ女子たちの覚悟は、そこで茶碗が割れるがごときに青ざめているような男子たちなどとは、比べものにならぬほど、強うございますぞ!」

 呵々と言いきった福は、大きく息をついて、家光の腕を掴む力を緩めた。途端、脱力して倒れ込んだ。

「福!」

 家光は、その体を抱きかかえるようにして支えた。持っていた曜変天目茶碗が転がり落ち、周りから「ああっ!」と悲鳴が上がる。一人の家臣が、飛び込むように両手を差し伸べて、茶碗が床に落ちる寸前で受け止めた。

「福、福……!」

 家光は福を抱きかかえたまま、何度もその名を呼んだ。

 福は、家光の腕の中で最後に一つだけ頷き返して、あの微笑を浮かべた。

 

 

「福……」

 福がいなくなった場所で、残された曜変天目茶碗を手にしたまま、その名を呟いた。幾度呼んだとて、もうこの世にはいないとわかっていても。

「福に、生きていてほしかった」

 そう思わずにはいられなかった。

 薬絶ちをしたまま、六十五歳の生涯を閉じた福を、人々はどう思うのだろうか。

 福、またの名を、春日局と人は言う。

 春日局は、かの徳川家康にも臆することなく物申し、家光の生母である江との確執にも折れず、徳川幕府三代将軍家光の乳母として、大奥総取締として、この世の権勢をほしいままにした女。そう思う者は、少なくないだろう。

 だが、たとえどう思われようと、家光の中には、家光の知っている福しかいない。

 それは、きっと誰にとっても、そうなのだ。

 家光の傅役であった青山忠俊には、忠俊だけが知っている福がいて、家光の父であった徳川秀忠には、秀忠だけが知っている福がいて、福の息子であった稲葉正勝には、正勝だけが知っている福がいた。江も、忠長も、振も……誰もが、それぞれの福に出会ったはずなのだ。

 家光は、掌の中の曜変天目茶碗に、視線を落とした。

「大陸渡来の希少な碗だというのに……」

 そう呟くと、小さく笑ってしまった。

〈割るならば、割ればいい。何をしようと、私は断じて、薬は飲みませぬ〉

 そんなことを豪語できる女子は、きっと、この世に福以外いないのではないか。

 そう思った途端、福に会いたくて、会いたくて、涙が止まらなくなっていた。

 とめどもなく家光の頬を伝う涙が、掌の中に落ちていく。

 そうして一つ、また一つ、星明かりのように、曜変の輝きは揺らめいた。

 

(つづく)