江戸城を発った時は晴天だったというのに、まるで家光の心情を反映するかのごとく、品川を過ぎたあたりから暗雲が立ち込め、相模国小田原に入る頃には雨になった。

 悪天と同じく、家光の微熱も続いていた。

 ぬかるむ箱根路を越え、駿河城下に入った頃に、ようやく雨が上がった。久々の青空に、随従する者たちの安堵の声が聞こえ、家光は駕籠の物見窓を開けた。

 雨上がりの陽光が目に射して、軽い眩暈を覚えた。

「家光様」

 駕籠の傍らに付き従う正勝が、その様子に気づいたのか、物見窓越しにそっと声をかけてくる。

「大事ない、少し、眩んだだけだ」

「いえ、ここらで休みましょう」

 正勝の配慮に、家光は頷いた。正勝は声を張り、行列を止めさせた。

 従者たちは、すみやかに将軍休息のための御座を整えていく。沿道の木陰に葵の御紋の陣幕を張り、床几を置き、将軍の御座所であることを示すべく、家康伝来の金扇の馬印を掲げる。

 駕籠を降りて、大樹の陰に置かれた床几に腰を下ろす。青々と茂る葉の色に、微熱も少しばかり和らぐ心地がする。

 正勝が御前に跪き、水を入れた椀を差し出してくれた。それを受け取って一口飲むと、家光は言った。

「すまぬな。私が丈夫でないゆえ、こうして休んでばかりだ。遅々としていることに、皆、苛立っておろう」

「いえ、そのようなことは。行程が遅れているのは、悪天のせいにございましょう。それに、この先は大井川の川越。川の様子を確かめる者を遣わすにも、ちょうどよいご休息にございました」

 この先の大井川は、家康の遺命に従い、駿府城と江戸城の防御のために橋を架けることが禁じられている。ゆえに、浅瀬を徒歩で渡らなければならなかった。

「雨が続きましたので、水嵩がいかになっているか……」

 正勝はそう言って、川の方角を案ずるように見やった。

 将軍家光自身は駕籠に乗ったまま力者に担がれて川を渡るので濡れることはないが、その駕籠を担ぐ者はもちろんのこと、随従する者たちは皆、水に浸かって川を渡らねばならない。胸を超えるほどの水嵩となれば、今日の内には渡れないだろう。

 正勝の横顔を見て、家光は、ふと問うた。

「正勝、妻の病はいかがか」

 正勝にとって、此度の上洛は、病床の妻を案じながらの供奉であることを、家光は事前に福から伝え聞いていた。

 正勝は、妻のことを問われるなど思ってもいなかったのか、少し戸惑うような表情をしたが、すぐに真顔になって言った。

「お気遣いかたじけなく存じます」

 妻の体調を問うたのに、まるで答えになっていない。頑なに私情を出そうとしない正勝に、家光は言った。

「此度の上洛、二か月以上は江戸を離れることになろう。遠慮なく申すがよい」

 上洛後は、帝の二条城行幸だけでなく、任官の儀などの諸行事が連日のごとく詰まっている。江戸へ帰府の途につくのは、九月も末になるはずだ。

 正勝は、律儀に低頭して答えた。

「は、かたじけなく存じます」

 この感情の起伏を見せようとしない態度は、小姓として仕える頃からずっとそうだった。

 正勝は、傅役の青山忠俊が罷免された後、忠俊が兼務していた年寄の重職を引き継いだ。さらに、常陸国柿岡や真壁などに加増を受けて一万石の所領を得た。そんな正勝のことを「福の息子だから厚遇を受けている」と、多くの者は思っている。だが、実際のところは、同じく年寄の役職についている酒井忠勝や土井利勝など、家康、秀忠と代々徳川家に仕えてきた譜代の家柄の重臣たちと比べれば、稲葉正勝の一万石など微々たるものだ。

(それでも、人は、福の息子だから、と思いたいのだ)

 正勝が抱える鬱屈を、家光はわかっている。正勝は、絶対に家光の前で出そうとはしないけれど。

 忠臣の端整な横顔に、家光は呟いた。

「すまぬな、正勝」

 その時、川の状態を確かめるために遣わした家臣が戻り、思いがけない報告をした。

「大井川に、浮橋が架かっております」

 家光は、耳を疑った。すぐさま、正勝が鋭く返した。

「何かの間違いでは? 大井川は、家康様のご遺命によって、架橋が固く禁じられているはず」

 報告した家臣は、低頭して答えた。

「駿府城主、忠長様のご配慮とのことにございます」

 弟、忠長の名に、家光は問い返した。

「忠長の、配慮だと?」

「将軍家光様が滞ることなく上洛できるよう、事前に、小舟を繋げて板を渡し、浮橋を架けておいたとのことにございます」

 家光の弟、徳川忠長の機転の利いた行動に、周囲の家臣からは感嘆の声が上がった。

「浮橋のおかげで、今日中に、川を渡れますな!」

「足を濡らすことなく、東海道の難所を渡れるとは」

「さすがは、ご幼名の国松様と呼ばれていた頃からご聡明であられた忠長様よ」

「おかげで遅れている行程を取り戻せる」

 口々に賞賛する声が聞こえる中、家光は黙していた。それと察した正勝が、慮るように家光に言った。

「諸大名には、将軍ご上洛の道中を整えるよう命じておりましたゆえ、それを受けての忠長様のご配慮かと存じます」

 だが、家光の心の中には、靄のような思いが立ち込めていた。

(家康公のご遺命で架橋が禁じられている川であるのに……)

 家康が大井川に架橋を禁じたのは、駿府城と江戸城を守るためだ。確かに、大坂城の豊臣家が滅亡して以来、徳川将軍家に謀反を企てる大名は無きに等しい。とはいえ、絶対、ということはありえない。それに、橋を架けることに関して、事前に将軍たる家光へ許可を取ることもなかった。

(ここにいる者たちは、忠長の行動が江戸防御と将軍権威を蔑ろにしたとは、誰も思わないのだろうか)

 家光は、憮然として駕籠に乗り込むと、浮橋の架けられた大井川へと向かった。

 川岸に到着すると、報告された通り、縄で繋がれた小舟が浮橋となって一列に対岸まで続いていた。

 浮橋の上を、家光を乗せた駕籠が進んでいく。

 その間、家光は駕籠の物見窓を開けなかった。閉めきった駕籠の薄闇の中にも、繋がれた小舟が軋む音や、随従する者たちが板を踏みしめる足音、浮橋を賞賛する声が聞こえてくる。

 時折、川波が立って浮橋が揺れ、駕籠も上下に大きく揺れた。薄闇の中に感じる不安定な揺らぎが、そのまま、家光の心の靄をかき乱していく。

(家康公が、固く禁じたというのに。将軍である私に、一言の断りもなく家康公のご遺命を覆した。……それを、なぜ誰も、咎めようとしない)

 浮橋を渡っていく家臣たちの足音や話し声が、家光の耳に障った。

 だんだんと、その声が、あの日の嘲笑に変わっていく。

 国松に踏まれて圧死した大蟷螂の死骸に怯えた竹千代を、国松と小姓たちは声を上げて笑っていた。その声が、駕籠の薄闇に反響する。たまらず耳を塞ぐ。首を振って、まとわりつく嘲笑を振り払おうとする。

〈天下を統べる将軍にふさわしきは、一目瞭然であるな〉

 凛とした江の声が、薄闇を貫いた。

 目の前が揺れる。浮橋が揺れているのか、自分が首を振っているのか、それともこれは眩暈なのか。次第に、座していることすらままならぬ浮遊感を覚え、口の中に生唾が溢れ、胃の腑がせり上がりそうになる。

 対岸に降り立った途端、家光は駕籠の中から、声を上げた。

「止めよ!」

 ほとんど悲鳴に近い叫び声に、駕籠を担いでいる者たちが驚いて止まった。

「家光様、いかがなさいましたか!」

 異変に気づいた正勝がすぐさま駆け寄り、駕籠の戸を開けた。家光は崩れるようにして駕籠から半身を出すと、正勝の体にしがみついた。と同時に、こらえきれず嘔吐した。

 正勝の胸元に、吐物が飛び散った。

「家光様!」

 正勝は、吐物を浴びても少しも厭うことなく、「ただちに陣幕を!」と周囲の者たちに命じた。

 家臣たちの間に、また停滞するのか、とでも言わんばかりの嘆息が漂うのを、家光は敏感に察した。誰も口に出しては言わないが、繊細な家光が感じ取れないはずがなかった。

 家光は、正勝の胸元を握りしめたまま、震える声で言った。

「すまぬ……」

 稲葉家の紋が入った羽織袴が、吐物で見るも無残に汚れている。

「無用のお気遣いにございます」

 その言い方が、福とまるで同じで、はっとして見上げた。むろん、目の前にいるのは、紛れもなく正勝だ。福とはあまり似ていない、むしろ父親の稲葉正成の方に似ているのであろう目鼻立ちが、まっすぐ家光を見ていた。

 思わず、問いかけたくなる。

(私が、将軍でなければ?)

 この吐物を受け止めてくれたのか。この惨めに塗れた吐物を。

 家光が将軍でなかったならば、きっと、正勝は、体調の異変に気づいて駆けつけることもなければ、吐物を受け止めてくれることもなかったはずだ。

 そう思った時、家光は正勝の胸元を握りしめたまま、言ってしまった。

「将軍たる私は、この浮橋を許すわけにはいかない」

「家光様……?」

 ここで将軍権威を放棄したならば、きっと、正勝は離れていく。そんな気がしてならなかった。いや、正勝だけではないはずだ。徳川家に臣従する諸大名も、ここで家光を取り囲んでいる家臣たちも、そして、福も……。誰もが傅き、身命を賭して仕えてくれる、この将軍という立場は、失った途端に、独りになる。

(独りに、なりたくない……!)

 正勝の胸元を握りしめるこの手は、生まれながらの将軍、という立場に縋りついているのと同じだった。

 

 

 御簾の隙間から、帝の装束である黄櫨染御袍の裾が零れている。

「二条城への行幸を賜りまして、恐悦至極に存じます」

 大御所たる秀忠が言上すると、御簾の向こうの人影が「うむ」と小さく応える。

 秀忠に合わせて、家光も低頭した。握りしめる笏は緊張で震え、手汗が染みていく。

 この二条城に帝を迎え入れるにあたり、秀忠も家光も、公家の正装である束帯を纏っていた。頭に冠を結び留めるための懸緒がきつくて、頭痛がする。征夷大将軍宣下を受けた時はむろんのこと、これまで幾度も、儀式の場で束帯を纏う機会はあった。とはいえ、今日の頭痛は、今までにないほど酷かった。

 家光の背後には、弟の忠長がいて、その隣には、尾張徳川家の義直、紀伊徳川家の頼宣、水戸徳川家の頼房と、家康の実子たちが居並んでいる。まさに、徳川将軍家の総力を結集した二条城行幸において、将軍たる家光には、絶対に失態が許されなかった。

「面を上げよ」

 家光は帝の言葉通りに顔を上げそうになったが、隣の秀忠が低頭したままなのを察して止めた。

「畏れ多いことにございます」と秀忠が粛々と答えると、帝が「よい」と返す。

「そなたたちは、中宮の父と兄である。面を上げよ」

 秀忠は「ありがたきお言葉にございます」とようやく頭を上げた。それに合わせて、家光もゆっくりと上体を起こした。

 帝の目配せで、侍従が御簾を巻き上げていく。

 黄櫨染御袍姿の帝と、その隣に座す中宮和子の姿が目の前に現れた。だが、直視することは畏れ多く、秀忠も家光も顔は上げたまま伏し目に徹した。それでもやはり、視界には入ってしまう。

 帝は家光よりも八つ上、つまり正勝の一つ上のはずなのだが、それよりもずっと年を重ねているように感じる。それは、隣に座す中宮和子が、稚い雛人形のように見えるからだろうか。

 五色の糸で飾られた檜扇を持ち、鮮やかな紅の袴に、紅白の五つ衣と表着を重ね、萌黄色の唐衣には菊の御紋、懸帯と裳には金糸で鳳凰の刺繍が施されている。煌びやかで豪奢な衣に、小柄な和子は埋もれるかのようだった。

 三年前、和子は女一宮を産み、今も二人目の子を懐妊中のはずなのだが、華奢な体つきは、とてもそうとは見えない。

 帝が和子に語りかけた。

「中宮も何か申すがよい。久方ぶりの父と兄との再会であろう」

 優しい言葉に聞こえるが、それでいてその口調は、父親であり徳川幕府大御所の秀忠に向かって和子が何を言うのかと、神経を尖らせているかのようだった。

 和子が、白い顔をこちらに向ける。下げ髪には金色の平額、釵子、櫛が飾られている。

「母上は、変わりなくお過ごしであるか」

 父と兄に会えて嬉しいとは言わない。なぜなら、父も兄も、夫である帝から見れば、朝廷を武威によって押さえつける徳川幕府の大御所と将軍なのだから。

 政の外にいる江にのみ言及した和子に、帝は「ほう」と意味深長な吐息をつく。和子は、うつむいてしまう。それらを見やって、家光は、秀忠が答えようとするよりも先に口を開いた。

「母上は、変わりなくお過ごしにございます」

 ここで家光が返事をするとは、誰も思っていなかったのだろう。秀忠はもちろんのこと、背後の忠長たちにも動揺する気配があった。

 家光は、構うことなく言った。

「母上は、中宮様の御身を、何よりも案じられておりました」

 その言葉に、和子の白い顔にわずかばかり赤みが差した。和子の金色の髪飾りが微かに揺れる。和子はもう何も言わなかったが、家光には、わかった。金色の髪飾りが揺らいだのは、涙をこらえたからだと。

 その後、帝と中宮和子は二条城の天守に上がった。五層の天守からは、京の都を一望できる。その景色を眺める帝と中宮和子に、秀忠と家光は、黙したまま付き従った。

 二条城の天守よりも高い場所は、この都には存在しない。孤高の天守から見える家並みと山々の稜線は、夕陽を受けて緋色に輝いていた。その美しい光景に、家光は思う。

(こんな場所にいる私たちは、幸せなのだろうか)

 誰もが仰ぎ見る場まで登りつめてしまった自分たちに、笑顔はない。この煌びやかな場には、虚しさばかりが吹きすさんでいるように思えてならなかった。

 

(つづく)