最終話 徳川家光
一
「生まれた時、私は、誰かの声を聞いた気がする」
格天井を見つめながら、呟いた。すると、隣で孝子が小首を傾げた。家光を見つめる黒い眼には、枕元の燈火が映っている。
家光は仰向けになったまま、その眼から視線をそらすと、再び格天井を見た。絢爛豪華な格天井は、将軍と御台所の寝所にふさわしく、黒漆塗の格縁が組まれ、格間には惜しみなく金箔が施された百花繚乱の絵が描かれている。
枕を並べる孝子もまた、格天井を見つめて言った。
「生まれた時のことを覚えている者など、いないと思います」
まっとうな返答に、家光は黙した。
寝所には、先ほどの婚礼の儀で孝子から贈られた刀架が置かれ、徳川将軍家の葵の御紋が入った太刀と脇差が架けられている。そして孝子は、家光が贈った白い絹地の寝間着を纏っていた。祝宴では、煌びやかな簪で美しく結い上げられていた黒髪も、今は解かれて、枕元の乱れ箱に緩やかに広がっている。
新枕の床に、沈黙が漂う。
家光は、そっと、孝子の横顔を見る。聡明そうな、美しい姫だった。関白鷹司家の姫君として、最上の教養を身に着けているのだろう。
家光より二歳年上だが、もっと年を重ねているように見えた。老け込んでいるというのではない。二十二歳の家光よりも遥かに落ち着いているのだ。その怜悧な横顔は、どこか、母の江に似ていると思った。
「江戸の暮らしには、慣れたか」
沈黙を紛らわそうとすると、孝子は「ええ」とだけ答えた。祝宴で観た猿楽の話でも振った方がよかったか、と後悔しかけた時、孝子が口を開いた。
「江戸へ来て、一年以上が過ぎましたから」
淡々とした口ぶりだった。
孝子がこの江戸城に入ったのは、一昨年の十二月。将軍家光の正妻、御台所となるために、遥々、京の都から江戸へやってきたというのに、こうして一年以上もの間、今日の婚礼の儀まで時があいていた。
家光は、気まずく言った。
「本丸御殿の普請が、長引いてしまったからな」
孝子が江戸下向をした頃、江戸城本丸御殿の大規模な増築と改修の普請があったのだ。普請中は、将軍の御座所も定まらず、華々しい婚礼の儀などできるはずもなかった。
「ずいぶん待たせてしまって、すまなかった。城の普請など、あらかじめわかっていたことなのだから、孝子の江戸下向も、もう少し遅らせてやればよかった」
家光が謝ると、孝子は驚いたように家光を見やる。何か変なことでも口にしたかと思うと、孝子は少しばかり眉を顰めて言った。
「将軍たる家光様が、かようなことで謝るなど、威厳に疵がつきましょう」
その言いぶりと表情が、やはり、江と重なってしまった。
孝子は、真剣な目をして言った。
「私は、関白家の娘として、この身を捧げる覚悟で江戸へ参りました」
孝子が何を言わんとしているのかは、それだけでわかった。
関白は、朝廷の最高官職だ。すなわち公家の最高位といえる関白家の姫君が、徳川将軍家に輿入れする……これは、単なる公家と武家の縁組ではない。朝廷と幕府の縁組なのだ。
孝子は、続けた。
「家光様の御妹君、和子様も入内され、ご立派に帝の后として御子を生し、中宮様となられました。私も、家光様の正妻、将軍御台所として、朝廷と幕府を結ぶために、尽くしてまいりたいと存じます」
妹、和子の名が出てきたことで、家光は思わずぽつりと言った。
「和子には、酷なことをさせたと思っている」
「酷なこと?」
「入内した時は、まだ数え十四だった」
夫となる相手の帝は、和子より十一も年上だった。その上、寵愛する女官との間にすでに皇子を儲けていた。帝は、幕府から送り込まれる幼き后を拒むがごとく、幾度も譲位の意を示した。だが、幕府は半ば強引に和子の入内と立后を成立させたのだった。
その入内から五年が経っているが、家光には、妹が夫から愛されているとは思えなかった。
すると、孝子はやや黙した後、きっぱりと言った。
「それもまた、女子の運命にございましょう」
毅然とした声に、また、江が重なった。
家光は、格天井を見上げて、孝子から視線を外した。
格天井に描かれた百花が、閨の燈火に、妖しいほどに美しく浮かび上がっている。
(あれは、牡丹……あれは、椿……あれは、紅梅……)
紅い色彩にばかり、目がいってしまう。
女子の運命として、和子が齢十四にして帝の妻となったというのならば、孝子もこうして将軍の妻となったのは、女子の運命ということか。愛してもいない男子に抱かれることを、運命という言葉で受け入れられるのか。
しかし、男子とて、同じなのだ。
心も通わぬ女子を「妻」として抱かねばならぬ。愛しい、という感情を伴うことができぬまま、欲情のみを昂らせて抱けという。
(あれは、牡丹……あれは、椿……あれは、紅梅……)
紅い色彩が、血潮に見えてくる。それは、己の心から迸る血の色か、それとも……。
家光は、目を閉じる。
(私は将軍、三代将軍、徳川家光だ)
そう自分に、何度も言い聞かせる。
三代将軍徳川家光が、御台所との新枕の床で、何もしないわけにはいかない。
御簾一つ隔てた向こうには、不寝番の老女がいる。
将軍と御台所の初夜を確かめるべく、息をひそめて、耳をそばだてている。夫婦の不和は、果ては朝廷と幕府の亀裂になりかねない。
深く、息を吐く。
目を開くと、その勢いで半身を起こして、孝子の体に覆いかぶさった。両肩の上に手を置いて向き合う。孝子の黒い眼は、少しも怯えることなく、まっすぐ家光を見ていた。だが、こちらは掌に汗が滲むばかり。ここから先、どうしていいのかわからない。頭ではわかっている。それなのに、体が動かない。孝子にも聞こえてしまうのではないかと思うほどに、心の臓が鼓動を打つばかり。
固まったままの家光に、孝子の方から手を伸ばしてきた。家光の両頬に、孝子の細い手が触れる。冷たい指先に、鼓動が跳ねるように鳴った。孝子は家光を引き寄せると、そのまま唇を重ねた。頬に触れた指先と同じくらい冷ややかな感触に、息が止まりそうになる。
咄嗟に、体を離してしまった。
「家光様……?」
「……すまぬ」
ようやっとの思いでそれだけ言った。そのまま立ち上がる家光を、孝子は茫然と見上げる。
家光はもう、孝子を直視できなかった。
「許せ……私は、そなたを抱けぬ」
そう言うやいなや、御簾を跳ね上げていた。不寝番の老女が、驚いて顔を上げた。こちらを見上げる老女の濃い蘇芳色の打掛姿に、家光は息をのんだ。
だが、もう閨に戻ることは、できなかった。
寝所を飛び出し、ほとんど駆けるように廊を進んでいく。その家光の姿に、城内の見回りをしていた泊り番の家臣が驚き、慌てて低頭して道を譲る。将軍が露払いの者もなく、手燭を持つ小姓を伴うこともなく、それも寝間着のままで廊を突き進んでいくなど、ただごとではない。
家光は居室に入ると、音を立てて襖を閉じた。暗い部屋には灯もなく、誰もいない。それはそうだろう、今宵、将軍は朝まで御台所のもとで過ごすはずだったのだから。
障子戸の隙間から、冴えた月明かりが射し込んでいる。
その場にへたり込むように座ると、両手で顔を覆ってうつむいた。
「私は、なんということを……」
押し寄せる後悔と、取り返しのつかない失態に苛まれる。それでも、あのまま孝子の体を抱きしめることができなかった。
顔を覆ったまま、低い声で呻いた。
「将軍として、最もなさねばならぬことが、できなかった」
新枕の床で、将軍として、いや、男子としてなさねばならぬことは、頭ではわかっていた。将軍が恥をかくことがないようにと、事前に侍医からも、乳母の福からも、事細かな指南を受けていた。幼少の頃から仕え続けている乳母子の稲葉正勝にも、夫としての振る舞いを真剣に尋ね、正勝もまた至極真面目に教えてくれた。
その通りにすれば大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせて、今宵を迎えた。
それなのに、微塵も、その通りにできなかった。
(誰もが当たり前にできることが、どうしてできないのだろう)
今に始まったことではない。幼名の竹千代と呼ばれていた頃から、ずっとそうだった。
家光は、顔を覆っていた両手を離した。
闇に慣れた目に、ぼんやりと、己の手が見える。掌に残る赤紫色の痣を見る。今まで生きてきた中で、拳を握ることが癖になってできた痕だった。握りしめすぎて食い込んだ爪の痕が、癒えることのない痣になっている。
〈そなたは、私に似てしまったのだよ〉
元服する前、父の秀忠から、家康伝来の歯朶具足を与えられた時、そう言われた。
繊細で、争うことよりも美しきものを愛でることの方が好きな竹千代は、父親である秀忠に似てしまったのだと。ゆえに、強くなれぬ者の苦しみがわかる、真の泰平の世にふさわしき将軍となってほしいと、歯朶具足とともに、その望みを託された。
掌の痣に、目を落とす。
(父上の掌にも、痣はあるのだろうか)
この場所に立っていることが不安で、それでも座ることも降りることも許されず、ただただ拳を握りしめ続けてきた痕は、二代将軍であった父にもあるのだろうか。
あの時、歯朶具足を与えられて、頬を濡らしたのは、安堵の涙などではない。将軍となる運命から、もう逃れることはできないのだと知った、絶望の涙だった。
そして、その涙を流す竹千代に、乳母の福は言った。
〈竹千代様が将軍となられる日には、この歯朶具足は、美しき飾りとなっておりましょう〉
乳付けをしたその日からずっと、将軍にふさわしきは竹千代、と信じ続けてきた福らしい言葉だった。
だから、家光は言ったのだ。
〈私は、生まれながらの将軍である〉
征夷大将軍宣下を受けた後、初めて諸大名の拝謁を受けた場で、ひれ伏す者たちを前にそう宣言した。生まれながらの将軍……それは、逃れることのできないこの場所で、美しき飾りとして生きていくにふさわしい言葉だと思ったから。
家光は、顔を上げた。
立ち上がり、部屋の隅にある厨子棚の前まで歩み寄る。棚の上に置かれた漆塗の小箱を手に取って、蓋を開けた。
そこには、割れた鏡の破片が入っていた。傅役の青山忠俊に投げ捨てられて割れてしまった鏡だ。もう鏡としては使い物にならないとわかっているのに、捨てることができず、こうして手元に置いていた。
鋭い破片を一つ、手に取ってかざした。
冴えた月光に、己の顔が映る。
「ひどい顔だな……」
鏡の中の自分と目が合って、独り言つ。まるで死人のように血の気がなかった。
破片に映る蒼い唇に、紅をさしてやりたかった。
この鏡をくれたのは、正勝だ。
密やかに化粧を愉しむひと時を、正勝は黙したまま見ていた。何かを言うこともなく、誰かに告げることもなく、ただ黙していた。
幼き日、奥御殿の庭で大蟷螂の姿に怯えた時も、弟の国松や小姓たちには笑われたけれど、正勝だけは黙していた。傅役の青山忠俊のように、力強く叱咤することもなく、乳母の福のように、将軍にふさわしきは竹千代、と信じてやまないこともなく。
その沈黙が優しくて、好きだった。
正勝の沈黙がなければ、あの憐れな蟷螂のごとく、自分はありとあらゆるものに押し潰されていたのではないだろうか。
正勝の姿を思いながら、家光は呟いた。
「本当に、兄だったらよかったのに」
幼き頃は、正勝のことを兄だと無邪気に信じていた時もあった。自分には七つ年上の優しい兄がいるのだと。そして、母は福だと思っていた。
だけど、だんだんと、それは違うのだと察していった。自分を産んだ母親は江で、父親は秀忠、祖父は家康。そして、周りにいる大人は、全て家臣。
惜しみない愛情を注いでくれる福も、優しい沈黙で包み込んでくれる正勝も、実のところは、自分に傅く者だった。
福にはちゃんと福が産んだ子供がいて、その一人が正勝で、正勝には弟がいて、それは自分ではなくて……。そうやって、幼いなりに理解していくとともに、孤独というものを知っていった。
言葉が出るのが遅かった家光は、四歳になろうかという頃に、初めて人前で「ふく」と口にした。
二歳、三歳、と発語のなかった家光を、周囲の大人たちは「言葉が遅い」と心配していた。その一方で、言葉が出ないということは、何もわかっていないのだからと、幼い家光の前で、福や江の悪口を面白おかしく囁き合っていた。
言葉が出ていないだけで、大人が言うことは、全てわかっていたのに。
だから初めて発した言葉が「ふく」だったのだ。「ふく」は「ははうえ」ではないということを、ちゃんと、大人たちの嗤う言葉から、わかっていたから。
生まれた時、今にも死にそうなくらい虚弱な赤子だったことも、その姿を母親の江は受け入れられず、家光を厭う原因になったことも。何をしても弟に劣ってしまう姿が、父親の秀忠にとっては自分の嫌いなところを見せつけられているようで不愉快だったことも。全部、大人の口の端々から零れ落ちる言葉で、知っていた。
「全部、わかっていたのに」
月の光にかざしていた鏡の破片を、そっと下ろした。
この鏡を割った青山忠俊を罷免した後、正勝は初めて、その優しい沈黙を破った。
〈どんな家光様であろうと、私は、お慕いしたいのだと!〉
だが、家光はその言葉を聞いて、俄かに不安を覚えてしまった。だから問い返したのだ。
〈正勝、それは……私とそなたが、将軍と家臣でなかったとしても、変わらぬものか?〉
福の息子としてではなく、一人の男子として出会っていても、その想いは変わらなかったのか、と。そして、正勝がその答えを出すことに逡巡した瞬間を、家光は見逃さなかった。
あの時、福が正勝の答えを遮ってくれてよかったと、今では思う。
たとえ、正勝が肯定したとしても、それは、将軍と家臣という立場ゆえの気遣い、忖度だ。あのわずかばかりの逡巡に、その全てが込められていた。
握りしめた鏡の破片が、癒えぬ痣に当たって痛かった。