正勝は、胸に頬を寄せたままの妻の黒髪を撫でた。

 妻はいつの間に、寝入っていた。幸せそうな吐息を肌に感じながら、正勝は思う。

(あの日、答えを言わぬことが、幼き私に与える疵を最小限にとどめるための、大人なりの配慮だったのだろう)

 父は、正成は、福を懐妊させたのとほぼ同時期に、密やかに通う女子も懐妊させていたのだ。夫の感情や仕官先の都合に振り回され、夫が他の女子を寵愛するのも黙認するしかない。その上、夫が孕ませた女子と同じくして、自分も夫の子を産まねばならない。

 父の行動が、どれほど、母の、福の女としての心を痛めつけたか。男である正勝には、今もなお、計り知れない。

〈この世の常に、謀反を起こしたい〉

 人は、そんな福のことを、凄まじい女子だという。

 竹千代の乳母になり、竹千代が成長してもなお側仕えを辞めず、三代将軍となった家光の口から〈私は、生まれながらの将軍である〉と豪語させた。福は、この先も将軍家光に影のごとく侍り続け、息子の稲葉正勝を重用させ、権勢をほしいままにするであろう。そう危ぶむ者すらいる。

(だが、私はそうは思わない)

 夫の正成のもとから逃げるように去った福は、千熊たちの手を絶対に離さなかった。知らない女子を孕ませた夫のもとに、子供たちを置いていきたくなかったのだ。千熊と七之丞を抱えた上に、お腹に子を宿したまま、後先も考えず夫のもとを飛び出した。

 そんな福が、いや、誰の助けも得られぬ母親が、独りで生きていくためには、乳母になるしかなかったのだ。将軍の乳母となって権力が欲しいなど、そんな大それた野望を抱く余裕は、一度たりともなかったはずだ。

 乳母として、竹千代に乳を与えるために初めて登城した日、物陰で福が涙を流していたのを、正勝は知っている。

 乳母という職は、我が子のために迸る乳を、主君の子に、つまり他人に与えねばならぬのだ。その間、我が子が母を欲して泣き叫ぼうとも、戻ることは許されない。

 福は、涙を打掛の袖で拭って、生まれたばかりの末の子を人に預け、竹千代の乳付けのために登城した。だが、主君の御前に出た時にはもう、その涙を消し去っていた。

 産室の静けさにそぐわぬ朗々たる声で「お乳付けに参上いたしました!」と口上した福の、濃い蘇芳色の打掛の袖に、滲んだ涙の跡があったのを知っている者は、正勝だけだ。

「私は、あの時、母を慕う心を捨てたのだろうな」

 正勝の呟きに、眠っていたはずの妻が、問いかけた。

「何のことですか?」

 正勝は、その黒髪を撫でて「いや、何も」とだけ答えた。

 

 

「関白、たかつかさ信房のぶふさの娘に決まりましたよ。たいそう美しい姫君とか」

 家光の御前で、生母であり秀忠の正妻である江が、晴れ晴れと言う。その言葉に、家光は、何も言わなかった。江と視線を合わせることもない。

「家光殿? そなたに迎える妻の話をしているのですよ」

 家光は、微笑する。その微笑に、困惑があるのを、傍らで控えている正勝は察した。

 その時、部屋に思わぬ声が響いた。

「関白家の姫君様とは、これはまた、江様がお好みになりそうな、高貴なお家柄でございますこと」

 江は、すぐさま声のする方を睨みつけた。部屋の入口に、福が立っていた。福は咳払いをして部屋に入る。大仰に打掛の裾を払って座すと言った。

「私が、夕餉の支度をする侍女たちを指図している間に、いったい何の御用で参られたのかと思ったら、関白家とのご縁談にございますか」

 江は、福が不在の隙を狙って家光のもとを訪れたのだろう。福の登場に苦々しく顔をしかめたが、すぐに笑顔を作って言い返した。

「関白家と徳川将軍家とが釣り合わないとでも?」

「いいえ、そのような。ただ、家光様のお考えも伺わぬままお決めになられたのは、いかがなものでございましょう。乳母である私にも、何のご相談もありませんでした」

 江は笑顔を崩すことなく言う。

「美濃の山奥から出てきた稲葉家の元妻の身では、将軍家にふさわしき家柄の姫君に心当たりもなかろうと思うてな」

「まあ、そのようなお気遣い、不要でございましたのに」

 福も江も、目が笑っていない。

 二人の傍らで、家光が視線を正勝に投げかける。正勝は無言のまま、表情だけで「今は、黙っておきましょう」と家光に伝えた。

 福と江が顔を合わせると、場の雰囲気が悪くなるのは、今に始まったことではない。ましてや、江が決めた家光の縁談だ。自分のあずかり知らぬところで進んだ話を、福が快く思うはずがなかった。

 そもそも、江が、こうして自ら、家光のもとを訪れること自体が珍しかった。

 これまで江は、弟の国松の居室ばかりを訪れていた。国松は、家光と同じ日に十五歳で元服をして、忠長ただながと名を改めている。今では、甲斐国二十五万石の大名となって、江戸城北の丸に屋敷を与えられている。しかし、江の二人に対する態度は、幼少の頃と少しも変わっていなかった。

 江は、家光の方に話を振った。

「三代将軍の正妻にふさわしい、この上ない家柄の娘ですよ。もっと喜んだらどうです?」

 江に言われ、家光はぎこちなく返す。

「突然のことで、驚きの方が……」

 江は「さようでございますか」と笑顔で言う。

「名はたかと申しまして、そなたの二歳上とか」

 家光は何も答えず、また視線を正勝に向けた。

 正勝は余計なことは言わず「喜ばしきご縁談と存じます」とだけ返した。すると江は、正勝を見やって言った。

「そういえば、そなたの弟の正利まさとしは、国松に……いや、忠長に、実によく仕えておるぞ」

「は、ありがたきお言葉にございます」

 そう答えつつ、正勝は横目で福を見やった。

 江の口から出た正利の名に、福は動揺するのではないだろうか。

 そう案じたものの、福は少しも表情を変えることがなかった。かといって、先ほどのように江に対して、丁丁発止に返すこともなく、まるで何も聞こえていなかったかのように黙っている。黙殺、という言葉そのものだった。

 かつて福が、竹千代の乳母として登城するにあたり、人に預けられた幼き弟たちは、それぞれ元服して、今では、正定まささだと正利と名乗っている。当時、すでに乳離れしていた七之丞、つまり正定の方はともかく、生まれたばかりだった末の子の正利は、ほとんど福の手で育てられることもなかった。

 そのせいなのか、正利なりの反発なのか、まるで福に対する当てつけのごとく、正利は家光に仕えることを拒み、忠長付きの家臣となる道を選んだのだった。

「そなたら兄弟は、福の息子とは思えぬ、好ましい忠義者よな」

 そう言って、江は、おかしそうに「ほほ」と笑った。正勝は、微笑するにとどめた。

(正利は、福の息子、と人から言われる時に、どんな感情を抱くのだろうか)

 怒り、ではないだろうか。母子として過ごした覚えもないのに、福の息子とみなされることへの。

 そう思って、ふと、我が身を顧みる。正勝自身は、福の息子と言われる時、何を感じてきたのだろう。この胸に込み上げてくる感情は、息が詰まりそうになるほどのこの思いは、いったい何なのか。

(怒りなのか? いや、それとは違う気がする)

 すると、江が思いついたように、家光に言った。

「そうよ、近々、北の丸にある忠長の屋敷を訪れるがよい。諸大名に先んじて屋敷で将軍を饗応したとなれば、忠長にとって、将軍の弟としての面目も立ち、この上ない誉れとなるであろう」

 その提案に、家光は「よき日取りにぜひ」と答えた。

 家光が諾したことに、江は満足そうに頷き返す。

「正勝、そなたも、忠長の屋敷に同行すれば、正利に会えるであろう。兄と弟、心行くまで語り合うがよい」

「お心遣い、ありがたきことにございます」

 家光と忠長、それぞれ違う主君に仕える立場となり、おのずと正勝と正利との間には距離ができている。兄弟でありながら、城中ですれ違う時に黙礼を交わす程度の仲になっているのは、周知のこと。

〈兄と弟、心行くまで語り合うがよい〉と言われても、もはやそのような仲ではないことは、家光はもちろんのこと、江自身もわかっているはずだ。それをあえて抉るかのように言ってくる江を、正勝はそつなくかわした。

 福も、全く相手にしようとしなかった。黙殺することで、乳母として立身した自分を肯定しようとしているのだろうか。その姿を見やって、正勝は、さりげなく話を婚礼の方へと戻した。これ以上、この話を続けたところで、正勝自身が息苦しくなっていくだけだ。

「孝子姫様が江戸へ入府される時期は、お決まりでしょうか」

 話を戻した正勝の意を察したかは知らぬが、江は頷いて答えた。

「孝子姫には、十二月に江戸に入ってもらうこととなろう」

「確か、その頃には、本丸御殿の改修普請が始まっているかと」

 正勝の問い返しに、江はよどみなく答える。

「ゆえにまずは、西の丸の御殿にお迎えして、諸事、支度が整い次第、晴れて吉日に婚礼とする。本丸御殿の普請が済むまでの間、孝子姫の人となりを見極めるのもよかろう」

 江は言うべきことを言い終えると、退出の意を示して立ち上がる。福もそれに合わせて立ち上がった。

「お見送りをいたしましょう」

 慇懃に申し出る福を、江は無視した。それでも、福は微笑を少しも変えず、江とともに部屋を出た。

 江と福が去って、家光と正勝は二人きりになった。途端、家光が深いため息をついた。

 家光は、脇息にもたれ、微笑を向ける。

「お互い、母には苦しめられるな」

 正勝は、黙礼だけを返した。

 こんな時、家光から向けられる微笑が、好きだった。何というのだろう、主君と家臣という立場ではなく、互いに通じ合う瞬間とでもいおうか。

 福と江が居合わせて、家光と正勝、それぞれに息苦しい思いをしながら場をやり過ごし、解放された後に向けられる微笑。他の家臣には、きっとこの微笑は向けられることはないだろう。

 だが、この想いを、家光に伝えたことは一度もない。もともと感情を人前で露わにすることができぬ性質だ。自分の想いを伝えることも、言葉にすることも、上手くできるとは思えない。それなら、何も言わぬままでいた方がいいと思う。

 家光は脇息にもたれたまま、言った。

「元服して、将軍となって、そう遠からず妻を迎える日が来るとは思っていたが。まさか、こうも一方的に決められてしまうとは」

「関白は、帝を補佐する朝廷の最高官職。その鷹司家から迎えるご正室にございますれば、三代将軍の名に恥じぬ、素晴らしきだいどころになられることと存じます」

「それは、そうなのだろうが……」

 家光の表情はさえない。正勝は、言葉を選んで言った。

「今は気乗りせずとも、時をかけて、夫婦となっていけばよいのです」

「正勝も、そうであったのか?」

 何のことかと見やると、家光は言葉を足して問いかける。

「正勝も、妻を迎える時、気乗りはしなかったのか」

「は……」

 すぐには答えが出ずに、黙してしまう。妻と婚礼を挙げた頃の気持ちなど、正直なところ、覚えていなかった。

 数年前に迎えた妻は、徳川家臣の家の中から、福が見出した娘だった。形の上ではあるが、主君である家光からも推挙をもらった。傍から見れば、福が愛息子の将来に支障のないように選りすぐって迎え入れた自慢の嫁、といったところだろう。

 だが、正勝自身は、誰が妻になろうと、構わなかった。家柄にも見目にも惹かれることもなければ、断る理由もなかった。ただ、それだけだった。

(それは、今もそうかもしれぬ)

 家光には〈時をかけて、夫婦となっていけばよい〉と言っておきながら、自分自身は、果たしてどうなのか。夫婦として、互いを想い合えているのだろうか。そもそも、夫婦になるとは、何なのか。婚礼を挙げたから、夫婦、になるのか。身体の繋がりを得たならば、夫婦なのか。ならば、子がいれば? 子がいなければ?

(わからない……)

 誰もが当たり前のように感じているであろう、夫婦の情というものが、わからない。そんなものは、どんな夫婦であろうと、いつ消え去ってもおかしくない、儚いものだと思ってしまう。それは、幼き頃の記憶にある夫婦の姿、つまり父と母の姿が、正勝の中では、崩れ去っているからだろうか。

 だから自分は、妻が抱く幸せを、同じような思いで感じることができないのだろうか。幸せそうに閉じられた妻の目が、困惑で見開かれるのが、怖くなってしまうのだろうか。

 正勝が黙したままでいると、家光が、窺い見る。

「正勝、あのことは……」

 その言葉に我に返ると、正勝は即答した。

「むろん、誰にも、私の口からは申し上げておりません」

 すると家光は「そうか」と安堵の息をついて、脇息から身を起こした。そうして、気を取り直すように、厨子棚に置かれた鏡を手にする。

 鏡に向き合う家光の表情に、あの微笑が浮かんだ。

 正勝は、その姿を受けとめるように、黙礼した。

 

 

 翌月、正勝は家光に供奉して、北の丸にある徳川忠長の屋敷に赴いた。

 賓客を迎え入れる黒書院の間で、見目麗しい青年大名に成長した忠長が、家光に笑顔で向き合っている。

 何事にも物怖じをしない気質が、そのくっきりとした目鼻立ちに表れている。凛々しい眉、濃い黒目に、筋の通った鼻梁と引き締まった口元、父親の秀忠と母親の江の良いところだけを貰ったかのような顔立ちは、輝かんばかりだった。兄と弟、こうして二人が並んでしまうと、温和な雰囲気の家光が見劣りしかねないと思うほどだ。

「兄上が将軍となり、こうして御成あそばしたこと、光栄に存じます」

 はきはきと忠長が言い、家光は「うむ」と返す。

「我が弟として、これからも徳川将軍家を支えていってほしい」

 当たり障りのない言葉が、一つ二つ交わされて、会話が途切れた。もともと親しい兄弟ではない。部屋に静けさが漂うと、庭の向こうから槌の音が高らかに聞こえた。

 おのずと、家光も忠長も、沈黙を紛らわせるようにその音の方を見やる。

 視線の先には、庭越しに、普請中の江戸城天守が見えた。

 徳川家康が関ヶ原の戦での勝利を収め、江戸に幕府を開いて以来、江戸城は増改築の普請を続けていた。諸大名に普請の奉仕を命ずる城の大改修は、天下普請とも呼ばれ、徳川将軍家への臣従と忠誠を示すべく、諸大名はあらんかぎりの人と財を投じて従事していた。

 城の本丸御殿はむろんのこと、西の丸の増改築、堀の開削に石垣の造成など、家康が始めた天下普請はすでに二十年近く続き、その集大成ともいうべき天守が、今まさに着々と構築されていた。

 北の丸にある忠長の屋敷からは、槌の音高らかにそびえていく天守がよく見えた。それを、兄と弟の二人は、黙したまま見つめている。

 幼き頃から、乳母の福と生母の江との間で離れて育った二人だ。親しい言葉もないまま、槌の音ばかりが響いて、時が過ぎていく。

(それは、私もそうか)

 正勝は、忠長の家臣たちを見やる。列座する家臣たちの中に、弟の正利の姿もあった。

 兄と弟なのに、他人のような。それなのに、正利の気の強そうな黒目がちの眼は、皮肉なくらい、福によく似ている。

 正勝の視線を感じ取ったのだろう、正利がこちらを見た。目が合い、そらすのも変だと思い、正勝は目礼を返す。すると、正利の口元に微笑が浮かんだ。

 その微笑に、正勝は息をのんだ。

 兄を慕う弟の微笑ではない。冷ややかな、微かに侮蔑すら感じる笑みだった。

──お前はいいよな。

 正利の冷笑は、そう言っている気がしてならなかった。

 福の長男として生まれただけで、今や、三代将軍の寵臣だ。正利には、正勝の姿がそう見えるのかもしれない。

(弟にまで、福の息子と見られている)

 胸に、福の息子と言われる時の感情が込み上げる。息苦しいほどのこの感情が、いったい何なのかわからない。わからないのに、込み上げてくる思いに、ただただ、息が詰まりそうになる。

 その時、天守を見上げていた忠長が言った。

「あの天守が完成した暁には、実に壮麗な江戸城となりましょう」

 その言葉に、家光も応える。

「あの天守の頂から望む江戸の景色を、早く見てみたいものだな」

「私は、その景色を永遠に見ることができませぬ」

 家光が見やると、忠長は家光を見据えて言った。

「私は、あなた様の弟にございますゆえ。この北の丸から、天守を仰ぎ見ることしかできませぬ」

 江戸城天守の頂に立てるのは、将軍のみ。そう言った忠長の目は、少しも笑っていなかった。

 家光は、言葉を選ぶように言った。

「そなたには、この三代将軍の弟としてふさわしき城を与えたいと、思っている」

 甲斐国二十五万石の城主で終わらせることはしない、という家光なりの思いやりからの発言だったのだろう。すると、忠長は、挑むように言った。

「では、大坂城を」

 その言葉に、場が張りつめた。居合わせる家臣の誰もが息をのみ、家光も頬を微かに引き攣らせた。

「それは、ならぬ。……大坂城は、滅亡した豊臣の城であったのだから」

「私は、豊臣家のようにはならぬと思いますが」

 忠長の不敵な笑みに、家光は何も答えようとしなかった。ただ、諦めにも似た、寂しそうな目を、青天にそびえていく天守へと投げやった。

 その後、茶事の饗応をすませ、夕刻に忠長の屋敷を退出した家光は駕籠に乗り込んだ。

 乗り込む直前、傍らに跪く正勝の前で、家光は立ち止まり、ぽつりと言った。

「弟であるのに。いや、弟であるがゆえか」

 驚いて見上げた正勝に、家光は「どうした」と問い返す。正勝は、目を伏せ、恐縮して答えた。

「その……自分のことを言われているのかと、思ってしまったもので」

「自分のこと、か。確かにな」

 家光は、納得したように頷いて、あの微笑を向けた。

 家光と忠長、正勝と正利……兄と弟であるがゆえに、わかり合えない。その原因が「母」であることは、家光も正勝も同じだった。

 

(つづく)