家光と孝子の不仲は、城中の噂となっていた。

「家光様、江様のお使者が参られております」

 取り次ぐ侍女の声に、家光は「またか」とため息を漏らしてしまった。

 新枕の夜以来、孝子のもとへ渡御しない家光に、江は不興を示していた。孝子は江が選りすぐった最高の血筋の姫君。その姫君を拒んだことは、すなわち、江の意向を拒んだのと同じだった。

 こうして江から使者が来るたびに、体調が優れぬ、所用がある、と理由をつけて断ってきたのだが、さすがにもう断る理由も見つからない。

 傍らにいた福が、それと察して家光を見やる。

「私がお断りいたしましょう」

「いやいい、通せ」

 通された使者は、江の腹心の侍女だった。侍女は、家光を前に一礼すると口を開いた。

「孝子様は、家光様の渡御がないことに悲しみに暮れておられます」

 感情に訴えかけようとしているのだろう、袖で目頭を押さえて言い続ける。

「遥々京の都から参られて、慣れぬ江戸でのお暮らし、家光様のご寵愛こそが、唯一のお心の支え……」

「待たれよ」

 福が声を上げた。家光も侍女も、驚いて福を見やる。福は、厳しい声で言った。

「〈家光様のご寵愛こそが、唯一のお心の支え〉とは、聞き捨てなりませぬ。まさか〈どうか、お情けをかけていただきたい〉などと続ける気でしょうか?」

「な……」

 侍女はあっけにとられる。福は断言した。

「男子から〈お情けをかけていただきたい〉女子など、存在せず!」

 侍女に向かって、福は続けて言った。

「まるで、男子からの寵愛がなければ生きていけないかのような言いざま。関白鷹司家の姫君ともあろう孝子様が、かような慎みのないことを言うとは、とても思えませぬが?」

 侍女は即座に言い返す。

「江様は、このままでは、孝子様が心身を病んでしまうと案じているのです」

「江様は? ということはやはり、孝子様の意ではないということですね」

 窮した侍女は、押し黙る。

「福、そのくらいにせよ」

 家光が言うと、福は憤然とした表情で黙した。家光は、改めて侍女に告げた。

「思うところあって、孝子に会うのは控えたい。いずれ必ず訪うゆえ、しばし待ってほしい、と伝えてくれ」

 家光の言葉に、侍女は「かしこまりました」と、渋々下がった。

 ところが、侍女が「福に追い返された」とでも言ったのか、その日のうちに、江が憤り露わに現れた。

「そなた、どこまで家光殿を意のままにすれば気が済むのか!」

 江は、部屋に入るなり、家光ではなく福に向かって凄まじい剣幕で言った。

 福は、それを真っ向から受けて立った。

「意のままにするとは、いかなることでしょうか?」

「家光殿が御台所のもとへ渡御せぬのは、福が制しているからであろう!」

 それは違う、と家光が否定しようとした時、福が高らかに言いきった。

「ならば、どこまでも、意のままにいたしたく存じます」

 江は「な……」と言葉を失った。福は、江を見据えて続けた。

「江様のお選びになった孝子様は、御台所としての立場にはふさわしくとも、家光様にはふさわしくありませぬ。乳母として、いえ、不寝番の老女として、そう判断いたしました」

 江は、開いた口がふさがらぬまま、茫然と福を見下ろした。

 福は、新枕での出来事を、全て知っていた。なぜなら、御簾の向こうにいた不寝番の老女は、福だったのだから。

 あの夜、御簾を撥ね上げて飛び出した家光に、福は驚いて顔を上げたが、その口元には、笑みが浮かんでいた。

 それは、幼き竹千代を褒めていた時とまったく同じ微笑だった。

――竹千代様ほど将軍にふさわしき御方はいない。

 福は幾度となくそう言っていた。その言葉を口にする時と同じ微笑で、江が選りすぐった姫君を拒んだ家光のことを褒めていた。

 江は、茫然と福を見下ろしたまま唇を戦慄かせ、それ以上はもう口をききたくもない、とばかりに何も言わずに出て行ってしまった。

 江が去った後、部屋には家光と福だけが残った。

「孝子の心を傷つけたのは、私なのだ」

 家光の言葉に、福は「存じております」とだけ言った。

「母上に、本当のことを言う。孝子を抱けなかった理由を……そうでなければ、このままでは福が、全て悪いことに……」

「無用のお気遣いにございます」

 福は、深々と一礼して言った。

「私は、家光様の乳母。家光様の御為ならば、悪女になる覚悟はできております」

「福……」

 その名を呼びながら、また拳を握っていた。この拳を握る時、家光はたちまちにして竹千代だった頃に引きずり込まれる。

 掌の癒えぬ痣に、爪が食い込む。

 福という名の乳母に出会い、重すぎるほどの期待を一身に受けて、この掌の痣は濃くなっていく。目の前で一礼する福が纏う打掛と同じ、赤紫の……濃い蘇芳色をした痣は、癒えることがない。

――竹千代様ほど将軍にふさわしき御方はいない。

 全てを捧げる乳母の繰り言を、否定なんてできなかった。

 母親に愛されたこともなく、父親に期待されたこともなく、弟と戯れ合ったこともない。その上、乳母にさえ見限られたら……。

「そんなことできないよ」などと、竹千代が言えるはずもなかった。

 

 

「ご無事の上洛、心よりお祈りしております」

 将軍家光の御前で、江が恭しく手をついて口上すると、それに合わせて居並ぶ侍女たちが一斉に平伏した。

 家光は、重々しく頷き返す。葵の御紋が入った黒漆塗の陣笠を被り、旅装束姿となった家光の前には、それを見送る奥御殿の侍女たちが総出で並んでいる。

 江戸城本丸奥御殿から見える空は、将軍の出立を祝すかのような晴天だった。だが、家光の心は、これからの旅路を思うと憂鬱で仕方がなかった。

 京の都までの遠路、体調を崩さない自信がない。事実、不安からくるものなのか、それとも、上洛後の帝と公卿たちを相手にした諸事への重圧感からなのか、今も微熱がある。

 家光の不調を知っている福は、案ずるような表情を向けているが、江の手前、発言を控えて黙している。

 体調不良が顔に出てしまっていたのか、江が厳しい口調で言った。

「此度の上洛は、徳川将軍家の威信をかけて、帝を二条城にお迎えするための重要な上洛。将軍たる者がそのような顔つきでは、朝廷はむろんのこと、供奉する諸大名にも侮られましょうぞ!」

 二条城は、家康が将軍上洛の折の居城として京の都に築いた壮麗な城だ。いわば京の都における徳川の城に帝の行幸を迎え入れる、その幕府の威信をかけた上洛に、徳川家臣団が随行するのはむろんのこと、臣従する諸大名たちも、道中の整備や警護などの奉仕を命じられていた。

 家光は背筋を伸ばし、この場にふさわしき言葉を探して言った。

「上洛後は、万事、父上のお指図を仰ぎ、弟、忠長とともに、徳川将軍家として瑕疵なきよう努めてまいります」

 大御所である秀忠は、先んじて出立していた。弟の忠長も、甲斐、遠江、駿河国の三か国を有する五十万石の大名として、秀忠に供奉して先発しており、上洛後は、家光は左大臣に、忠長は権大納言にと、それぞれ任官の儀を受けることも決まっていた。

 家光の言葉に、江は「それでよろしゅうございます」と頷いた。そうして、険しい顔つきを、わずかに緩めて言った。

「二条城には、帝とともに中宮和子様もお出ましになるとか」

 和子の名を口にした江の表情に、娘を案じる母としての心情が垣間見えた。和子が懐妊中であることは家光も伝え聞いている。それと察して家光は言った。

「母上が中宮様の御身を案じておられたことを、私からもお伝えいたしましょう」

 家光の気遣いが思いがけなかったのか、江は少し驚いたように目を見開いたが、すぐ真顔に戻って言った。

「それにしても、将軍のご出立であるというのに、御台所はまだ参らぬのか」

 江の厳しい声に、御台所付きの侍女が、畏縮して言う。

「御台様は、今朝はとくにお加減が優れず……」

 将軍出立を見送る場に、御台所孝子の姿はなかった。深いため息をついた江に、背後に控えていた福がこれ見よがしに咳払いをした。江は、それを黙殺した。

 この御台所不在の場で、福と江は、視線すらかわさない。互いに黙殺しあう雰囲気に、周囲の侍女たちは、気まずそうにしている。

 御台所がいるべき空白を見やり、家光は場を取り成すように言った。

「よい、御台に無理はさせたくない」

 あの取り返しのつかない新枕の夜から、一年近くが経っていた。

 以来、閨をともにすることは一度もなく、孝子は心を閉ざして奥御殿に与えられた居室に籠もっている。

 そして、江はもちろんのこと、城中の誰もが信じて疑わなかった。家光と孝子の仲を裂いたのは、乳母の福だと。福自身も否定することなく、むしろそれを煽るかのように「孝子様は、御台所としての立場にはふさわしくとも、家光様にはふさわしくない」と主張し続けている。

 将軍家光へ批判の矛先を向けることなく、江との対立を利用して自分に全ての目を向けさせた福を、家光は無言のまま見やる。その視線に気づいたのか、福は微笑を浮かべた。

 

(つづく)