四
福の姿が城内にないことに、忠俊は気づいた。
いつも、竹千代の居室に行けば、その傍らに、毒々しいほどに濃い蘇芳色の打掛姿で侍っているというのに、今日は、ぽつんと竹千代だけが座っている。
「竹千代様、お福殿の姿が見えませぬが」
そう問うと、竹千代は「うん」と頷く。
「伊勢参りに行った」
「い、伊勢参り、にございますか」
「私の心身が丈夫になるよう、無事に将軍後嗣になれるよう、祈願するのだと」
「はあ、さようにございますか」
ついに神頼みときたか、と思ってしまった。
まあ、乳母とはいえ、竹千代はもう乳を必要とする年はとっくに過ぎているのだ。ひと月ばかり留守にしたとて、何も支障はない。むしろ、甘やかす福がいない間に、傅役としては、厳しく指南ができるというものだった。
ふと、福のいない間に、稲葉正成に会ってみようかと思った。
あの女子の言動を制するには、福のことを最もよく知る人物に会うのもいいだろう。確か、正成は、美濃国に一万石の領地を得て、徳川家に臣従する大名として江戸屋敷を構えているはずだ。
さっそく、忠俊は稲葉正成の屋敷に使者を送った。相手は関ヶ原の戦の後に臣従した一万石に過ぎぬ小身の大名。かたやこちらは、徳川将軍家譜代の重臣、青山家だ。声をかけるのにさしたる気遣いは不要だった。
とはいえ「乳母、福のことを問いたい」と率直に伝えるのは、相手にとっては「別れた妻のことを問いたい」と言われているようなもの。そこは気を遣って、茶会、と称した。
徳川将軍家の重臣たる青山忠俊からの誘いとあっては、断る理由もないのだろう。稲葉正成は、日を置かずして、従者を引き連れて青山家の屋敷を訪れた。
屋敷の茶室で対面して、忠俊は少し驚いた。
(この者が、福の夫だったのか……?)
あの気の強い福が離縁したくなるほどの夫ならば、さぞ偏屈な者であろうと思っていたが、稲葉正成は実に健やかで明朗な男であった。
年は忠俊より七つ上、初陣は、信長亡き後に豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧長久手の戦というから、歴戦の猛者だ。戦国武者らしい凛々しい目鼻立ちには、好感すら覚えた。
無骨ではあるが、荒っぽさはない。磊落という言葉がよく似合う口ぶりで言われた。
「竹千代様の傅役たる青山様からの直々のお誘い。用件は大方、あの困った乳母のことでしょうなあ!」
わざわざ気を遣って茶会などと称したことが、ばかばかしくなるほどの明るさだった。
茶室まで案内した奈津も「まあ」と思わず笑みを零す。正成が連れてきた従者たちは、すでに別室で控えている。ここから先は二人きりで話したいと、忠俊は目配せをして奈津を下がらせようとした。すると、正成が気軽に「奥方も、ご一緒にいかがかな」と言う。
「それは……」
難色を示した忠俊に、正成は笑って言う。
「何、大した話でもあるまい。あの乳母の人となりを、奥方に聞かれたところで、困ることなど何もない」
そう言われてしまうと、これ以上はどうしようもない。忠俊は奈津を同席させた。
忠俊が点てた茶を、正成は豪快に飲み干し、奈津は楚々と口をつける。奈津の所作を見やって、正成は心底、羨ましそうに言う。
「青山様は、実によき妻御前に恵まれましたな」
「いえ、至らぬことも多い妻にございます」
忠俊が形ばかりにそう言うと、奈津も伏し目で黙したままでいる。
これ以上、奈津を同席させたくなかった。奈津の容貌に正成の目が向けられているのが気に障る。さりげなく、下がらせようと口を開きかけた時、正成が話を振った。
「あの福という女子は、親戚の子のようなものでしてな」
「親戚の子、とは」
忠俊は、奈津に下がるよう目配せをしながら問い返す。
「福は、母親が稲葉家の出でしてな。ご存じかとは思うが、父親はあの斎藤利三で」
正成が語りだす話に、奈津はすっかり聞き入っている。忠俊の目配せに気づいているはずなのに、退出する様子も見せない。その忠俊の焦りと苛立ちに、正成の方は一向に気づくこともなく語り続ける。
「謀反人の娘だというので、十七になっても、嫁ぐ先がない。おまけにあの気の強さです。このまま行き遅れるか生涯独身か、と案じた稲葉家の者が、遠縁にあたる私との縁組を持ちかけまして。私も、ちょうど最初の妻を病で失った後でしたし、福のことは見知っていましたから。まあ、兄が妹の面倒を見てやるような気分で妻にしました」
「そのように親しき間柄の妻でありましたのに、なぜ離縁を?」
思いがけず、奈津が口を挟む。忠俊は「ご無礼であるぞ」と窘めたが、正成の方はさして気に障ることもなかったのか、さらりと答えた。
「ああ、あれは今思えば、私の方が悪かったのでしょう」
「夫の方が、悪かった……?」
奈津が戸惑うように問い返すと、正成は頷く。
「私が主君との折り合いが悪くなって出奔した頃のことでして。次の仕官先が見つからぬ焦りもあって、妻に去られても仕方がない振る舞いをしたと思います」
「妻に去られても仕方がない振る舞い、とは」
「まあ、一言で表すなら、当たり散らした、ということです。それ以上はさすがに、かようにお美しい奥方相手には、憚られて申せませぬな」
奈津は「答えにくいことをお聞きしてしまいました」と詫びを示す一礼をした。
正成は「いや、お気になさらず」と軽く言う。
「福ならば受け入れてくれる、何をしても許してくれると、そういう甘えが、良くなかったのでしょう。まあ、夫というものは、大概にしてそういう考え方をしてしまうものなのであるが。のう、青山様」
高らかに笑う正成に、忠俊は苦笑だけ返した。正成なりの自戒の言葉に、奈津は、あっけにとられている。
忠俊は、一つ咳払いをして言った。
「しかし、妻たるもの、夫が苦しい時こそ支えるべきものでしょう。そういう懐の深さが、あの者には欠けているのでは」
「はは、そのようなことを言っているようでは、青山様もいつか奥方に去られますぞ」
「何を……」
言い返そうとして、確か同じようなことを以前、福にも言われたことを思い出す。自分の何がいけないのだ、と憤然と黙した忠俊に、正成は「これは失敬」と言う。
場を取り成すように、奈津が言った。
「まこと、福殿は、強い女子にございますね」
すると、正成は「強い?」と首を傾げる。
「強いか、弱いか、と言われれば、確かに強い。しかし、私はこれまで、弱い女子というのは見たことがない。女子というものは、皆、芯は強いのだ。その芯を隠そうともしないのが、福なのだろうなあ」
「芯は、皆、強い……」
奈津は感慨深そうに、胸に手を当てる。正成は呵々と言う。
「まさか、私のもとを去った後、徳川将軍家の乳母に上り詰めるとは、思いもしなかったが。おかげで、こうして私も一万石の大名に取り立てていただいたわけで。今では福様、福様と、あがめておりますぞ!」
これ以上、福の話をしたところで、なぜか忠俊の分がどんどん悪くなるような気がしてならず、忠俊は、さりげなく話題を息子の稲葉正勝に向けた。
「ご子息の正勝殿は、竹千代様の小姓として、日々邁進しておられる。実に、好感の持てる若武者ですな」
すると、息子を褒められた正成は、嬉しそうに言う。
「いや、あの子は誰に似たのか、真面目で、寡黙で、頭もよくて……」
少なくとも父親似ではないな、と言ってやりたかった。
それからひと月ほどで、福は、朗らかな表情で江戸城に帰ってきた。
「青山様、長らく江戸を離れましたこと、申し訳ありませんでした」
「いやなに、お福殿の留守の間、邪魔立てする者もおらず、思う存分に竹千代様に指南ができたというもの」
忠俊も朗らかに返しながら、福に棘を刺した。留守中に稲葉正成に会ったことは、なんとなく伏せておいた。
すると、福は「ああ、なるほど」と言った。
「それで、竹千代様は、今朝から熱を出されたのですね」
福の嫌味に、忠俊はむっとして「たまたまだろう」と言い返した。
福は、朗らかな口調を崩すことなく言った。
「とにかく、ご安心なさいませ。この福が、万事、よきように進むよう、しかと祈願してまいりましたので」
伊勢参りで、竹千代の心身が丈夫になるよう祈願したことを誇る福に、忠俊は「それは、大儀であったな」と言ってやった。
ところが、福が伊勢参りから帰って数日ばかりが経とうという頃、にわかに江戸城内が騒がしくなった。駿府城にいた家康が、突如「鷹狩をしたい」と言い出して、江戸へ参ることになったのだ。
家康は、大坂の陣において豊臣家を滅亡させた後は、駿府城に隠居している。だが、二代将軍秀忠の後見として、絶大な発言力がある立場はそのままだ。その大御所たる家康を迎え入れる側としては、にわかの江戸来訪に、歓待の支度も調わず大騒ぎとなった。
そうして、家康が警護の家臣や鷹匠たちからなる鷹狩行列を率いて、江戸城に入城すると、本丸御殿の大広間において、秀忠と江は夫婦そろって、丁重に挨拶を述べた。
「父上、かようなにわかのご来訪ゆえ、格別の歓迎もできず。ご無礼お許しください」
低頭する秀忠に合わせて、江も一礼した。
忠俊と福も、竹千代とともに、後ろに控えていた。
竹千代の隣には、国松も座している。竹千代は伏し目がちに座っているが、国松の方は、以前、家康と鷹狩がしたい、と言っていただけあって、今にも「おじい様!」と駆け出しそうな様子で家康の姿を仰ぎ見ている。
家康は「よいよい」と機嫌よく言う。
「格別の歓迎などいらぬ。にわかに思い立っただけのこと。駿府に居を移して以来、孫たちにも久しく会っていなかったのでな」
家康は好々爺そのもので相好を崩すと、竹千代と国松を呼び寄せた。
「竹千代、国松、こちらへ、ささ、近う寄れ」
真っ先に、国松が答えた。
「はい! おじい様!」
竹千代の方は、そばにいる忠俊がやっと聞き取れるかというくらいの声で「はい」と言っただけだった。
国松は、家康に駆け寄った。竹千代はおずおずと家康を上目遣いで見ながら歩み寄る。その対照的な二人の様を、家康は黙ったまま見ている。
家康の御前で二人は並んで座すと、やはり国松の方が先に口を開いた。
「おじい様! 明日の鷹狩には、この国松も連れていってください!」
「それは楽しみじゃ。孫と鷹狩ができるなど、わざわざ江戸に参った甲斐があったというもの」
そう言って、家康は竹千代を見やる。竹千代は家康と目が合った途端、うつむいてしまう。
「竹千代も参るか?」
竹千代は、何も答えられない。すると、隣にいた国松が大きな声で言った。
「兄上は参りません。だって、馬が怖くて、一人では乗れないもの!」
その言葉に、家康は目を丸くした。母親の江はふっと笑みを浮かべ、乳母の福は険しい顔をする。父親である秀忠は、何も口を挟まず黙している。
当の竹千代は、言い返すこともできぬまま、頬を真っ赤にしてうつむいている。国松は、けらけらと笑って続けた。
「兄上は、蟷螂も怖くて触れないのです! 小姓たちも笑っていました!」
途端、家康が一喝した。
「国松!」
国松は驚いたように家康を見た。
「人のできぬことを、悪し様に申すとは、恥ずかしくないのか! ましてや、弟の分際で兄のことを蔑むとは、何事ぞ!」
家康の剣幕に、国松はあっけにとられていたが、瞬く間に、その目が潤んで、わっと泣き出してしまった。江がたまらず、腰を浮かせかけた時、思いがけず竹千代が口を開いた。
「お、おじい様」
場にいる者が、竹千代を一斉に見る。竹千代はその視線に怯えたように身を竦めたが、言うか言うまいか、もごもごと口を動かした後、意を決したように言った。
「本当のことなのです。だから、国松を叱らないでくださいませ」
家康は黙したまま竹千代を見る。竹千代は泣きそうな声で言った。
「国松の方が、強くて、家臣からも、母上からも、誰からも好かれていて……だから、私よりも国松の方がずっと将軍に……」
それを、家康は遮った。
「もうよい。明日は、秀忠のみを鷹狩に同行させる」
そうして、泣き顔で並ぶ兄弟を見て、言い諭した。
「武家の兄弟として生まれたそなたたちは、一つ、心得ねばならぬことがある」
「心得ねばならぬこと、にございますか?」
竹千代が問い返すと、家康は頷いた。
「武家の兄弟は、弟といえども、兄の家臣同然。そのこと、けっして忘れるな」
その場にいる誰もが黙り込んだ。
家康は、改めて、竹千代を見やる。
「今日の二人を見て、私の思いは、はっきりと決まった。竹千代、そなたこそが、父の秀忠の後を継いで、徳川幕府三代将軍となるべき男子。来年にはともに上洛して、華々しく元服の儀を執り行おうぞ」
三代将軍は竹千代である、という家康の明言に、その場にいる誰もが、息をのんだ。竹千代自身も、目を見開くばかりで何も言えない。家康は、国松だけでなくこの場にいる家臣たちに睨みを利かせるように言った。
「弟が兄を追い越し、上に立とうなどと振る舞うことは、この徳川家康が築いた泰平の世を乱すことと同じ。以後、竹千代を敬うことを徹底せよ。弟の方が将軍にふさわしい、などと申すものは、徳川家臣にあらず!」
その断言に、控える家臣たちは圧倒され、「はっ」と声をそろえてひれ伏した。
同輩たちと同じく、忠俊も背筋を正される思いで低頭した。
そこに、福の朗々とした声が響いた。
「家康様のお言葉、まことに感激の極みにございます!」
まるで、竹千代の代わりに礼を述べたかのようだった。江は目を真っ赤にして福を睨みつけ、国松は悔しそうに唇を噛み、秀忠はやはり何も言わない。どうせ何かを発言したところで、「仰せの通りに」と言うだけであろう。
家康が退出しようと座を立つと、それに合わせて秀忠も立った。
その時、国松が声を上げた。
「おじい様!」
家康が見やる。国松は悔しそうに目を潤ませて言った。
「なぜですか? なぜ、私は弟というだけで、兄の臣下とならねばならぬのですか」
「黙れ、国松!」
家康の怒声に、国松は怯まなかった。むしろ挑むように、前のめりになって言い返した。
「滅びるものは全て、弱きゆえ! 私の方が、兄よりもずっと優れて、家臣たちも皆、私のことを褒めてくれるのに!」
「兄よりも優れているから将軍にふさわしいと?」
家康に問われ、国松は少しの迷いも見せず「はい」と答える。家康は、眉間に皺を寄せた。
「幼き者の戯言と受け流せぬ態度。そなたのような驕り高ぶる者が将軍となれば、どうなろうか。よいか、かの織田信長公も、豊臣秀吉公も、驕り高ぶるがゆえに滅びたのだぞ!」
その言葉に、黙っていた江が、立ち上がった。自身の伯父を批判されたのが許せなかったのか、相手が家康であり義父であるのも構わずに、反論した。
「かの信長公が命を落としたのは、家臣の明智光秀の乱心ゆえにございます。明智光秀さえいなければ、明智の謀反に与する者どもさえいなければ、今頃この天下は、織田家が……」
「江、それ以上は申すな」
静かな声で制したのは、秀忠だった。
声を荒らげてもいないのに、その一言で、場が静まり返る。秀忠は、感情の起伏を少しも見せず、言葉少なに言った。
「そなたは、徳川家の妻であろう」
江は、口をつぐみ、うつむいた。
秀忠は、家康に向かって低頭した。
「父上、妻が至らぬことを申しました。ご無礼を、どうか寛大な御心でお許しください」
家康は無言のまま目だけで頷くと、退出した。その後ろを秀忠も黙したまま付き従った。
敗北感に打ちひしがれる国松にも、茫然としている竹千代にも、秀忠は父親として声をかけることはなかった。控えていた家臣たちも、その場を離れていく。
部屋には涙目の兄弟と、血の気の引いた唇を戦慄かせる江、そして福と忠俊が残された。
江は蒼白のまま、悔し涙を落とす国松を見やった。
「もう泣くのはよしなさい」
「母上……」
「かわいそうに。おじい様の前で恥をかかされましたね」
怒りか屈辱か、震える言葉は、国松に向けて言ったというよりは、江自身に言ったかのようだった。
江は、福を睨みつけた。
「そなた、伊勢参りと称して、しばらく留守にしていたな」
福は何食わぬ顔で「さようにございます」と返す。
「さては、駿府城の家康様のもとへ告げ口に行ったのであろう」
福は、少しも動じずに言った。
「告げ口、にございますか? いったい何を?」
しれっと問い返されて、かえって江の方が窮した。
「江様は、私が、わざわざ家康様に告げ口せねばならぬことに、何かお心当たりでも?」
江は答える代わりに、憤り露わに、福に詰め寄る。そのまま、踏みつけんばかりに福を見下ろした。いや、この場に誰もいなければ、本当に踏みつけかねないほどの剣幕だった。
だが、福は、一向に臆することなく、その唇に微笑さえ浮かべた。
「妻ゆえのお苦しみ、深くお察しいたします」
慇懃無礼に言って一礼した福に、江はもう何も言わなかった。震える息を吐いて、国松を立たせると、そのまま振り返ることもなく去っていった。
福は顔を上げると、竹千代の肩をしっかりと支えた。
「さあ、竹千代様、来年には、家康様と上洛してのご元服の儀が控えております。三代将軍となるお立場として、これからますます慌ただしくなりましょう。傅役の青山様にしかと指南をしてもらわねば」
そうでしょう、青山様? とばかりに、視線を送る福に、忠俊は圧倒されるばかりで「う、うむ」と返す頬が引き攣った。
忠俊は、空恐ろしいものを見るような心地で、竹千代の肩を抱き続ける福の姿を見た。
(本当に、駿府城に赴いて、家康様に竹千代様の処遇を直訴したのだとしたら……)
離縁して、独り身で生きていくのに必死な女子などではない。本気で、この世の常に抗おうとしているのではないか。そのくらいの覚悟でなければ、あの誇り高き戦国の姫君である江の頭越しに駿府城へ赴き、天下の誰もがひれ伏す存在である家康に直訴などできようはずがない。
〈良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる、それが女子のまっとうな生き方。こんな世の常に、謀反を起こす。そのくらいの気持ちで、私は、乳母となったのです〉
いつだったか、圧倒されるように聞かされた福の言葉が、脳裏に響く。
この福という名の女子は、まことにこの世の常に謀反を起こしたのか。
忠俊は、首を横に振る。
(いや、私の考えすぎ、考えすぎだ)
そうであるに違いない。忠俊は自分に言い聞かせるように、そう思った。
そうだ、自邸に帰ったら、奈津に、今日の話も聞いてもらおう。あの穏やかな微笑で〈忠俊様の、考えすぎにございます〉と、言ってもらいたかった。
それなのに、どういうわけか、奈津はそう言ってくれないだろうと思った。
これまで信じてきたものが、正しいと思っていたことが、当たり前のことが、この福という名の女子に出会ってからどんどん塗り替えられていく。いや、剥がれ落ちていくと言った方がいいのか。
幾度も戦場で命を懸けてきたことを思えば、こんな女子一人を相手に慄くなど、おかしな話だというのに。
「あら青山様、お顔色がさえませんね」
晴れ晴れとした福の笑顔に、とてつもない畏怖を覚えてしまう自分がいた。