第三話 稲葉正勝
一
(私のことを、誰もが「福の息子」としか見ていない)
今だって、そうだ。
京の都と大坂の間に位置する、伏見城。かつて徳川家康が大坂城の豊臣家に睨みを利かせていたこの伏見城の大広間に、全国各地から馳せ参じた諸大名が正装姿で列座している。
その視線が、時折、正勝に向けられているのは、なんとなくわかる。そして「あれが、福の息子か」と思われているのも。
誰も、自分のことを、稲葉正勝としては見ていない。
福の息子、それはすなわち、この天下を統べる徳川幕府三代将軍家光の乳母子、乳兄弟ということ。
過日、二代将軍徳川秀忠とともに上洛した家光は、今上帝から、征夷大将軍宣下を受けて、三代将軍の座についた。今、こうして伏見城の大広間に列座している諸大名は、新しき将軍の御代を寿ぐべく、家光の登場を今か今かと待っているのだった。
廊の方から、こちらへ向かってくる足音を察知すると、正勝は声を張った。
「将軍、徳川家光様の御成である」
一斉に、諸大名が平伏する音が、部屋の中にさざめいた。大広間の上段の間に、家光が姿を現すと、正勝も平伏して、主君を恭しく迎え入れた。
「面を上げよ」
澄んだ声が、響いた。
十七歳で元服をして、幼名の竹千代から家光と名を改めた後も、この澄んだ声は変わらない。もちろん、大人の男として声変わりはしている。だが、何というのだろうか、濁りがないゆえに傷つきやすい、そんな繊細さを感じさせる声だった。
正勝は、一呼吸置いてから、顔を上げた。仰ぎ見る先には、二十歳の若き将軍が立っていた。
純白の絹の羽織の胸元には、徳川家の葵の御紋が刺繍され、金糸と銀糸で飛雲と葵の葉が施された煌びやかな袴姿。徳川将軍家の権威を示すかのような豪奢な衣を纏う立ち姿には、成り上がり者とはまるで違う、身の内から滲み出る気品があった。
聡明さとともに優美さすら感じる青年将軍のいでたちに、どこからともなく、感嘆の息が漏れた。
(ご立派になられたことよ)
幼名の竹千代を名乗っていた頃は、常に乳母の福の袖を掴んでいるような男子だった。正勝は、その姿をそばで見続けてきただけに、格別の思いで、将軍家光を仰ぎ見た。
正勝は、八歳の頃から小姓として、竹千代の身の回りの世話や遊興の相手を担い、二十七歳になった今では、書院番頭の役についている。将軍の身辺警護を担う精鋭たちを統率する重職であり、将軍家光の御代におけるこの先の栄達は、確実だった。
将軍の腹心の家臣として、常に側近くにいる正勝のことを、徳川家康が三河の一大名だった頃から仕える譜代の家柄の者たちは「やはり、福の息子だ」と妬みを込めて囁き合う。
(私は、福様を母と思ってはいないのだがな)
正勝は、心の内で独り言つ。
福が乳母となって以来、正勝は福のことを母とは思っていない。城中においては、常に「福様」と呼ぶよう厳しく言いつけられていたし、竹千代の養育に全てを懸ける福の足手まといにだけはなってはならぬと、そう思って生きてきた。
子が母を慕う心など、とうの昔に捨て去っていた。
福は、家康に気に入られ、秀忠の信頼を得て、今なお、家光から離れない。徳川将軍三代にわたって不動の地位を築いた福のことを、人はこう言う。
凄まじい女子だ、と。
家光は福を信頼しきっている。このまま福は、将軍の権威を笠に着て意のままにするのではないか。それが証に、息子の稲葉正勝は、小姓上がりに過ぎぬ身で重用されているではないか。
誰もが、そう思っている。
列座する者たちの心の内を想像して、正勝は小さく息をつく。
家光が、澄んだ声で言った。
「我が祖父、徳川家康公はそなたらの力添えを得て、天下を治めた将軍であった。我が父、秀忠公はそなたたちとともに歴戦を経た将軍であった。そして、私は、生まれながらの将軍である」
その言葉に、誰もが驚き、息をのみ、場には声にならぬ動揺が広がった。
──生まれながらの将軍。
それは、徳川家光に逆らえる者はこの世に存在しない、と言いきったに等しい。
かような豪語を、こんなにも澄んだ声で言いきるなんて。いや、言わされたのではないか? 誰に? 福に違いあるまい!
動揺と驚愕の視線を交わし合う者たちが、そう言っているような気がしてならない。
正勝は、それらを振り払うように、声を張った。
「将軍、家光様のお言葉であるぞ!」
諸大名は一斉にひれ伏した。平伏する者たちのさざなみもまた、正勝には、批判に思えた。
生まれながらの将軍は、それこそ生まれた瞬間から、福の腕に抱かれてきた。この将軍が発する言葉は、福の意を含むものに違いあるまい。だってほら、福の息子が、我々を一喝したではないか。
将軍家光に対しては、恐れ多くて物申すことなどできない。だが、乳母である福には、そして福の息子には、いくらでも批判の矛先を向けることができる。
(この世とは、そういうものだ)
そのことに、憤りも苛立ちも感じない。ただ、ひれ伏す者たちの姿に、息が詰まりそうになって、目をそらした。
二
正勝の胸に、妻が身を預けている。
将軍上洛に随行した正勝は、江戸へ帰府すると城下の自邸で久方ぶりに妻と共寝した。
虫の音が庭先から聞こえ、涼やかな夜風が心地よい閨だった。身を寄せ合って微睡んでいると、妻が少しばかり咳をした。
正勝は、妻の細い肩に夜具をかけてやった。
この年の六月に嫡男を産んでからというもの、妻の体は弱っていた。妻は咳き込んで潤んだ目で、正勝を見上げた。
涙の滲んだ眦を拭ってやると、そのまま、白い頬から小さな顎先へと、指でなぞっていく。細い鎖骨に薄い胸……繊細な体つきは、どことなく幼い頃の竹千代を思わせた。
「正勝様は、お優しい人ですね」
妻の声に、正勝の指が止まる。
「失礼なことを申しましたか?」
「いや、いいのだ。ただ、驚いただけだ」
「驚いた?」
「私は、自分のことを、優しいなどと、思ったことがなかったから」
八歳の頃に江戸城に上がって以来、小姓仲間からも、年上の家臣たちからも「お前は、冷たいな」とよく言われた。もともと口数が少なく、感情を露わにすることがない。何があっても、激しく怒りもしなければ、腹を抱えて笑いもしない。常に冷静に物事を見てきた。それが、人からは、冷たいと見えるのだろう。
だがそれも全て、福の息子ゆえなのだ。自分の言動一つが、福の意だと勝手に汲み取られてしまう。良くも悪くも、何をしたところで、福の息子と見られてしまうのだから、いっそのこと、城中では存在感を消してしまった方がいい。齢八歳から染みついた考え方が、感情の起伏の少ない性質に繋がったのだと思う。
妻は、正勝の胸に頬を寄せて言った。
「冷たいなんて、私は思ったこともございません。正勝様は、私一人を大切にしてくださいますもの。私は、幸せ者にございます」
他の男たちにはそんな優しさはない、という意味だろうか。
側室を持たない正勝の姿勢を「優しい」という妻の言葉に、正勝は「そうか」と返すにとどめた。それだけでは少しそっけなかったかと思い、そっと口づけした。
妻の白い頬が、薄紅色に染まる。幸せそうに目を閉じた妻を、正勝は冷静に、観察するような思いで見る。
(そんなことで、幸せを感じられるのか)
武家は、子を多く得てこそ、という考え方が当たり前なのは知っている。これまでの世は、戦に戦を重ねる乱世だった。男子たるもの、いつ命を落とすともしれず、多くの子を得ておくことが家の存続のために重要だった。かの徳川家康も、側室を持ち、複数の男子を得ていたからこそ、天下統一の戦いにおいて、有利に駒を進められたのだ。
だがしかし、今や三代将軍家光の御代である。徳川の泰平はこの先も続いていくだろう。将軍家光の御前に全国の諸大名がひれ伏していた姿を思えば、この先、反逆を起こす者など現れるのだろうか。戦なるものは、豊臣家を滅亡させた大坂の陣が最後になるのではなかろうか。
かつては、武家の男子たるもの「初陣は何々の戦」と胸を張って誇ったというが、家光はむろんのこと、正勝自身も、周囲の同輩たちも、誰も初陣を経験していない。
それでも、この世の男たちは、当たり前のごとく、妻以外の女人を抱き、そして女たちはそれを咎めることもない。現に、目の前の妻が、夫というものは側室を持つものだという基準で、己の幸せを感じている。
(わからない……)
正勝は、妻が抱く幸せを、同じような思いで感じることができなかった。
妻一人を大切にしていることを、幸せだという。だが、そんなものは、他人任せの幸せだ。相手が心変わりをしてしまえば、瞬く間に崩れ落ちる幸せなど、正勝は信じることができない。
そう思ってしまうのは、幼き頃の父母の離縁が少なからず影響しているからか。
だけど、それは言わなかった。幸せそうに閉じられた目が、困惑で見開かれる姿を想像すると、怖かったから。
*
関ヶ原の戦があったのは、正勝が四歳の年だっただろうか。まだ幼名の千熊と呼ばれていた頃だった。
だから、正勝自身は、戦の攻防をこの目で見たわけではない。父の稲葉正成が家康方の大勝利のためにどう立ち回ったのかも知らない。成長した後になって、周りから語り聞かされたのを、己の記憶のように思っているだけのことだ。
だが、一つだけ、鮮明に覚えていることがある。
福が……母が、この上なく幸せそうな笑顔で、夫、稲葉正成を迎え入れたことだ。
関ヶ原の戦から勝利の凱旋を経て、正成は妻子が待つ屋敷に帰ってきた。そうして、揚々と千熊を抱き上げた。
「おうおう、しばらく会わぬ間に、また体が大きくなったな。福、お前という女子は、丈夫な男子を産んでくれる上に、頭まで良いときた。俺は最高の妻を持ったのだな!」
正成の言葉に、福は「嬉しゅうございます」と満面の笑みで答えていた。
妻としてこれ以上の褒め言葉はあるだろうか。福の顔は喜びに満ち溢れていた。夫は大名家で重職に就き、妻はそれを支え、嫡男の千熊もすくすくと育っている。その上、此度の関ヶ原の戦での大勝利。正成の腕に抱かれる千熊も、一緒になって笑っていた。
幼いなりに「ああこれが、幸せというものなんだ」と思っていた。
その後、稲葉正成が仕える小早川秀秋は、関ヶ原の戦の勲功として、徳川家康から備前美作五十一万石の領地を与えられた。新たに岡山城主となった主君に従って、家臣たちも岡山城下に入った。正成は家老職として城下に大きな屋敷を得て、稲葉家は安泰の日々を迎えたのだった。
しかし、岡山城下で暮らす中で、正成と福の間で少しずつ諍いが増えていくのを、千熊は、感じ取っていた。
戦国乱世が終わりの兆しを見せ、小早川家の家老として城と屋敷の往復をするだけの日々は、武功あっての存在価値を見出してきた正成にとって、窮屈以外の何物でもなかったのだろう。
正成は日に日に、主君、小早川秀秋の愚痴をこぼすようになっていた。
「もう秀秋様には、あきれてものが言えん」
「この頃はそのように苛立ってばかり。正成様らしくありませんよ」
福がそう言うと、正成は「ふん」と鼻であしらう。こういう不快な態度を隠すことなくぶつけてくることも、多くなっていた。
居室で胡坐をかいて脇息にもたれると、正成は口を開いた。
「秀秋様は言うのだ。〈お前のせいで、私は天下の裏切り者だ〉と」
その言葉に、福は「裏切り者?」と返す。
「秀秋様は、石田三成や関ヶ原で命を落とした武将の怨霊に怯えて、酒におぼれるばかり。そうして、その苦悩を、俺のせいにするのだ」
関ヶ原の戦で徳川方の大勝利に貢献した小早川秀秋は、もとは敵方の石田三成の陣営だったが、形勢が徳川方に傾いていると見極めた正成の進言を受けて、寝返ったのだ。結果、小早川勢の奇襲を受けた石田三成方は、惨敗。徳川家康の大勝利が決したのだった。
福は、慮るように言った。
「戦に敗れた石田様は斬首となり、栄華を極めた豊臣家も所領を削られて……秀秋様はご自分の行動によって、この世の趨勢が大きく変わってしまったことに、心を病まれてしまったのでしょう」
「心をね」
正成のぞんざいな言い方に、福はかちんときたのか、強く言い返した。
「秀秋様は、かつては豊臣秀吉様のご養子にもなられたほど、豊臣家との縁が深かった御方。それを思えば、関ヶ原の戦の結果を気に病まれても仕方がないのでは?」
「だからといって、どうしろというのだ。関ヶ原の戦場に戻れというのか」
福は、ため息をついて言った。
「秀秋様はまだお若いのです。あなた様の方が三十も過ぎた大人として、もう少し寛大に主君をお支えすべきなのでは」
「なんだと? それでは俺が悪いようではないか!」
拳を上げんばかりの怒声に、福の傍らにいた千熊は、体をすくめた。すぐ下の弟の七之丞も怯えて福に縋りつく。福は、正成を諫めた。
「子供たちが怯えています。かつての正成様なら、かようなことで声を荒らげることなどありませんでした。何があっても磊落に笑い飛ばしていたはず!」
正成は何も言い返せなかったのが悔しかったのか「うるさい!」と、脇息を蹴り倒して座を立った。
それからわずか数か月ばかりのことだった。
午後の陽が射し込む部屋で、千熊は、午睡する弟の七之丞の横で、うとうとしていた。その傍らには、福が寄り添っていた。
突如、廊に大股の足音が地鳴りのように響いて、眠気が覚めた。部屋の障子戸が音を立てて開く。
「福!」
眉をつり上げた正成がいた。千熊は、父のただならぬ形相に、硬直した。正成はずかずかと部屋に踏み入ると、唾を飛ばさんばかりの勢いで言った。
「ここを出ていくぞ!」
「は?」
福は、何を言っているのかわからなかったのだろう。正成は不機嫌に返す。
「ここを出ていく、と聞こえなかったか。俺は、小早川家の家老を辞して出奔する。次の仕官先が決まるまで、父祖の地、美濃で浪人となり隠棲する」
「出奔? 浪人? どういうことですか。小早川家の家老のお立場を捨てるのですか」
「秀秋様には、もうついていけん。あんな主君に仕えていては、こっちの気が滅入る」
「ですが、浪人など、そのような……」
「俺ほどの武功がある男、すぐに次の仕官先から声がかかろう!」
「何を申されているのですか。天下は徳川様のものと決まったのですよ」
福は強く諫めた。徳川家康を頂点に、続々と諸大名が臣従する今、小早川家を出奔した身で新たな仕官先など容易に見つかるはずがない。諸大名は徳川家の顔色を窺い、無断で大名同士の縁組をすることも、臣下を新たに抱えることも憚っているというのに。
「今、小早川家を出奔するなど無謀にございます」
正成は「無謀だと?」と福を睨んだ。福は毅然と続けた。
「一時の感情に任せて出奔など、子供たちのこともお考えください。正成様が浪人となられては、備前美作五十一万石の小早川家家老の息子としての将来を、この子たちは失うのですよ。今は耐え忍び、秀秋様のご気性が落ち着くのを待つべきと」
「待つ? いつまで待つのだ。登城するたびに、罵倒されるこっちの身にもなってみろ。お前は、一日中、この屋敷で、幼子に乳を与えていればいいだろうがな!」
「なんということを……」
まるで、母親としてのつとめを蔑む言いざまに、福は立ち上がった。
「誰の子を産み育てていると思っているのですか!」
福の剣幕に、正成はたじろぐ。福は、詰め寄った。
「あなた様の妻となり、あなた様の子を産んだがゆえに、私は一日中この屋敷にいて、子を育てているのですよ。あなた様に私のつとめを蔑まれる覚えなど、一切ございませぬ!」
剣呑な言い合いに、眠っていた七之丞がぐずり始めた。福は抱き上げてあやそうとするが、七之丞は耳をつんざくような声を上げて、泣き出してしまった。それにつられて、父母の喧嘩に固まっていた千熊も、涙がぽろぽろと零れてしまった。
すると、正成は、心底うんざりした口調で言った。
「ああ、そうか。お前は、結局、自分のことしか考えていないのだ」
「どういうことですか」
「〈一時の感情に任せて出奔など、子供たちのこともお考えください〉だと。ようは、お前は備前美作五十一万石の家老職の妻の立場を失いたくないだけだ。俺が小早川家に仕え続ける苦しみよりも、自分のことの方が大切なのだ」
「そんなことはありません」
「ならば、なぜ、出奔を思いとどまらせる。俺は、自分の武功を正しく認めてくれる主君に仕えたい。お前の一存で、俺の前途を閉ざすな」
「正成様、冷静におなりください」
なおも諭そうとする福に、正成は言い捨てた。
「そんなに小早川家に残るべきだというなら、お前たちだけ岡山城下に残ればいい」
「何を申されますか」
「俺と離れて、女独り身、その幼子を抱えてどうやって生きていく」
今度は福の方が窮した。暮らしている屋敷も、纏う衣も、仕える侍女も、全て、稲葉正成の妻であるから手にしているものだ。正成と別れるということは、その全てを失って、身一つで、子供たちを育てていくということだ。
福は、唇を噛んで押し黙った。何も言い返せぬ福の傍らで、七之丞の泣き声はやまず、千熊も泣き続けていた。
出奔して浪人となった正成に、福は千熊たちを連れて付き従った。
美濃の山奥での日々は、千熊にとってはそれなりに楽しいものだった。岡山城下を去ってから数年の歳月が経ち、弟の七之丞も千熊と一緒に遊べるほどに成長していたし、城下町暮らしでは経験できないような、川遊びや野遊びは、兄弟を大きく成長させてくれた。
だが、その一方で、正成への仕官の誘いは一つもなく、日に日に貧しくなっていく暮らしに、気がつくと、一つ、また一つと調度や着物が減っていく。福が金になるものを売っては、食べ物に換えていたのだろう。
ところがその頃、正成は、福よりも年下の女子のもとへ通うようになっていた。
千熊にはわからないようにしていたのだろうが、毎夜のごとく宵闇に紛れて父親が家を出ていく姿を見ていれば、子供なりに察するものだ。夜、千熊と七之丞を寝かしつける福が、ひっそりと目元を拭っている姿も、幾度見たかしれない。
ある早朝、千熊は、福が井戸端でうずくまっている姿を見つけて、駆け寄った。
「母上、どうしたのですか!」
真っ青な顔で、口元を押さえている。福は、千熊の姿に、微笑を作った。
「大したことではありません。少し疲れてしまっただけですよ」
そんなはずはない、と直感して、福にしがみついた。弟の七之丞を身籠った時も、同じ顔色でうずくまっていたのを、千熊は覚えていた。
福は、しがみつく千熊を抱きしめると、微かに声を震わせた。
「ここを、出ていきましょう」
「母上……?」
「私が正成様と夫婦になる前に、侍女としてお仕えしていた公家のお屋敷があるのです。まずは都へ出て、そこを頼りましょう」
「父上は、どうするのですか」
千熊は困惑したまま問い返す。福は、はっきりと言った。
「正成様とは、お別れします」
「だけど……」
千熊は、福のお腹を見た。千熊が子供なりに、母親の体の変化を察していることを悟ったのか、福は静かに頷いた。
「正成様の子ですよ。あなたたちの弟か、妹か。だけど、私はもう、この子を正成様のもとでは、産み育てたくないのです」
「ど、うして?」
その問いに、福は答えなかった。
福は、千熊を抱きしめる腕の力を強くすると、答えを言う代わりに、この言葉を口にした。
「良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる。それが女子のまっとうな生き方。こんな世の常に、謀反を起こしたい」