関白鷹司家の姫君、孝子を江戸城に迎え入れるのは十二月。その日が着々と近づいていく、冴えた月夜のことだった。

 正勝は、その夜は泊り番で、家光の居室に最も近い控えの間にいた。夕餉も終えて、月明かりに何気なく視線をやった時だった。家光の居室の方から、怒声とも罵声ともつかぬ声が聞こえた。異変に気づいた正勝は、すぐさま太刀を手にして部屋を駆け出た。

「家光様! 何事にございましょうや!」

 誰よりも早く駆けつけた正勝は、憚ることなく襖戸を開け、目を疑った。

 傅役の青山忠俊と家光が、互いの胸倉を掴み合っていたのだ。

「な、何をしておられるのか!」

 正勝は二人の間に入り、家光から忠俊を力ずくで引き離した。

「青山様! ご乱心か!」

 傅役とはいえ、将軍たる家光を相手に胸倉を掴むなど、許されない暴挙だ。正勝は、相手が譜代の重臣、名門青山家の当主であろうと、躊躇うことなく羽交い締めにして押さえつけた。

 家光は、乱れた襟を掻き合わせるようにして直すと、荒い息をして忠俊を睨んだ。

 正勝は忠俊を羽交い締めにする腕の力を緩めず「いったい、何があったというのですか」と厳しく問うた。忠俊は顔を真っ赤にしたまま、何も答えない。

 すると、家光が、荒い息のまま言った。

「忠俊が、私の鏡を、捨てたのだ」

「か、鏡にございますか」

 思いがけぬ返答に、正勝は忠俊を見やった。忠俊は何かを言おうとしたが、それを力に変えたのか、押さえつける正勝の腕を憤然と振りほどいた。その力があまりに強くて、正勝はほとんど後ろに突き飛ばされるように離れた。

 さすがは、徳川家康の代から歴戦に従軍した家臣、と思わせる腕力だった。齢四十の半ばを過ぎてもなお衰えることのない体躯は、それだけで、戦場の経験のない正勝を怯ませる。茫然とする正勝の方には一瞥もくれることなく、忠俊は家光の前に跪いた。

「家光様! お心を改めないのであれば、どうか、この忠俊の首をお刎ねになってから、お好きなようになさいませ!」

 忠俊はそう叫ぶと、腰に差していた脇差を外し、床に音を立てて置いた。その勢いのまま、上衣の両袖を抜き、諸肌を脱いだ。鍛え上げられた上半身を晒して、低頭する。その姿はまさに、主君に首を差し出す忠臣、そのものであった。

 家光は、黙ったまま、忠俊を見下ろした。

 忠俊を見下ろす家光は、怒りか恐怖か、唇が戦慄いている。その震える唇に、微かに紅がさしてあるのを見て取ると、正勝は、事の次第を察した。

 忠俊が家光の鏡を捨てた理由は、その紅い唇が示していた。

 正勝は、庭先に視線をやった。簀子縁の近くが、煌めいている。冴えた月明かりが、割れた鏡に反射しているのだ。鏡の破片が放つ月の光は、蒼白く、まるで、病弱だった頃の、竹千代の白く透き通る肌のように綺麗だった。

「青山様……」

 全てを察した正勝が、口を開くと、忠俊は低頭したまま、唸るように問うた。

「正勝殿は、知っていたのか」

 正勝は沈黙で肯定した。

 家光が、密やかに化粧をしていることを。

 側仕えの者たちが下がる頃、人目を忍んで鏡に向かい、女子のように、唇に紅をさす。鏡に映る己の顔にしばし魅入った後は、誰かに見つかる前に、そっと紅を拭いとる。

 正勝は、以前から、その趣味を知っていた。家光も、正勝の前では、隠そうとはしなかった。それは、他の家臣とつるむこともなく寡黙であり続ける正勝を信頼していた、というのもあるのだろうが、それ以上に、幼き頃から「母」という痼りを持つ者同士、心を許していたのだろう。

 正勝は、初めて家光が紅をさす姿を見た時、不思議と驚かなかった。

 家光は、竹千代は……幼い頃からずっと、美しいものが好きだったから。そして、女子のごとく化粧をしたその顔が、正勝も思わず息をのむほど、美しかったから。

 絵筆をとるように、いつしか、化粧筆を手にするようになっていた。その姿に、正勝は少しも違和感を抱かなかった。福にも、青山忠俊にも、他の小姓や家臣たちにも、誰一人告げることなく、ただ静かに見守っていた。

 庭に叩き捨てられた鏡を献上したのは、正勝だ。

 何をするにも自信がなく、うつむきがちな家光が、鏡に向かう時はまっすぐ前を見ていたから。その姿を、いつまでも見ていたいと思ったから。

 いつだったか、福にだけは告げておいた方がいいのではと、家光に進言したことがある。だが家光は、否と首を振った。

〈福は、私のことを、将軍にふさわしき者だと信じている。このことを知ったら、きっと、失望するに違いない〉

 その「失望」が示す意味を、正勝はあえて問い返さなかった。

(家光様は、女子を恋しいと思ったことがないのだ)

 主君と小姓という立場であれ、多感な年頃を共に過ごせば、わかってくるものはある。それを、指摘することも、咎めることもせず、正勝はただ沈黙を貫き続けてきた。

 将軍たるもの、必ず、世継ぎを得ねばならぬ。そうでなければ、徳川将軍家は絶える。それは、再び戦国乱世に戻るということ。ゆえに、将軍である以上、女子を愛し、子を得なければならない。

 その使命に応えられぬ姿に失望するのは、福だけではない。母親の江も、父親の秀忠も、そして数多の家臣たちも。今ここで、諸肌を脱いで首を差し出している青山忠俊もまた、その一人なのだ。

 家光は、床に置かれた脇差を手にすることもなく、無言で忠俊を見下ろし続けていた。

 忠俊は、首を差し出したまま、声を大にして言う。

「家光様、どうか、どうか、お心を改めなさいませ! 将軍は、武家の棟梁……天下を統べる武士もののふにございますぞ! 戦となれば、諸将の頂に立ち采配を振る将軍が、かような、女子のごとき真似を好まれているなど……私は、私には、到底、受け入れられませぬ!」

 最後の方はもう、涙が落ちていた。

 忠俊の両頬に伝う雫を見て、正勝は思った。

(青山様は、間違ってはいない……)

 これは、何が正しくて、何が間違っている、ということではないのだ。

 青山忠俊はそういう時を生き抜いてきた男なのだ。武勇を誇る諸将たちが群雄割拠する戦国の世に男子として生まれ、幾多の戦場を駆け抜けた。主君のために、御家の存続のために、命を捧げ、世の趨勢が戦によって変わっていくことが、当たり前の中で生きてきたのだから。

 家光と忠俊、どちらかが間違っているのではない。けれど、正しいとも思えない。ここで、忠俊とともに家光を諫めることは、正勝にはできなかった。

 ただ一つ、切に思うことがあった。

 正勝が、その切なる想いを伝えんと、家光を仰ぎ見た時、居室に複数の足音が近づいてきた。

「いかがなされましたか!」

「家光様!」

「何事にございましょうや!」

 家光の居室から聞こえる青山忠俊のただならぬ声に、少し離れた場所に控えていた家臣たちも異変に気づいたのだろう。

 駆けつけた者たちの姿に、家光はさっと背を向けた。その紅い唇を隠すように。

 ここに至る経緯を何も知らぬ者たちは、諸肌を脱いだまま、家光の御前で首を差し出す忠俊の姿に、驚愕して目を見開く。

 背を向け続ける家光と、首を差し出す忠俊。この二人の姿に困惑する者たちは、おのずと正勝の方を見やる。

「正勝殿、これはいったい、何が……」

 一人が、正勝に問いかける。正勝が「それは……」と状況を口にしようとした時、家光が背を向けたまま声を張り上げた。

「青山忠俊、城中にて乱心あり! 傅役を罷免の上、領地召し上げと蟄居を命ずる!」

 将軍自らが発した、御直の罷免に、駆けつけた家臣たちは、誰もが言葉を失った。

 そうして、正勝へと向けられた目が、たちまちにして困惑から批判へと変わっていく。

 福の息子だ、と誰の目も言っていた。

 徳川家康の代から仕える青山忠俊をも罷免させるとは。福の息子は、さらに家光に取り立てられたいのか。ただでさえ、乳母子に過ぎぬ身で、譜代の家臣でもない家柄で、戦での勲功もない立場で、書院番頭にまで取り立てられているというのに。

 正勝は何も言わなかった。いや、何も言えなかった。息が詰まりそうで。

 この場に居合わせたのは、巡り合わせが悪かっただけのこと。むしろ、青山忠俊の罷免の真の理由を探られるよりは、周囲が勝手に、ここにいない乳母、福の影を見てくれている方が、都合がいい。福の息子として、この場の批判を一身に受けてしまえばいいのだ。

 そう何度も自分に言い聞かせ、喘ぐようにやっとの思いで息を吸った。

 

 青山忠俊の乱心と傅役の罷免、領地召し上げと蟄居。

 それを聞きつけた福が、翌朝、家光の御前に馳せ参じた。

「家光様、いかなることにございますか!」

 家光は、黙したまま何も答えようとしない。正勝が代わりに答えた。

「青山様は、ゆえあって家光様を諫言なさったのですが、勢い余って家光様の胸倉を掴まれ、やむなく罷免を」

「胸倉を掴むほどの? いったいどのような諫言だったのです」

 福は驚き、問い返す。それに家光は答えない。本当の理由を、知られたくないのだろう。黙し続ける家光に、福は言った。

「確かに、将軍たる家光様に手を上げるなど、乱心にほかならず。とはいえ、罷免だけならまだしも、領地召し上げと蟄居など、徳川家に忠義を尽くしてきた青山家をお取り潰しになさるおつもりですか?」

 家光は沈黙を通そうとする。福は鋭く突くように言った。

「乱心だけでは、これほどの厳しい処断は説明がつきませぬぞ! 他の家臣たちも大いに動揺しております。何か、本当の理由を隠しているのではないですか」

 それでもなお、家光は口を開かない。福は、傍らに控える正勝の方を見た。

「正勝、そなたは何か知っているのか!」

 正勝は答えかねて、家光を見る。本当の理由を、家光の許しもなく口にするわけにはいかない。窮する正勝に、家光は、ようやく重い口を開いた。

「忠俊が、私の鏡を投げ捨てたのだ」

「か、鏡……?」

 家光はまた黙り込んでしまう。正勝は、取り繕うように言った。

「その鏡は、私が家光様に差し上げたものにございます。家光様は、その鏡をたいそうお気に召して大切にされていたのですが……」

「もうよい、正勝」

 それを家光が制した。家光は、正勝を見やって「もうよいのだ」とだけ言うと、改めて福に向き直った。そうして、覚悟を決めたように言いきった。

「私が、女子のごとく化粧をしている姿を見咎めて、鏡を投げ捨てたのだ」

「女子のごとく、化粧を?」

 福の目が、見開かれる。

 福のことだ。それだけで、青山忠俊が鏡を捨てた本当の理由を、家光の言わんとすることを、わかったはずだ。それなのに、驚きも動揺も見せなかった。少し黙した後「そうですか」とだけ言った。

 そうして、一転して、静かな口調になった。

「それで、青山様を罰したと」

 その淡々とした声が、かえって緊張を与えた。

 家光は「そうだ」と頷く。その目は、福を睨みつけるようだった。そのくらい気を強くして対峙していないと、この次に続くであろう痛烈な批判に耐えられないのだろう。

 しかし、福は、少しも声を荒らげなかった。深く息をつくと言った。

「将軍としてあるまじき行為にございます」

「さよう。私は将軍として……」

 家光の言葉が詰まった。その瞬間、正勝は後先のことも考えず、叫んでいた。

「たとえ、この世の全てがあなた様に失望しようとも、私だけはわかっております!」

 家光も福も、驚いたように見た。正勝が、人前で、それも家光と福の前で、ここまで感情を昂らせて物を言うことは、今まで一度もなかった。

 正勝は、家光を仰ぎ見る。あの夜、青山忠俊の諫言を受ける家光に対して伝えたかった切なる想いを、今伝えねば、もう二度と言えないと思った。

 一心に、家光だけを見て、声を震わせた。

「あの夜の青山様の諫言を、私は、間違っているとは思えませんでした。けれど、正しいとも思わなかった。あの場で、青山様とともに家光様をお諫めし、お心を改めさせんとすることは、違うのだと」

「それは、なぜだ」

 家光の問いに、正勝は黙する。言うべきか、逡巡する。この場には福がいる。だが、福がいるからこそ、言わねばならぬと思った。

「私と家光様は、同じだと思うからにございます」

「同じ……?」

 訝しむ家光に、正勝は手をついて言った。

「主君と家臣という立場でありながら、そう思うことはおこがましいとはわかっております。ですが、家光様とて、人にございます。人として、あなた様を想う時、どうしても、同じものを感じてしまうのです。母を母と慕うことができなかった者として!」

 その言葉に、福が息をのむ気配がしたが、もう構わなかった。同じ痼りを持つ者として、溢れ出す想いを、どうしても家光に伝えたかった。

「ゆえに、私だけは、家光様のことをわかっていて差し上げたい。どんな家光様であろうと、私は、お慕いしたいのだと!」

 正勝は、家光を仰ぎ見た。

 あの微笑を向けてほしかった。

 互いに通じ合う瞬間に零れ落ちる、あの微笑が見たくて、ほとんど祈るかのように、正勝は家光を仰ぎ見続けた。

 それなのに、家光は、困惑を声に滲ませた。

「正勝、それは……私とそなたが、将軍と家臣でなかったとしても、変わらぬものか?」

 その問いに、正勝は、わずかばかり逡巡した。

 将軍と家臣でなかったとしても……ということなど、考えたことは一度もなかった。もし、福の息子としてではなく、家光と出会っていたならば……?

(そんなことは、ありえないことだ)

 そう思って、胸を衝かれた。まるで、自分で自分を斬りつけたような感覚がした。

 誰も、自分のことを、稲葉正勝とは見ていない。そのことに、これまで幾度、息の詰まりそうな思いをしてきたか。それなのに、他ならぬ自分が、福の息子だと、自身をみなしていた……。

 正勝が動揺したわずかの間に、福が大きく息をついた。

「正勝、そなたは一つ、思い違いをしているようです」

 正勝は、福の方を見やって、問い返した。

「思い違い、にございますか」

「ええ、そして、家光様も同じく思い違いをなさっております。私が青山様のように、家光様をお諫めするとでも、思っているのでしょう」

 福がそう言うと、家光が声を鋭くして言い返した。

「〈将軍としてあるまじき行為〉だと、申したではないか」

 福は「ええ」と頷く。

「まさに〈将軍としてあるまじき行為〉にございます。己の意に適わぬという理由で、家臣を罰するなど!」

 その答えに、家光も正勝も戸惑う。だが、福は淡々と続けた。

「私自身、この世の常に逆らって、夫のもとを身重のまま飛び出してきたのです。ゆえに、私は人の生きざまをとやかく言うつもりは、一切ありません」

 そう言いきると「ただし!」と声を大にした。

「将軍たるもの、そのお言葉一つがもつ権威を、決して忘れてはなりませぬ。己の意に適わぬという理由で家臣を罰するなど、もってのほか! それは、あなた様をお育てした乳母が至らぬゆえ。青山様の処分を軽減できぬというのであれば、今すぐ、この福をも罷免なさるがいい!」

 福を睨みつける家光の目に、涙が浮かび上がった。そのまま、家光は問うた。

「福は、私に失望しないのか」

「青山様は、失望したと?」

「そうだ。この首を刎ねよと差し出すほどにな」

 命を擲ってでも、家光を改めさせようとした。それほどまでに、忠俊は、家光の行動を受け入れることができなかった。

 福は、涙の滲む家光の目を見つめ、迷うことなく言った。

「青山様には、傅役としてのお考えがあってお諫めしたことと存じます。そして、乳母子として仕え続けた正勝もまた、どんな家光様であろうとも慕うと申し上げた。ならば、乳母たる私は、家光様をお守りいたすまでのこと!」

「私を、守る?」

「お育て申し上げたあなた様が、この世の常になじめぬ者なのであれば、私はこの世の常を覆してでも、あなた様を守り抜く。家光様に向かう批判の矛先を全て、乳母の福の画策だと人々に思いこませてみせましょうぞ」

 福の傍らで、正勝はもはや圧倒されるばかりだった。

(この人は……なるべくして将軍家光様の乳母となったのだ)

 この世の常に謀反を起こす、それは、この世の常を覆すことだから。

〈良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる。それが女子のまっとうな生き方。こんな世の常に、謀反を起こしたい〉

 その覚悟で、乳母になると決めたのだ。その福が、乳母としてお育て申し上げた男子が、この世の常になじめぬ者だったとしたら。

 失望するくらいならば、この世の常を覆す。

 そのくらい、凄まじい女子が、福なのだ。そして、その福を母として持つ自分は……。

(逃れられない……)

 打ちのめされるような思いになる正勝の横で、福は、家光に向かって深々と一礼する。

 その福の低頭に釣られるように、正勝は黙したまま一礼をした。

(私は、どうあがいても、家光様にとってさえも、いや、自分自身が……福の息子という立場に、この身を搦め捕られているのか)

 黙礼した体が、そのまま、逃れうることのできない暗い泥底に引きずり込まれていくようだった。

 濃い蘇芳色の打掛の袖に涙の跡を見た日、自分は、母を慕う心を捨てたと思っていた。だが、そうではない。あの日、自分は、福の息子として生き続けねばならぬ運命を背負ったのだ。

 

 

 正勝の胸に、妻が身を預けている。

 この前は、秋風が心地よい閨だったが、季節も移ろって、身を寄せ合うぬくもりに、吐息が微かに白む夜だった。

「正勝様は、昇進されて、ますますご多忙になられましたね」

 妻が、胸に頬を寄せたまま言う。正勝は「ああ」とだけ答えた。

 青山忠俊は、家光の勘気に触れたとして、お家取り潰しは免れたものの、四万五千石の領地を二万石に削られ、家督も弟に譲ることとなった。青山忠俊が傅役とともに兼務していた年寄の役職は、正勝が引き継いだ。

 年寄とは、幕政の中枢を担う将軍直属の重職だ。忠俊の後任として正勝が年寄に任命されると、江戸城中の者たちは「やはり、福の息子だ」と眉を顰めた。

 青山忠俊のにわかの罷免は、忠俊の乱心ではなく、家光の勘気に触れたからでもなく、権勢欲の強い福が、息子の稲葉正勝を幕政の最高職に押し上げるために、家光を意のままに動かして、忠俊を退けたのだと。人々は、そう信じて疑わなかった。

 廊ですれ違いざまに「母親が強いと、立身が早いな」などと言われても、正勝は黙したまま、胸に込み上げる思いを押し込めてやり過ごした。

 逃れようのない己の立場に、どんなに努めても福の息子としての評価しか下されないことに、息が詰まりそうになる。この感情は、これからもずっと、生涯、抱き続けねばならない。

 それなのに、この感情を表す言葉がわからない。怒りだろうか、苛立ちだろうか。いや、違う。ならば諦めか。この胸に込み上げてくる感情は、諦めなのか?

 妻の背に手をまわしたまま黙していると、妻は言った。

「先日は、何をお隠しになったのですか」

 何のことかと見やる。妻は目を閉じたまま言う。

「以前、こうして一緒にいる時に、あなた様は何かをおっしゃって。だけど〈何のことですか?〉と問うた私に〈いや、何も〉としか答えてくれませんでした」

 そう言われてみれば、そんなこともあったような気がする。

「正勝様は、優しい人だけれど、本当の気持ちを口になさることがありません」

「え……」

「いつも、優しい微笑を見せるだけで。だけど、その目はどこか、悲しげなのです」

 微かに震える声に、正勝はどう返していいかわからない。

 ただ、妻に言われて、初めて気づいた。

 福の息子、としてこの胸に込み上げていた感情が、悲しみ、だったということに。

 それは、乳母ごときが、と母の生きざまを見下されていたことへの悲しみか。それとも、母の覚悟を何も知らぬ者への悲しみか。いや、そうではない。母を母と思えなくなったというのに、母の子であることから永劫に逃れられぬ、自分への悲しみだったのだ。

 その感情を、初めて自覚して、正勝は、ふっと、妻の名を口にしていた。

さち……」

 妻は、頷き返す。幸せそうに閉じられていた瞼は開かれていた。正勝をまっすぐ見つめるその目は、困惑で見開かれているのではなかった。

「あなた様の、本当のお気持ちを、私は知りたい」

 その涙で潤んだ目に、胸を貫かれる。

 誰もが当たり前のように感じているのであろう、夫婦の情というものは、どんな夫婦であろうと、いつ消え去ってもおかしくない、儚いものだと思ってきた。そうだとしたならば、正勝を見つめて目を潤ませている妻の想いも、いつか、消えてしまうということか。

 零れ落ちそうになる涙をこらえようとしたのか、妻が小さく喉を鳴らす。途端、咳き込んでしまった。産後、体が弱ったままの妻は、一度咳き込むと、呼吸もままならぬほどに苦しそうに喘いでしまう。

 大きく肩で息をして、それでもなお、正勝を見つめ続けている。

 冬の宵闇に、喘ぐ吐息が、白く、淡く、消えていく。

(本当の気持ちを知りたいと言ってくれる、この人の想いも……)

 正勝は初めて、それを失いたくないと思った。

 目の前にある、消えてしまいそうな幸に手を伸ばし、強く、強く抱きしめていた。

 

(つづく)